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二章

六節

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 その晩もクチバシ医者は夢を見た。

 光射さない部屋に女が居た。カビ臭い部屋の隅で脚を投げ出し座している。女は両膝を見つめる。膝間接が出っ張り、脹ら脛は華奢だ。女は思い出したように動こうとする。しかしか細い脚に力が入らず、上体を壁に委ねるのがやっとだ。諦めて鼻歌を歌う。暗闇に響く童謡は不気味だが美しく悲しいものだった。

 突如物音が響く。光が射し込む。暗闇を切り裂く光に眼を射抜かれる。眼を覆った女は俯き鼻歌をやめた。

 光射し込む上方から規則正しい音が響く。誰かが階段を下っているようだ。やがて歩み寄る足音に変わる。足音が止まると陶器を乱雑に置く音がした。そして足音は遠ざかる。女は空気を思い切り吸う。料理の匂いがする。明日に命をつなぐだけの味気ない匂いだ。

 空腹だった女は料理に手を伸ばす。手を突っ込み生温かいゲルを掴み口にする。薄味の粥だ。すえた匂いが口いっぱいに広がるが構わず貪った。食べ終わると疲れたので眠った。

 目覚めた時には粥を食べた地下室とは別の部屋にいた。周囲は薄暗い。燭台の火に照らされた部屋の中央で女は裸で膝を抱え床にうずくまっていた。窓の無い赤い壁には猥雑な絵画や姿見が所狭しと飾られている。鏡に気付いた女は姿を視認した。青ざめて血管が透ける白い肌、プラチナブロンドの長髪、やせ細った四肢、小さな乳房、血色の瞳。壁に掛かる絵画の中で性行為をする健康的な裸婦の体つきとは違った。

 足音が聞こえた。嫌な予感がする。足音は部屋の前で止まった。解錠しドアが開くと中年の貴族が部屋に入る。嫌な笑みを浮かべた男は品定めするように女を見下ろす。女の心拍数が上昇する。上体を起こした女は男を睨むと唾を吐き付けた。男のジャケットの裾に唾がつく。微細な事など気にせず男は近付くと彼女の両手を縛り肉薄した。女の唇を割り、粘ついた舌が臭い息と共に口腔に侵入する。女は男の舌を思い切り噛む。激痛に驚いた男は彼女の腹を思い切り殴る。女は床に這いつくばり咳き込む。

 顔を歪めた男は女を見下ろす。萎えた両足を引きずる女は這う。しかし長髪を男に掴まれ引っ張られる。頭を激しく振る。しかし男の手は徐々に根本に近寄り頭を捕えた。女は後頭部を殴られる。気絶し床に崩れ落ちる。背を向けた女を男は足蹴にして転がすと腹を向けさせた。そして犯した。

 日中女は床にうずくまっていた。乾いた涙が眼や頬にこびり付き、口を開いて呼吸するだけだった。生きる為に逃げる気力がない。命を終わらす為に使う力すらない。

 しかし時折思い出したように鼻歌を歌った。死者が生者を引き入れようと墓の下から歌うような調べだった。当初は下女が世話を焼きに来たが歌を恐れて逃げた。他の下女や下男が世話を焼いた。しかしそれも一度きりだった。皆、恐怖を覚えて女から遠ざかった。世話を焼く者は屋敷から消えた。

 男は新しい下男を雇い世話をさせた。彼はリュカと言った。顔の右半分が焼けただれ右眼が潰れた若くして禿頭で無口の男だ。リュカは臆せず世話を焼いた。固く絞った布で女の体を清め、絡まったプラチナブロンドの長髪を丁寧に梳った。清拭が終わるとお仕着せのジャケットを女に羽織らせた。そして千切ったパンを差し出し女の口が開くのを辛抱強く待った。女はずっと鼻歌を歌っていた。しかし毎日丁寧に世話を焼くリュカに心を開き、千切られたパンを口にするようになった。

