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風龍の玉
閑話 ある日のお客様
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時刻は青鹿亭がもっとも忙しい昼時を過ぎ、ちょうど良いお茶の時間。
リアナは目の前の、くつくつ、と良い音を奏でているお鍋を真剣な眼差しで見つめ、底が焦げ付かない程度のゆっくりとした速度で、その中身を混ぜていた。
夕方からの営業に備えて食材の下ごしらえに余念のない店主と、それを手伝うリアナは厨房。暇を見計らって友人がやって来たという店主妻は、店内のテーブルにつき、休憩を取りながらお茶を楽しんでいる様子だった。
鍋の中身を凝視していたリアナは、その中で静かに茹でられている具材の様子を確認した後、小皿に適当な量をすくって店主の元へと向かう。
「ラルゴさん、味を見ていただいてもよろしいでしょうか?」
「ん………」
リアナが今日作っているのは、鶏肉と蕪の入ったシチュー。前回のシチューの時から2度にわたる練習を行い、今日は下ごしらえから味付けに至るまでの全工程を一人で仕上げた。シチューを小皿にすくって店主に渡すと、彼は無言で小皿を受け取る。じぃっと小皿に入った小さな蕪を見つめ、まずはスプーンで蕪の固さを確かめているようだった。スプーンに触れた途端、すっと割れた蕪を見て、少しだけ目を見開いた後、彼は慎重に蕪をスプーンで口元へと運ぶ。
彼の唇は、その舌先で繊細な味を確かめるように蠢いていた。
「―――及第点だ。だが蕪の水が出て、少し味がぼやけているな」
「もう少し、お塩を足した方が?」
「いや、最後にバターを落とした方が味がぐっとよくなるな。隠し味にしてぇなら、粉チーズでもいいんだが……」
冷蔵庫を無造作に開け、有塩バターを取り出した店主が、綺麗な黄金色の固まりをスプーンですくう。ほんの一欠けらだけ投入されたバターは熱々のシチューの中にあっという間に溶けていった。綺麗なミルク色をした液体が湯気を立てる中、店主はゆっくりと、その中身をおたまでかき混ぜる。「の」の字を数回書くように中身を混ぜた後、彼は味見用の小皿に中身を少し取り、味を確かめて強く頷いた。
その後、リアナもシチューの味見をさせてもらったのだが、確かに前よりも味がぐっと深みを増しており、先ほどよりも美味しくなっていることが分かる。まだ料理の「基礎」しか知らないリアナにとって、店主の知りうる料理の隠し味は魔法の一匙にも匹敵していた。
ほくほくの蕪と塩分の絶妙なバランスに、リアナはため息をつかんばかりだ。
「キュオルの若様に出すなら、一緒に粉チーズも出してやれ。ただ、アイツの場合―――味を台無しにされる可能性はあるがな」
「ユーグってチーズ大、大、大好きですもんね」
ユーグの好物は、チーズだ。元々、パンとチーズさえあれば、「後の料理はなくてもいい」と豪語するほどに根っからのチーズ好きで、青鹿亭で酒を飲む場合における肴もまたチーズであることがほとんどだ。
店主がどれほど繊細な味の調整を行い、「これで文句ないだろう!」と自信を持った料理を作ったとしても、「チーズかけていい?」と聴いた挙句、その料理を「チーズまみれ」に変えてしまうユーグは、金払いの点ではいい客なのだが、一人の料理人としては「ちょっぴり嫌な客」になってしまうらしい。
結局、味覚なんて「人の好き好きが合って当然」なのだから、多少のアレンジくらいには目を瞑り、当人がその味を楽しめればそれで良い。そこに他人が口を差し挟む謂れはない、というのが店主の料理人としてのスタンスではあるのだが、作った側の人間としては、限りなく心境的に微妙になるのだという。
リアナにしてみても、「自信作」として出した料理を、その料理本来の風味がかき消されてしまうほどに、チーズをかけられてようやく「美味しい」と言われてしまうと、「そこまでチーズをかけないと美味しくない」のではないかと下手な勘繰りをしてしまいかねない。幸いなことに、リアナの料理はまだ発展途上。おかげでなのか、ユーグがリアナの手料理に対し、本来の味を損なう行動に出たことはまだないのだが、そのうちリアナの手料理がある程度見慣れたものになってくれば話は別だと思っている。
「今度アイツに言ってみてやろうか。「女の料理も黙って食えねぇ男なんて、嫁にとっちゃ問題外だ」とか何とか……オレなんて、結婚したばっかり頃、ミネルバに何食わされたと思ってやがんだ」
「ら、ラルゴ……さん、そういう話題はちょっとまず―――」
「あなた、聞こえてるわよぉ~」
せっかくのリアナの発言は、少しばかり遅きに失したようである。店内ではしゃいだ声を上げていたはずの店主妻の声がすぐ近くでしたことに驚き、リアナと店主の二人は、ほぼ同時に大きくビクッと震わせてしまった。
カウンターに顔を出した店主妻は、まるで女神のような無敵の笑顔を浮かべていた。「にーっこり」という擬音語がしっくりとくる瞳は、その実、ちっとも笑ってなどいない。
「あ、な、た? 私達の新婚時代のお話は、今晩ゆーっくりしましょうね。寝室に戻った後で」
「……………ああ」
「あ、あのっ……おおおっ、おかみさ……」
「リアナちゃん。今日は一度寝室に入ったら、「何があっても」私達の寝室には近づかないでね? 私、あなたのことは実の子のように思ってるけど、この人と大事な大事な話があるの」
「ハイ」と答えるのがやっとのリアナは、青い顔で後ずさってしまっていた。
