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いちや

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間章

間章2

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(ジェド視点)

 ―――レティのことは男だと思っていた。

 足が血まみれになってもなお、一人で生きていくために、と、前を向く子供の根性は恐ろしいほどに「据わっている」と感じた。元々、人族の体が魔族のそれよりも脆いということぐらいは知識としてある。にもかかわらず、滅びた国からの逃亡、それも夜を徹して、極めつけは己を救おうとしていたはずの存在まで切り捨てて―――となると、ジェドがまず気に入ったのは、その容姿よりも何よりも、性根でしかありえなかった。
 女だと分かっていなかったのがジェドだけだった、という事実は、その数日後、「ロリコン」との不名誉極まりない流言が軍の内部で流れたことからも明らかであり、散々魔王本人からもからかわれたものだったが、釈明は一切しなかった。と言うかできなかった。そのころにはすでに、彼女という存在が自分の体にとって受け入れられる存在であり、もしも可能であるのなら将来の嫁候補レベルでのうっすらとした打算は芽生えていたのである。
 10年、20年程度軽いものだろうと構えていたわけだが、その10年は予想よりもずっとずっと短かったように感じた。

 以前は口づけただけで吐き気すら覚えるレベルだった「女性」という名の他人。
 だがしかし、ジェドはレティを受け入れることができた。それは出会った当初、彼女が着飾ることなど知らぬ年齢の子どもであったということもさることながら、もしかしたらその精神の在り方を「好ましい」と感じている己の心の動きに体の方が順応したからこその奇跡だったのかもしれない。
 それ以降も彼女以外に自分の隣を許せる存在など、探そうとすらしていないので、真相は謎のままではあるのだが、もし彼女が手元から去ることを選ぶようであれば、養子をとることも真剣に検討し始めていた。
 それぐらいに「女性」という存在から縁遠い男の報告に、今や家族の方が沸き立っている。

 レティとの約束もあって正式な婚姻は彼女の成人を待つことにしているのだが、それでも家族は「せめて婚約だけでも」と小うるさい。特に母から毎日のように送られてくる手紙は、ちょっとした本程度の分厚さがあり、いったい毎日何をこんなに書くことがあるのやら、と頭が痛い。さすがにそれだけの分量を読む時間は捻出できなかったので、手紙そのものはタウゼントに読ませて、要点のみ報告を受ける形にしているのだが、いちいちもっとも胸を突く言葉の羅列に、タウゼントと母の共謀すら勘繰った。が、毎度死んだような目で報告を上げてくる彼の様子を見るに、そのような可能性はゼロだと思い知らされた。
 つまるところ、母からしてみれば子供は何歳になっても子供なのだということを思い知らされる。

 ―――その家族が、彼女にはない。

 彼女がバルバス家にやってきてから2年が経過した折、ふと思って追跡調査をさせたところ、ほぼすべての親類が死亡していた報告書を受けることとなり、報告書は静かに握りつぶすことになった。とてもではないがまだ7歳の子どもには突き付けられない事実には表向き蓋をし、これと思った者にだけ口頭で伝えるようにしている。
 ある意味、彼女をだまし続けて入ることになるので、それもどうかと思い悩み、それとなく聞いてみると、元から家族とは縁が薄く、いてもいないのと同じように扱われていたとの話を受けて、当時は別の意味で米神がぴくぴくと動いた。同じ話を聞くメイド頭の表情もそれはそれは恐ろしいものと化しており、さすがに表情が落ち着くまで部屋を出ているように、と指示を出した。サニア相手にそんな指示を出したのは、今のところ、あれが最初で最後だった。
 そんな彼女の家族だが、それでも優しかったころの思い出もあるにはあるようで、その中でも一番よく出てきていたのは―――家族ではないものの、乳母だった女性の話。そして、その次が「兄」の話だった。

