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氷の上を行く白鳥
お茶会-1
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結局、アルトが拾ってきてしまった子猫は、レヴィア家にて飼われることとなった。
アリシアが白い手に引っかき傷を作りつつ丁寧に洗い上げると、灰色に汚れていた白い毛並みは、白銀と見紛うほどの色合いへと変貌し、青く澄んだ瞳も美しく、一目で野良猫とは思えないほど品が良くなった。
首輪などの飼い主を特定できるようなものが何もなかったので、『捨て猫だろう』と勝手な判断を下し、アルトに猫を飼う許可を出したアリシアだったが、万が一のことも考え、『もしも飼い主が現れた時には、猫を返す』という条件を弟によくよく言い聞かせた。子猫は、生後半年未満。それでも、幼いながらに拾ってきた当初から人懐っこく、人に飼われていた様子はあるというのに、一向に飼い主らしい人物が浮かび上がってくることはなく、徐々にレヴィア家に馴染みつつあった。
アルトはアリシアとの約束を守って、勉強には手を抜かず、それまでと同じ姿勢を貫きながら、猫の面倒もちゃんと見ている。それに加えて、最近ふさぎこみがちだった部分がなくなり、猫と一緒に外で遊びまわっている様子も見られるようになってきたそうだ。
これには、当初アリシアとおなしく猫を飼うことに反対していたミリーとエリーもすっかりと絆されてしまい、今では弟と一緒になって猫と遊んでいる。
そして―――昼間の茶会に招かれ、領主の館に招かれてしまったアリシアは今や完全に放置である。
「断れるわけないじゃない……」
領主の妻、カリアナ・シュイカは、人を招くことが大好きで、ほぼ月に1回のペースで、それなりの規模の茶会を開いている。個人的レベルの茶会ともなれば、週1回以上の頻度で行われているらしいのだが、どちらの茶会も、毎回顔ぶれが変わるので、貴族の女性達はこの茶会への招待をかなり楽しみにしている。それもお世辞に抜きに、である。
ただし、レヴィア家レベルの貴族が招かれるのは、せいぜい月1回の茶会の方だけだ。アンナ―――アリシアの母親が生存していた頃であれば、週に1度の茶会の方にも招待状が届いていたような気はするのだが、子煩悩なアンナがそちらに赴くことは稀だった。大抵はお茶会の前後で欠席を詫びるなにがしかの贈り物を母が行い、それに対しての返事がきて、と細かなやり取りはしていたようなので、欠席続きで不興を買っているということもなかったようだが。
実のところを言うと、アリシアは今回の茶会も出席しない方針で固めていた。
けれど、いつもの見慣れた招待状と一緒に届けられたカリアナの手紙を読み、欠席するわけにもいかなくなってしまったのだ。
カリアナが自ら筆を取ったことが想像できる流麗な文字の手紙には、レヴィア家が瀕している窮状について切々と心配する旨の言葉が綴られていた。
借金と父が精神的な病にかかっていることは、外聞もあるので情報を伏せているのだが、『母が死に、父が病気』という事実は周囲にも広く知られてしまっている。人の良いカリアナが心を痛めるのも当然のことだった。むしろ、このお誘いが今までなかったことの方がおかしい。この間の夜会の時とて、カリアナとは一言二言くらいしか話せなかったのだが、気遣いが過ぎるほどに優しい彼女は、アリシアのことをしきりに心配している風だった。
この手紙を無視して、彼女の心を痛ませることにはかなりの抵抗感があったし、これを機会に社交界に出て自分の魅力をアピールしておくべきかも知れない、という打算も考える。『悲劇に打ちのめされても健気な令嬢』というのは、まぁ、悪くはない謳い文句だ。むしろ、その逆に、『悲劇に呑まれるあまり、領主妻のお誘いすら完全無視する礼儀知らずのとんでもない娘』と噂されることの方が恐ろしかったのだから、『行かない』という選択肢はなかったとも言える。
人の噂など放っておけばいいと言い放ってしまいたいのだが、それで婚活の道が閉ざされるとなると、話は別。
項垂れて茶会への出席準備を始めたアリシアを見やり、ミリーとエリーの二人は静かにとんとん、とその肩を叩いてきた。
ドレスなどの準備はアリシアでもできるのだが、『まだ未成年』と言うことを考慮して、父の妹である叔母にも話を通す。父がああいう状態である以上、事実上のアリシアの保護者は、唯一の親族である叔母であり、何かの折には頼りにせざるを得ない状態だった。
叔母は昔から派手好きで、父に依存しており、金の無心が酷かった。父の借金と精神的な病が分かった途端、手のひら返すかのごとく、疎遠になっていた叔母は『カリアナ様からの茶会のお誘い』という言葉だけで、息を弾ませてアリシアの元へと戻ってきて、あれやこれやとアリシアの世話を焼く。権力者に媚びる典型的な貴族の例である叔母を頼ることにはちょっとした抵抗感がないわけではなかったのだが、これも『我慢』と言い聞かせるより他なかった。
叔母が勝手に持ってきた派手すぎるドレスやアクセサリの類は全力で拒否したのだが、豪奢な馬車を用立てられ、御者もきちんとつけて貰えたことには、感謝している。
楚々とした薄水色の、シンプルな型だが装飾の凝ったドレスに、母の形見のネックレス一つだけを身につけたアリシアは、どこからどう見ても文句のつけられない深窓の令嬢である。
『保護者』という名目だけで、真っ赤なドレスに、派手な南国の鳥の羽をあしらった帽子を被った叔母まで、茶会に同行することになってしまったのは頭の痛いことだったが、アリシアはとりあえずの体裁を整えることができたことに安堵の息をついていた。
昼を少し過ぎた日差しの強い時間。このシュイカの地は、ディストリアの最南端にあることもあって、冬は海が凍りつくほど寒いというのに、夏は日が高く、とても氷龍の治める地とは思えぬほどに強い日差しが降り注ぐ。
叔母が万事抜かりなく準備してくれた日傘を差して領主の館を訪れたアリシアは、使用人が案内してくれるままに、庭へとたどり着いた。
