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四章

七節

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 眠れぬ夜を過ごしたローレンスがリビングに向かうと書き置きがあった。イポリトは既に家を出たようだ。酒のノベルティのメモには『命拾いしたなクソじじい。ハデスが不在の内に店辞めろ』と綴られていた。

 イポリトは相棒として心配してくれている。しかしもう自分の魂に嘘を吐けない。人間になりたい。愛する者に囲まれて笑って暮らしたい。人殺しではなく人を笑顔にさせる仕事をしたい。ローレンスは唇を噛み締めるとメモ帳を捨てた。

 ギルロイに向かうとヴィヴィアンが空に向かって伸びをしていた。ローレンスに気付くと大きな声で挨拶する。ローレンスは消え入りそうな声で挨拶した。

「どうしたの? 元気がないわね」

「……そうかな。いつもこんなものさ」ローレンスは俯いた。

 ヴィヴィアンはローレンスに顔を近付けると青白く光る瞳を見つめた。

「そんな顔じゃ店に出ても楽しくはないわ。お花もあなたも可哀想。今日は休みなさい」

「……大丈夫だよ。働けるよ」

「じゃあ昨日の夕食と今日の朝食のメニュー言える?」

 ローレンスは返答に困った。昼食以降何も口にしていない。

「大人しく言う事を聞きなさい。眠ってないんでしょ? 普段から幽霊みたいな顔してるのに今日はもっと酷いわ。帰って寝なさい」ヴィヴィアンはローレンスの肩を叩いた。

 ローレンスは力なく微笑むとアパートへ戻った。布団に包まり、双子のドラゴンのぬいぐるみを抱いて眠った。

 数時間後呼び鈴が鳴り響いた。目醒めたローレンスはぬいぐるみを抱いて玄関へ向かい、スコープを覗く。赤い片手鍋を持ったヴィヴィアンが佇んでいた。

 ドアを開けるとヴィヴィアンが微笑む。

「眠れた?」

「うん。……少しすっきりした。休ませて貰ってごめん」

「謝らないの! ただでさえヒョロヒョロなのにこれ以上儚くなったら私やあよ」

「う、うん」ローレンスはドラゴンのぬいぐるみを抱きしめた。

「リゾット作ったの。上がるわね」ヴィヴィアンは片手鍋を少し持ち上げる。

 ローレンスはヴィヴィアンを部屋に入れた。

 ヴィヴィアンは白いボウル皿に片手鍋の中身を移した。そしてソファに座しブランケットに包まるローレンスに皿を差し出す。皿にはベーコンが沢山入ったトマトリゾットが盛られている。ヴィヴィアンは粉チーズの紙筒をテーブルに置いた。

「それかけるととっても美味しいの。さ、食べて食べて。いただきまーす」彼女は大量の粉チーズをかけるとスプーンでリゾットをすくう。

「あ、あのさ。僕の分だけやたら量が多いような気がするんだけど」

「美味しくないからって残しちゃダメよ。ご飯食べてないあなたが悪いんだからね。お皿が空になるまで帰りませんからね!」ヴィヴィアンは微笑むとスプーンを口へ運んだ。

 頑張ってリゾットを完食したローレンスは食後のコーヒーを淹れた。

「お腹いっぱいになった?」ヴィヴィアンはドラゴンのぬいぐるみをあやす。

「ありがとう。少し元気出たよ。夕食からはちゃんと食べるようにする。じゃないとまた君が来ちゃうからね」ローレンスはマグを差し出すとソファに座した。

「あら、私の料理にチーズは付き物よ。あなたチーズ嫌い?」

 ローレンスは失笑した。

「何よ」ヴィヴィアンはマグに口を付けた。

「ありがとう。ヴィヴィアンは人を元気にさせるのが上手だね」

「そうよ。元気が一番だもの。美味しいものいっぱい食べて、笑いたいだけ笑って、ぐっすり眠るのが元気の秘訣よ! でもね」

 ヴィヴィアンはローレンスの頭に手を置く。

「泣きたい時に泣く事も重要よ。悲しみや怒り、苦しみは辛くて嫌な物だけど感じなくなったら終わりよ。だって感情は魂なんだから。人間は何かしら悩みを抱えて生きてるのよ」

