七龍の恋物語

いちや

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風龍の玉

路地裏-3

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 ふわり、と風が生まれる。優しくリアナの肌をなでつつも、その周囲ではびゅうびゅうと荒れ狂い、周囲のゴミを派手にまき散らし、吹き飛ばしていく風は、決して自然のものではあり得なかった。それと同時に周囲に立ち込める濃密な空気は、それが魔術と呼ばれる龍族のみが使いうる魔力によって発現したものであることを如実に語っている。

 何度かユーグが子どもたちにせがまれて魔術を扱うところを見たことがある。また、領内をあげてのお祝い事やらお祭りごとの際にも領主が魔術を使うところは何度か見たことがあった。
 その際に感じる独特の気配と、今この場を満たす空気は似ている。が、それを扱うユーグの気配はと言うといつもとはまるで異なる。

 ユーグは、その緑の髪を逆立てるほどに怒り狂っていた―――。

 闇夜すらも切り裂く眼差しは金色を帯びている。いつも柔らかな光を放つ萌黄色の眼差しはすっかりと消えうせ、そこにいるのはリアナのまったく知らぬ別人のようですらあった。
 ぴりぴりと傍にいるだけで感じるのは何も魔力特有の現象ではないだろう。おそらくではあるが、それが彼自身の怒りが発露したものだと思うと自然と身が竦んでいた。
 穏やかな彼がここまで怒るところを初めて見た気がする。孤児院の小さな子供達に、悪戯され、寝顔に嫌と言うほどの絵の具を塗りたくられた時ですら、軽い拳骨一つで済ませていたはずの彼が、文字通り髪の毛を逆立て、相手を射殺さんばかりの瞳で睨みつけていた。

 ふわり、と意志を持って動く風の気配を感じ取る。
 自然が龍の意思へと従う―――龍族のみが操りうる魔術。特に風を司るキュオルのそれは、まだうら若い主の命をらくらくと汲んで、まるで生ある生き物のように蠢いていた。

 細い喉仏を晒し、ユーグが闇夜に高らかと咆えた。
 龍の咆哮は闇夜をあっさりと引き裂いて、風が街の端から端まで、年若い龍の『怒り』という感情を伝播させる。

 風が強くなる―――。

 下手をすれば、ユーグに抱き着いているリアナぐらいなら楽々と空へ巻き上げてしまうのではないかと思えるほどに強い風は、けれどリアナの傍でだけは優しいそよ風へと変わっている。ぱちぱちとリアナが目を瞬かせる中、緑の光がリアナの身体に纏わり付き、特に頬と肩とに集まった。
 さすがに小さく悲鳴をあげて、リアナが腰を引かせると、その光と共に、優しい指先がリアナに向かって伸ばされてくる。

 ―――あ、『手』だ。

 こちらへ向かってくる、筋張ってはいるものの、店主ら大人の男性と比べると、いささか細く、繊細な指先がリアナに向かってくるのを、リアナはただただ受け入れてしまっていた。触れられてからほんのわずかな間をおいた後、先ほどまでは自分を殴ってきた人の手が怖かったというのに、ユーグの物だと分かると平気だなんて、それこそ彼を特別視している、と丸わかりな反応に思わず恥ずかしくなってしまって、みるみるうちに頬が紅潮していくのを自覚する。そして、それと共に痛みがをすぅっと溶けていく感覚に驚かされた。
 くらり、と不意に感じる立ち眩み。すぐさま腰を抱きかかえて支えてくれた幼馴染に驚かされつつも、指が離れていったあと、すぐさま、そこに手を伸ばせば痛みはまったく消え失せていて、更に驚かされる。

 ―――魔術って、治癒までできるの?