「たまにね、お菓子をくれたの」

 本人曰く「好みじゃないから」と言いおいてのことではあったらしいのだが、「いらないのなら、捨てていい」とこっそりと手渡されるお菓子が好きだった、と当時を懐かしがるように彼女が何度か漏らした。年頃になってからはその味を思い出すように自分でも菓子を作るようになったが、どうしても思い出の味には届かないようで、何度かは落ち込んでいる顔も見た。「やはり自分の手元より、人族の国の方がいいのだろうか」と、屋敷に戻るたびに漂う甘ったるい香りに暗澹たる気持ちを覚えながら、下手な慰めも言えずに彼女の手作り菓子を黙々と食べ続けたものだったが、それに触発されたメイドたちがこぞって「自分たちの故郷の味!」を再現し、やがてほっと息をつくことができるようになった。
 記憶にある味は再現できなくとも彼女は今の生活の中に、自分好みの味を見つけたようだったのだ。
 「ジェドはどの味が好き?」と粉塗れのエプロンドレスで問う彼女の手ずから菓子を共に食べ、セクハラだの何だのとサニアになじられた記憶が懐かしい。

 その兄が見つかったとの報は、彼女にどのようにして知らせるべきだろうか。

 彼女と全く同じ琥珀色の瞳を思い出し、ニコルと言う名の男のことを考える。容姿こそまったく似て非なるものでありながら、それでいて瞳は写し取ったかのように同じ輝きを宿しており、「これならば」と思った。自分の放つ威圧に負けずに正気を保っていたところにも驚かされたのだが、おそらくその性根のところで彼女と彼は似ているのだろう、と思う。
 だからこそ、幸せになってほしいと思ったのだが、ある意味、片道切符に近い形での荒行に放り込んでしまったわけで―――今後、自分の評価がどうなるのかは甚だ疑問である。加えて言うと、彼女との関係についてもいつかは話をせざるを得ないのだが、その話をどうもっていくか、だ。

 思わず、「その場にいたから」などという理由で、セリムに意見を聞いてしまったのだが、そもそも彼はリタとは違い、レティのことをあまりよく知らない。「本人に『もしも』の話として兄の話題を振ってみて、反応が悪くなければ、どうしたいのか本人に決めさせればいいのではないか」というありきたりな返答にどこか肩透かしを食らいつつ、それが妥当なところだと自分でも思っている。が、しかし、これでレティが「婚約破棄」という言葉を匂わせる様になってしまったら、自分はニコルを秘密裏に抹殺しに走るかもしれない。
 ニコルにしてみれば、完全にとばっちりである。振り回されるだけで振り回されて、希望が見えた時点で殺される、なんてどんな残酷な所業かと思う。ましてや、すでに彼の将来については魔王ともども話し合い、それなりのレールを敷いた後なので、今更、変更を加えるのも悩ましい。
 さすがに性急すぎた、と反省したわけだが、それだけ「彼」という存在は、ジェドにとっても魔王にとっても都合がよかったのだ。

 そろそろ布告される予定の「奴隷の完全解放」に向け、各部署とも多忙は極まっている。
 特に、魔王関連で言うと、元人族、現在半分ほど魔王と同じ種族への眷属化の済んでいる奴隷を一人嫁に加えることになるらしい。あくまで側室の一人として加えるだけ、という扱いになるので、大した準備が必要でもなかろう、と思っていたのだが、その側室のためだけに離宮を一つ改装したり、方々への連絡やら、お披露目のための段取りやらも加えると、関係部署は今の時点から動き出している。一番懸念されるのが正室および他の側室たちとの関係だったのだが、そもそも彼女の側室入りについては魔王よりも魔王の妻たちの方が乗り気であり―――もはやどちらがどちらの妻を娶ろうとしているのか分からないような有様なのだというこぼれ話も聞く。
 相手の人族奴隷―――いや、「元」人族の「現在」も奴隷をしている娘、は間違いなく「女性」なのだが、どうやら魔王と過ごす時間よりもその正室や側室、およびその子どもたちと過ごしている時間の方が長いそうで、爪はじきにされた魔王が自分たちに絡みにくる、という厄介な問題も発生しているので、嘘ではないのだろうと思うのだが「一体どういう事態なのか」と耳を疑うような状況である。

