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マリアンヌ編
前編
しおりを挟むその日は、朝からいい天気だった。
だから、というわけではないのだが、彼女、マリアンヌ・レーゼはしばし悩んだ後、その日離宮の庭園で散策を行っていた。
マリアンヌの目は、生まれつき光を見ることができない。
それでも慣れ親しんだ庭の中。彼女はまるで足元を確認する様子すらなく、するすると植物の隙間をすり抜けて、今一番に咲き誇っている薔薇園にたどり着き、その様子を楽しむかのように静かに歩いていた。
目には見えずとも花の香りは高く、マリアンヌの心を自然と弾ませていた。
―――今日の午後からのティータイムも中央のお庭で、にならないかしら。
マリアンヌの立場は一応のところ、とある人物の妾扱いなのだが、その実のところはと言うと、人族の奴隷。それも元「一応は」娼婦、という身分である。
その事実はおそらくこの城に住んでいる全員が知るところではあるのだが、どういうわけだか、彼らはその事実を忘れてすらいるかのように、彼女のことを「姫様」「姫様」と呼ぶ。当然だが扱いもそれに準じたものであり、ここへ連れてこられた当初、マリアンヌは自分がどう振舞うのが正しいのか分からず随分困惑を極めたものであった。夢にまで見たことのあった「お姫様」生活ではあるものの、それは決して実現してほしかったものではなく、あくまで夢に思う程度が望ましいのだと思い知らされた。
「姫様」呼びも、お姫様扱いも、元娼婦だったマリアンヌにはとてもではないが、許容しきれたものではなく、なんとか呼び方だけでもどうにかならないのだろうか、と相談を持ち掛けたこともあるのだが、彼らはまるでマリアンヌが無理難題を突き付けてしまった時のような困った顔をしていた。それでもひねり出されてきた「奥の方」だの「御館様」だの、住んでいる離宮の名前からとって「白百合の君」だのと背筋が痒くなるような名前は、結局「そっちの方が無理」という話になった。
いっそ名前で呼んでくれ、と願ったことはあるのだが、その瞬間、彼らは表情を凍り付かせ、一様に怯えた様子で「それだけは…」と嘆く。結局のところどういうことかと思えば簡単な話で犯人はマリアンヌの主人であった。なるほど、それは無理なことを言ってしまったと、使用人一同と思わず泣いてしまったのは遠い思い出である。
以来、マリアンヌの名をそのままに呼ぶのはごくごく限られた一部の人物だけだ。それも主が許可した者だけという徹底ぶりであり、それ以外の人物からは「姫様」と呼ばれ、そして文字通りの「お姫様生活」を送っている。
だから、その呼びかけ自体は特におかしなものでもなかったのだ。
「姫様!」
自分がやってきたのと同じ方向。離宮の方向からの呼びかけに気づき、マリアンヌはすいっと顔を上げ、そちらへ向き直った。
声からして、随分と年若い娘だ。かなり焦った様子が伝わってくる呼びかけに、静かに黙り込んでいると、こちらへ走り寄ってきた人物は、ほどほどのところで足を止めた。だがしかし、マリアンヌはその人物との距離の近さに眉をひそめる。
「ひ、ひめさ、まっ、東の離宮からっ、お客様です!」
「鈴蘭の宮から?」
マリアンヌの暮らしている北の離宮の別称を白百合の宮。対して、中央の建物からみて、東に位置する宮を鈴蘭の宮。なお、西にあるのは薔薇の宮。南が向日葵の宮、中央、こと、本館は太陽宮、と呼ばれている。
これ以外にも大小含めていろいろな離宮があるのだが、その大半は閉ざされたままであり―――要するに主を迎えることもなくひっそりとしている。というのも、太陽宮に住まう主―――国王がそれ以上の側室を娶らないため、それら側室や妾に与えられる離宮が今は不要なのだ。
奴隷一人に離宮を与えて暮らさせているあたり、どこか彼は―――今生、魔王は頭がおかしいのではないかと思う。もっとも、それらの事実はこの宮、白百合の宮では少なくとも使用人も含めた周知の事実であり、表立って口外してはならぬこととしている。
―――それはさておき。
魔王が正妃、ヴァネッサ様が住まうのは薔薇の宮。そして、鈴蘭の宮に住まうのは魔王の第二妃、ルクレティア様である。
つまるところ、鈴蘭の宮からお客様、となれば、それは第二妃ルクレティア様からの使者、ということになるのだが、呼びに来たメイドと思しき人物の慌てっぷりはただごとではなさそうであった。