 ある日いつものようにパンを千切って食べさせようとしたリュカの手を彼女が制した。

「……自分で食べるわ」

 リュカは頷くと彼女にパンを持たせた。

 女はパンを齧る。無表情だったリュカは微笑した。

「アンタが世話しに来るんだから仕方なく生きてやってるの。文句ある?」口の周りにパン屑を付けた女はリュカを睨んだ。

 以来、女の生活に楽しみが出来た。夜中に叩き起こされては犯される事には変わりなかったが、日中リュカに世話を焼かれるのが楽しみだった。女の話に耳を傾けリュカは丁寧に世話を焼いた。女は髪を梳かれるのが好きだった。ブラシが頭皮を滑るのも好きだし時折リュカに撫でられるのも好きだった。男に引っ掴まれて絡まった髪がリュカに清められるようで気持ち良かった。心地良くなって眠る事もしばしばあった。

 リュカは時々服にボロ紙を忍ばせ部屋を訪れた。畳んだボロ紙を広げる。そこには天使の絵が描かれていた。女は紙に顔を近づけた。

「綺麗! アンタが描いたの?」

 リュカは頷く。

「上手いわね。この部屋のエロ絵なんかよりも断然素敵よ」

 リュカは天使の絵を指し、女を指差した。

「飽きれた。紳士に見えてとんだスケコマシね」女は笑う。

「でもアンタにそう言われるのは悪い気はしないわ」

 はにかんだリュカはボロ紙を次々取り出し広げた。天使、人魚、ユニコーン、ドラゴン……物心ついた時から地下室に閉じ込められていた女が見た事も無い不思議な絵だ。

「何見て描いたのよ? 外にはこんな素敵な動物や人間がいるの?」

 リュカは首を横に振る。

「じゃあ、アンタの想像?」

 再び首を振る。

「じれったいわね。じゃあ何処で何見て描いたのよ?」

 居心地が悪そうに口を動かしていたリュカは意を決し言葉を紡いだ。

「……教会で、本を貸して、貰うんだ」錆び付いた地獄の門を開くような声だった。リュカは左眼を潤ませ俯いた。

「やっと喋ってくれた! ずっとだんまりだから話せないと思ってたのよ! 喋りなさいよ。喋った方がもっと楽しいわ!」女は俯いたリュカの顔を覗き込む。

「君、俺の声ばかりか、この顔、恐くないのか?」顔を逸らしたリュカは問う。

「先知れぬアタシの人生の方が恐いわよ」リュカの顔に手を伸ばし自分に向かせる。

「そうか。それも、そうだな」リュカは女の額に自分の額を合わせて笑った。

「何よ。変な奴ね」女も笑った。

 その日からリュカと女は話をした。リュカは話しつつボロ紙に黒炭で女を描いた。モデルを務める女に動かないように頼むが女はリュカと話したくて動いてしまう。仕方が無いのでリュカは手を動かしつつ話をした。名前、生まれ故郷、教会で貸して貰う本の字が読めないので挿絵を模写する事、絵描きになりたかった事。

「どうして? 素敵な絵を描けるから立派な絵描きでしょ」女は振り向いた。

「こっちを、見ない。あっち向いて」リュカは注意を促すと話を続けた。

 子供の頃暮らしていた農村でリュカは旅の画家に出会った。才を愛でられた。画家の弟子になり王都の師の家に住み助手をして技法を学んだ。信神深く教会へ熱心に通った。しかし画家の家が火事に遭った。リュカは顔の右半分を火傷し右眼を失い、喉をやられた。師はその火事で他界した。故郷に帰ろうとしたが絵を捨て切れなかった。日雇いの仕事をしつつ教会で本を借り、ボロ紙に挿絵をスケッチしたり、大聖堂を仰いでは日がな一日風景画も描いたりした。そんな折に死を歌う化け物女の世話をする仕事を日雇い仲間から聞いて屋敷に足を運んだらしい。