すでにリアナがこの青鹿亭に居候を初めて早三日。ここで寝泊りすることは、初めてではないのだが、その寝泊りの期間が長くなるとなれば、共同生活を送る上でのルールは大変重要なことである。
この家の「真」の家主に逆らうことなど考えられないリアナは、無言で妻からの重圧に堪えている店主に同情の視線を向けつつ、シチュー作りの作業へと戻った。とはいっても、シチューの味付けはすでに終了。後は火の調整を行って、いつでもお出しできる状況にしておけばいいだけだ。あまり火力が強すぎると、そのままシチューが煮詰まってしまうし、弱すぎると今度は火力が足りなくて、客にお出しする時にすっかり冷めたシチューになってしまう。
夕方からの開店時間は刻一刻と迫っている。皿出しやグラス、お酒の残量のチェックをしていたリアナは、店主妻に名前を呼ばれて後ろを振り返った。
「リアナちゃん。昨日のクッキーってまだあったかしら?」
「はい」
「じゃぁ、悪いけど、紅茶のお代わりと一緒に持ってきてくれるかしら?」
「分かりました」
リアナがお茶の準備を終えてカウンターを出ると、店内にいる人影は二人きりになっていた。一人が店主妻。もう一人が店主妻の古くからの友人と言う女性だ。
店主妻の知り合いの女性は、彼女とほぼ同年代という話だったが、体つきは店主妻よりも一回りほど小さく、リアナと似たり寄ったりで小柄だった。首元ですっきりと切りそろえた淡い金髪に、茶色の瞳。くるくるとよく動く表情といい、キビキビシとした動きといい、どことなく「猫」を思わせる印象の女性だった。
たまに店内で見かける女性の顔は、リアナにも見覚えがあるものだったが、彼女はリアナが近づいてくると、それこそ猫が全身の毛を逆立てて警戒心を露にする時のように、リアナにも警戒心を向けた。
「今、あたし、ミネルバと話をしてるんだけど?」と不機嫌も露な表情に、店主妻の顔に浮かぶのは呆れだった。が、この人は店主が近づいた時も、それ以外の人が近づいてきた時も同じような表情なので、リアナは特別気にしたりなどしない。「彼女はおかみさんの知り合いとはいえ、お客様」だと自身に言い聞かせ、「失礼致します」と一言言い置いてから、テーブルの上にお茶とお菓子をセッティングした。
お盆を小脇に抱え、静かに一礼したリアナがカウンターへ戻りかけた時、不意に彼女がリアナの腕を引っ掴んだ。
「ねぇ、あなた―――今度のミネルバとのお買い物についてくるって本気なの?」
「え―――?」
「冗談じゃないわよ。なんで、あんたみたいな子がついてくるの? 息抜きしたいのはあたしとミネルバなのよ? あんたみたいなのが一緒だと寛げるものも寛げないわよ」
「コレット!」
「だって、本当じゃない! いつもいつもこの子に甘くして、ミネルバ。あんたいい加減にしなさいよ!? この子は、赤の他人。あんたの子でも何でもないでしょう? 同情するにしても程があるわっ!」
頭が真っ白になってしまうほどの暴言は、ゆっくりとリアナの頭の中で理解された。そして、理解されると同時に、微笑が零れ落ちる。
リアナの笑顔に、彼女―――「コレット」と呼ばれた女性はぎょっとしたように目を見開いたものの、即座に「なによ? やる気なの?」とでも言うかのような、挑発的な瞳を向けていた。
リアナは彼女に向かい、静かに頭を下げる。
「厚かましいことを言ってしまい、申し訳ございませんでした」
「は?」
「御不快にさせてしまい、申し訳ありません。大丈夫です。仕込みのこともありますし、おかみさんが出かけしてらっしゃる間は、私が頑張りますから―――おかみさん、お友達とのお出かけ、楽しんできてくださいね」
「リアナ……」
「………」
心の中で聞こえてくる軋んだ音。
それはリアナが幼い頃から慣れ親しんできた音だった。
―――彼女の言う言葉はいちいちもっとも。
すでに何度となく同じ言葉をぶつけられてきているリアナにとって、それは特段答える言葉でも何でもなかった。むしろ、そういった言葉でリアナより余程傷ついた表情を見せたのは店主妻の方。リアナの方はそれに「申し訳ないな」とすら思いながら、そっと足を引いた。
孤児であるリアナの周囲には、親がいなかった。「親」のいないリアナの側にいたのは、親代わりを努めてくれた修道女達や、それ以外の人々。彼らは、「本来ならリアナと関わるはずもなかった、他人であるはずの大人たち」だ。
その「大勢いる大人たち」のうち、大半の人々は、不幸なリアナの境遇に「可哀想に」という同情の眼差しを差し向けてはいたが、それだけで、特に何をするでもない人たち。そして、残った人たちのうちの、そのまた半分程度が、リアナにとても優しくしてくれた、青鹿亭の店主夫妻や、現在借りているアパートの管理人夫妻、孤児院の修道女達と言った人々。
そして、最後に残った、おおよそ全体の一割程度の人々は、リアナに厳しい現実を直面させ、棘のある言葉や暴力を振るった人々である。
「子どもがいないからロクな育てられ方をしていない」、「この近辺で泥棒を働くような奴は、お前らくらいしかいない」と言う目に見えない暴力に加えて、極稀に、直接的な暴力を受けたこともあるリアナは、それを受け流す方法も弁えている。
そう言われたとしても仕方のない、他人に甘えきってしまっている部分があることは重々理解していたのだ。それと同時に、自分がそうした甘えを抱えているせいで、本来なら悲しませるべきでない人たちにもその凶器の矛先が向けられ、傷つけられてしまっていることすらも。
相手は、店主妻の友人なのだからリアナにはそれに逆らうつもりもなかった。だって、彼女が守ろうとしているのは、リアナが同じく大事に思っている店主妻なのだから、戦うことの無意味さは、言い合いが始まる前から分かりきってしまっている。
