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本編
七、
しおりを挟む「大丈夫ですか……? 耳まで真っ赤になっちゃってますよ?」
日向のベッドにぐったりと背中を預けている須賀は、全身を赤く火照らせていた。須賀用に具が溶けるまで煮込んでいたスープを半分ほど飲み込んで限界がやってきたのか、オムライスは小さく掬い取った一口だけで、あとは食べられなかった。申し訳なさに俯いてしまった横で残したものは日向の胃の中へと消え、そっと手の甲を撫でるとようやく頭が上がった。
母親は一度見ていたから気にしていない振りを装っていたけれど、父親と妹は驚きと心配に目を丸くしていた。事前に伝えていたとはいえ、ここまで食べられないとは思っていなかったのだろう。中年と呼べる年齢に入った母親も少食ではあるが、その母親の半分も食べれていない。
食べ終わった食器を片付けていく母親を手伝おうと身を乗り出した須賀を止めたのは父親で、冷蔵庫で冷やしていた缶ビールを両手にソファへと促した。一緒に食事をしたいと誘ったのは自分ではあったけれど、父親や妹に紹介して夕飯を食べたらそこで終わりだと思っていた。
今日もまた事前に伝えることなく自宅へと連れてきていたし、人と関わろうとしてこなかった須賀には負担になるのではないか。飲み会なんてものに出席している須賀は想像出来なくて、父親との間で視線を彷徨わせた。
お酒が飲めるのかどうかも分からなくて、不安に須賀の顔を覗き込めば、黒目がちな瞳には逸るような色が浮かんでいた。あれ、と思ったときには既に父親と並んでプルタブを開けていて、誕生日を迎えていない日向は苦笑交じりに隣に座るしかなかった。
だけど、あれだけそわそわとビールに口をつけていたのに、実際須賀が飲めたのは半分にも満たなかった。緊張していたからか、それとも元々弱いのか、次第にぐらぐらと揺らいでいく頭に飲み進める手を止めようと、駄目ですよ、なんて隣から缶を奪うとそのまま体が沈み込んでくる。初めて見るようなふにゃりと崩れきった表情を前に、日向は詰まった息を深く長く吐き出した。
泊めてやりなさいと両親の許可ももらって、覚束ない足取りの須賀を抱えるように部屋へと戻る。ベッドを背もたれに両足を投げ出している須賀の姿は、いつもなら絶対に見られないほど緩んでいた。
「んぅ、ごめんね、ひゅうがくん」
「俺は大丈夫ですから、はい。飲めそうなら飲んでください」
並々と水の注がれたコップを手渡し、数口でも喉を伝っていく様子にほっと息を吐く。未成年だからまだ居酒屋には行ったことがないし、父親の酔っぱらった姿も見たことがない。須賀の体は力が入っていないせいでずるずるとベッドの淵に沿って傾いていき、慌ててコップを受け取って隣に座った。
コップを机に置いて自由になった両腕で薄い体を引き上げる。何の抵抗もなく寄りかかってくる姿に、我慢ならないような愛おしさが込み上げてきた。頑なに自分以外の存在を拒絶していた須賀が自分に、自分の家族に、こうして弱い部分を見せてくれる。少しでも彼の心に触れられるようになったのだろうかと、日向は頽れた細い身体を抱き締めた。
「ひゅうが、くん……?」
お酒のせいで、囁かれる名前は艶々と煌めいている。白い肌は火照りを色濃く見せ、とろりと潤んだ瞳は煽情的にさえ映った。初めて見る須賀の様子に、昂り続ける心臓をどう落ち着かせるか、日向は途方に暮れていた。
耳元でちりちりと金属の触れ合う音がする。須賀は左側に一つだけ揺れるピアスを付けていて、それが黒い髪の隙間から風に乗って垣間見える横顔が好きだった。
隙間なく埋めていた距離を空け、ぼんやりと蕩けた瞳で見上げてくる須賀の晒された耳を撫でる。くすぐったいのか、一層緩やかに目を細めた須賀はぽつり、ぽつりと言葉を溢していった。