―――ルクレティア様、ただいま里帰り中のはずなんだけどな。
先日生まれた第三子の出産、そして、その子供の顔見せ、という態での里帰りはまだ終わっていないはず。にもかかわらず、その彼女の管理する離宮からの客人。
「すぐに来てください」と言葉を重ねた彼女の手を打ち払い、マリアンヌはスカートの裾を捌いて、その女と距離を取った。目の見えないマリアンヌを誘導するために、と手を伸ばした女は、どこか呆然としているようだった。
「ひめさ―――」
「わたし、あなたの声を初めてきいたわ」
「わ、わたくしは……」
「あなただれ? 私の身の回りの者は、全員最初に必ず自己紹介をしてもらっているのよ」
よって、彼女が自分の使用人―――というと烏滸がましいのだが、少なくとも彼女はこの離宮に住まう使用人ではあり得ない。
自己紹介が必要なのは、必ずマリアンヌが自分の身の回りにいる人と、そうでない人を緊急時であっても見分けられるようにするためだ。自分の目で見て確認することのできないマリアンヌはどうしても避難の際に人の誘導を必要とする。
もし手を引いている相手が、敵だったら?
万が一、「東門へ逃げて」と叫んだその相手が、自分を陥れようとしている相手だったら?
「こっちへきて」と敵と味方同時に叫ばれた時、その両方の声に聞き覚えがなければ、その時点でアウトだ。
だからこそ、必ずこの離宮に人を増やすとき、マリアンヌは同席する。名前と声を一致させ、それが自分にとってどの程度の警戒に値する人物なのかを静かに見定めるために。
もっとも、これだけの対処をしても、魔術を使えば声も含めて完全にその人物になり変わることが可能なので、対策としては不足しているくらいだと言われている。したがって、マリアンヌの首元のチョーカー、足元のアンクレットはいずれも魔道具の一種であり、周囲の魔術の揺らめきを感覚としてマリアンヌに知らせてくれる逸品である。
いずれも首輪、足枷にしか思えないほどの主の執念―――いや、建前上は主の思い、が込められている逸品であり、目の見えないマリアンヌにでも結果が知覚できるように作られた特注品であるのは言うまでもなかった。
そこまでの反応をすべて静かに見定めた結果、分かること。
「あなた、私を浚いに来たの?」
「!?」
「なぜ」とは言われなかった。
ただ彼女は、その反応の後、即座にマリアンヌ対し、距離を詰め、その腹めがけて一撃を見舞おうとしてきた。鋭い掌底での一撃は、食らえばおそらくマリアンヌぐらいの意識ならあっさりと刈りとれるほどのものだったに違いない。
「ああっ!」
ばちんっ、と如何にも痛そうな音が響く。同時に先ほどの女が痛そうな声を上げた。
「あなたが心配なんです」と嘘くさく笑っていた男の顔を思い出してしまい、なんとも嫌な気持ちになったのだが、これもマリアンヌが所持している魔道具の一つ、髪飾りの効果である。
対象は「マリアンヌに対して敵意のある相手」、効果は「マリアンヌに与えられた攻撃をはじく」とのことだったが、要するにバリア的なものの一種だという。ただし、マリアンヌに敵意さえなければ発動しない、とのことであり、そういう意味もあって、この離宮の使用人は厳選されている。
奴隷のマリアンヌに仕えようなどという物好きは少ない。ましてや、下心なく、と限定すればその数はさらに少なくなってしまうのだが、更に、配属初日でマリアンヌの身に着けている魔道具を不用意に発動させてしまい、そのまま「そんなつもりじゃなかったのに!」と叫びながら連れていかれるメイドの数は意外に多かった。
もっとも、盲目とはいえ元娼婦のマリアンヌは、誰かの手を借りなくても着替えも風呂も、食事ですら一人でできてしまうので今のところそれで困っている、ということはない。
そのメイドたちとは違い、この相手は完全にマリアンヌの敵のようである。
―――どうしよう。
助けを求めに走るか、とりあえず相手を仕留めるか。相手の技量は読めなかったものの、そこまでの手練れだとも思わない。おそらくだが、彼女はあくまでマリアンヌの誘導係であり、本当にどこかの貴人に仕えていたただの小娘だろう。少なくとも、庭の走り方も、自分への誘導の仕方も普通のメイドの域を出ず、それを装っているようにすら感じなかったのだ。
「くそっ……こっちが下手に出ていればっ!!」
―――待って、それ魔道具の効果。それに今のやりとりのどこが「下手」だったの?