夏の日差しにも負けぬようにと咲き誇る花々。この強い日差しの中でも、きちんと手入れの行き届いた庭に、アリシアは思わず感嘆のため息を洩らしていた。自宅の庭など、いくら水をやっても花が萎れそうだというのに、ここではまるで春先のような光景が目の前に広がっている。
その花々に負けぬくらいに美しく咲き誇る少女達。『蝶よ、花よ』と謳われる麗しい令嬢達が笑いさざめく庭園はいつものことながら、傍から見る分にはとても美しかった。
『遅刻』というほどの時間ではなかったものの、アリシアは少しだけ到着が遅れたことを皆に詫びて、その話の輪の中へと入れさせてもらった。
「アリシア様、レヴィア男爵の具合はよろしいのですか?」
「レヴィア夫人の病に引き続き、お父上もだなんて―――さぞかし心痛のことでしょう?」
「ありがとうございます」
心の底からアリシアの身を案じてくれる者。上っ面だけの言葉で済ます者。何かレヴィア家を貶める材料はないかとコソコソ窺う者。
つくづく、「貴族の世界は生き難い」とアリシアは内心で重苦しいため息をつく。
いつでもピシリと背筋を伸ばし、毅然とした態度を貫く母親を見て育ってきたアリシアはそれらの人々の思惑を見透かして、やり過ごす術に長けていた。幼い頃から、一見、相手の言葉を優しく受け入れているようで、自分の我を貫く母の姿を見つめ続けてきたアリシアは作り笑いにも慣れている。叔母もまた己の保身を第一に考える人なので、人からの悪意にだけは敏感で、綺麗にその話題を避けている。
その他のとりとめのない会話は弾み、流行に機敏な叔母はしきりに他の令嬢達がドレスをどこで設えて、どんなデザインのこのを好んでいるのかをリサーチしているかのようだった。これでまた年甲斐を考えずに、ど派手な衣装を作るつもりなのかと、頭が痛む。父が頼りに出来なくなった今、今回はどこを資金源にするつもりやら、とアリシアは不安に思った。少なくとも、この叔母の夫にしてはひどく気の弱い叔父が犠牲にならないことだけを切に願う。
「ねぇ、アリシア様? アリシア様のお洋服はどこでおつくりになられたのですか? 私―――なにやらそのドレスに、見覚えがあるように思うのですが……」
ぴくり、と頬が引きつりそうになった。
アリシアを見下す目つきで無遠慮に見ているのは、とある侯爵の位にある女性。年齢こそアリシアと同じくらいのはずなのに、突き出すかのように強調された胸と尻、濃すぎるバッチリメイクは彼女を年齢以上に大人びて見せている。
顔の半分を扇子で覆い隠し、くすり、と意地悪く笑っているところから察するに、彼女は相当に目ざといことを理解する。
仕立てを頼んだのは、母の代から懇意にしている近所の仕立て屋。けれど、彼女の望む答えがそこにないことを素早く察知したアリシアは、あえて嘘はつかなかった。むしろ、堂々と言い放つ。
「母のドレスに少し手を加えましたの。直してくださったのは『リヴィールの店』ですわ」
「あら? 道理で型が……いえ、そういうのも、いいですわね! 私、流行に流されやすい性格でして、本当にそういった庶民的な工夫で満足できる方を尊敬してしまいますわぁ」
『無邪気』、と判断できないでもない言い方なのだが、暗に含ませた言葉はアリシアの胸にダイレクトに届いていた。
―――『このお茶会に、古着のリメイクでくるなんて、信じられないわ! 流行も後れているし、なんて気の利かないお方なの!? これだから庶民は』
彼女の言っていることはある程度正しい。貴族の中には、『ドレスなんて使い捨てるものでしょう?』などという妄言を堂々と言い放つ令嬢までいるのだ。無論、そのおかげで、庶民の生活が潤い、金が巡っているのであれば、アリシアに文句はないのだが、今のレヴィア家に社会還元できるような金がひねり出せるはずもない。
その後も、延々延々と続く彼女のアリシアへ向けての言葉は、悪意まみれで半分ほどしかまともに聞けそうになかった。いっそのこと『貧乏人! とっとと帰りなさい!』と面と向かって行ってくれたほうが、アリシアの気も楽なのだが、そんなことを面と向かっていったら最後、『なんて品のない…』とたちまち眉をしかめられてしまうのは、彼女の方である。
彼女が気に食わなかったことはもう1つあった。
アリシアが口にした『リヴィールの店』とはわりと有名な店であり、皆も聞き覚えがあるのか、『ああ、あの店の!』といった反応の方が多かったのだ。中には、『母の思い出のドレスを娘にも着せられる』、しかも『新品ではないのでリーズナブルな価格』というところが気になるのか、ちょくちょくアリシアにこっそりと探りを入れてくる女性もいるぐらいだった。アリシアを貶めてやろうとした一言が逆に、アリシアの話を引き出すきっかけとなってしまい、彼女は爪が白くなるほどにぎゅっと手に力を入れて悔しがる。表面上では繕ったものの、その声に潜む険と嫌味はより一層と酷くなってしまった。このぐらいの嫌味になるとさすがに周囲も違和感を感じているのか、すぐ隣にいる年かさの女性が、彼女をいさめようとしたとき、ちょうど良いタイミングで今回のホストが登場した―――それも、驚かんばかりのゲスト付で。
流れる髪は、銀糸。柔らかな光の洪水は、自然な流れで首もとの一点で集められてそのまま下へと無造作に落ちる。ただそれだけの光に、目を焼かれるかと思った。
開かれる一対の宝玉はサファイア。コーンフラワーブルーの輝きに勝るとも劣らない輝きには魂を奪われてもおかしくはない。
この場にいるどの女性よりも肌が白い。シミの一つも見当たらないすべらかな肌は、まるでシルクのように滑らかに見えるというのに、その身体に触れることなど、不敬に値すると本能で悟る。
若さ溢れるすらり、とした肢体を包むのは、ごく普通のズボンにシャツとベスト。すべて蒼で統一されたその装いは、まるっきり彼のために作られたとしか思えず、要所要所に刺繍された銀糸の龍が、生きているようにすら見えた。
イルクレーツ・シュイカ。