相手が怒りと言う感情の矛先をこちらに向けてくるというのであれば、笑って聞き流す。間違っても、自分以外の人に、その凶器を向けさせないこと―――それがリアナの最大のポリシーだった。
静かに頭を下げるリアナに対し、彼女はむしろより激昂したような表情を浮かべたものの、すぐさまリアナに対する侮蔑の色が浮かび上がり、「ふん」と鼻息を荒くしてそっぽを向いた。
「媚を売ることだけは上手なのね。なによ、こんなもので、あたしにまで取り入ろうって言うの!? こんな歪な形のクッキー、美味しいわけないでしょう!」
びしり、と彼女が指を刺したのはリアナが先ほど店主妻に言われて準備したお茶菓子である。
昨日、空き時間を利用して「休憩時間にでも」とリアナが作り置きしておいたクッキーは確かに、型抜きがうまくいかなかったこともあって、相当歪な形をしていた。オーブンの温度調整は、店主妻にも手伝ってもらえたので、そこそこ良い色に焼きあがっているのだが、最初人型だったはずの形がどう頑張ってみても「雪だるま」状態になっているクッキーは、リアナとしても普通のお客様には出したくない出来である。
「確かに、お出しするべきではなかった」と理解し、再び謝罪しようとしたリアナだったが、それを押し留めたのは店主の声だった。「店で出されるものが食べられないなら、帰れ」という静かな、怒りの篭った言葉に驚いたのは彼女もコレットも同じこと。
コレットは尚更眦を吊り上げたのだが、その次に言葉を発したのは店主妻だった。
「コレット。いい加減にして頂戴。いくら私と貴女の仲だからって、言って良いことと悪いことの区別もつかないの?」
「な……なに、よ……二人してっ! 本当のこと、じゃないっ! なんでそんな子の肩を持つの!? こんな変なクッキーっ、美味しいわけ…………」
突然、一枚のクッキーを掴んだ彼女はその勢いのまま乱暴にクッキーを口の中へと放り込み、音を立てて咀嚼する―――そして、不意に静止した。
「声も出ないほどにまずい?」と青ざめたリアナが、「大丈夫ですか?」と声をかけると、彼女は目をぱちぱちと瞬かせ、呆然と言った。
「なぁに、これ…………? 何味なの??」
「え? えっと―――人参を混ぜた、お野菜のクッキーです」
「ニンジン!?」
顔に浮かぶ驚愕の顔。「あたし、人参食べられないっ」と叫んだ彼女の言葉に、リアナは大慌てでカウンターへと戻り、お水の入ったピッチャーを持って戻ったのだが、彼女はなおも混乱中だった。
「え? えぇええ!? なんで、なんでニンジンが甘いの!? ニンジンの分際でなんで、こんなに美味しいの!?」
「お、美味しい………ですか?」
「形はすっごい変だけど、さくさくしてるし、適度に甘くって―――でも、甘すぎないし、ニンジンの癖になんで!?」
「「なんで」って言われても―――」
「おかしいじゃないっ!? これはっ、絶対にニンジンじゃないわッ!!!」
「「ニンジンじゃない」って……今どきそんな嘘なんてつかないわよ」
「むしろ、その色で人参以外の何が入ってると思うんだよ………」
がっくりと肩を落としてうな垂れる店主夫妻に、それに対し、「嘘でしょう!?」と騒ぐコレット。
一人取り残されたリアナは「この事態、どうしたものかなぁ?」と呆然としてしまっていた。
その翌日の話である。昼時の開店前の準備で、青鹿亭の前を掃除していたリアナは、店の前でふと声をかけられた。
「もし、お嬢さん―――お嬢さんが、「リアナさん」かな?」
「はい? なんでしょうか?」
リアナに用事があってくる人なんてほとんどいないはず。
きょとんとした顔でリアナが不思議そうに見つめるとローブを目深に被り、顔を隠した―――かなり怪しい男性は静かな微笑を浮かべていた。
―――あれ? 見覚えが………ある、ような?
深緑の髪に、金色のかかった不思議な色合いをした瞳の男性。背の高さはほとんどラルゴと同じくらい高いのだが、全体的な印象はほっそりとしているように見えて、少しばかり血色の悪い男性のように見えた。明らかに初対面の顔なのだが、不思議と懐かしいような、奇妙な感覚がある。
わずかに青白い顔色を心配そうに見つめてしまうと彼は穏やかに笑った。
「こんな怪しい格好ですまないね。少し、お話はできるかい?」
「えっと……あの、今は仕事中なのですが、私に何かご用事でしょうか?」
「妻がお世話になったものだから、一言お礼を言いたくて来たんだよ」
さらり、と男性は言ったものの、「妻」というのは誰のことだろうか、と悩んだリアナは目をぱちくりと瞬かせる。突然やってきた初対面の男性の「妻」を思い描けなかったリアナは、気がつけば少し足を下げてしまっていた。ちらり、と視線を向けたのは店内の方向。
相手の男性を警戒しているわけではないのだが、何かあったら即座に店主のところへ走ろうとリアナが決意を固めていると、彼は「昨日、妻が君に大変失礼なことを言ってしまったと思うんだが」と言う言葉を口にした。
それでようやく、リアナは昨日の、コレットの存在を思い出したのである。
何でもコレットは「野菜なんて大きらい!」と豪語する女性。「ニンジンなんて苦くて食べられないわッ!」と大真面目に力説した女性は、「だからこのクッキーに入っているのはニンジンなんかじゃないッ!」と断言していたのだが、店主妻だけではなく店主にまで「野菜クッキー」の原材料と作り方を説明され、半泣き状態に陥ってしまっていた。