おそらくだが、鬼のような形相、をしているのではないかと判断できる女の様子に、マリアンヌもさすがにちょっとたじろぐ。じり、と1歩後ろに下がった、その瞬間だった。
「捕らえろ」
「はっ」
涼やかな声。それに伴い、一糸乱れぬ動きでざっと動いたのはわずか数人の男たちだ。
「なっ、どこから!?」
瞬く間に男たちは女を組み伏せてしまい、あっという間に無力化してしまった。
―――やっぱり弱かった。
自分でもどうにかできたのではないか、だとしたら自分で仕留めておいた方がよかったのかもしれない、とマリアンヌが微かに思っている中、涼やかな声の主はさらさらとよどみなく指示を飛ばしていく。
「ケーニッヒ、その女に尋問を。誰の手の者なのか、マリアをどこへ連れていくつもりだったのかは徹底的に吐かせろ。ローデンベルク、今すぐ隊を連れて白百合の宮の北門、正門を封鎖しろ。怪しいものがいれば、即座に全員捕まえて、薔薇の宮の地下牢に放り込め―――ああ、自害はさせるなよ?」
「はっ、かしこまりました王妃様!」
「正門の方は私も参りますわね、お姉さま」
「危ない真似はするなよ、ティア。お前に何かあれば、生まれたばかりの赤子が可哀そうだ」
「心得ておりますわ」
―――あら? ルクレティア様本当にお帰りだったの?
騎士に交じって聞こえてきた声にマリアンヌは驚いて目を瞬かせた。そちらの方へ顔を向けると、すいっと、甘くかぐわしい香りを漂わせた女性が近づいてくる。まるで10代の少女がつけるような花の香りを纏わせた少女は、そのまま呼吸を弾ませてマリアンヌに抱き着いてきた。
急に抱き着かれたことには少々驚いたのだが、これはほぼいつものことである。何より、マリアンヌにつけられたいくつもの魔道具が発動しないことからも分かるように、彼女にはマリアンヌに対する害意は一切ない。
「ただいま、マリア! やっぱり私も、ちょっとだけ帰ってきちゃったわ!」
「お、おかえりなさいませ、ルクレティア様」
「やーだー。『ティア』って呼んでっていつも言ってるのにー」
「いえ……あの……」
―――騎士のいる前でその態度はどうかと思う。
正妃も含めて3人程度の女子会の中であればそれもまた良いことだとは思うのだが、そうでないときも含めて第二妃ルクレティアは実にフレンドリーである。時折、正妃からマナーに対するお小言を飛ばされてもいるのだが、ルクレティアは正妃を「お姉さま」と呼んで憚ることなく、常に明るい陽気を世に振りまいている。
そんな彼女は、今回の件には最初から絡んできていたのだが、元から予定されていた「里帰り」のために一時的に離脱することが決まっていたのだが―――「帰ってきちゃったわ」というところから分かるように「帰ってきちゃった」のだろう。
第二妃ルクレティアはそうとは分からぬほどの魔術の達人である。結婚前は王宮魔術師を5年間勤めあげていた筋金入りの人物であり、その前の王立魔術学院のころから成績は常にトップでぶっちぎりで独走状態だったと聞く。
すでに3人の子どもを産んだというのに少女めいた容姿も、態度も何ひとつ変わらない彼女は文字通りの「鈴蘭の魔女」と呼ばれている。その可憐な外見とは裏腹に時には人を殺すことすらもある強い毒性を持つ鈴蘭は、彼女に正にピッタリ、なのだとコソコソ話していた者たちがいたそうなのだが、そんな彼らのその後は知る由もない。
「ティア。騎士たちの前だ。それと、急がないとお前の見せ場を奪われるぞ」
「! お姉さま、行ってきます!」
「本当に気をつけてな。ああ、シザー、お前はティアの見張りにつけ。何かあったら問答無用で落として私のところへ連れてこい」