 魔術と相対し、人間のみが行使しうるはずの法術の領分であるはずの事象を、龍である彼は難なくこなして見せた。通常、魔術は攻撃などを含む現実世界への物理的な干渉を引き起こす術とされており、それに対を成す人間のみが使い得る法術は、怪我の治癒や精神を落ち着かせたり、逆に混乱を招いたりと、目に直接見えない事象を引き起こす術とされている。
 その常識をあっさりと覆した幼馴染に、リアナが感じた驚愕は計り知れないものの、元から法術の素養すらないリアナにとっては「びっくりした」程度の話である。
 とにかく恐る恐ると傷口に手で触れ、ぺたぺたとその感触を確かめた後、幼馴染を振り仰げば、彼は柔らかく微笑みを浮かべていた。先ほどまで相手を殺す勢いで睨みつけていた同じ人物とは思えないほどに優しい目だった。
 けれど、その落差が故に、リアナは彼が本気で怒り狂っていることを感じ取る。笑顔であっても、その内心はと言うと計り知れない状況のようだった。

「ユーグ……?」

 男が地面を転がっている。
 風をぶつけられ、地面に叩きつけられたうえで、周囲の生ゴミやら空き瓶、果てには木箱まで次々とモノをぶつけられ、その場で頭を抱えて小さくなっている男は、もういっそ哀れなほどに悲鳴を上げていた。
 被害者であるリアナですらそんな風に思うぐらいなのだが、ユーグはそう思わないようで、リアナがそちらへ視線を向けた途端、その萌黄色の瞳に殺意が混ざる。

「あのひ」
「見ないで。あんな汚物、リアナは見なくていいよ」

 ぐい、と顎を取られてユーグのほうを無理やり向かされた直後、男の悲鳴が強くなった。何か起こったようだ、とは思うものの、それ以上そちらを見ることすらもできない。

 ―――いや、むしろ見ない方がいいのだろうか。

 リアナにしてみれば、ユーグの存在だけで安心してしまい、もう怖いものはないのだとすら思えてしまっている。男に対する恐怖も、怒りも、恨みすらも溶け流されてしまい、ユーグに対する気持ちだけでいっぱいなのだ。ただわずかに、怒り狂う幼馴染に、その感情をぶつけられていることに対する哀れみにも似た感情と共に、今更ながら「なぜこの人がいるのだろうか」という微かな疑問と共にわずかながらも嫌悪感ががなかったと言えば嘘になる。
 この男は間違いなく、国外に追い出されたはずなのだ。少なくともリアナはそう聞いているし、ここ数年間は顔を合わせることもなかった。さらにいうならば、存在自体しばらくの間忘れていたぐらいなのだが、それが今、現実にいるとなると当然ながら疑問もわくし、事情が分からず混乱もする。

「しぶといなぁ」

 不意に彼の声音が下がった。
 びくっ、と思わず体が跳ねてしまったのだが、リアナがわずかな不安の色を浮かべてしまう中、ユーグは男に向かってゴミでも見るかのような、そんな冷たいまなざしを浮かべていた。とすっ、と小さな音が聞こえた後の、絶叫。明らかに、リアナのすぐそばで暴虐が行われているというのに、リアナが感じるのはユーグに対する恐怖よりも、ユーグに対する心配ですらあった。

「ユーグ、あの……あ、あんまりやり過ぎちゃうと、怒られ、ない?」
「誰に? どうして? 僕のリアナを傷つけようとしてたクズだよ?」

 いつにない強めの口調に驚かされて次の言葉が出てこなくなる。そして、それと同じぐらいに「僕の」という言い方に心臓の鼓動が一つ高く跳ねる。

 ―――違うから。「僕の友達」って意味だって分かってるから。

 ユーグの発言に青ざめるやら赤くなってしまうやら忙しいリアナだったが、その思考は突然響いた声によって、遮られた。

「若様ッ! テメエ、やりすぎだ!!」

 切り裂く風の中、よくよく聞き覚えのある声がその場に響いた。
 店主の声だ、とすぐにリアナは息を呑み、ユーグもピクリと眉を跳ね上げる。

 唐突に風が止んだ―――。

「リアナ! 無事!?」
「おかみさ……ん……?」

 ―――ああ、助かったのだ、と。

 駆け寄ってくる彼女の姿を見てようやく強くそう思うことができたリアナは、その記憶を最後にぷつり、と意識を失った。
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