「大きらいなニンジンを食べちゃった」とショックを受けすぎているらしい彼女は、すでにミネルバと同じく、40を越えた女性だというのに、相当子どもっぽい。初めて見る勝気な女性の落ち込みすぎた姿に、リアナは呆然と呆けてしまうばかりだったのだが、店主夫妻は彼女と長年の付き合いがあるらしく、深々とため息をついて、すっかりと脱力してしまっていた。
リアナは改めて謝罪の言葉を述べることになったのだが、リアナが謝れば謝るほどに彼女の機嫌は低下してしまっていた。
「―――もういいわ、あたしも貴女にひどいこと言ったから」
「えっと、でも―――お、お野菜が嫌いなの、私が知りもせずに適当なものをお出ししてしまったわけですし」
「いいって言ってるのッ! あたしが謝ってあげてるんだから、素直に受け取りなさいよ。こっ、こんなこと、滅多にないんだからね!」
ほっぺたをぷぅっと膨らませた彼女は、店主妻と同じ年齢のはず。店主妻は呆れような顔で、厳しくビシバシと彼女に「いい加減にしなさい」と怒っているのだが、その光景はかなり異様だった。店主妻がコレットをしかりつけている様は、どこか「言うことを聞かない子どもを叱っている母親」のような光景であり、非常におかしな状態に陥っていることに気づいたリアナは、少し笑ってしまっていた。
即座に「笑うのは失礼よッ!」と彼女が怒ったのだが、そんな彼女の怒り方ですら可愛く感じてしまった。「ぷんぷん」という感じで怒っている彼女は、その実、非常に居心地が悪そうで、なんとなくそわそわとしており、視線を挙動不審気味にちらちらとこちらに向けている。
「ねぇ、あなた―――り、あなちゃん?」
「はい」
「本当に、アレ………ニンジン、入ってたの?」
「…………入ってます」
「そう」と力なくうな垂れる彼女。
「どうしよう?」と悩むリアナの前で、彼女は決意を秘めた眼差しをリアナへと向け、そうしてあるお願い事を切り出してきた。
「それでね、妻が昨日もって帰ってきたクッキー、僕も食べさせてもらったんだ。本当においしかったよ」
「そうだったんですか」
「ああ。僕としては、あのゴボウクッキーが、非常にツボでね。歯ごたえが面白くって、気がついたら全部食べてて、妻に叱られてしまったよ。かく言う妻は、「ホウレン草食べられた!」ってはしゃいでて―――まぁ、僕もびっくりさせてもらったねぇ」
彼女が「他にも野菜クッキーあるってほんとう?」と聞いてきたので、リアナは一度カウンターに戻り、とりあえず現時点で置いてあったクッキー全種類を一度彼女に見せたのである。
リアナが昨日作っていたクッキーの原材料は、すべて、店で使用した野菜の切れっぱし。即ち、屑野菜を使ったもの。
本来ならお客様の「お茶受け」としては適さないものではあったのだが、それを「持ち帰りたい」と言ったので、店主妻と相談した後、快く持たせたのである。
最後の最後には、「ひどいこと言ってごめん」と素直に謝罪してくれた、コレットの心を溶かしたのは、賄い用のクッキー。
なんとなく、「餌付けしてしまった感」のあったリアナは苦笑ながらに「アレでよかったのかしら?」と非常にもやもやとしていたのだが、その夫はと言うと、妻の非礼を詫び、お礼の品を渡すためだけにここまでやってきたのだという。
「はい。これ、お詫び、兼お礼の品」
「え、あ―――いえ、頂けません」
彼が手にしているのは、小さな手のひら大の大きさの袋。
ピンク色の淡い色合いの布を同じ色のリボンで結んだ装丁の袋は、外見からしてみてもかなり可愛らしい。だがしかし、値段もつけられないようなあの程度のお菓子で、そんな物は「いただけるはずがない」と判断し、リアナは丁重にそれを断っていた。
だがしかし、相手も相手で相当に手強い。あの手この手で話術を駆使して、なんとしてでもリアナに贈り物を渡そうとしてくる男性の言葉に、思わず流されそうになってしまうリアナは、度々自分を持ち直す必要があった。
「そういわずに―――あ、ラルゴ!」
「…………何をなさっておいでなのですか?」
「昨日、コレットが「リアナちゃんにひどいこと言っちゃった」って凄く泣いたんだ。で、リアナちゃんにお詫びの品を持ってきたんだけど―――どうにも受け取ってもらえなくて」
「泣いていた」という発言にぎょっとして目を丸くしてしまったリアナだったが、店主はどこかそれを見越していたような呆れ顔である。
「コレットは気が強く見えると思うけど、実を言うと気が弱くって、物凄く繊細なんだ。君に言ったこと全部、物凄く反省しててねぇ」
「リアナ。もらっといてやれ。でないと、アイツ、自分で自分を立て直せねぇんだよ―――本当に面倒くさい女だ」
「ラルゴ。それを君に言われたくない。妻に対する侮辱は僕にとっても侮辱だよ?」
「あー。そりゃどうも申し訳ございやせんでした」
どこか丁寧な口調ながらに持って回った―――「慇懃無礼」と言う言葉がしっくりときそうな店主の言葉に、リアナは目を丸くしてしまっていた。
どうしたものかと本当に困ってしまったものの、大人二人にこうまで言われて「もらえません」というのはどうにも無理な話で、リアナは結局それを受け取ってしまっていた。
「じゃぁ、ごめんね。僕、ちょっと忙しいから―――」
リアナがプレゼントを貰い受けるなり、男性は実に足早にその場を立ち去っていってしまった。
「ありがとうございました」という言葉を伝えてくれるようにと願うと、男性は目を細めて笑っていた。小さくなり、次第に人ごみに消えていく背中を見やり、ラルゴが何かを呟く。
「だから、ひょいひょい一人歩きするなっつぅんだよ」
「ラルゴさん?」
「………なんでもねぇ。さぁて、開店すっぞ」
「あ、はい!」
慌ててピンク色の袋をエプロンポケットにしまいこみ、リアナは店の中へと駆け戻る。