―――散々な言いようである。
情け容赦ない言われ方に、思わず脱力感すら覚えたマリアンヌだったが、第二妃ルクレティアに対する同情はカケラもない。
ほどなくして、周囲から音が一気に消えた。皆して行ってしまったのだと分かるのだが、「はて、自分はどうしたら?」と疑問に思ってしまった。
「マリア。お前はこちらだ」
すい、と静かに手を伸ばしてくる気配がある。
ちょうど、マリアンヌが警戒しないている距離、けれど、自分から近づけばあっさりとなくなるほどの距離で、彼女はマリアンヌの誘導のために残ってくれていたようだった。
「ヴァネッサ様、ありがとうございます」
「令には及ばぬ。可愛いお前のために働くことに厭いがあるわけがなかろう?」
正妃ヴァネッサ―――元、魔王軍近衛師団所属の女は、昔の二つ名「女殺し」の名にふさわしく、マリアンヌが思わず傾いてしまいそうになるほど甘い声音でそう応えたのだった。
* * * * * * *
「お姉さま! マリア! ただいまー」
「おかえり、ティア」
「おかえりなさいませ、ティア様」
「私もお茶が欲しい―――あ! ち、違う! マリアっ、マリアは座ってて!!」
「いえ、私にとってティア様は大事な方ですので」
帰ってくるなり元気のよい挨拶。小気味すら良いおねだりで場を和ませたルクレティアだったが、さすがにここは白百合の宮であり、その女主にお茶の準備をさせることの意味程度は覚えていたらしい。
本来、主が直接動いてお茶の準備をすることは、主がイコールで使用人と同等であり、「お客様はそれよりも上だ」と自ら認めてしまうことになるため、貴族としては大変マナーの悪いことだと言われている。もちろん、もてなす側である主人より正客の位が高いのであればそれもまた良しと目を瞑ってもらえることもあるのだが、純粋な話、籠の鳥のご令嬢がきちんとしたお茶を入れられるかどうかは謎の部分も多い。したがって、そういった諸々の事情も加味し、ある一定以上の位になれば「お茶は主人の呼んだ使用人がいれるもの、自分でお茶をいれることは大変はしたない」ということが一般的な教養として周知されている。
また、それを主に強要することはすなわち、客から主人に対する挑戦状、ともいうべき事態であり「お前は私に仕える奴隷だ」と態度で強要しているようなものであるらしいのだが、今更いちいちメイドを呼ぶ方が煩わしい。
自惚れに近いのかもしれないが、これでもマリアンヌの入れるお茶は一級品である。それは正妃ヴァネッサも黙ってマリアンヌの入れたお茶を飲んでいることからも事実であり、下手をすればメイドの入れるお茶の方が不味いことがあり得る。
盲目のマリアンヌは人よりもそのほかの感覚が優れているようであり、嗅覚はその最たるものなのかもしれなかった。かぎ取れる紅茶の香りだけを頼りにしてお茶を入れているのだが、これがなかなかにうまくいく。
さっさっと入れた紅茶をルクレティアにふるまうと、彼女は本当に喉が渇いていたようで、はしたなくならないように気を付けつつ、それでもわりと真剣にこくこくとお茶を飲んだ。「もうちょっとほしい」と必死に目が訴えていたこともあり、すぐさま無言で2杯目のお茶を振舞うと彼女は即座にそれを口元へと運んでいた。
「犯人は自白したのか?」
「はい! 自白させました!」
―――魔術って便利。
若干遠い目になりながら、ルクレティアの報告を聞いたのだが、犯人は白百合の宮の北門付近に潜伏していたところを綺麗に一網打尽できた、とのことだった。その中でもルクレティア言うところの「一番偉そう」な人物を選んで自白する魔術をかけたそうなのだが、その結果出てきた名前は想像されていた通りの者であり、「ああ、やっぱり」とマリアンヌとヴァネッサの二人は小さく息を吐き出す。