氷龍シュイカの後継―――真昼の茶会に降り立った白銀の神、の姿に誰しもがぱったりと口を噤む。ともすれば、そのまま心ごと奪われそうになるのをぐっと押さえ込み、視線だけは奪われたまま、彼が悠然とカリアナを導く姿に見惚ける。
アリシアは慌てて、自分の太ももをつねった。もう片方の手は胸元に唯一飾ったアクセサリ、母の形見のネックレスを掴んでいる。『母に顔向けできないような醜態はさらせないでしょ!』と内心で自分を叱咤激励し、『あんな人、綺麗なだけでなんてことないのよ』なんて思おうとしたのだが、不意に彼がこちらを向き直り、『気づかれたのか』と思ってひやりとした汗を流した。
「皆様、よくお集まりくださいました」
ホストらしい堂々たる言葉に、一瞬にして全員がカリアナへと視線を戻した。彼女がいることは分かっていたはずなのだが、ついつい白銀の龍に視線を奪われて、忘れがちになってしまっていたので、あちこちで顔を赤くして恥じ入っている女性も多いようだった。
カリアナの口からこぼれてきたのはいつも通りの気遣いの言葉。要約すれば、『この暑い中、よくぞ集まってくれた』という彼女らしい気遣いの溢れた言葉に、思わず聞き入る。
「イルク。私のエスコートをありがとう。この後、私は皆様とお喋りがあるから、好きにして頂戴ね」
「はい。私は仕事もありますし、戻ります」
凛とした声に、意識を奪われかける。
綺麗に一同して『残念』という言葉の張り付いた表情を浮かべているのだが、今回は暗黙の了解的に男子禁制の茶会だ。彼自身が留まるというのであれば皆こぞって彼に群がり、一言でもいいからと言葉を交わそうと努めたに違いないのだが、「仕事」と明言していることもあり、あえて言葉をかけるものも現れなかった。
彼は実に静かに歩き、館の中へと消えていった。
その背中を見送り、アリシアはうまく言い表せない罪悪感を自覚する。
母親の形見を握りこんだ手には力が込められすぎていて、真っ白になってしまっていた。
―――『トカゲ』なんて思ってごめんなさい。
彼は人と龍の間に生まれた子ども。その血は龍と人とが愛し合って産み落とされた奇跡の結晶だと言うのに、アリシアは以前、彼を蔑むようなことを思ってしまっていた。
確かに、初対面でいきなり『醜い』なんて言われたことは悲しかった。自分の容姿を鼻にかけていたつもりはなかったのだが、『少なくとも「それなりに可愛い」部類。絶対に不細工ではない』と、信じていたから、それを真っ向から否定されて頭が真っ白になったのだ。
付け加えて、アリシアはこのところずっと、レヴィア家を立て直していくためには『自分がしっかりした旦那様を捕まえなきゃ!』と気負っていた。貴族の男性が結婚相手に望むのは、『自分の子どもを生んでくれそうな、若くて健康的、綺麗な女性』が定番。『若くて健康的』というのには自信があるものの、『綺麗』が『醜い』となったのだとすれば、婚活はほぼ絶望的かもしれない。
―――お前なんて、結婚できるものか。
そんな天啓を食らったかのごとく感じていたのだと、今なら分かる。だから、本気で泣きそうになったのだ。
けれど、そんな個人の意見一つで相手に暴言を吐くべきではなかったし―――ましてや、相手の『死』を願うことはもっと悪いことだった。まさか人が願うだけで誰かを殺せるとは思ってもいなかったのだが、連日見る夢見は悪く、そろそろ現実主義者の看板を下ろして『イルクレーツ様が病気じゃありませんように』と願うばかりである。
彼はただ己の価値観に準じて判断しただけ。先ほどの女性がアリシアの服を貶したのと一緒だ。人の価値観など、千差万別。皮一枚程度のことで、一喜一憂するのは馬鹿げているし、顔の造作など今更どうしようもないことだ。そう、仕方ない。その『仕方のないこと』を未だに気に病んでいる、自分の心の小ささを改めて自覚し、アリシアは楽しい場だというのも忘れて凹みそうになる。
表立って口にした言葉ではないので、アリシアは心の中だけで詫びる。そして、彼が息災であることを、心から願った。
彼の姿が屋敷の中へと消える直前、サファイアの瞳と自分の視線が絡み合ったような感覚を覚えた―――のだが、その直後、後ろから女性達の黄色い悲鳴が上がり、『今私を見てくださったわ!』という静かな興奮が幾人もの間で上がる。
―――モテモテよねぇ……。
あんなに綺麗な人が夫だなんて、妻となる女性はよっぽど容姿に秀でていなければ、女性としての誇りも神経をずたずたに引き裂かれていきそうである。
彼にのぼせ上がってそわそわとしている少女らを見て、その神経を疑うアリシアだった。
その後、話題の焦点はカリアナを案内してきたイルクレーツになりがちになったものの、アリシアはそれよりもちょっと心配になることがあって問いかけた。
「カリアナ様―――その、お体の具合が悪いのでしょうか?」
「アリシアッ!? なんてことを言うのっ!!」
「あら? どうしてそう思うの?」
面と向かって問いかけたアリシアの非礼を、叔母は即座に怒鳴りつけたのだが、カリアナは違った。背筋もピンと伸びた、若くて綺麗な女性に、あらぬ疑いをかけることは心苦しかったのだが、『心配』という気持ちの方が強い上に、おっとりと優しいカリアナの言葉に促され、アリシアは唇を開く。
アリシアの知る、カリアナは使用人であっても人の手を借りることを良しとしない。『自分でできることは自分でする!』という信念を持った女性だということは、母の話の端々からなんとなく想像できていたし、夜会で見る、ほんの些細な行動の端々にその信念を垣間見ることがあった。そんな人が、たとえ息子であってもその手を借りて歩いてくることなど、想像できなかったのだ。
『茶会で誰かに付き添われてこられたところを初めて見たので……』と答え、足の具合でも悪いのかと言葉を添えると、彼女はくすくすと笑って、『ちょっとしたあの子の気まぐれなの』と軽く流した。
「貴女はイルクよりも私のことを気にかけてくれたのね、アリシア」
「は? え……あ、あのっ」
「いえ。詮無きことでした。今の言葉は忘れてください。それよりもアリシア―――アンナのこと、本当に残念でした」
「………丁寧なお言葉、誠にありがとうございます」