「どんな化け物の、世話を、させられるかと、思ってたよ。賃金、いいから、我慢して頑張ろうと、思っていたんだ。だけど、違った。天使がいた」

 頬を染めた女は明後日の方向を向く。

「ほら、また、動いた」

「そんな事言うからよ! 馬鹿!」

 リュカは微笑んだ。

 仕上がるとリュカは女に絵を見せた。

「これがアタシ? 綺麗ね。素敵だわ」

「少しばかり、綺麗に、描いたから、ね」

「言うわね」女は笑うと大切な絵を仕舞った。

 その晩も女は犯されかけていた。いつも抵抗せずにいたがその晩は違った。動かない脚を引きずり、床を這いずり逃げ回った。女の髪を男が捕える。女は頭を激しく振り絨毯を掴み抵抗する。絨毯はめくれ、隠していた絵が覗く。女は慌てて絵を体の下敷きにした。男はそれを許さず、髪を根本から掴むと絵を取り上げる。絵を見た瞬間眼の色が変わる。

「描いたのは誰だ?」

 女は男を睨み、唾を吐き付けた。

「……お前の世話をしている下男だな?」

 頬にかかった唾を拭うと男は女の腹を蹴り飛ばし、絵を片手に出て行った。

 翌日から女は部屋を移された。カーテンが閉められた大きな窓がある広い部屋だった。シャンデリアが吊るされマントルピースには大鏡が掛けられ、パステルカラーの壁には人物と風景が描かれていた。女は一人、失神ソファで裸体を横たえていた。嫌らしい絵の無い広い部屋に移されたのは嬉しかったがリュカが心配だ。昨夜の男の言動も気になるし朝からリュカに会ってない。不安に胸を潰されそうになり溜め息を吐く。するとドアが開いた。女は上半身を起しドアを見遣った。

 部屋に入ったのはリュカだった。大きなカバンを提げイーゼルを抱えていた。女に気付いたリュカは微笑む。カンバスを持った女中達が入室する。彼女達はリュカの指示を仰ぐ。

 女は失神ソファから転がり落ちるとカバンの中身を広げるリュカへ這う。

「良かった! 生きてたのね!」

「旦那様が、君を、描けって。朝早く、呼び立てられて、道具、揃えて貰ってた、から遅くなった。ごめん」リュカは女の頭を撫でる。

「心配させないでよね。馬鹿」頬を染めた女は明後日の方を向く。

 リュカは微笑むと女中に固く絞った布とブラシを持って来て欲しいと頼んだ。女中はぬるま湯を張った盥とタオルとブラシを用意した。リュカはタオルを盥に沈めて固く絞り、失神ソファに座らせた女を優しく拭いた。

「心配、しなくていい。ちゃんと、世話、するから」

「当たり前でしょ。世話を焼いていいのはアンタだけ。今朝なんかちょっかい出そうとしたスケベな下男に噛み付いてやったんだから」

「君を、お風呂に、入れようとした、下女にも、頭からお湯を、かけたんだってね」

「そうよ。アタシは女には少しは優しいの」

「何だって、君は、男に、厳しいのかい?」

「……アタシを玩具としか見てないからよ。毎晩あの短小旦那に犯されるのよ? 最悪」

「……知らなかった」

「アタシもあまり知って欲しくなかったわ。男は嫌い。でもリュカは好き」

「俺も、君の事、好きだ。笑顔が、好きだ。君は大切な、友達」

 女は寂しそうに笑った。

 清拭を終えて髪を梳るとリュカは女を失神ソファに横たわらせポーズをとらせた。そして離れた椅子に座すと真新しい紙にスケッチをする。

「君の事、聞いても、いいかい?」木炭を滑らす手を休めずにリュカは問う。

「何よ」女はリュカを見遣る。

「君の名前は、何て、言うんだい? 国は何処?」

「名前も国も知らないわ。親も知らない。売り飛ばされるまで爺の家の地下で飼われてた。肌が日の光に弱いの。長い時間当たると燃え上がるの。だから地下に居た。眼もよく見えない。物を近づけると見えるけど」