―――人族奴隷の解放に一番抵抗なさってたとは聞いてたけどなー。
相手は貴族の中でもほどほどの影響力を持つ伯爵位にある男だった。魔王の提案した「人族の奴隷解放」についての動きについて最初から最後まで反対する立場で強弁を振るっていた人物であり、時折その派閥の者と顔を合わせてしまうと、お茶会などの公的な場でも、誹謗中傷に近い言葉をぶつけられていたので、驚くほどのことではなかった。
むしろ「ようやく尻尾を出してくれた」と安心する気持ちの方が強く、マリアンヌはほっと息をついていた。
狙われている、という事実にマリアンヌが気づいたのはもうかなり前の話だ。
どうしようか、と考えあぐね、最終的に一応のところ、この魔王城の裏側を取り仕切るヴァネッサに相談しにいったのは、3カ月ほど前。そこからルクレティアのお産などを挟みつつ、あれやこれやと奔走し、今日の敵の捕縛に至ったわけだったが、ようやくこれで一区切りつける。
「とりあえず、今日のところはマリアンヌは私の宮へ。残党がいないとも限らない以上、ここへは残しておけぬ」
「お姉さまずるーい! 私も一緒にお泊り会がしたいです!」
「ティア。そなたは実家から飛んできたのであろう? そなたがおらぬと、小さなナタリーが困るのではないか?」
「うっ」
「……ティア様。それでは今度、お子様も含めて、鈴蘭の宮でお泊り会をなされるのは如何でしょうか? 鈴蘭の宮の温室で珍しい花が咲いたと伺いましたし、ぜひわたくし興味があります」
「……そう、ね。そう、ナタリーだって、マリアのことが好きみたいだし、それがいいわね」
ナタリーというのは最近生まれたばかりのルクレティアの子供のことである。ルクレティアのところには2男1女、ヴァネッサのところは1男1女でそろそろ子だくさん、と言っても過言ではない程度に子供に恵まれている今代魔王だが、子供らは共通してマリアンヌのことが好きである。
もっともそれは彼女がおそらく魔力を持たない人族であることが大きく起因している。
種族にもよるのだが、子供は自身の持つ魔力量が少ない傾向にあり、大人たちの持つ魔力に対して過敏な反応をしめすところがある。親の特性に近しい特性を引き継ぐ子らは、とにかくこの魔力に過敏な反応を示しているようで、魔力的な相性の合わないメイドたちは嫌煙されがちであり、こと、魔力量の高い教師に至っては「1m以内には入ってこないで!」と叫ばれているような事態なのだとか。
魔力のないマリアンヌは彼らにしてみれば「ほぼいないも同然なのでは?」と思っていたのだが、他人の魔力的な気配に怯える彼らにとって、マリアンヌは正しく「いてもいなくても同じ」空気のような存在であり、気を張らずに済む、というだけでもありがたい存在だった。おまけに、何かあった時には、それとなく空気だけでそれを察知し、動いてくれるので、そういった意味でも貴重である。表向きを取り繕うことを徹底して教え込まれている彼らにとって、マリアンヌは一つの指標であると同時に、自分で対処しきれない事態が発生した際にはすぐさま動いて正しいやり方を教えてくれる「ありがたいお姉さん」でもあった。
まだ小さなナタリーは「マリアンヌ」という存在を認識してはいないのだろうけれど、魔力の高いメイドたちが近づくと途端に泣き出すことも多く、他人の魔力に怯えている兆候が見えるため、できるだけ魔力の低いメイドたちで世話に当たるようにしている。下手をすればそのうち母親であるルクレティアよりもマリアンヌに懐くと思う、と当の母親本人が言っているので、おそらくそうなるだろう。
