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三章

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 その時の私は浴室で目が覚めた。

「あ……。もう、また私……」

 白いバスタブに半身浴。それはアルトスとした後の、呆れるくらいいつもの光景だった。

「もう、もう! 私のバカ! バカバカ!」

 頭を掻きむしるように手をやると、チャプンと温かいお湯が音を鳴らして。

「あ、また悔しがってる」

 真横に目を向ければ、エールがしゃがみ込んで赤瞳を細めていた。袖がまくられたその手には、泡泡の丸スポンジが握られていて、そう、エールは私が気を失っている間、いつも身体を綺麗にしてくれていたの。

「うぅぅ、エール! アルトスは私でイってくれた? 絶対にイってないよね?」

「そうね、アルトス様はいつも通りだったよ」

 エールは丸スポンジをふりふりした。

「あぁもう、やっぱり嘘つきだぁ! 何なのよアイツ!!」

 悔しくて軽くバスタブをベチベチ叩いていると、そんな私にエールは眉を寄せ、羅列するように言葉を垂れ流した。

「可愛らしいお嬢さま、アルトス様をアイツ呼ばわりは駄目だよ? アルトス様は凄くお優しいの。あらゆる障害からお護りすべき、尊い方なの。このお屋敷の中だけでも、自由にのびのび振る舞っていただくべきなの」