―――今日も忙しくなりそうだ。
穏やかな秋晴れの日の事。リアナは今日も元気よく声を上げた。
「いらっしゃいませ!」
リアナは目の前の、くつくつ、と良い音を奏でているお鍋を真剣な眼差しで見つめ、底が焦げ付かない程度のゆっくりとした速度で、その中身を混ぜていた。
夕方からの営業に備えて食材の下ごしらえに余念のない店主と、それを手伝うリアナは厨房。暇を見計らって友人がやって来たという店主妻は、店内のテーブルにつき、休憩を取りながらお茶を楽しんでいる様子だった。
鍋の中身を凝視していたリアナは、その中で静かに茹でられている具材の様子を確認した後、小皿に適当な量をすくって店主の元へと向かう。
「ラルゴさん、味を見ていただいてもよろしいでしょうか?」
「ん………」
リアナが今日作っているのは、鶏肉と蕪の入ったシチュー。前回のシチューの時から2度にわたる練習を行い、今日は下ごしらえから味付けに至るまでの全工程を一人で仕上げた。シチューを小皿にすくって店主に渡すと、彼は無言で小皿を受け取る。じぃっと小皿に入った小さな蕪を見つめ、まずはスプーンで蕪の固さを確かめているようだった。スプーンに触れた途端、すっと割れた蕪を見て、少しだけ目を見開いた後、彼は慎重に蕪をスプーンで口元へと運ぶ。
彼の唇は、その舌先で繊細な味を確かめるように蠢いていた。
「―――及第点だ。だが蕪の水が出て、少し味がぼやけているな」
「もう少し、お塩を足した方が?」
「いや、最後にバターを落とした方が味がぐっとよくなるな。隠し味にしてぇなら、粉チーズでもいいんだが……」
冷蔵庫を無造作に開け、有塩バターを取り出した店主が、綺麗な黄金色の固まりをスプーンですくう。ほんの一欠けらだけ投入されたバターは熱々のシチューの中にあっという間に溶けていった。綺麗なミルク色をした液体が湯気を立てる中、店主はゆっくりと、その中身をおたまでかき混ぜる。「の」の字を数回書くように中身を混ぜた後、彼は味見用の小皿に中身を少し取り、味を確かめて強く頷いた。
その後、リアナもシチューの味見をさせてもらったのだが、確かに前よりも味がぐっと深みを増しており、先ほどよりも美味しくなっていることが分かる。まだ料理の「基礎」しか知らないリアナにとって、店主の知りうる料理の隠し味は魔法の一匙にも匹敵していた。
ほくほくの蕪と塩分の絶妙なバランスに、リアナはため息をつかんばかりだ。
「キュオルの若様に出すなら、一緒に粉チーズも出してやれ。ただ、アイツの場合―――味を台無しにされる可能性はあるがな」
「ユーグってチーズ大、大、大好きですもんね」
ユーグの好物は、チーズだ。元々、パンとチーズさえあれば、「後の料理はなくてもいい」と豪語するほどに根っからのチーズ好きで、青鹿亭で酒を飲む場合における肴もまたチーズであることがほとんどだ。
店主がどれほど繊細な味の調整を行い、「これで文句ないだろう!」と自信を持った料理を作ったとしても、「チーズかけていい?」と聴いた挙句、その料理を「チーズまみれ」に変えてしまうユーグは、金払いの点ではいい客なのだが、一人の料理人としては「ちょっぴり嫌な客」になってしまうらしい。
結局、味覚なんて「人の好き好きが合って当然」なのだから、多少のアレンジくらいには目を瞑り、当人がその味を楽しめればそれで良い。そこに他人が口を差し挟む謂れはない、というのが店主の料理人としてのスタンスではあるのだが、作った側の人間としては、限りなく心境的に微妙になるのだという。
リアナにしてみても、「自信作」として出した料理を、その料理本来の風味がかき消されてしまうほどに、チーズをかけられてようやく「美味しい」と言われてしまうと、「そこまでチーズをかけないと美味しくない」のではないかと下手な勘繰りをしてしまいかねない。幸いなことに、リアナの料理はまだ発展途上。おかげでなのか、ユーグがリアナの手料理に対し、本来の味を損なう行動に出たことはまだないのだが、そのうちリアナの手料理がある程度見慣れたものになってくれば話は別だと思っている。
「今度アイツに言ってみてやろうか。「女の料理も黙って食えねぇ男なんて、嫁にとっちゃ問題外だ」とか何とか……オレなんて、結婚したばっかり頃、ミネルバに何食わされたと思ってやがんだ」
「ら、ラルゴ……さん、そういう話題はちょっとまず―――」
「あなた、聞こえてるわよぉ~」
せっかくのリアナの発言は、少しばかり遅きに失したようである。店内ではしゃいだ声を上げていたはずの店主妻の声がすぐ近くでしたことに驚き、リアナと店主の二人は、ほぼ同時に大きくビクッと震わせてしまった。
カウンターに顔を出した店主妻は、まるで女神のような無敵の笑顔を浮かべていた。「にーっこり」という擬音語がしっくりとくる瞳は、その実、ちっとも笑ってなどいない。
「あ、な、た? 私達の新婚時代のお話は、今晩ゆーっくりしましょうね。寝室に戻った後で」
「……………ああ」
「あ、あのっ……おおおっ、おかみさ……」
「リアナちゃん。今日は一度寝室に入ったら、「何があっても」私達の寝室には近づかないでね? 私、あなたのことは実の子のように思ってるけど、この人と大事な大事な話があるの」
「ハイ」と答えるのがやっとのリアナは、青い顔で後ずさってしまっていた。
すでにリアナがこの青鹿亭に居候を初めて早三日。ここで寝泊りすることは、初めてではないのだが、その寝泊りの期間が長くなるとなれば、共同生活を送る上でのルールは大変重要なことである。