丁寧な弔辞と、それに対する応え方には、もう随分となれた。
思い出すと時々、ずきっとくる胸の痛みはいまだになくなる気配はないものの、頻度も強度も徐々に治まってきている。カリアナの話す母との思い出話には耳を疑うようなものまであり、『我が母の事ながら…』とアリシアは恥ずかしいような、くすぐったいような気持ちを味わった。
「そうねぇ。また貴女とは時間を取って話をしたいものだわ」
アリシアは少しも知らなかったのだが、カリアナと母はかなり親しかったようで、彼女はしみじみとそんなことを言った。
また折を見て、時間があるのならぜひ―――と決まりきった社交辞令を返し、アリシアは軽やかに膝を折った。
あまりカリアナとばかり話していると、他の貴族達のやっかみを買いかねないので、適当なところで話を終えようとしたのだが、不意にカリアナが『そうそう!』と手を打って、笑う。
「アリシア。貴女、猫を飼っているらしいわね」
ぎくぅ、と思い切り身が竦んでしまった。少し言葉につっかえつつも、『ええ』と答えたのだが、冷や汗がだらだらと吹き出てくるような気がした。
「あ、あ、あのっ…………ど、どこからそのお話を―――」
「あら、どこからって……イザベラからよ」
叔母の名前を出されて、アリシアは内心で絶叫する。
そういえば、叔母には猫の話は外では厳禁だと言い忘れていたような気がした。
―――ど、どうしよう………。
叔母には後で必ず釘を刺しておくことを心に決め、来るべき質問―――それに身構えて、アリシアはごくりと息を呑む。
できたら来ないでほしかったのだが、そういう質問に限ってされるものである。
「私もね、猫が大好きなの―――なんて名前なのかしら、その猫ちゃんは?」
目の前が真っ暗になった瞬間だった。
「……で、実際に確認してみた感想は」
「脈拍の異常は確実でした」
淡々と美麗な顔を少しも歪めることなく、淀みなく答えた不可侵の神の言葉に、アリシアは悲鳴を上げそうになった。
―――前より悪化してるじゃない!
現実主義者の看板を下ろし、とにもかくにも彼の無事を祈っていたというのに、それも儚く散った事実に打ちのめされ、アリシアは手で顔を覆っていた。
カリアナの体調も心配していたのだが、そちらはなんてことはなく―――だがしかし、夢の中の彼の病状はどうやら悪化してしまったらしい。真剣な顔で話し合っている二人の姿は、淡々としており、落ち着いているのだが、むしろ、そんなやりとりですら、どこか恐怖を覚えるものがあった。
当の本人らはまったくもって不安すら覚えていないようであり、見事な無表情。だが、よくよくと観察してみれば、それに対するカリアナは、心配、と言うよりかは呆れ、のような感情が見え隠れしているようで、どこか状況にそぐわない表情をしていることぐらいは分かったかもしれない。
だがしかし、このときのアリシアの胸を埋め尽くしていたのは限りない恐怖。
母は病に倒れ、あんなに元気だったのに本当にあっという間に―――死んでしまった。そして、父もまた、しばらく落ち込んでいたようだから、と気にはかけていたのだが、こちらも変化はあまりにも急すぎて、気づけば医者ですら匙を投げる事態。
彼の病状をすぐさま受け入れることはできず、右往左往としている間に、彼は自分の息子をそれと分からずに傷つけて―――そして、今、父とアルトの間には明確な亀裂が入り込んでしまっている。
病だから仕方のないことだと、アルトは幼いながらにきちんと理解している。けれど、不意にこみ上げてくる感情を抑えきれず、ただただ黙ってミリーに抱き着き、離れないことがあるのだとか。やけにアリシア相手に甘えてくることもあるのだが、それが年相応のものなのか、それとも今回のことに起因するものなのかは定かではない。
だから、他人事だと思えなかった。
彼もそうやって自分の目の前から消えることがあるのだと思うことですら恐ろしい。そんな風に考えることすらも嫌だった。
「……それだけ?」
「視線が一瞬だけ合ったように思います。でも、それ以上合わせられなくて」
―――医者から何か告知でもあったのだろうか。
重苦しい雰囲気の中で医者からそんな言葉を吐き出された日には目が合わせられなくても当然だ。それ以上聞くことはできなかったのか、神は―――イルクはそこで言葉を区切り、こちらへと視線を流してきた。
絡み合う海の青と夜空の藍色。
瞳に込められたどこまでも透き通るような青は、いつもならただただ澄んだ色合いでこちらの心を透かしてくるような恐ろしさがあるというのに、今日のその青にはなぜか自分を優しく受け止めてくれる感情が宿っている気がして、思わずアリシアは手を伸ばしそうになっていた。
触れ合うほどの距離にいて―――そうしようと思えばアリシアの指は彼へと触れることができるのかもしれない。
けれど、触れようとしても触れられず、ただただ寂しさがこみあげてくるだけにしかならない―――これが夢なのだということを知るアリシアは、無意識のうちに首元のネックレスを握りしめていた。
不意に、青にわずかな感情の揺らぎがのった気がする。
は、としたような面持ちでこちらを見つめ返してきた彼が、その手を無造作に伸ばす。
伸ばした白い指先が、自分の指先に触れる―――その瞬間にアリシアは自室の別途で目を覚まし、それまでのあれやこれやが再び夢であったことに心からの安堵を覚えた。
が、しかし、あまりにも不吉過ぎる内容に心のざわめきは収まりきらず、起床するや否や、ベッドを飛び出して朝日に向かい、太陽を拝みながら不遜な自分の態度を詫びつつ、彼の健やかなる将来を祈ってしまった。
そして、そんなアリシアの狂乱っぷりを朝から見ることになってしまった双子の姉妹は、「寝ぼけてる?」、「アリシアまでおかしくなっちゃったのかも?」と内心では怯えつつ、しばらくの間、主従の間で妙に生暖かいやりとりが交わされることになるのだが、それは少しだけ先の話である。
「会い、たい――のだと思います。夢だけでも、と思っていたのですが、多分……それだけでは足りない。今すぐにでも会いたいと思います」
「すぐに会えるわ」