 エールはイーライさんと違って、私に対して饒舌な自動人形だった。話があっちこっちに飛んで、纏まりのない喋り方をすることが多かったけど。

 洗髪も済ませて脱衣所に出ると、エールは私をタオルで拭きながら突然その胸中を打ち明けてきた。

「これ、内緒だよ?」

「え? う、うん」

「私はね、お嬢さま。貴女が本当にアルトス様を良い方向へ変えてくれるのなら、全力で協力して良いと思ってるの。私にはそれが出来ないから」

「どうして?」

「私は自動人形だから。あの方の御心に添うことしか出来ないの。変えることはできない、寄り添うだけ。自動人形だから」

 エールは無駄に同じ言葉を繰り返した。“自動人形だから”。何だか凄く寂しい言葉の響きだった。

「最近アルトス様楽しそう。貴女のお陰。でも完全に信頼してないよ? 文献を調べたから。貴女が淫魔じゃないって、もう判ってるから」

「え、へへぇ……。エールは鋭いなぁ……」

 ついエールには良いかなって、非淫魔を認める言葉が漏れてしまった。私はさらっと飲み込みやすい、感覚的に話してくれるエールのお喋りが  だった。

「お嬢さま、アルトス様を決して傷つけないで。あの方はとても脆いの。この世界で生き抜くにはお優しすぎる」

 髪を乾かし終わって頷きながら聞いていると、下着と侍女服を渡された。それを着込む私の背中にエールは更に続けた。

「あの方を傷つけないで。お優しいの。ずっとお独りで生きてきたの。寄り添うことしかできないの。もう十分傷ついたの。あの方の本質を見ようとしない人間なんて、私――」

 言葉が止まったのが気になって、私は着替える手を止めエールに振り返った。

「私、大嫌い」

 その赤瞳は鋭く細められていて、どこか遠くを睨んでいた。イーライさんが思い起こされて、いつものエールじゃないその表情がとても怖かった。

「エール……」

「あ、可愛らしいお嬢さま、ごめんね。これ内緒だよ? アルトス様に言わないでね」

 私が若干怯えているのが伝わったのか、エールはすぐにその表情を戻して手を振った。

「……ねぇ、エール。質問したいことがあるんだけど、時間ある?」

「お屋敷の掃除をしながらで良いのなら、よろしい。午後は一緒に掃除しよっか」

 エールから鳥の羽毛で作られたハタキを渡されて、屋敷中を歩き回った。アルトスとイーライさんは出掛けていたみたいで、その間に聞き出せることを聞き出そうと努力した。

「ねぇ、エール。アルトスのご家族はどうしたの?」

「アルトス様はお独りだよ。マスターが八年前に亡くなられて、ずっとお独り」

「……八年前? いや、マスターって誰?」

 その数字が心のどこかで引っ掛かった。でもその時はそれを後回しに、情報収集に専念した。

「マスターはアルトス様の母親だよ。お嬢さまが使っている客室、あれは元々マスターのお部屋なの」

 書斎の本棚に登って、上からハタキを使ってはたいた。エールが毎日掃除しているからだと思う、積もっている埃は無かったけど、適当に全てをぽんぽんした。

「へー、親戚とか父親は?」

「知らない、いない。記録無し、照会不能」

 急に棒読みの台詞が返ってきてびっくりした。でもエールが表面上だけでなく、記録を漁って答えようとしてくれている感じが伝わって、嬉しかった。

「じゃ、じゃあ写真とか無い? 家族写真。家族じゃなくても誰かと写っている写真とか」

「写真は無い。でも、写実画ならあるよ」

「写実画??」

 エールは窓を拭く手を止めて書斎の一角に小走りで近付くと、一冊の薄い本を手に取った。

「これ」

「ありがとう、エール」

 本棚から降りて受け取った本は、青いスケッチブックだった。一枚目を開いて驚いた。

「わぁ、ええー!? これアルトスが小さい頃? 美少女じゃん! これ写真じゃないの??」

 そこにあったのは深緑の髪を腰まで伸ばした、満面の笑みで手を振る幼い子供だった。場所は王城の城門前だろう、背景さえも完璧で写真にしか見えなかった。

「親機、イーライの写実画。アルトス様のために作成された。でも閲覧回数は二回にも満たない。そんな風に笑うことも、もう無くなってしまわれた」

「あれ? ねぇ、この後ろの人、長い銀髪は誰?」

 手を振るアルトスの後方に、後ろ姿があった。その銀髪にヒリつく感情が湧いてきた。

「その人がマスター。アルトス様の母親」

 エールの指がページをめくって現れたそれを見て、確信した。そこには憂いを帯びた表情で屋敷前に佇む、女神のような美貌を持ち合わせた女がえがかれていた。

「――そう、そういうこと、かぁ……」

 私は思わず唸った。

 ――あのクソ騎士ども、アルトスの母親に想いを寄せてたって訳ね。それであの人に銀髪を被せて、疑似体験してたって訳だ。嬉しそうに腰を振って、気持ちよく果ててたって訳だ? わるわる何回犯したのよクソ野郎共。やっぱり殺しておこうかな、不愉快極まりない。

 あの光景が蘇って、怒りにノートを持つ手が震えた。

「可愛らしいお嬢さま、酷い顔だよ。大丈夫?」

 でもエールが私の頬を撫でてくれて、怒りを何とか押し込めた。そして冷静になって写実画を眺め始めた頃、気が付いた。

「え? ね、ねぇ。ちょっと似過ぎじゃない?」

「何が?」

「アルトスと、彼女」

 そう、それはまるでアルトスが女に生まれていたら、彼女のようになっていただろうと思わせる程の類似感。親子、というよりは故意に手を加えられたみたいな――。

「全然似てないよ」

 エールはきっぱりと言い切った。

「え?」

「マスターは女神のような方だった。アルトス様は男だよ、勘違いしないで。アルトス様はアルトス様だよ。酷い、お嬢さま、嫌い」

 スケッチブックを私から取り上げて、元の場所に戻したエールは怒っていた。慌てて弁明した。

「エール、待って早とちりしないで! 私はアルトスをカッコいいと思ってるよ! 何で付き合っている人が居ないのか、不思議なくらい!」

 ピタリと動きを止めて、振り返ったエールの赤瞳が瞬いた。

「……親機、イーライをどう思う?」

「え、イーライさん? カッコいいとは思うけど……。わ、私はアルトスが、一番良い……」

 エールに何言ってるんだろうって、顔が火照って凄く恥ずかしくなった。でもエールはその返事に満足したみたいだった。

「……お嬢さまは親機、イーライがいるのにアルトス様しか見ない。だから期限、条件付きでこの屋敷に滞在することを許した。これ、内緒ね」

「う、うん! 内緒ね!」

 たまにエールが言っていることは飛び飛び、説明不足で理解出来なかった。多分コミュニケーションはオマケで設計されたのかなって、この時は納得したの。でもそんな細かいことを気にする必要は無かった。何となくエールが言いたいことを私は理解出来ていると思っていたから。裏表なんか無い、人間と違う純真な会話。

 ――楽しかった。

 だからこうやって会話を重ねていく内に、私は情報収集以上にこの関係を大事に思うようになっていた。

 喋り方が面白くてちょっと不思議な、この自動人形エールのことを   になっていた。
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