「少しずつでも、いいかなぁ……?」
熱い吐息が腕にかかって、潤んだ瞳は水分の量を増やしていく。どこか不安げな様子を滲ませた表情に、言葉の意味を掴めなかった日向はこてりと首を傾げて見せた。だけど酔いの回った須賀には上手く処理出来なかったのか、舌足らずの幼い言葉は日向の様子も気にせず次々と零れ出す。
「まだ、とるゆうきはないから、いつになるか、わからないけれど、」
「千秋さん? 何を取るんですか?」
名前を呼んでも反応は薄く、とうとう淋しさを浮かべた瞳からは涙が滑り落ちていく。人工的に作られた光の下では、雫にこめられた痛みは安っぽい色となって吐き出されていった。いつかの日と同じように両手で頬を包み込んだ日向は指先で涙を拭っていくけれど、ゆらゆらと揺れる瞳からは止めどなく溢れて間に合わない。
濡れていく頬も、安っぽく光る涙も熱いのに、暗闇を溶かし込んだような静謐な瞳は冷え切って見えた。時折見せてくれるようになった須賀の淋しさや不安は溶けることのない氷なのだと、逸る心臓を抱えたままに思った。
中途半端に途切れてしまった言葉の先は、溢れる涙のせいで続きそうにはなかった。微かに漏れてくる嗚咽に、我慢しないでくださいと叫びたかった。抱き締めて、大丈夫だと言葉を尽くして、怖いと嘆く彼に笑ってほしかった。
だけどそれは出来ないのだと、彼の言おうとしている言葉の先を冷静に考える。彼の抱えている怖さも不安も淋しさも、日向の言葉一つで消えてなくなるわけではない。それでも、少しでも彼が自分自身を否定しなくてもいいように、ここは安全なのだと頼ってもらえるように、ただひたすらに須賀を想った。
「もしかして、ピアス、ですか?」
一つ思い浮かんだのは、須賀を飾り付ける銀色のアクセサリーだった。生きている気配さえも感じさせない白い肌に、清廉さを醸し出す銀色はよく似合っている。前髪を掛けたときだけに見える色は特別なもののように思えて、日向は気に入っていた。
開けた本人である須賀も気に入っているのだと思っていたが、一度卑下するように教室で溢していた。こんなところにつけているおかしい人間なのだと叫んだ須賀に面喰らって、囁かれていく身勝手な言葉に苦しくなった。
優しく、穏やかで柔らかい人なのだと知っている日向はその後に恋人という関係に進んだが、きっと周りは誤解したままに非難し続けている。
須賀の前で友人が何か言ってくることはなくなったが、未だにどうしてあの人と一緒にいるのだとは言われてしまう。秘部にピアスを付けているということだけで判断されてしまうのだと、須賀は正しく理解してしまっていた。
たどたどしく首を縦に振る姿に、眉根がぎゅっと寄る感覚がする。心に浮かんだ感情が口惜しさによるものなのか、やるせなさによるものなのか、煮詰まった思考では判断が付かなかった。
「俺は千秋さんのピアス、好きですよ。格好良いし綺麗だし似合ってるし。それに学校でいるときとか、俺だけしか知らないんだなぁって、ちょっと、嬉しくなったり。だから、無理に取らないでください。俺はそのまんまの千秋さんが好きなんですから、千秋さんが取りたいって思わない限りは取ってほしくないです」
零れてくる涙を拭って、火照った思考にも届いてほしいと言い聞かせていく。こんなにも綺麗なのに、こんなにも柔らかで脆いのに、今まで須賀を守ってきたのはこの薄い身体ただ一つだけだった。
そこでふと、須賀がどうしてピアスを開けているのかが分かった気がした。他人に見せびらかすような様子はなかったけれど、硬質な銀色の輝きは彼の心を守る砦の一つだったのだろう。無遠慮に伸びてきた手を撥ね退けるための要塞として、誰よりもそばで彼を守ってきた。