貴人同士の結婚だと、その間は冷めていることも多い。その間に生まれた子供との縁もあってないようなものだし、母親ではなく乳母が子育てをしていることが普通なのだが、この魔王城ではそれが通用しない。乳母はいるものの、あくまで子育ては母親同士手を取り合って子育てをしているのだが、その中になぜかマリアンヌも混ぜ込まれている。
ヴァネッサが第1子を出産したときは産後の肥立ちが悪かったのと、第1子の魔力量が高く、とにかく気難しい赤ん坊に右往左往とさせられたので、魔力0のマリアンヌが手を出さざるをえなかった。
他人の魔力に怯えて泣き叫ぶ赤ん坊、理由が分からずに混乱しきる使用人たちに、ボロボロの体で焦る母親。ミルクを飲ませることも容易ではなく、荒れ狂う魔力の嵐の中、飛び込んで周囲を驚かせたのは今でも昨日のように思い出せてしまう。
そして、このことがあったから、魔王城の使用人採用試験の際には、別枠で魔力量の低い者を率先して採用する部署ができた。継続して雇ってみると、彼らの方が「気難しい」と言われている貴族のお客様への対応が容易であったりすることがあり、つまるところ「貴族の癇癪イコール赤ん坊の癇癪」と同じだとする結論に場が騒然としたこともある。もちろん、それがすべてではないのだが、中にはそんなお客様もいる、ということであり、適材適所なのだとする風潮が生まれており、現在、魔王城には魔力量も含めて多種多様な者たちが一緒に働いている。
そして、その中にはマリアンヌもきっちり落とし込まれているようで、ヴァネッサとルクレティアの二人にとってマリアンヌは「魔王の妻」として、同一の存在であり、「子どもたちの母」としてカウントされていた。
それを恐れ多く思うのと同時に、「いやいやいや、こちらは元娼婦なんですけど」と拒否反応を覚えるのが半々。
結局のところ、魔王との約束もあり、こうして魔王城での生活も15年ほどが経過してしまったわけだが―――年を取っている実感は全くと言っていいほどない。
つい、昨日のことのように思い出せる。
「マリー、約束する」
おそらく泣く寸前までいっていたのであろう男の言葉を思い出し、いささか照れるの半分、呆れかえるのが半分。
それでも彼はここまできてしまった。
そして、マリー、ことマリアンヌもこうしてここまできてしまった。
その後も他愛ない話を―――ではなく、捕まえた者たちの処遇やら、魔王への説明についての算段を離していたのだが不意にルクレティアが体を強張らせた。
「王には私から報告をする。証拠も揃えてからでないと、混乱が生じるだろうから―――」
「あ、あの! お姉さま!」
少し強張った体と声。
緊張していることをほぼ一瞬で見抜いたマリアンヌは心配そうにルクレティアへと顔を向けたのだが、彼女は少し口ごもるように黙っていた。ヴァネッサもこれには声を潜めるように低くして彼女の名を呼ぶ。
「あ、あの、ね……」
「「…………」」
「あ…あは………ばれちゃっ、た……」
―――誰に? 何が??
ぶわり、と途端にあふれ出てきた魔力反応。
マリアンヌは魔力0。だがしかし、この気配だけは絶対に間違えることはない。
その昔、娼館の厨房にまで遊びに来ていたころから、この気配だけはどうしても苦手だったのだから。
「楽しそうなお話ですので、ぜひ私も仲間外れにせずにまぜてほしいですね」
やってきた魔王様の声音はこの上もなく楽し気な色に彩られていた。
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