 ―――だからこのタイミングで休みを取ったというのに。

 今日の途中での外出は、部下に泣き落とされてのやむを得なくの外出だった。ニコルの件は、そのついでで処理をした、おまけの業務でしかない。ニコルについては、自分のこの先の身の振り方を決める重大な話になるので、1週間程度は猶予を与えたつもりになっていたのだが、本人にそれが伝わっていなかったのと、早々に処理をしておかないと、自分の部下に加えて問題のロイウェル「元」侯爵令嬢が暴走しそうだという連絡を受けて、前倒しになっただけのことである。

 最初の基礎訓練はおおよそ1週間。それで根を上げるなら、早々にプランを考え直す必要が出てくるのだが、まずそこまでは問題はないと思っている。もし万が一、ついていけないようであるのなら、それこそ軍学校側に放り込んでみっちりと3カ月程度の短期コースを受けてもらいつつ、その間に法術の教師となる人物と話をつけておこうと考えている。逆に基礎訓練に耐えうるようであるのならば、ジェド自身が簡単な砲術の手ほどきを教えてもいいと思っていた。

 法術も魔術も、根幹たる原理はそう変わらない。ただ行使する力の源が理力と呼ばれる人族由来の力になるか、魔力と呼ばれる魔族由来のものになるのかだけで、後はその力を使って実現する事象をどの程度正確かつ具体的に思い描くことができるかという話になる。
 身体能力の話と同じく、生まれながらに有している理力・魔力の多さは、魔族と人族との間で大きな隔たりがあり、法術を発動までできる程度の理力を有している人族の数はぐっと絞られる。そして、そのごくわずかな人族の有する理力ですら、魔族の持つ魔力と比較すると、その絶対量は「少ない」と言わざるを得ない。

 ―――アレも規格外、なのだろうな。

 おそらくだが、彼は幼少期に相当過酷な環境下にあったのだろうと思う。死に瀕した経験などが引き金となって生まれつき有していた法術の素養が開花し、自身に与えられる苦しみに耐えるためだけに、無自覚のままで法術が伸びてきたタイプだ。発現まではしないものの、無意識のままに理力を操って、自身の体を覆い、怪我などに対する自己治癒力を極限まで高めている―――が、それはあくまで周囲に異変だと悟られぬように隠蔽し、ぎりぎり程度に抑えるという、ある種、曲芸的な使い方をしていた少年を思い出すと、軽い頭痛がした。
 変についた癖は直そうとすると途方もない労力を要するものだが、あえてそちらの使い方を伸ばし、応用が利く形として指導していく必要があるだろう、と方針は決めているのだが、果たしてそんな難易度の高い指導をできる者が何人いるか。ましてや、彼は日々の生活に理力を使用しているだけあって、その絶対量は、自分にまでは及ばずとも、それなりの術者レベルに達している。並みの術者では指導もできないレベルの初心者、というのは意外に厄介なのである。
 加えて、何か奇妙な力を宿していると思しき左の瞳。本人曰く、「一度えぐり取られた」との申告だったが、ジェドにはそのニコルの瞳をえぐり取った男の正体に、嫌な意味での心当たりがあった。
 ひとまず、当人の瞳は完璧に再生しているので、そのままとしておいても良いとは思うのだが、目玉の所在は確認しておかなければ安心できない。

 休暇明けにしなければならない仕事の手順を脳内のメモに落とし込みつつ帰宅すると、玄関をくぐるなり、サニアが急ぎ足でやってきた。

「レティが?」
「はい。以前から不安定ではございましたが、今日は特に、かと」

 休みだ、と言っていたのに途中で仕事に行ってしまったのだから当然何か反応はあって然るべきだ。レティのことだからそれぐらいは押し殺してしまうかもしれないとも思ったのだが、帰宅早々に告げられた事態はジェドの予想を上回っていた。
 何が起こったのかは判然としなかったものの、よくよく考えてみれば前回の襲撃からまだ3週間しか経っていないわけである。おまけに言うと、その時にあった件に関する顛末は、「自分に対する嫌がらせだった」程度のことは話したものの、それ以上は説明することも忘れていた。