準備は整えてきたから、と小狡く笑う彼女は初めて見る女性の顔で、恋路に悩める息子にそう告げたのだった。
アリシアが白い手に引っかき傷を作りつつ丁寧に洗い上げると、灰色に汚れていた白い毛並みは、白銀と見紛うほどの色合いへと変貌し、青く澄んだ瞳も美しく、一目で野良猫とは思えないほど品が良くなった。
首輪などの飼い主を特定できるようなものが何もなかったので、『捨て猫だろう』と勝手な判断を下し、アルトに猫を飼う許可を出したアリシアだったが、万が一のことも考え、『もしも飼い主が現れた時には、猫を返す』という条件を弟によくよく言い聞かせた。子猫は、生後半年未満。それでも、幼いながらに拾ってきた当初から人懐っこく、人に飼われていた様子はあるというのに、一向に飼い主らしい人物が浮かび上がってくることはなく、徐々にレヴィア家に馴染みつつあった。
アルトはアリシアとの約束を守って、勉強には手を抜かず、それまでと同じ姿勢を貫きながら、猫の面倒もちゃんと見ている。それに加えて、最近ふさぎこみがちだった部分がなくなり、猫と一緒に外で遊びまわっている様子も見られるようになってきたそうだ。
これには、当初アリシアとおなしく猫を飼うことに反対していたミリーとエリーもすっかりと絆されてしまい、今では弟と一緒になって猫と遊んでいる。
そして―――昼間の茶会に招かれ、領主の館に招かれてしまったアリシアは今や完全に放置である。
「断れるわけないじゃない……」
領主の妻、カリアナ・シュイカは、人を招くことが大好きで、ほぼ月に1回のペースで、それなりの規模の茶会を開いている。個人的レベルの茶会ともなれば、週1回以上の頻度で行われているらしいのだが、どちらの茶会も、毎回顔ぶれが変わるので、貴族の女性達はこの茶会への招待をかなり楽しみにしている。それもお世辞に抜きに、である。
ただし、レヴィア家レベルの貴族が招かれるのは、せいぜい月1回の茶会の方だけだ。アンナ―――アリシアの母親が生存していた頃であれば、週に1度の茶会の方にも招待状が届いていたような気はするのだが、子煩悩なアンナがそちらに赴くことは稀だった。大抵はお茶会の前後で欠席を詫びるなにがしかの贈り物を母が行い、それに対しての返事がきて、と細かなやり取りはしていたようなので、欠席続きで不興を買っているということもなかったようだが。
実のところを言うと、アリシアは今回の茶会も出席しない方針で固めていた。
けれど、いつもの見慣れた招待状と一緒に届けられたカリアナの手紙を読み、欠席するわけにもいかなくなってしまったのだ。
カリアナが自ら筆を取ったことが想像できる流麗な文字の手紙には、レヴィア家が瀕している窮状について切々と心配する旨の言葉が綴られていた。
借金と父が精神的な病にかかっていることは、外聞もあるので情報を伏せているのだが、『母が死に、父が病気』という事実は周囲にも広く知られてしまっている。人の良いカリアナが心を痛めるのも当然のことだった。むしろ、このお誘いが今までなかったことの方がおかしい。この間の夜会の時とて、カリアナとは一言二言くらいしか話せなかったのだが、気遣いが過ぎるほどに優しい彼女は、アリシアのことをしきりに心配している風だった。
この手紙を無視して、彼女の心を痛ませることにはかなりの抵抗感があったし、これを機会に社交界に出て自分の魅力をアピールしておくべきかも知れない、という打算も考える。『悲劇に打ちのめされても健気な令嬢』というのは、まぁ、悪くはない謳い文句だ。むしろ、その逆に、『悲劇に呑まれるあまり、領主妻のお誘いすら完全無視する礼儀知らずのとんでもない娘』と噂されることの方が恐ろしかったのだから、『行かない』という選択肢はなかったとも言える。
人の噂など放っておけばいいと言い放ってしまいたいのだが、それで婚活の道が閉ざされるとなると、話は別。
項垂れて茶会への出席準備を始めたアリシアを見やり、ミリーとエリーの二人は静かにとんとん、とその肩を叩いてきた。
ドレスなどの準備はアリシアでもできるのだが、『まだ未成年』と言うことを考慮して、父の妹である叔母にも話を通す。父がああいう状態である以上、事実上のアリシアの保護者は、唯一の親族である叔母であり、何かの折には頼りにせざるを得ない状態だった。
叔母は昔から派手好きで、父に依存しており、金の無心が酷かった。父の借金と精神的な病が分かった途端、手のひら返すかのごとく、疎遠になっていた叔母は『カリアナ様からの茶会のお誘い』という言葉だけで、息を弾ませてアリシアの元へと戻ってきて、あれやこれやとアリシアの世話を焼く。権力者に媚びる典型的な貴族の例である叔母を頼ることにはちょっとした抵抗感がないわけではなかったのだが、これも『我慢』と言い聞かせるより他なかった。
叔母が勝手に持ってきた派手すぎるドレスやアクセサリの類は全力で拒否したのだが、豪奢な馬車を用立てられ、御者もきちんとつけて貰えたことには、感謝している。
楚々とした薄水色の、シンプルな型だが装飾の凝ったドレスに、母の形見のネックレス一つだけを身につけたアリシアは、どこからどう見ても文句のつけられない深窓の令嬢である。
『保護者』という名目だけで、真っ赤なドレスに、派手な南国の鳥の羽をあしらった帽子を被った叔母まで、茶会に同行することになってしまったのは頭の痛いことだったが、アリシアはとりあえずの体裁を整えることができたことに安堵の息をついていた。
昼を少し過ぎた日差しの強い時間。このシュイカの地は、ディストリアの最南端にあることもあって、冬は海が凍りつくほど寒いというのに、夏は日が高く、とても氷龍の治める地とは思えぬほどに強い日差しが降り注ぐ。
叔母が万事抜かりなく準備してくれた日傘を差して領主の館を訪れたアリシアは、使用人が案内してくれるままに、庭へとたどり着いた。
夏の日差しにも負けぬようにと咲き誇る花々。この強い日差しの中でも、きちんと手入れの行き届いた庭に、アリシアは思わず感嘆のため息を洩らしていた。自宅の庭など、いくら水をやっても花が萎れそうだというのに、ここではまるで春先のような光景が目の前に広がっている。
