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三章

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 空中に静止して、ほんの軽い気持ち、閃きだった。

「……私とは真逆の、全然タイプの違う女を無作為に選んで。そして私を変身させて」

 人がまばらに歩く商店街を見下ろし、影に選択を任せ化けの皮を纏った。姿、形、瞳の色、何もかも確認せず、そのまままっすぐお屋敷に向かった。

「あ、そうだ……。私の匂いも隠しておいて。無臭でお願い」

 服を破って、地面に倒れ込んで、いつもの導入。生誕祭警備のために朝早く出てきたアルトスの、驚いた声。

「な、何でこんな所に女の子が! 君、大丈夫か?」

 台詞に少しズレがあっても、毎回同じ。

「イーライ、俺が戻るまでこの子を頼む」

 エールが進み出て、自分がお世話をすると進言。お風呂に着替えに食事に。イーライさんは遠くから私を見るだけ。

 大丈夫、ここまでは予想通り。全然平気。このお屋敷の人たちは、基本優しいの。夕方にアルトスが帰ってきて、居間で事情説明。

「は? 淫魔……?」

「そう、私淫魔なんです」

 口にすることも慣れてしまった単語。

「貴方の体液を分けてください。唾液か精液。もう動けないんです」

 頭を抱えるアルトス。唸って代替案を口にする。

「そういうのが得意な奴を知っているんだ。紹介するからそいつを頼――」

 ここで椅子から転げ落ちて、苦しそうな演技をして。

「助けて、ください」

 でも、それでも。抵抗とばかりに私はハードルを下げまくった。時間制限も、命に関わる重大な危機とも言わなかった。

 ――断って良いんだよ、アルトス。

 願って、近付いてくる貴方に顔を向けられなかった。優しく抱き上げてくれる貴方の温もりが、その時だけは痛かった。

「俺なんかで良ければ、君を助けたい」

 ――あぁ、やめて。アルトス、やめて。これは私じゃないよ。

「イーライ、この屋敷に飴なんてあったか?」

 胸がどんどん重く、苦しくなってきた。イーライさんが持ってきた飴を、貴方は私じゃない私に選ばせようとしてきて。

「飴は、嫌」

 ねぇアルトス、やめてよ。それは貴方と私だけの思い出じゃないの?

「飴がないと、十分な唾液を出せる自信が無い」

「嫌、です」

 ねぇ、アルトス。これは私じゃないんだって。貴方が褒めてくれた香りもしないでしょう?

 イヤイヤと首を振る我儘で訳のわからない女に、貴方は困ったように俯いたけど。

「……わかった。イーライ、外で待機しててくれ。少し二人きりになりたい」

「――かしこまりました」

 ドアが閉まる音がして、アルトスは女と見つめ合った。私にとってそれは、これから予想しうる最悪の展開。

「満足してもらえるかわからないが……」

 綺麗な瞳が瞬いて、その唇が近付いて、ちか、づいて――! うそ、少しは躊躇ってよ。嫌、イヤ、やめてやめて!!

「い、やあ!!」

「!?」

 思いきりアルトスの胸を突き飛ばして、私は床へ転がった。驚いているであろうあの人の表情は、視界が滲んで見えなかった。だってそうじゃない! つまりそういうことでしょ! ブルブルと肩を震わせながら、私はこの思いの丈をぶちまけた。

「この浮気者!! 尻軽男!! アルトスは、貴方は、同情できたら、女が困っていたら、誰でも良いんだ!? 誰とでもキスして、抱くんだ!? 私は貴方じゃないと駄目なのに!! 貴方じゃなきゃ嫌なのに!!」

「は? え?」

 アルトスは体勢を崩して座り込んだまま、混乱しているようだった。でも何故か、理不尽に怒って罵る私に頭を下げた。

「君は何を言っているんだ……? で、でもこの行動が気に触ったのなら謝る。すまなかった……」

 こっちから救いを求めたのに。手を差し伸べたら逆ギレした馬鹿な女に、何で、どうして謝るの。

 騒ぎに気付いたのだろう、イーライさんがすぐさま居間に入ってきた。無表情にこっちを見やって、床に座り込むアルトスを優しく抱き起こした。そして傷ついた様子のあの人の背中を撫でながら、こっちを見下ろし告げた。