この家の「真」の家主に逆らうことなど考えられないリアナは、無言で妻からの重圧に堪えている店主に同情の視線を向けつつ、シチュー作りの作業へと戻った。とはいっても、シチューの味付けはすでに終了。後は火の調整を行って、いつでもお出しできる状況にしておけばいいだけだ。あまり火力が強すぎると、そのままシチューが煮詰まってしまうし、弱すぎると今度は火力が足りなくて、客にお出しする時にすっかり冷めたシチューになってしまう。
夕方からの開店時間は刻一刻と迫っている。皿出しやグラス、お酒の残量のチェックをしていたリアナは、店主妻に名前を呼ばれて後ろを振り返った。
「リアナちゃん。昨日のクッキーってまだあったかしら?」
「はい」
「じゃぁ、悪いけど、紅茶のお代わりと一緒に持ってきてくれるかしら?」
「分かりました」
リアナがお茶の準備を終えてカウンターを出ると、店内にいる人影は二人きりになっていた。一人が店主妻。もう一人が店主妻の古くからの友人と言う女性だ。
店主妻の知り合いの女性は、彼女とほぼ同年代という話だったが、体つきは店主妻よりも一回りほど小さく、リアナと似たり寄ったりで小柄だった。首元ですっきりと切りそろえた淡い金髪に、茶色の瞳。くるくるとよく動く表情といい、キビキビシとした動きといい、どことなく「猫」を思わせる印象の女性だった。
たまに店内で見かける女性の顔は、リアナにも見覚えがあるものだったが、彼女はリアナが近づいてくると、それこそ猫が全身の毛を逆立てて警戒心を露にする時のように、リアナにも警戒心を向けた。
「今、あたし、ミネルバと話をしてるんだけど?」と不機嫌も露な表情に、店主妻の顔に浮かぶのは呆れだった。が、この人は店主が近づいた時も、それ以外の人が近づいてきた時も同じような表情なので、リアナは特別気にしたりなどしない。「彼女はおかみさんの知り合いとはいえ、お客様」だと自身に言い聞かせ、「失礼致します」と一言言い置いてから、テーブルの上にお茶とお菓子をセッティングした。
お盆を小脇に抱え、静かに一礼したリアナがカウンターへ戻りかけた時、不意に彼女がリアナの腕を引っ掴んだ。
「ねぇ、あなた―――今度のミネルバとのお買い物についてくるって本気なの?」
「え―――?」
「冗談じゃないわよ。なんで、あんたみたいな子がついてくるの? 息抜きしたいのはあたしとミネルバなのよ? あんたみたいなのが一緒だと寛げるものも寛げないわよ」
「コレット!」
「だって、本当じゃない! いつもいつもこの子に甘くして、ミネルバ。あんたいい加減にしなさいよ!? この子は、赤の他人。あんたの子でも何でもないでしょう? 同情するにしても程があるわっ!」
頭が真っ白になってしまうほどの暴言は、ゆっくりとリアナの頭の中で理解された。そして、理解されると同時に、微笑が零れ落ちる。
リアナの笑顔に、彼女―――「コレット」と呼ばれた女性はぎょっとしたように目を見開いたものの、即座に「なによ? やる気なの?」とでも言うかのような、挑発的な瞳を向けていた。
リアナは彼女に向かい、静かに頭を下げる。
「厚かましいことを言ってしまい、申し訳ございませんでした」
「は?」
「御不快にさせてしまい、申し訳ありません。大丈夫です。仕込みのこともありますし、おかみさんが出かけしてらっしゃる間は、私が頑張りますから―――おかみさん、お友達とのお出かけ、楽しんできてくださいね」
「リアナ……」
「………」
心の中で聞こえてくる軋んだ音。
それはリアナが幼い頃から慣れ親しんできた音だった。
―――彼女の言う言葉はいちいちもっとも。
すでに何度となく同じ言葉をぶつけられてきているリアナにとって、それは特段答える言葉でも何でもなかった。むしろ、そういった言葉でリアナより余程傷ついた表情を見せたのは店主妻の方。リアナの方はそれに「申し訳ないな」とすら思いながら、そっと足を引いた。
孤児であるリアナの周囲には、親がいなかった。「親」のいないリアナの側にいたのは、親代わりを努めてくれた修道女達や、それ以外の人々。彼らは、「本来ならリアナと関わるはずもなかった、他人であるはずの大人たち」だ。
その「大勢いる大人たち」のうち、大半の人々は、不幸なリアナの境遇に「可哀想に」という同情の眼差しを差し向けてはいたが、それだけで、特に何をするでもない人たち。そして、残った人たちのうちの、そのまた半分程度が、リアナにとても優しくしてくれた、青鹿亭の店主夫妻や、現在借りているアパートの管理人夫妻、孤児院の修道女達と言った人々。
そして、最後に残った、おおよそ全体の一割程度の人々は、リアナに厳しい現実を直面させ、棘のある言葉や暴力を振るった人々である。
「子どもがいないからロクな育てられ方をしていない」、「この近辺で泥棒を働くような奴は、お前らくらいしかいない」と言う目に見えない暴力に加えて、極稀に、直接的な暴力を受けたこともあるリアナは、それを受け流す方法も弁えている。
そう言われたとしても仕方のない、他人に甘えきってしまっている部分があることは重々理解していたのだ。それと同時に、自分がそうした甘えを抱えているせいで、本来なら悲しませるべきでない人たちにもその凶器の矛先が向けられ、傷つけられてしまっていることすらも。
相手は、店主妻の友人なのだからリアナにはそれに逆らうつもりもなかった。だって、彼女が守ろうとしているのは、リアナが同じく大事に思っている店主妻なのだから、戦うことの無意味さは、言い合いが始まる前から分かりきってしまっている。
相手が怒りと言う感情の矛先をこちらに向けてくるというのであれば、笑って聞き流す。間違っても、自分以外の人に、その凶器を向けさせないこと―――それがリアナの最大のポリシーだった。