「そう。人と、会わなかった、のか。だから、俺の顔、怖がらなかった、のか」

「アタシ、リュカの顔好きよ」

「変わってるな、君は」

「悪い?」

「いいや。……君、君って、呼びづらい。名前を付けても?」

「どんな?」

「……アンジェル」

「アンジェルって、天使って、アタシ、そんな柄じゃないわ。止めてよね」女は噴き出す。

「そうかな? 俺には、天使に、見えた」

「リュカ。アンタ、そんな事言うの止めなさいよ。勘違いするでしょ」

「分かったよ、アンジェル」

 アンジェルと呼ばれた女は舌打ちをした。しかし目許は綻んでいた。

 スケッチを終えたリュカはカンバスにスケッチを置き、下書きする。アンジェルは作業を見守る。少し離れた所にリュカがいるので顔ははっきり見えない。しかし時折眼が合い、視線を絡ませた。近眼のアンジェルは視線が合うのを肌で感じた。

 リュカが絵を描いてからアンジェルは乱暴されなくなった。モデルに痣があるといい色合いが出せないので暴力を止めて欲しいとリュカが嘆願したようだ。下男に苦言を呈された男はいい気にはならなかったが絵の為だと我慢した。

 アンジェルは初めて外に出た。夜のバルコニーだ。風が頬を撫でる。月光が白銀の髪と肌を照らす。自分が輝いているようだ。椅子に座し手すりに凭れ庭を見下ろす。しかし近眼な上に外は暗いので不鮮明だ。調度いい。見えると欲が出る。この体と容貌に生まれて自分を呪った事はあるが感謝した事は初めてだ。外の世界もリュカの顔も見え過ぎると欲が出る。叶わないのに欲しくなる。アンジェルは月に向かって溜め息を吐いた。

 数週間してリュカは絵を完成させた。裸婦のアンジェルが下肢を魚の尾に変え水辺で横たわる絵画だった。透き通った髪と肌の質感はそのままに銀の鱗は光を受け輝く。色使いやタッチ、構図よりも美しいのは慈愛に満ちた赤い瞳だ。男は絵を大層気に入り、人の出入りが多い広間に飾らせた。リュカを褒めもっと絵を描くように命じた。

 リュカはアンジェルをモデルに絵を描き続けた。彼女を描く間は暴力が止むからだ。画筆を取っても尚、世話をする彼にアンジェルは信頼を寄せた。その一方で感情を押し込んだ。リュカが筆を運ぶ際に視線を絡ます、それだけで心は満たされると思い込んだ。

 程なくして社交界でリュカの絵が話題に上った、男の屋敷に美しい人魚の絵画があると。男は自慢した、画家の卵を拾い妾を描かせたと。その間もリュカはアンジェルを描き絵画を贈った。絵画が増える度に社交界では話に花が咲き、王の眼に止まった。ある日王は男に命じた。画家と妾を宮廷に連れて来るようにと。

 その夜、話を聞いたアンジェルは気が動転しかけた。貧困に窮した祖父に自分は売られた。肌も眼も光に弱いが変わった容姿が美しいと商品として生かされた。王の眼に止まれば自分を取り上げ、城の奥深くに閉じ込め玩具にするだろう。宮廷画家になったリュカとも二度と会えないだろう。しかしリュカにとってこれ以上良い話はない。アンジェルは運命を呪うと共にリュカの出世を心から祝った。

 部屋に珍しくリュカが入る。

「初めてね。アンタが夜に来るなんて」

 浮かない顔をしたリュカは隣に座すと俯いた。

「何よ。あの短小男から聞いたでしょ。才能を認められたのよ。宮廷画家は間違い無しよ! もっと喜びなさいよ!」

「喜べないよ」リュカは俯いたまま口を開く。

「どうしてよ?」

 溜め息を吐くとリュカは顔を上げる。

「君を描いたから、あれだけの物が、出来た。きっと、他の絵じゃ、ダメだ。さっき、過去の、絵を、見直してた。ボロ紙の、天使の絵だって、あんなに上手く、描けなかった」
「道具が揃ってなかったからでしょ」