 ローレンスは俯くと瞳を閉じた。ヴィヴィアンは頭を撫でる。

「昨日渡された履歴書を読んだわ。あなたが何を抱えているか、本当は何をしている人か分からない。だけどどんな事をしても魂の叫びに耳を傾けなさい。誰かの役に立てて幸せか、自分も救われて幸せかどうかを感じなさい。自分を好きでいられるように努めなさい。そして誇りを持ちなさい」

 ローレンスは顔を上げた。

「なーんてね。これはおじいちゃんの言葉。おじいちゃんには随分救われたのよ。離婚する時もここで花屋を開こうと思った時もこの言葉に背を押されたわ。だから今度はあなたに贈る」ヴィヴィアンはローレンスの頭を軽く叩いた。

「ありがとう」再び老人の言葉が聞けるとは思ってもみなかった。

「ん。辛い時はお互い様よ。あなたの本業がスパイだかアサシンだか知らないけど好きなように振る舞いなさいな。じゃ、そろそろ店に戻るわね!」

 ローレンスはヴィヴィアンを玄関まで見送るとドラゴンのぬいぐるみを抱いて自室のベッドで眠りについた。不思議な夢を見た。水色のドラゴネットになったユウとリュウが幸せな表情を浮かべてケーキ屋で働く優しい夢だった。

 ベッドで安らかに眠るローレンスに午後の柔らかな日差しが窓辺から降り注いだ。



 翌日ローレンスは復帰した。ヴィヴィアンは彼の顔に血の気が戻った事を喜んだ。

 就寝前にブーケ作りの練習をしたローレンスはそれを披露した。多少時間がかかるが様になった彼を褒めるとヴィヴィアンは次から次へと仕事を教えた。ローレンスは教わった初日こそ巧く出来ないが帰宅すれば練習に時間を割くので数日で覚えた。見切られた生花やスポンジを貰うと練習をするのが日課になった。しかしリビングで待てどもイポリトは帰宅しない。減給を喰らっているのに何処に行ったのだろうか。

 携帯電話を壊したので固定電話から掛けたがイポリトは出なかった。不在時に彼が帰宅した様子もない。心配だが監視役の癖に帰宅しない事が暫しあるので放っておいた。独りになりたい時もあるだろうし、女の許に転がり込んでいるかもしれない。

 もう一つ気にかかる事があった。ハデスだ。イポリトから説教を喰らった翌日、彼はハデスが不在のメモを残した。死者の来訪が絶えない冥府から長期に渡ってハデスが席を外す事は許されない。例外は妃であるペルセポネを攫った時だけだ。余程の用事がない限り席を外せない。

 ローレンスは友人のカロンに手紙を送った。しかし返事には『儂も分からんだで』と綴られていた。カロンの話によると現在魂の裁定はハデス抜きで三人の裁判官によって行われている。人事や給金の振り分けも妃が手を回す程に多忙を極めているらしい。

 ハデス不在の内にヴィヴィアンから離れなくてはならない。しかし優しく人なつこくて話を聞かない彼女はローレンスを手放さなかった。

 とうとう繁忙期の一つであるヴァレンタインに差し掛かった。従業員を募集しているが面接に訪れる者はない。ローレンスが辞めるとヴィヴィアンはひとりぽっちになる。繁忙期を乗り切らせるのには不憫だ。また、彼は花屋の仕事にやりがいを見いだしていた。人を笑顔にし役に立てた達成感で胸が満たされた。花屋の仕事を愛していた。

 しかし自分は死神として生きなければならない。もう二度と仕事を放る事は許されない。花屋の仕事が自分を慰めたように死神の仕事を以て死者の魂を慰めたい。そんな使命感にローレンスの魂は向かい合う。親しい者の魂を運ばなければならないなら自らの手で行いたい。彼は停職処分が早く解ける事を切望した。