 改めて言うまでもないことだが、彼女は普通の少女である。それもどちらかと言えば、箱入りの。
 これが部下相手だったなら「使えない」と判断してとっととそれなりの処分に動き出すところだが、相手は言うまでもなく、自分の妻だった。

 今更ながら手抜かり感のある対応にさーっと顔が青ざめた。
 その顔を見やるサニアの表情はと言うと、「コイツ馬鹿じゃないの?」という嘲りがはっきりくっきりと出ており―――心を二度抉られるようであった。

「……お嬢様でしたらお部屋でお休みになっておられます」

 明確に欲しい情報だけをくれる彼女は今更確認するまでもなく超一流のメイドだった。
 その後、夕食などに関していくつかの確認をしてから、ジェドはためらうことなく足早にレティの部屋へと向かったのだが、ノックをしても中からの反応はまるでなかった。

「レティ?」

 寝ているのか、と思って、ためらいがちにノブを回す。薄暗い部屋の中、ジェドの求める少女はと言うと、ソファの上に座り込んでいるようだった。
 後ろから近づいていくと、不意にその細い肩がピクリと跳ねる。ばっ、と振り向いたその琥珀色の瞳の目元にほんのりと赤みがさしており、一目で泣かせた、という事実が理解できて、胸にナイフが突き刺さった感があった。

「すまない。休みのはずだったのに、約束を破ってしまったな」
「う……ううん、大丈夫」
「寝ていたのか?」
「ぼーっとしてただけ」

 「休み中はずっと一緒にいよう」と話していたのにこの体たらく。最初は「仕方ない」などと甘えた考えでいたわけだったが、改めて今後二度と、絶対に、何があっても、この屋敷の中に仕事は持ち帰らないと心に決めた。
 とりとめのない話をしつつ、彼女のすぐ隣へ座ると、ほんのわずかに彼女が身じろぎ、距離をわずかにとった。
 ぴきり、と心のどこかで何かの割れる音がしたようで、ジェドは大きく深呼吸でそのダメージを乗り切った。今日は荒事などはなかったはずだが、行先が行先である。服に男臭い匂いでもついてしまっていたのだろうか、先にシャワーだけでも浴びてくるべきだったかなどという考えがあふれてきて、挙動不審に陥りそうになる。

「レティ――――」

 ―――悪かった、ごめんなさい、すまなかった。

 謝罪としてはどこから入るべきか。そもそも眠っているところを置いていったところからか、いいや、その前に前回の事件のあらましが分かった後も説明していなかった事実からか、はたまた現在進行形で隠している彼女の兄に関しての出来事か―――ああ、だがしかしそれを言い出せば、そもそも遡ること8年前に彼女に黙って彼女の家族についての調査をいれたことだって、謝罪の言葉がいるのではなかろうか。

 ぐるぐるぐる、と何を言っていいのか分からずに黙りこくってしまうと、先に口火を切ったのは彼女の方だった。

「ジェド、は………わ、私に黙ってることが、ある……?」
「……………ある」

 断罪はどれからだろうか。
 もはや、殴られても、蹴られても、詰られても、それぐらいいくらでも問題ない。むしろ、彼女がそれで元のように自分に触れてくれるというのであれば、ボロ雑巾のようにされたところで、嬉々として受け入れて見せる。