「プロは道具や、モデルを、選ばない。その時ある物で、最高の物を、生み出す。俺は、プロじゃない。王様、アンジェルを、見たら、二度と、会えない気がする」

「まあ、そうでしょうね」アンジェルは締め付けるように痛む胸を押さえる。

「二度と、会えなくなっても、いいの? アンジェルと、俺、友達、だろ?」

「離れていてもずっと友達よ。例え二度と会えないとしても」

「……そうか」深い溜め息を吐いたリュカは瞳を潤ませ、再び俯いた。

 腕を組みアンジェルは肩を小刻みに震わせる。唇を噛み締め、腕に爪を立てる。しかしそれでも怒りや悲しみのやり場が無かった。

「アンジェル?」

 アンジェルは手を挙げるとリュカの頬を思い切り引っ叩いた。突然の暴挙にリュカは驚き彼女から眼を離せずにいた。

「友達、友達ってアンタはそれで満足でしょうけどアタシはそれじゃ不満なの! アタシはリュカが好き! 友達じゃ嫌! 一緒に居たいならアタシを攫え! それが出来なきゃメソメソ泣いていろ! 童貞が!」

 押し込めていた想いを吐露したアンジェルは呼吸を荒げ、涙を流し、肩を上下させる。

 呆然と眺めていたリュカは我に返ると微笑む。

「初めて、怒った。怒った顔も、綺麗だ」

「何よ、馬鹿。口説いてるつもり?」アンジェルは頬を伝う涙を拭う。

「うん」

「馬鹿」

「だけど、笑顔が一番、好きだ」

 リュカとアンジェルは初めて会話した時のように互いの額を合わせると笑った。

 その夜の内に脱走を決行した。布で顔を覆ったリュカはカーテンを剥ぎ取るとそれをアンジェルに結ばせ簡易ロープを作らせる。それをバルコニーの手すりにくくり付け庭へ下ろす。白いテーブルクロスを引き抜くとアンジェルに纏わせる。そしてギリシャ風の出で立ちの彼女を負ぶる。簡易ロープを伝い庭へ降り立ち屋敷を駆け出した。

 夜の都は灯りも無く閑散としていた。石畳に野良犬が寝転び、軒下で猫が眼を光らせる。

「意外と簡単なのね」アンジェルはリュカに頬を寄せる。

「君と、出会うまでは、力仕事、してたから」夜の都をリュカは駆け続ける。

「流石、アタシの旦那様」

「そんな事、言われると、くすぐったい。このまま、国境目指して、逃げるよ」

「国境って……リュカ、アンタの故郷に行くんじゃないの?」

「故郷に、帰っても、捕まるだけ、だ。隣国に、逃げて、小さな家を、建てよう。そこで、二人で、暮らすんだ。笑い合って、暮らすんだ」

 アンジェルはリュカを抱きしめ囁いた。

「アタシ、アンタの子供なら産みたい」

 リュカは恥ずかしそうに俯くと、再び顔を上げて笑った。

「俺も。君と、君の子供が、いるなら、また絵を、描けそうだ」

 二人は夜の闇に消えた。

 逃亡から四日目の朝、二人は兵士に捕えられた。国境近くの村での事だった。アンジェルは屋敷に監禁され、捕えられたリュカは窃盗の罪を問われた。殺人や火付けよりも罪が軽いのにも関わらず火刑が決まった。王への献上品を汚したと言う名目だった。

 火刑当日、死刑執行人は爛れたリュカの顔を眼にすると眉を下げて耳打ちした。『火を点ける前に刺してやる。苦しまずに死ねる』と。しかし首を横に振ったリュカは火刑台に立ちアンジェルが監禁された屋敷の方角を見据えた。柱にリュカを縛ると死刑執行人は火を放った。炎は脚を包み、体を飲み込む。リュカは瞳を閉じた。炎に蝕まれた彼は苦痛と悔しさの中、瞼の裏側でアンジェルを想い描いた。肺が焼け爛れないように、意識を失わないように呼吸を止め、最愛の女を想い続け息絶えた。

 アンジェルがリュカの死を知ったのは一カ月後だった。いつか牢から出る彼の為に、命を繋ぎ脱走しようと考えていた。しかし女中の話を盗み聞きして死を知った。

 その夜、アンジェルはバルコニーに這って出た。椅子に昇り手すりに身を乗り出し、庭へ落下した。動かなくなった彼女を月明かりが照らした。
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