「出て行ってください。私は貴女の滞在をこれ以上許可しません。五分以内に立ち去らなければ、強硬手段を取ります」

「う、うぅ、ううううう」

 酷い、ひどい。私には全然優しくない。

「イーライ、待て。君はどうして泣いているんだ。教えて欲しい。俺はどうすれば良い……?」

 やめてよ、逆に貴方は優しすぎる。酷い、ひどい。そんな風に見ないで、近寄らないで。

 歯を食いしばって影に指示出し。驚く二人を横目に、一瞬で呑まれ退散した。

「うぅ、う、ぐううううううう!」

 影の体内でボロボロ泣いた。知ってしまった、理解してしまったのだ。

 、皆に平等に、あの優しさを振る舞うと。なんて慈善者、そこに  も嫌いも無い。

「そんなの要らない!!」

 貴方は心の檻から気まぐれに手を伸ばして、たまたま当たったのが私だっただけなんだ。きっと寂しさからでしょ? 身寄りのない憐れな女をもてなし、反応を楽しんで、孤独な人生の慰みにしていただけなんだ。

 頭を撫でて、よしよしと。きっとそうだ、そうなんだ。もてなすから、与えるから良いだろうって。最低、最悪ね。

 だから貴方は決して安全圏から出ようとせず、何かあればすぐに引き篭もって私を置いていくんだ。甘い飴だけを残して。

 それを舐め終わった私に何が残ったと思う? ねぇ、貴方は知らないでしょう。この想い重いを。中途半端に与えられた甘味で、夢中になった女の想いを。

 影にお願いして、遠見した。叔母さんの裏庭で、作業台を掃除する黒髪の少女が見えた。

 あぁ、何て懐かしくて、純粋なんだろう。憧れの人と月に一度会えるか会えないかを期待して、スイセン栽培を覚えた。健気よね、ありもしない運命を信じてる。

 ――ねぇ、わかったよ。あの人は貴女を決して見ない。貴女と憧れの人が交わる運命は最初から無いんだよ。もうとっくのとうに答えは決まっていて、私は失恋していたの。

 ――ねぇ、今の私を貴女が見たらどう思うかな。あの人に頬を撫でられるだけで股を濡らし、卑しく身体を開き求める。何度イっても満足することなく、あの人を求め続ける。なんて滑稽なの。

 そこに大きな目的があると言い訳しても、きっと私は私に侮蔑されるんだ。沢山人を殺したし、私はこんなにも汚れてしまった。

 あの人が与えた、中途半端な飴のせいだ。心を寄せるつもりが無いのなら、最初から優しくしないで、かりそめの希望を見せないでよ。希望が無いとわかっていたら、絶望しながらでもきっと方法はあったのだ。

 ――この国の人間を殺し尽くして、国を崩壊させる。根幹をぶち壊せば済む話なのだ。

 でももうその方法は取れない。だって私はこんなにも貴方を   しまった。溺れて、もう浮き上がってこれない。この夢から覚めることが出来ない。

 ねぇ、私を見てよ、ねぇってば! 貴方は少しも変わらないなんて、卑怯だよ!

 思考が纏まらない。いつか、ナルちゃんが言っていたことを思い出した。

 “ねぇ、ナルちゃん。何でナルちゃんは今の旦那さんと結婚したの?”

 不思議だった。ナルちゃんは器量の良さ、滲み出る性格の良さと肉付きの良さで男の人にモテまくった。選びたい放題だったのに、最後は顔も性格もパッとしないホークスさんを選んだ。

 “えー? あの人の良さが分からないかなぁ? ふふ、じゃあお子ちゃまに大事なことを教えてあげるね”

 “大事なこと?”

 ナルちゃんは人差し指を立ててこう言った。

 “そう、男ってのはね。愛が無くても、心が無くても女を抱けるの。私の周りはそんな人ばっかりだった。あの人、ホークスだけだったのよ。抱き締めて、私の心を、気持ちを知ろうとしてくれたのは。だ・か・ら、あの人を選んだの!”

