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三章

十一節

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 急に電話が掛かってきたアメリアは、胸の鼓動を高鳴らせた。電話を受けると受話口から優しい穏やかな声が耳に響き、心地良くなった。

 イポリトが河川敷に来て欲しいと呼びつけた。

 彼女は真意を推し量れないまま、押っ取り刀で河川敷へ向かった。

 護岸の階段を下りたアメリアはイポリトを見つけた。

 彼はベンチに座していた。街灯がつば広帽を被ったイポリトを照らす。青白い光に照らされた彼は儚げな雰囲気を纏っていた。

 アメリアは駆け寄る。

「どうしたの? こんな所に呼び出して。それにシラノみたいな帽子なんて被って」アメリアはイポリトの正面に佇む。

「まあ座れや」イポリトは隣を促した。

「折角だからステュクス行かない? それか告白祝勝会として何処かで奢るよ?」

 イポリトはアメリアを見上げて微笑むと再び隣を促す。

「頼む。話を聞いて欲しい」

 イポリトの声が心に切実に響いた。アメリアは小さく頷くと隣に座す。

 様子が変だ。もしかしたら振られたのかもしれない。しかしそんな事を聞ける程、心臓に毛は生えていない。

 アメリアが黙ってイポリトの顔色を伺っていると、彼は言葉を紡ぐ。

「……最初に謝っておく。本当にごめんな」

 意味が分からずアメリアはイポリトを見つめた。イポリトは言葉を続ける。

「俺、アメリアに伝えたい事があるんだ」

 イポリトはアメリアを見つめた。アメリアの瞳に小さなイポリトが映る。

「愛してる」

 瞬きをする事を忘れてアメリアはイポリトを見つめた。

 彼女の瞳に映るイポリトは照れ臭そうに瞳を伏せて、言葉を紡いだ。

「放って置けないんだ。同じ望みを持ち、願い、人の為に涙を流すアメリアを。優しくて、不器用で、じゃじゃ馬で、可愛いお前が好きなんだ」

 イポリトはアメリアの左手を取る。

「嫌だったら振り解いてくれ」

 イポリトはポケットからプラチナの指輪を取り出すと、彼女の薬指に嵌めた。

 アメリアの瞳が潤み、涙が頬を伝った。

 彼女の白い指には小粒のアクアマリンが乗っていた。指輪を愛しげに撫でるとアメリアはイポリトを抱きしめた。

 予想だにしなかった彼女の反応に驚いたイポリトは一瞬体を強ばらせた。しかし腕を伸ばし優しく抱き寄せた。

 厚い胸板に頬を寄せアメリアは涙を流すが、顔を上げる。

「あたしもイポリトが好き。愛してる。ずっと一緒にいたい」

 潤んだ瞳はアクアマリンのように輝き、頬は水蜜桃のように愛らしい色に染まっていた。小さく形の良い上品な唇は歓喜に震えていた。

 唇にキスを落したい衝動に駆られたがイポリトは自分を戒める。

「……ごめんな。本当にごめんな」

 瞳を閉じたイポリトはアメリアの頬に自らの頬を寄せる。

「もう一緒に居られないんだ」

 アメリアの体が強ばる。

「どうしてそんな事言うの!?」アメリアはイポリトから身を離した。

 イポリトは力なく微笑む。

「……あと数分で俺は死ぬ」

「嘘吐かないで!」アメリアは涙を流しつつもイポリトを睨んだ。

「……嘘じゃねぇよ。幸せの絶頂にこんなクソみてぇな事言うかよ」

 イポリトの体は限界だった。バランスを失うとアメリアに体を預けた。つば広帽が地に落ちる。アメリアは頭の流血に気付く。

「……血! どうしたの!? ねぇ、どうしたのイポリト!?」