 危ない人一歩前、の思考に気づいて、はっとなったものの、それより優先すべきは彼女である。

 淡い桜色の唇が震えている。琥珀色の瞳に浮かぶのは、怒り、と言うかは悲哀、と表現すべき感情だった。

「ジェド、は…………」
「……………」

 彼女も言いあぐねている。何をどう切り出していいのか分からない、といった困惑を大きく表す表情に引き寄せられるように顔を寄せ、真っすぐにその瞳を正面に受けた。

「―――わ、たし、を……捨てる……の?」

 思考は止まった。
 間違いなく、彼女の唇からこぼれてきた言葉に対し、ジェド・バルバスの思考は停止し、その瞬間に呼吸ごと世界の時すらも止まってしまったかのような感覚を味わった。
 しばらくして徐々に時間は戻ってきたものの、今にも泣き出しそうなその少女の言葉が理解しきれずに、ジェドはしばらく中空に視線をさ迷わせた。

 その次の瞬間に思い切り抱き着かれた。

「お願いっ、なんでもするから、捨てないで! もう我儘も何も言わないし、メイドのお仕事でもなんでも頑張るから……何でもいいからっ、ジェドの傍にいたいの!」

 ―――今度は一体誰に何を吹き込まれた。私はどこのどいつを誰を血祭りにあげてきたらいい?

 そんな言葉は脳裏をよぎる中、ジェドはゆっくりと彼女の体を抱き上げて自分の膝の上に乗せる。小さく震える体は、はっきりとした恐怖に打ち震えており、彼女が自分をだまそうとしていたり、何かを企んでいるなどといった可能性は一瞬にして吹き飛んでいた。
 ゆっくりとその琥珀色の瞳と己の瞳を併せて、涙が零れそうなほどに溜まっている縁へと口づける。

「レティーシア。前にも言ったが、私はお前を自分の妻に娶るつもりだ」
「っ……」
「これはほぼ決定事項であり―――お前がどうしても私のことを嫌だと言わない限り、変更の可能性は皆無だ」

 不安げだった瞳が大きく見開かれ、一瞬にして蒼白だった頬に赤みがさす。
 ぼっ、と一瞬にして火を噴きそうなほどに赤くなった彼女は慌てて自分から離れようとしていたのだが、すでにその体は抑えられている。するり、と指で背をなぞると、しなやかな体が反り、甘い声がわずかにこぼれた。それにさらに触発されたかの如く赤く染まった体は、昨夜の痴態を思い出させてやまないわけだが、それについては彼女も同じようで、泣きそうなぐらいに赤い顔をしていた。
 僅かに目元に残った涙を指ではらい、静かに言葉を続ける。

「どうして、私がお前を捨てることになる? 何があったのか、説明できるな?」
「はい………」

 「ごめんなさい」と小さく呟く少女の体を抱きしめ、ジェドはとりあえずのため息をこっそりとついた。


 * * * * * * * 


 話は至極簡単だった。

「ごめんなさい、ジェドのお部屋に入っちゃったの」
「部屋? 執務室の方か?」
「うん」

 軍の仕事は当然本部にある机で行っているのだが、ジェドは魔王軍の長を務めるのと同時にバルバス家の侯爵領を治める領地としての役割も担っている。領地経営については離れた土地にいることもあるため、実質のところは「引退した」と公言して憚らないものの、周囲はそうはさせまいとして攻防を続けているジェドの父が執り行い、その補佐として元・文官として国に仕えていた母、オブザーバーとして祖父母がいるわけだが、この時期には報告書の類が山のように届く。
 一応のところ「領主決済」となっている書類の写しなのだが、「おかしなところがあれば連絡してこい」との伝言と共に送られてくる書類に不備があったことは一度もなく―――強いてあげるのであれば、何度か、報告書と一緒に見合い用の写真だのなんだのが紛れ込んでいたことに苦情を申し立てた程度である。
 ここ数日はその書類にすら目を通すことができないほど忙しかったので、部屋の中は荒れ放題だっただろうと思ったのだが、案の定だった。

 だが、問題は、それ以外の書類も大量に運び込まれていた方にあったらしい。

「『奴隷解放についての通達』っていうのを………見ちゃったの」
「ああ、あれか」

 そういえばそんなものあったな、程度の認識だったのだが、それを読んだレティの解釈は少々違っていたらしい。
 ジェドのあっさりとした反応に戸惑っている彼女がためらいがちに言葉をつづけた。