静かに頭を下げるリアナに対し、彼女はむしろより激昂したような表情を浮かべたものの、すぐさまリアナに対する侮蔑の色が浮かび上がり、「ふん」と鼻息を荒くしてそっぽを向いた。
「媚を売ることだけは上手なのね。なによ、こんなもので、あたしにまで取り入ろうって言うの!? こんな歪な形のクッキー、美味しいわけないでしょう!」
びしり、と彼女が指を刺したのはリアナが先ほど店主妻に言われて準備したお茶菓子である。
昨日、空き時間を利用して「休憩時間にでも」とリアナが作り置きしておいたクッキーは確かに、型抜きがうまくいかなかったこともあって、相当歪な形をしていた。オーブンの温度調整は、店主妻にも手伝ってもらえたので、そこそこ良い色に焼きあがっているのだが、最初人型だったはずの形がどう頑張ってみても「雪だるま」状態になっているクッキーは、リアナとしても普通のお客様には出したくない出来である。
「確かに、お出しするべきではなかった」と理解し、再び謝罪しようとしたリアナだったが、それを押し留めたのは店主の声だった。「店で出されるものが食べられないなら、帰れ」という静かな、怒りの篭った言葉に驚いたのは彼女もコレットも同じこと。
コレットは尚更眦を吊り上げたのだが、その次に言葉を発したのは店主妻だった。
「コレット。いい加減にして頂戴。いくら私と貴女の仲だからって、言って良いことと悪いことの区別もつかないの?」
「な……なに、よ……二人してっ! 本当のこと、じゃないっ! なんでそんな子の肩を持つの!? こんな変なクッキーっ、美味しいわけ…………」
突然、一枚のクッキーを掴んだ彼女はその勢いのまま乱暴にクッキーを口の中へと放り込み、音を立てて咀嚼する―――そして、不意に静止した。
「声も出ないほどにまずい?」と青ざめたリアナが、「大丈夫ですか?」と声をかけると、彼女は目をぱちぱちと瞬かせ、呆然と言った。
「なぁに、これ…………? 何味なの??」
「え? えっと―――人参を混ぜた、お野菜のクッキーです」
「ニンジン!?」
顔に浮かぶ驚愕の顔。「あたし、人参食べられないっ」と叫んだ彼女の言葉に、リアナは大慌てでカウンターへと戻り、お水の入ったピッチャーを持って戻ったのだが、彼女はなおも混乱中だった。
「え? えぇええ!? なんで、なんでニンジンが甘いの!? ニンジンの分際でなんで、こんなに美味しいの!?」
「お、美味しい………ですか?」
「形はすっごい変だけど、さくさくしてるし、適度に甘くって―――でも、甘すぎないし、ニンジンの癖になんで!?」
「「なんで」って言われても―――」
「おかしいじゃないっ!? これはっ、絶対にニンジンじゃないわッ!!!」
「「ニンジンじゃない」って……今どきそんな嘘なんてつかないわよ」
「むしろ、その色で人参以外の何が入ってると思うんだよ………」
がっくりと肩を落としてうな垂れる店主夫妻に、それに対し、「嘘でしょう!?」と騒ぐコレット。
一人取り残されたリアナは「この事態、どうしたものかなぁ?」と呆然としてしまっていた。
その翌日の話である。昼時の開店前の準備で、青鹿亭の前を掃除していたリアナは、店の前でふと声をかけられた。
「もし、お嬢さん―――お嬢さんが、「リアナさん」かな?」
「はい? なんでしょうか?」
リアナに用事があってくる人なんてほとんどいないはず。
きょとんとした顔でリアナが不思議そうに見つめるとローブを目深に被り、顔を隠した―――かなり怪しい男性は静かな微笑を浮かべていた。
―――あれ? 見覚えが………ある、ような?
深緑の髪に、金色のかかった不思議な色合いをした瞳の男性。背の高さはほとんどラルゴと同じくらい高いのだが、全体的な印象はほっそりとしているように見えて、少しばかり血色の悪い男性のように見えた。明らかに初対面の顔なのだが、不思議と懐かしいような、奇妙な感覚がある。
わずかに青白い顔色を心配そうに見つめてしまうと彼は穏やかに笑った。
「こんな怪しい格好ですまないね。少し、お話はできるかい?」
「えっと……あの、今は仕事中なのですが、私に何かご用事でしょうか?」
「妻がお世話になったものだから、一言お礼を言いたくて来たんだよ」
さらり、と男性は言ったものの、「妻」というのは誰のことだろうか、と悩んだリアナは目をぱちくりと瞬かせる。突然やってきた初対面の男性の「妻」を思い描けなかったリアナは、気がつけば少し足を下げてしまっていた。ちらり、と視線を向けたのは店内の方向。
相手の男性を警戒しているわけではないのだが、何かあったら即座に店主のところへ走ろうとリアナが決意を固めていると、彼は「昨日、妻が君に大変失礼なことを言ってしまったと思うんだが」と言う言葉を口にした。
それでようやく、リアナは昨日の、コレットの存在を思い出したのである。
何でもコレットは「野菜なんて大きらい!」と豪語する女性。「ニンジンなんて苦くて食べられないわッ!」と大真面目に力説した女性は、「だからこのクッキーに入っているのはニンジンなんかじゃないッ!」と断言していたのだが、店主妻だけではなく店主にまで「野菜クッキー」の原材料と作り方を説明され、半泣き状態に陥ってしまっていた。
「大きらいなニンジンを食べちゃった」とショックを受けすぎているらしい彼女は、すでにミネルバと同じく、40を越えた女性だというのに、相当子どもっぽい。初めて見る勝気な女性の落ち込みすぎた姿に、リアナは呆然と呆けてしまうばかりだったのだが、店主夫妻は彼女と長年の付き合いがあるらしく、深々とため息をついて、すっかりと脱力してしまっていた。