 その時は、何を言っているのかわからなかった。

 “心が無くても、女を抱ける??”

 “あはは! お子ちゃまには難しい話だったわね! 頭の片隅にでも残しておいて。気を付けなさいよぉ~? そこに愛があるって勘違いしちゃったら、痛い目見るのは見抜けなかったバカだけなんだから!”

「く、あ、ははっ!」

 今更笑ってしまう。

「ナルちゃん、本当だね」

 その場にうずくまって、顔を覆った。

「男って、 が無くても、心が無くても女を抱けるんだ」

 沸々と、何かが心に湧いてきた。

「あんな風に甘く囁いて、あんな風にキス出来るんだ」

 雫が指の間を滑り落ちて、暗闇に消えた。

 私はこんなにも貴方が  なのに、貴方じゃないと駄目なのに。悔しい、くやしい。

「ばかにしやがって……」

 この身に刻まれた、貴方への想いが変わっていく。同情、憐れみ、慈善? そんなモノいらない。

「バカに、しやがって……!」

 あの人は自分の幸せを諦めている。過去の事件で心から笑うことを忘れて、他人を傷つけることを、そして自分が傷つくことを酷く恐れている。独り孤独に死のうとしてる。こんなに私の心を掴んで離さないくせに。

「馬鹿にしやがってぇ!!」

 私は暗闇の底を思いきりぶん殴って激怒した。必ず、かの諦観男のプライドをへし折って跪かせなければならないと決意した。魔女は駆け引きなどわからぬ。私は魔女である!

「徹底的にぃ! アイツを快楽漬けの、私無しじゃイくことすら出来ない馬鹿に変えてやる!! アイツの言うことなんて聞いてやらない!! 全部、全部返してやる、やり返して、同じ目に合わせてやる!!」

 虚空に叫んで、宣言した。

 甘く囁いて、ドロドロに溶かして、乞い願っても容赦しない、身も心もグチャグチャにしてやる! そのために口調も変えよう。大人っぽく高圧的に、魔女らしく! 私は魔女なんだ!!

 感情のおもむくまま今までの情報、知識をフル活用して算段をどんどん積み上げていった。

 そうだ! ナルちゃんから服をくすねよう。結婚してから着なくなったよそ行きの黒ワンピースが二種類あったはず。黒なら大人っぽくて魔女っぽい。

 後はそう、この顔。

 “顔が見たい”

 ――隠そう。良いじゃない。だって貴方にとって私は雑草で、顔すら覚えていなかったでしょ?

 痛む胸を押さえて、そんな魔術はあるかと心の中で問い掛けた。影は蠢き使い方を教えてくれた。

「認識阻害? これだけは常に私が意識してないと継続できないって?」

 何でも私の想像力を使うらしい。これは中々に鍛錬が必要だった。全身を阻害するのは簡単で、顔だけというのは神経を使う。

「慣れるまで全身モヤモヤで良いや」

 この身を突き動かすのは貴方への想い、怒り。どれだけ身を捧げても、私に振り向いてくれなかった、   くれなかった貴方への復讐。

 そして、そんな貴方をやっぱり助けたいと思う、バカな私へ――思う存分魔女として振る舞えば良いって許可証。パチンパチンと指を鳴らし、ステップを踏んで独り踊った。

「今度は君が私の手のひらで踊る番だよ、アルトス」

 黒霧が晴れる。そして今回の世界線に降り立った。従者の監視をくぐり抜け、枕元に立つ。穏やかに眠る、憎くて   貴方。

 高圧的に、自信を持って、こいつを支配しよう。手をかざして、男の意識を浮上させた。目蓋が僅かに震えて、準備万端。姿見前の椅子に腰かけ脚を組んだ。

「やぁ、アルトス。ようやく目が覚めたかな?」

 ゲーム開始。魔女は嗤った。

 ――さあ、まずはその心を、その孤高な精神を折ってあげる。
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