「私、帰るとこない、けど……どう、なっちゃうの?」
「……………………」

 ―――帰すつもりは皆無なのだが。

 そう言いかかった言葉をひとまず飲み下し、彼女の認識について推測する。
 ジェドには彼女を帰すつもりはないのに、彼女はそれでも「帰るところもないのに無理やり出ていかされる」と認識しているわけである。その理由がどこにあるのか、と文書を思い出し、不意にひらめいた。

「レティ」
「はい」
「………お前が読んだのは概要文の載った1枚目の紙面だな。その後の2枚目以降は読まなかったのか?」
「2枚目?」
「1枚目は概要文と、その裏面には奴隷を国に買い上げてもらう場合の対応について。そして、2枚目以降は解放した後の奴隷の取り扱いについて―――具体的には、現在所有している奴隷をそのまま保有する場合の条件と、するべき手続き。3枚目は奴隷を妻、もしくは夫や子供として迎え入れる場合の対応について書かれていたはずだが……」

 「読んでなかったわけだな?」、という確認の言葉は確認せずとも明らかだった。
 「え?」という顔で「勘違い?」と目を白黒させている彼女を一度、横に座らせ直し、無言で魔術を発動させる。瞬時に手元へとやってきた書面3枚分を彼女にも見える形で一緒にのぞき込み確認すると、その顔はみるみるうちに驚愕を張りつかせたものとなった。

「ジェド、これ……」
「後はお前にサインを書かせたら提出しに行くだけだ」

 書類自体は説明文と一緒に申請書が裏面に張り付いている形となっており、ジェドは当然ながら奴隷から解放された後もレテーシアを傍に置く予定であるため、彼女を魔属領に住まう住民とするための手続きを進める予定で記入を終えていた。なお、言うまでもないことだが、彼女の後見人はそのままジェドが担う形をとっており、そのまま妻とする予定だという内容までが赤裸々に書き込まれてしまっている。
 婚姻届けではないものの、たかだか奴隷からの解放、一市民としての登録に「結婚予定」との記載までが必要なのかと尋ねてきたそうだったので、先回りして答えておいた。

「私が後見人とは言っても実質的な手続きはタウンゼントに行かせるつもりだ。それに、どこかの時点でお前に対する面接もある」
「面接?」
「例えば私がお前を精神操作で操って良からぬことをしようとしている可能性もあるだろう?」

 はっきりとは言わなかったものの、もっともあり得そうなのは、雇用契約を結んでおきながら、実質的には奴隷の時と変わらぬ扱いを強要する雇い主への対策である。それを防ぐために本人に何かの魔術などがかけられていないか、本人の意志でもあって魔属領に留まることを選んでいるのか、一時的には国で身を預かり、そこから再出発などといった手段もあるわけだが、そのあたりの事情を知っているか、など、奴隷たちが身分を解放された後も生きていくうえで必要だと思われる情報の伝達も含めた形での面接が予定されているのである。
 おそらくだが、魔族国内に留まる奴隷の数はそこまで多くない。ましてやきちんとした雇用契約を結びなおしてまで、となると、魔術の使えない奴隷を雇っておくメリットはそこまでないのが実情である。加えて、今回の件は、一応のところ「人族の奴隷」がメインではあるのだが、それ以外の少数民族の奴隷たちも範疇に含まれており、それらの全貌把握のためにも面接は必要不可欠であるというのが、文官たちの総意だった。

 誰がレティの面接を行う担当となるのか、現時点ではジェドにも推測が付かない。少なくともタウゼントはつける予定でいるのだが、それが不可となるのならば「同性」というところでゴリ押してサニアだけでも傍につけての面接になると思うのだが、中には「たかだか元奴隷」とこちらを侮ってくるような文官もいないわけではない。
 そうなることが恐ろしいのであえて「バルバス家の嫁(予定)」ということが確実に分かる書き方をしておく。そうすると、少なくとも上の文官には話が通っているので下手な人選はしてこないし、何か間違った相手がやってきた場合であっても、「バルバス侯爵家」として抗議をする、ということを強く推すだけで大体の話はどうにかなる。
 土壇場でレティが「無理やり結婚させられる」とでも騒がない限りことは覆らない予定、である。