ちりちりと揺れるピアスを突いて、噛み砕くようにゆっくりと言葉を咀嚼していく須賀を待つ。じわじわと頬に赤さが増していっているけれど、これは酔いのせいではないだろう。日向の言葉ひとつで白い肌に色を付けていく須賀は、やっぱり可愛らしい。
「で、も、あんまり、印象は良くないだろうし。君のご両親にも、」
「うちの親は気にしないでもらっていいんですけど……。気になるなら、明日聞いてみてください。小春は多分勿体無いってうるさいですよ」
ぐるぐると巡っていく視線に、想われているのだと愛しさが込み上げてくる。他人にどう思われてもいいのだと背筋を張っているようで、自分の両親にどう思われているのかをずっと気にしている。自分が相手だからなのだと、自惚れかもしれないと言い聞かせつつも嬉しかった。
日向はまた細い体を抱き締めて、背骨の浮き出た熱い背中を撫でさする。触れられるのもあまり得意ではなさそうだったけれど、日向の指先を拒んだことはない。引き寄せられたことで強張っていた体から少しずつ力が抜け、ぐりぐりと額を押し付けてくる姿は何よりも可愛らしかった。
「あ、でも!」
「わ! びっくりした……」
急に引き剥がされたことで潤んだ瞳をぱちりと瞬かせる姿に、心はまた早鐘を打ち立てていく。乱れた前髪を耳に掛けてやって、断られてしまったらどうしようかと眉尻を下げた。
「あー、と、その内でいいんですけど。指のやつは外していただけたら、嬉しいかなぁ、と、思いまして」
「ゆび……。あぁ、これ?」
二人の間に持ち上げられた須賀の細い手にも、銀色の光るピアスが一つ。左手の薬指に付けられた銀色は根元にあるせいで、どこか指輪のようにも見える。
白熱灯のせいで鈍く光っている輝きは、二人分の視線を感じてどこか緊張しているように色付いていた。丸いボールがきらきらと反射するそこを日向の硬くなった指先がそっと撫でていく。自分の指を並べてみると、陽に焼けた肌色には到底似合わないのだと笑ってしまう。この銀色は須賀の肌にこそ一番似合うように作られたのだと、臆面もなくそう言えた。
「はい。まだ学生なのであれですけど、卒業したらここに、俺がプレゼントしたリングを付けてほしいです」
軸となっている棒の部分が刺さっているからか、白い肌の下は少しだけ浮き上がっている。柔らかい皮膚の下に感じる硬さを気に入って何度も何度も擦っていれば、そっと手を引き抜かれてしまった。残念な気持ちを隠さずに視線を逸らせて、須賀の濡れた瞳を覗き込む。
目尻まで真っ赤に染めて、唇はぎゅっと引き結ばれていた。ゆらゆらと泣き出してしまいそうに揺れているのは、嬉しさや愛おしさに占められていればいい。
「君は、どうしてそんな恥ずかしいことを」
「俺にとっては恥ずかしくなんてないですから」
にっこりと微笑んでやると、恨めしそうな色を込めた視線を向けられる。不満気にも見えるのに、否定してこないのできっと彼も嬉しかったのだろう。昂っていく感情を胸にもう一度抱き締めれば、背中に触れる微かな温かさを感じた。初めて回された腕に嬉しくなって、日向はより一層の力をこめる。
今語った言葉に嘘はない。変わっていく未来は信じられないともしかしたら言わせてしまうかもしれないが、須賀との未来を望んでいるのは日向も同じであった。
目を閉じて思い出すのは、須賀に翻訳を見てもらった魔法使いのおばあさん。裏表紙に描かれていたのは、おばあさんの眠るお墓の周りを彩るいくつもの花々。優しく色を付ける花の種は、おばあさんの中で生きていたのだろう。
須賀との明日は、もしかしたら須賀の恐れる未来へと繋がっているのかもしれない。それでも二人の中には穏やかに眠るおばあさんと同じように、色とりどりの花の種がある。今はそれだけを信じて、隣り合っていたいと思った。
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