その花々に負けぬくらいに美しく咲き誇る少女達。『蝶よ、花よ』と謳われる麗しい令嬢達が笑いさざめく庭園はいつものことながら、傍から見る分にはとても美しかった。
『遅刻』というほどの時間ではなかったものの、アリシアは少しだけ到着が遅れたことを皆に詫びて、その話の輪の中へと入れさせてもらった。
「アリシア様、レヴィア男爵の具合はよろしいのですか?」
「レヴィア夫人の病に引き続き、お父上もだなんて―――さぞかし心痛のことでしょう?」
「ありがとうございます」
心の底からアリシアの身を案じてくれる者。上っ面だけの言葉で済ます者。何かレヴィア家を貶める材料はないかとコソコソ窺う者。
つくづく、「貴族の世界は生き難い」とアリシアは内心で重苦しいため息をつく。
いつでもピシリと背筋を伸ばし、毅然とした態度を貫く母親を見て育ってきたアリシアはそれらの人々の思惑を見透かして、やり過ごす術に長けていた。幼い頃から、一見、相手の言葉を優しく受け入れているようで、自分の我を貫く母の姿を見つめ続けてきたアリシアは作り笑いにも慣れている。叔母もまた己の保身を第一に考える人なので、人からの悪意にだけは敏感で、綺麗にその話題を避けている。
その他のとりとめのない会話は弾み、流行に機敏な叔母はしきりに他の令嬢達がドレスをどこで設えて、どんなデザインのこのを好んでいるのかをリサーチしているかのようだった。これでまた年甲斐を考えずに、ど派手な衣装を作るつもりなのかと、頭が痛む。父が頼りに出来なくなった今、今回はどこを資金源にするつもりやら、とアリシアは不安に思った。少なくとも、この叔母の夫にしてはひどく気の弱い叔父が犠牲にならないことだけを切に願う。
「ねぇ、アリシア様? アリシア様のお洋服はどこでおつくりになられたのですか? 私―――なにやらそのドレスに、見覚えがあるように思うのですが……」
ぴくり、と頬が引きつりそうになった。
アリシアを見下す目つきで無遠慮に見ているのは、とある侯爵の位にある女性。年齢こそアリシアと同じくらいのはずなのに、突き出すかのように強調された胸と尻、濃すぎるバッチリメイクは彼女を年齢以上に大人びて見せている。
顔の半分を扇子で覆い隠し、くすり、と意地悪く笑っているところから察するに、彼女は相当に目ざといことを理解する。
仕立てを頼んだのは、母の代から懇意にしている近所の仕立て屋。けれど、彼女の望む答えがそこにないことを素早く察知したアリシアは、あえて嘘はつかなかった。むしろ、堂々と言い放つ。
「母のドレスに少し手を加えましたの。直してくださったのは『リヴィールの店』ですわ」
「あら? 道理で型が……いえ、そういうのも、いいですわね! 私、流行に流されやすい性格でして、本当にそういった庶民的な工夫で満足できる方を尊敬してしまいますわぁ」
『無邪気』、と判断できないでもない言い方なのだが、暗に含ませた言葉はアリシアの胸にダイレクトに届いていた。
―――『このお茶会に、古着のリメイクでくるなんて、信じられないわ! 流行も後れているし、なんて気の利かないお方なの!? これだから庶民は』
彼女の言っていることはある程度正しい。貴族の中には、『ドレスなんて使い捨てるものでしょう?』などという妄言を堂々と言い放つ令嬢までいるのだ。無論、そのおかげで、庶民の生活が潤い、金が巡っているのであれば、アリシアに文句はないのだが、今のレヴィア家に社会還元できるような金がひねり出せるはずもない。
その後も、延々延々と続く彼女のアリシアへ向けての言葉は、悪意まみれで半分ほどしかまともに聞けそうになかった。いっそのこと『貧乏人! とっとと帰りなさい!』と面と向かって行ってくれたほうが、アリシアの気も楽なのだが、そんなことを面と向かっていったら最後、『なんて品のない…』とたちまち眉をしかめられてしまうのは、彼女の方である。
彼女が気に食わなかったことはもう1つあった。
アリシアが口にした『リヴィールの店』とはわりと有名な店であり、皆も聞き覚えがあるのか、『ああ、あの店の!』といった反応の方が多かったのだ。中には、『母の思い出のドレスを娘にも着せられる』、しかも『新品ではないのでリーズナブルな価格』というところが気になるのか、ちょくちょくアリシアにこっそりと探りを入れてくる女性もいるぐらいだった。アリシアを貶めてやろうとした一言が逆に、アリシアの話を引き出すきっかけとなってしまい、彼女は爪が白くなるほどにぎゅっと手に力を入れて悔しがる。表面上では繕ったものの、その声に潜む険と嫌味はより一層と酷くなってしまった。このぐらいの嫌味になるとさすがに周囲も違和感を感じているのか、すぐ隣にいる年かさの女性が、彼女をいさめようとしたとき、ちょうど良いタイミングで今回のホストが登場した―――それも、驚かんばかりのゲスト付で。
流れる髪は、銀糸。柔らかな光の洪水は、自然な流れで首もとの一点で集められてそのまま下へと無造作に落ちる。ただそれだけの光に、目を焼かれるかと思った。
開かれる一対の宝玉はサファイア。コーンフラワーブルーの輝きに勝るとも劣らない輝きには魂を奪われてもおかしくはない。
この場にいるどの女性よりも肌が白い。シミの一つも見当たらないすべらかな肌は、まるでシルクのように滑らかに見えるというのに、その身体に触れることなど、不敬に値すると本能で悟る。
若さ溢れるすらり、とした肢体を包むのは、ごく普通のズボンにシャツとベスト。すべて蒼で統一されたその装いは、まるっきり彼のために作られたとしか思えず、要所要所に刺繍された銀糸の龍が、生きているようにすら見えた。
イルクレーツ・シュイカ。
氷龍シュイカの後継―――真昼の茶会に降り立った白銀の神、の姿に誰しもがぱったりと口を噤む。ともすれば、そのまま心ごと奪われそうになるのをぐっと押さえ込み、視線だけは奪われたまま、彼が悠然とカリアナを導く姿に見惚ける。