リアナは改めて謝罪の言葉を述べることになったのだが、リアナが謝れば謝るほどに彼女の機嫌は低下してしまっていた。
「―――もういいわ、あたしも貴女にひどいこと言ったから」
「えっと、でも―――お、お野菜が嫌いなの、私が知りもせずに適当なものをお出ししてしまったわけですし」
「いいって言ってるのッ! あたしが謝ってあげてるんだから、素直に受け取りなさいよ。こっ、こんなこと、滅多にないんだからね!」
ほっぺたをぷぅっと膨らませた彼女は、店主妻と同じ年齢のはず。店主妻は呆れような顔で、厳しくビシバシと彼女に「いい加減にしなさい」と怒っているのだが、その光景はかなり異様だった。店主妻がコレットをしかりつけている様は、どこか「言うことを聞かない子どもを叱っている母親」のような光景であり、非常におかしな状態に陥っていることに気づいたリアナは、少し笑ってしまっていた。
即座に「笑うのは失礼よッ!」と彼女が怒ったのだが、そんな彼女の怒り方ですら可愛く感じてしまった。「ぷんぷん」という感じで怒っている彼女は、その実、非常に居心地が悪そうで、なんとなくそわそわとしており、視線を挙動不審気味にちらちらとこちらに向けている。
「ねぇ、あなた―――り、あなちゃん?」
「はい」
「本当に、アレ………ニンジン、入ってたの?」
「…………入ってます」
「そう」と力なくうな垂れる彼女。
「どうしよう?」と悩むリアナの前で、彼女は決意を秘めた眼差しをリアナへと向け、そうしてあるお願い事を切り出してきた。
「それでね、妻が昨日もって帰ってきたクッキー、僕も食べさせてもらったんだ。本当においしかったよ」
「そうだったんですか」
「ああ。僕としては、あのゴボウクッキーが、非常にツボでね。歯ごたえが面白くって、気がついたら全部食べてて、妻に叱られてしまったよ。かく言う妻は、「ホウレン草食べられた!」ってはしゃいでて―――まぁ、僕もびっくりさせてもらったねぇ」
彼女が「他にも野菜クッキーあるってほんとう?」と聞いてきたので、リアナは一度カウンターに戻り、とりあえず現時点で置いてあったクッキー全種類を一度彼女に見せたのである。
リアナが昨日作っていたクッキーの原材料は、すべて、店で使用した野菜の切れっぱし。即ち、屑野菜を使ったもの。
本来ならお客様の「お茶受け」としては適さないものではあったのだが、それを「持ち帰りたい」と言ったので、店主妻と相談した後、快く持たせたのである。
最後の最後には、「ひどいこと言ってごめん」と素直に謝罪してくれた、コレットの心を溶かしたのは、賄い用のクッキー。
なんとなく、「餌付けしてしまった感」のあったリアナは苦笑ながらに「アレでよかったのかしら?」と非常にもやもやとしていたのだが、その夫はと言うと、妻の非礼を詫び、お礼の品を渡すためだけにここまでやってきたのだという。
「はい。これ、お詫び、兼お礼の品」
「え、あ―――いえ、頂けません」
彼が手にしているのは、小さな手のひら大の大きさの袋。
ピンク色の淡い色合いの布を同じ色のリボンで結んだ装丁の袋は、外見からしてみてもかなり可愛らしい。だがしかし、値段もつけられないようなあの程度のお菓子で、そんな物は「いただけるはずがない」と判断し、リアナは丁重にそれを断っていた。
だがしかし、相手も相手で相当に手強い。あの手この手で話術を駆使して、なんとしてでもリアナに贈り物を渡そうとしてくる男性の言葉に、思わず流されそうになってしまうリアナは、度々自分を持ち直す必要があった。
「そういわずに―――あ、ラルゴ!」
「…………何をなさっておいでなのですか?」
「昨日、コレットが「リアナちゃんにひどいこと言っちゃった」って凄く泣いたんだ。で、リアナちゃんにお詫びの品を持ってきたんだけど―――どうにも受け取ってもらえなくて」
「泣いていた」という発言にぎょっとして目を丸くしてしまったリアナだったが、店主はどこかそれを見越していたような呆れ顔である。
「コレットは気が強く見えると思うけど、実を言うと気が弱くって、物凄く繊細なんだ。君に言ったこと全部、物凄く反省しててねぇ」
「リアナ。もらっといてやれ。でないと、アイツ、自分で自分を立て直せねぇんだよ―――本当に面倒くさい女だ」
「ラルゴ。それを君に言われたくない。妻に対する侮辱は僕にとっても侮辱だよ?」
「あー。そりゃどうも申し訳ございやせんでした」
どこか丁寧な口調ながらに持って回った―――「慇懃無礼」と言う言葉がしっくりときそうな店主の言葉に、リアナは目を丸くしてしまっていた。
どうしたものかと本当に困ってしまったものの、大人二人にこうまで言われて「もらえません」というのはどうにも無理な話で、リアナは結局それを受け取ってしまっていた。
「じゃぁ、ごめんね。僕、ちょっと忙しいから―――」
リアナがプレゼントを貰い受けるなり、男性は実に足早にその場を立ち去っていってしまった。
「ありがとうございました」という言葉を伝えてくれるようにと願うと、男性は目を細めて笑っていた。小さくなり、次第に人ごみに消えていく背中を見やり、ラルゴが何かを呟く。
「だから、ひょいひょい一人歩きするなっつぅんだよ」
「ラルゴさん?」
「………なんでもねぇ。さぁて、開店すっぞ」
「あ、はい!」
慌ててピンク色の袋をエプロンポケットにしまいこみ、リアナは店の中へと駆け戻る。
―――今日も忙しくなりそうだ。
穏やかな秋晴れの日の事。リアナは今日も元気よく声を上げた。
「いらっしゃいませ!」
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