 ヴァレンタインを二週間前に控えるとヴィヴィアンは突然『ヴァレンタインカードを置いたら便利じゃない?』とローレンスに提案した。休憩直後で、閑散時の事だった。

 ローレンスは頷いた。無精な男ならカードと花を同じ場所で購入出来ると喜ぶ。しかしあと二週間しかない。今から問屋に掛け合うのは難しいのではないか。しかし彼女は『カードショップへ行って直ぐ帰るだけだからバイクに乗せてよ』とバイクを出させた。ヴィヴィアンは一度決めたら他人の意見は聞かない。いつかこんな事が起きるだろう、と予測していたローレンスは前以て彼女のヘルメットを購入していた。

 ヴィヴィアンがヘルメットを被っている間にローレンスは黒いレディのエンジンを始動させた。低い排気音がコンクリート打ちの駐車場に響く。ヴィヴィアンは拍手をする。『早く乗ってくれ』と顎で合図を送ると彼女はシートに跨がり腹に腕を回した。

 市街地を走っていると早くも乗り心地に慣れたヴィヴィアンが話しかけてきた。インターコムを付けてないのでローレンスは彼女を無視する。

 もしかしたらまた鼻歌を歌っているのか。カードショップの店先に黒いレディを停めると、ヘルメットを脱いだ彼女は鼻歌を歌っていた。たいした女性だ。自分が初めて馬やバイクに乗った時には随分と興奮したのに、彼女は平然としているなんて。きっと絶叫系のアトラクションに乗る時も鼻歌を歌っているだろうとローレンスは苦笑した。

「楽しかった!」髪を乱したヴィヴィアンは笑う。

「それは良かった」

 ローレンスは彼女のヘルメットをバッグに仕舞って手に提げ、自分のヘルメットを腕に抱えて店に入る。店内は壁一面に棚が取り付けられていた。様々なグリーティングカードが差し入れてある。圧巻だ。ローレンスが棚を見上げているとヴィヴィアンは迷わずに奥へ歩む。彼女は勝手を知っているようで白髭の老人を見つけると商談を始める。

 手持ち無沙汰になったローレンスはカードを取り出し絵柄を眺める。棚に戻すと若い女性販売員と目が合った。販売員は少し驚いた後に微笑んだ。ローレンスが軽く会釈すると作業中だった販売員は手を止めて近付く。

「何かお探しですか?」販売員は接客用の微笑を浮かべる。

「え……あの、僕、あの、連れで」ローレンスはカウンターで老人と親しげに話をするヴィヴィアンを見遣った。

「店長の友人のお孫さんだそうですね。昨年の暮れも店長とお話ししてました」

「そ、そうなんだ。きょ、今日はヴァレンタインのカードを」

「まあ! 奥様に差し上げるのですね!」販売員はヴィヴィアンを見遣った。

「い、いや、彼女は僕のお嫁さんじゃなくて、その」ローレンスは『一度は結婚してみなさい』と言っていた酒屋の老人を思い出した。

 頬を染めたローレンスが言葉を詰まらせていると販売員は微笑む。

「仲睦まじそうなのでご夫婦かと。ではヴァレンタインは決戦の日ですね。私、お客様の大事なカードを選ぶのをお手伝いしますね!」

 カードはどんなイメージが良いか、活版印刷でメッセージを入れるか、カリグラフィーを店で書くかと販売員は矢継ぎ早に尋ねた。買うつもりなど無かったが商魂に気圧されたローレンスは水色地に白薔薇が描かれたカードを買わされた。ジーンズの尻ポケットにカードを仕舞った。すると商談をまとめたヴィヴィアンが『帰るわよ』と声を掛けた。

 ギルロイに戻るとヴィヴィアンはエプロンを掛けるローレンスに礼を述べた。

「バイク出してくれてありがとう! 楽しかったし助かったわ! やっぱりあなたライダーだったのね! あ。カードなんだけれども」

 カードと言う単語にローレンスは肩を跳ね上げた。カードを購入した事がバレたら誰に贈るのかと聞かれ、答えるまで帰してくれないだろう。

「なによ、変な反応するわね」ヴィヴィアンは訝しげに見つめる。

「な、なんでもないよ。それよりカードがどうしたのさ?」

「うん。来週にも親爺さんが届けてくれるって。だから店頭に筆記コーナー作らなきゃ」

「う、うん。そうだね」ローレンスはヴィヴィアンを窺い見つつエプロンの紐を結んだ。
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