アリシアは慌てて、自分の太ももをつねった。もう片方の手は胸元に唯一飾ったアクセサリ、母の形見のネックレスを掴んでいる。『母に顔向けできないような醜態はさらせないでしょ!』と内心で自分を叱咤激励し、『あんな人、綺麗なだけでなんてことないのよ』なんて思おうとしたのだが、不意に彼がこちらを向き直り、『気づかれたのか』と思ってひやりとした汗を流した。
「皆様、よくお集まりくださいました」
ホストらしい堂々たる言葉に、一瞬にして全員がカリアナへと視線を戻した。彼女がいることは分かっていたはずなのだが、ついつい白銀の龍に視線を奪われて、忘れがちになってしまっていたので、あちこちで顔を赤くして恥じ入っている女性も多いようだった。
カリアナの口からこぼれてきたのはいつも通りの気遣いの言葉。要約すれば、『この暑い中、よくぞ集まってくれた』という彼女らしい気遣いの溢れた言葉に、思わず聞き入る。
「イルク。私のエスコートをありがとう。この後、私は皆様とお喋りがあるから、好きにして頂戴ね」
「はい。私は仕事もありますし、戻ります」
凛とした声に、意識を奪われかける。
綺麗に一同して『残念』という言葉の張り付いた表情を浮かべているのだが、今回は暗黙の了解的に男子禁制の茶会だ。彼自身が留まるというのであれば皆こぞって彼に群がり、一言でもいいからと言葉を交わそうと努めたに違いないのだが、「仕事」と明言していることもあり、あえて言葉をかけるものも現れなかった。
彼は実に静かに歩き、館の中へと消えていった。
その背中を見送り、アリシアはうまく言い表せない罪悪感を自覚する。
母親の形見を握りこんだ手には力が込められすぎていて、真っ白になってしまっていた。
―――『トカゲ』なんて思ってごめんなさい。
彼は人と龍の間に生まれた子ども。その血は龍と人とが愛し合って産み落とされた奇跡の結晶だと言うのに、アリシアは以前、彼を蔑むようなことを思ってしまっていた。
確かに、初対面でいきなり『醜い』なんて言われたことは悲しかった。自分の容姿を鼻にかけていたつもりはなかったのだが、『少なくとも「それなりに可愛い」部類。絶対に不細工ではない』と、信じていたから、それを真っ向から否定されて頭が真っ白になったのだ。
付け加えて、アリシアはこのところずっと、レヴィア家を立て直していくためには『自分がしっかりした旦那様を捕まえなきゃ!』と気負っていた。貴族の男性が結婚相手に望むのは、『自分の子どもを生んでくれそうな、若くて健康的、綺麗な女性』が定番。『若くて健康的』というのには自信があるものの、『綺麗』が『醜い』となったのだとすれば、婚活はほぼ絶望的かもしれない。
―――お前なんて、結婚できるものか。
そんな天啓を食らったかのごとく感じていたのだと、今なら分かる。だから、本気で泣きそうになったのだ。
けれど、そんな個人の意見一つで相手に暴言を吐くべきではなかったし―――ましてや、相手の『死』を願うことはもっと悪いことだった。まさか人が願うだけで誰かを殺せるとは思ってもいなかったのだが、連日見る夢見は悪く、そろそろ現実主義者の看板を下ろして『イルクレーツ様が病気じゃありませんように』と願うばかりである。
彼はただ己の価値観に準じて判断しただけ。先ほどの女性がアリシアの服を貶したのと一緒だ。人の価値観など、千差万別。皮一枚程度のことで、一喜一憂するのは馬鹿げているし、顔の造作など今更どうしようもないことだ。そう、仕方ない。その『仕方のないこと』を未だに気に病んでいる、自分の心の小ささを改めて自覚し、アリシアは楽しい場だというのも忘れて凹みそうになる。
表立って口にした言葉ではないので、アリシアは心の中だけで詫びる。そして、彼が息災であることを、心から願った。
彼の姿が屋敷の中へと消える直前、サファイアの瞳と自分の視線が絡み合ったような感覚を覚えた―――のだが、その直後、後ろから女性達の黄色い悲鳴が上がり、『今私を見てくださったわ!』という静かな興奮が幾人もの間で上がる。
―――モテモテよねぇ……。
あんなに綺麗な人が夫だなんて、妻となる女性はよっぽど容姿に秀でていなければ、女性としての誇りも神経をずたずたに引き裂かれていきそうである。
彼にのぼせ上がってそわそわとしている少女らを見て、その神経を疑うアリシアだった。
その後、話題の焦点はカリアナを案内してきたイルクレーツになりがちになったものの、アリシアはそれよりもちょっと心配になることがあって問いかけた。
「カリアナ様―――その、お体の具合が悪いのでしょうか?」
「アリシアッ!? なんてことを言うのっ!!」
「あら? どうしてそう思うの?」
面と向かって問いかけたアリシアの非礼を、叔母は即座に怒鳴りつけたのだが、カリアナは違った。背筋もピンと伸びた、若くて綺麗な女性に、あらぬ疑いをかけることは心苦しかったのだが、『心配』という気持ちの方が強い上に、おっとりと優しいカリアナの言葉に促され、アリシアは唇を開く。
アリシアの知る、カリアナは使用人であっても人の手を借りることを良しとしない。『自分でできることは自分でする!』という信念を持った女性だということは、母の話の端々からなんとなく想像できていたし、夜会で見る、ほんの些細な行動の端々にその信念を垣間見ることがあった。そんな人が、たとえ息子であってもその手を借りて歩いてくることなど、想像できなかったのだ。
『茶会で誰かに付き添われてこられたところを初めて見たので……』と答え、足の具合でも悪いのかと言葉を添えると、彼女はくすくすと笑って、『ちょっとしたあの子の気まぐれなの』と軽く流した。
「貴女はイルクよりも私のことを気にかけてくれたのね、アリシア」
「は? え……あ、あのっ」
「いえ。詮無きことでした。今の言葉は忘れてください。それよりもアリシア―――アンナのこと、本当に残念でした」
「………丁寧なお言葉、誠にありがとうございます」
丁寧な弔辞と、それに対する応え方には、もう随分となれた。
思い出すと時々、ずきっとくる胸の痛みはいまだになくなる気配はないものの、頻度も強度も徐々に治まってきている。カリアナの話す母との思い出話には耳を疑うようなものまであり、『我が母の事ながら…』とアリシアは恥ずかしいような、くすぐったいような気持ちを味わった。