「じゃあ、私、ジェドの傍にいてもいいのね」
「そうだと言っているだろう」

 ―――出ていきたいのかと思った。

 表には出さないものの、書類を抱きしめる様にしてほっと安堵している少女の手からその書類をはぎ取り、元の場所へと戻す。問題の勘違いをしたレティを抱き上げて口づければ、彼女は驚きつつも静かにそれを受け入れていた。
 ねっとりと腔内のすべてを暴き立てていくように舌を蠢かすといつにないしつこい口づけに根を上げたように彼女が身じろぐ。
 逃げたいわけではないのだろうけれど、そういう素振りを見せられるだけで、己の中で動くめく、どろどろとした醜い感情を自覚すると同時に、その口づけを拒否されないことに安堵する自分を感じてもいる。

「ジェド」
「……傷ついた」
「ふぇ……え?」
「私はこんなにお前のことを愛しているのに。存外、伝わっていないものなのだな」

 「昨日もあんなに愛し合ったのに」と呟くと、一気にその頬が紅潮した。
 「ちょ」だの「ちが」だのと、言いかかった否定の言葉を吐き出す唇をじぃっと正面から見つめていると、その唇が泣きそうな形に歪む。琥珀色の瞳に浮かぶのはただただ不安と困惑であり、そこに混ざるのは「そんなつもりはなかったのにジェドを傷つけてしまった」という罪悪感である。
 手に取るようにわかる彼女の心情に胸がわずかにときめく。

 ―――自分のことを棚に上げておきながらよく言う……。

 今や、彼女の兄のことも含めて、先日の種撃事件も何もかもが有耶無耶の状態となったわけであり、このままでいいとは思っていないものの、それでも猶予が稼げたことにほっと息をつく自分がいた。

「今日は体、に教え込もうか」
「え……あ……い、いや、あ……あの……」
「レティ。来い」

 手を伸ばすだけ。
 それだけで彼女はためらいがちに、こちらの手を取り、顔をそむけながらもその手が引っ張られることを許容した―――許容してしまった。
 内心ではまだ恥じらいと躊躇いでいっぱいでどうしていいか分からず、ぐるぐると迷っているのに一方的に受け入れられている自分に喜ぶのと同時に、それを壊すほどに愛して、素直に彼女に愛を示してほしいと願っている自分がいることにほんの少しだけ驚いてもいた。

 ―――「せめて婚約だけでも」

 母の手紙を思い返し、ふとその手があったか、と思わないでもないのだが、いちいち誰かに彼女を見せびらかすのが嫌なのだ。1回で済ませられるものならばそれは結婚式の時だけにしたいものだが、どうせならそれも慎ましく、必要以上の人物に彼女の姿を見せたくないとすら思う。
 が、しかし、そういう行事ごとを疎かにすると途端に周囲との物事がうまくいかなくなるものなのである。

 ぷちぷちと背中のボタンを外し、大きく胸元を寛げさせると、「ひゃ」という愛らしい声が飛び出てきた。自分が昨夜つけた鬱血痕の上に、更に口づけ、そのままわずかに歯を立てる。

「じぇっ、どぉ……噛んじゃ、だ、めぇ……」
「どうして?」
「痕が……ついちゃ……う」
「ああ、見られるのが恥ずかしいか?」

 こくこくと必死に首を縦に振る愛らしい様子に笑みがこぼれ出てきてしまった。

 ―――なら、今夜は徹底的に痕をつけよう。

 誰に、見せるわけでもないのだが、強いて言うなら今更ながら、「馬鹿じゃない」と目で語っていたサニアの様子を思い出し、ジェドはソファの上に彼女を押し倒したのだった。
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