「悪ぃな。……俺が死んでもよ、アメリアが笑って暮らせるように悪魔のおっさんに頼んだからよ……心配すんな」イポリトは消え入りそうな声で囁く。

「やだ! あたしはイポリトと一緒じゃないと笑って暮らせない!」アメリアはイポリトを強く抱きしめた。

「ステュクスでよ、ヒュプノスに絡まれたんだ。……そんで素手で触れられた。だから、もうダメだ」

「ダメ! イポリトが逝くなんて許さない!」

「……我がまま言うなよ。死ぬに死ねねぇだろ。……俺が死んだら魂をランゲルハンスのおっさんに渡せ」

 アメリアは首を横に振った。

「……契約したんだ。悪魔との取引は絶対だ。俺の魂は多分ケルベロスに喰われて終いだな。……だがよ、これでいいんだ。俺はアメリアに胸の内を明かせた」

 アメリアは彼の瞳を見つめた。一等星のような瞳はアメリアを見つめる。

「……ごめんな。そんなに泣くなよ。……別嬪が台無しだ」

「……分かった。あたし、笑って暮らせるように努める」アメリアはイポリトの頬を愛おしげに撫でた。

「……良かった」

 上弦の月の青白い光が死に逝く者の虚ろな瞳に降り注ぐ。

 イポリトは最後の力を振り絞り、かつて憧れて止まなかった多才な英雄の台詞を紡ぐ。

「……さてはまた私の心なき──恋愛の殉教者!──
 エルキュウル・サヴィニヤン・ド・シラノ・ド・ベルジュラック此処に眠る、
 彼は全なりき、してまた空なりき。」

 アメリアはイポリトの手を両手で包み込んだ。イポリトは月を見上げ台詞を続ける。

「……だが、もう逝こう、では失礼、そう待たしてもおけない、御覧なさい、月の光が迎えに来ましたからなあ!」

 儚げな月を見上げるイポリトは力なく微笑むと静かに瞳を閉じた。

 アメリアはイポリトの唇にキスを落した。

 お願い、お芝居だって言って。シラノみたいに逝かないで。キスしたらおとぎ話のお姫様みたいに悪い魔法から解放されてよ。いつもみたいに悪戯っぽく笑って揶揄ってよ!

 アメリアは唇を離した。しかし彼の瞼は上がらず、呼吸も止まっていた。彼の胸からは光り輝く玉が太い尾を引いて宙に浮いていた。

 アメリアの瞳から涙が溢れ出る。

 彼女は夜空に向かって慟哭した。

 夜空に浮かぶ少しばかりの星はひとりの男の死を悼むかのように瞬いた。



 アメリアはランゲルハンスとイポリトの契約を破った。

 彼女はイポリトの体から魂の尾を断ち切ると、ランゲルハンス島へ続く水脈がある河に魂を流した。水底に沈み行く愛しい男の魂を見送ると彼女はベンチへ向かった。

 彼女はイポリトにキスを落した。そしてステュクスへ向かった。

 ステュクスのカウンター席にはランゲルハンスが座していた。いつもなら微笑み挨拶するパンドラは俯いてグラスを拭いていた。

 ランゲルハンスはアメリアに手を差し伸べた。彼女は首を横に振る。

「河に流したわ」

 パンドラはグラスを落した。ガラスが飛び散った音が響く。

 ランゲルハンスはアメリアを睨んだ。

 アメリアは毅然とした態度で言葉を続ける。

「悪魔との取引を破る事が何を意味するのか知っているわ。……あたしはどうなったってもいい。イポリトが幸せに暮らしてくれるなら、それだけで幸せよ」

 ランゲルハンスは睨み続ける。

 アメリアはこの時ばかりはランゲルハンスを恐れた。いつも優しく穏やかなハンスおじさんは、文字通り悪魔の形相だった。恐ろしさに眼が潰れるのではないかと想った。

 しかし第三者の自分が契約を破った事を後悔しなかった。それが万死に値する行為でも、自分は自分の正義を貫いたのだ。悪魔も死神も、男も女も、親も子も互いを理解する事は出来ない。しかし互いの存在を認める事は出来る。