「そうねぇ。また貴女とは時間を取って話をしたいものだわ」
アリシアは少しも知らなかったのだが、カリアナと母はかなり親しかったようで、彼女はしみじみとそんなことを言った。
また折を見て、時間があるのならぜひ―――と決まりきった社交辞令を返し、アリシアは軽やかに膝を折った。
あまりカリアナとばかり話していると、他の貴族達のやっかみを買いかねないので、適当なところで話を終えようとしたのだが、不意にカリアナが『そうそう!』と手を打って、笑う。
「アリシア。貴女、猫を飼っているらしいわね」
ぎくぅ、と思い切り身が竦んでしまった。少し言葉につっかえつつも、『ええ』と答えたのだが、冷や汗がだらだらと吹き出てくるような気がした。
「あ、あ、あのっ…………ど、どこからそのお話を―――」
「あら、どこからって……イザベラからよ」
叔母の名前を出されて、アリシアは内心で絶叫する。
そういえば、叔母には猫の話は外では厳禁だと言い忘れていたような気がした。
―――ど、どうしよう………。
叔母には後で必ず釘を刺しておくことを心に決め、来るべき質問―――それに身構えて、アリシアはごくりと息を呑む。
できたら来ないでほしかったのだが、そういう質問に限ってされるものである。
「私もね、猫が大好きなの―――なんて名前なのかしら、その猫ちゃんは?」
目の前が真っ暗になった瞬間だった。
「……で、実際に確認してみた感想は」
「脈拍の異常は確実でした」
淡々と美麗な顔を少しも歪めることなく、淀みなく答えた不可侵の神の言葉に、アリシアは悲鳴を上げそうになった。
―――前より悪化してるじゃない!
現実主義者の看板を下ろし、とにもかくにも彼の無事を祈っていたというのに、それも儚く散った事実に打ちのめされ、アリシアは手で顔を覆っていた。
カリアナの体調も心配していたのだが、そちらはなんてことはなく―――だがしかし、夢の中の彼の病状はどうやら悪化してしまったらしい。真剣な顔で話し合っている二人の姿は、淡々としており、落ち着いているのだが、むしろ、そんなやりとりですら、どこか恐怖を覚えるものがあった。
当の本人らはまったくもって不安すら覚えていないようであり、見事な無表情。だが、よくよくと観察してみれば、それに対するカリアナは、心配、と言うよりかは呆れ、のような感情が見え隠れしているようで、どこか状況にそぐわない表情をしていることぐらいは分かったかもしれない。
だがしかし、このときのアリシアの胸を埋め尽くしていたのは限りない恐怖。
母は病に倒れ、あんなに元気だったのに本当にあっという間に―――死んでしまった。そして、父もまた、しばらく落ち込んでいたようだから、と気にはかけていたのだが、こちらも変化はあまりにも急すぎて、気づけば医者ですら匙を投げる事態。
彼の病状をすぐさま受け入れることはできず、右往左往としている間に、彼は自分の息子をそれと分からずに傷つけて―――そして、今、父とアルトの間には明確な亀裂が入り込んでしまっている。
病だから仕方のないことだと、アルトは幼いながらにきちんと理解している。けれど、不意にこみ上げてくる感情を抑えきれず、ただただ黙ってミリーに抱き着き、離れないことがあるのだとか。やけにアリシア相手に甘えてくることもあるのだが、それが年相応のものなのか、それとも今回のことに起因するものなのかは定かではない。
だから、他人事だと思えなかった。
彼もそうやって自分の目の前から消えることがあるのだと思うことですら恐ろしい。そんな風に考えることすらも嫌だった。
「……それだけ?」
「視線が一瞬だけ合ったように思います。でも、それ以上合わせられなくて」
―――医者から何か告知でもあったのだろうか。
重苦しい雰囲気の中で医者からそんな言葉を吐き出された日には目が合わせられなくても当然だ。それ以上聞くことはできなかったのか、神は―――イルクはそこで言葉を区切り、こちらへと視線を流してきた。
絡み合う海の青と夜空の藍色。
瞳に込められたどこまでも透き通るような青は、いつもならただただ澄んだ色合いでこちらの心を透かしてくるような恐ろしさがあるというのに、今日のその青にはなぜか自分を優しく受け止めてくれる感情が宿っている気がして、思わずアリシアは手を伸ばしそうになっていた。
触れ合うほどの距離にいて―――そうしようと思えばアリシアの指は彼へと触れることができるのかもしれない。
けれど、触れようとしても触れられず、ただただ寂しさがこみあげてくるだけにしかならない―――これが夢なのだということを知るアリシアは、無意識のうちに首元のネックレスを握りしめていた。
不意に、青にわずかな感情の揺らぎがのった気がする。
は、としたような面持ちでこちらを見つめ返してきた彼が、その手を無造作に伸ばす。
伸ばした白い指先が、自分の指先に触れる―――その瞬間にアリシアは自室の別途で目を覚まし、それまでのあれやこれやが再び夢であったことに心からの安堵を覚えた。
が、しかし、あまりにも不吉過ぎる内容に心のざわめきは収まりきらず、起床するや否や、ベッドを飛び出して朝日に向かい、太陽を拝みながら不遜な自分の態度を詫びつつ、彼の健やかなる将来を祈ってしまった。
そして、そんなアリシアの狂乱っぷりを朝から見ることになってしまった双子の姉妹は、「寝ぼけてる?」、「アリシアまでおかしくなっちゃったのかも?」と内心では怯えつつ、しばらくの間、主従の間で妙に生暖かいやりとりが交わされることになるのだが、それは少しだけ先の話である。
「会い、たい――のだと思います。夢だけでも、と思っていたのですが、多分……それだけでは足りない。今すぐにでも会いたいと思います」
「すぐに会えるわ」
準備は整えてきたから、と小狡く笑う彼女は初めて見る女性の顔で、恋路に悩める息子にそう告げたのだった。
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