 いかなる罰でも受ける覚悟でアメリアは毅然と立ち続けた。

 ランゲルハンスは瞳を閉じて長い溜め息を吐く。

「とんでもない事をしてくれたな」

「……重々分かってるわ」

「記憶を失ったあの男が島の女と唇を重ね、交わっても平気なのかね?」

「構わないわ。イポリトが幸せならあたしは幸せ」

「……子供を為しても?」

「幸せよ」

 アメリアはランゲルハンスの瞳の奥を見つめる。

「悪魔ランゲルハンスはイポリトの願いを叶えた。しかしイポリトの魂は死神アメリアによって奪われた。悪いのはあたし。あたしはイポリトが願ってくれた通りに幸せよ」

 ランゲルハンスは長い溜め息を吐く。

「……正直に言うがね。我が子に等しい君に罰を与えたくない。しかし契約は契約だ。私は悪魔だ。魔界を追われた身とて掟には背けない」

「構わない。業火に焼かれようとも、生きたまま腑を大鷲に喰われようともあたしは後悔しない」

「……そうか」

 ランゲルハンスはアメリアの左手を取った。彼女の薬指には愛らしい小粒のアクアマリンが乗った指輪が嵌められていた。

「悪く想うな」

 ランゲルハンスは二言、術を唱えるとアメリアの左上腕から前腕を切り落とした。

 想像を絶する痛みを堪え、アメリアは歯を食いしばったが膝を床に付け転がった。左上腕から夥しい量の血液が流れ落ち、見る見る内に床を紅に染める。

「アメリア様!」術を使ってカウンターを越えたパンドラはアメリアを抱えた。

 彼女の左前腕を握り締めたランゲルハンスは赤い滝を眺めていたが黒い外套を翻して消えた。

「今、止血致します!」

 パンドラは二、三言術を詠唱しアメリアの左上腕に手を翳した。すると大小様々な血管が閉じ、肉が閉じる。苦悶の表情を浮かべたアメリアは呼吸を荒げていたが、肉が閉じていくに連れ呼吸を整えた。

「……申し訳御座いません。魔術師として下位の私に出来る事はここまでです。失った腕は……」俯いたパンドラは首を横に振った。

 アメリアは力なく微笑む。

「……ごめんね、パンドラ。後悔してないから大丈夫」

「……ですが」

「あたしは幸せ」アメリアはパンドラを見上げると瞳を閉じて口角を上げた。

 パンドラは首を横に振る。

「アメリア様は幸せそうに見えません。私は死神の皆様が楽しくなくては……」

「……ごめんね、パンドラ」

 こんな時にまで人の心配をするアメリアにパンドラは涙を流した。



 パンドラからハデスに連絡が届き、ハデスは魔術と贖罪の女神ヘカテや部下に事件の全貌を調べさせた。そしてイポリトに死の切っ掛けを与えた二柱に死よりも重い刑罰を科せた。ハデスはアメリアの許へ代わりのヒュプノスを送ると、何百年か振りにランゲルハンス島へ赴いた。

 アメリアの許には後任のヒュプノスのチカゲがやって来た。イポリト程ではないが地獄耳の能力を持った優しそうな青年だった。彼はアメリアの住む真上の部屋に引っ越した。そこはかつてユウとリュウが暮らしていた部屋だった。

 事件の翌日からアメリアはタナトスとしての仕事に戻った。鍛冶の神であるヘパイストスが特別に作った義手にまだ慣れていない。暫くは黒いレディに乗るのを控え、翼を広げて任を遂行した。

 アメリアは嘘の報告書を送った。死神の遺体は荼毘に伏さなければならないのが掟だ。しかしイポリトの遺体を焼かなかった。今まで通りユーリエとローリー、そして腐らない遺体となったイポリトと共に生活を続けた。彼女は愛しい男を革張りの黒いソファに座させ、甲斐甲斐しく世話を焼く。その姿は象牙彫刻の女を愛するピュグマリオンを想い起こさせる程に悲しいものだった。

 出掛ける時には唇にキスを落とし、帰宅するとその日あった事やシラノの台詞を聞かせ、夜休む時には胸板に寄り添う。

 その夜もアメリアはイポリトの前で死に逝くシラノを演じ、台詞を聞かせた。イポリトの膝にはシラノのつば広の帽子が乗っている。

「最後に俺がたおれるのは承知の上だ、それが何なんだ、飽くまで戦うぞ! 戦うぞ! 戦うぞ!」

 死に際に錯乱するシラノを演じる彼女は剣の代わりに突っ張り棒を振り回す。彼女は……シラノは見えない亡霊達と戦っていた。シラノは息を切らせながら立ち止まった。

「うん、貴様達は俺のものを皆る気だな、桂の冠も、薔薇の花も! さあ奪れ! だがな、お気の毒だが、貴様達にゃどうしたって奪りきれぬいものを、俺ゃあの世に持って行くのだ」

 シラノは力なく微笑む。

「それも、今夜だ、俺の永遠の幸福で蒼空の道、広々と掃き清め、神のふところに入るみちすがら、はばかりながら皺一つ汚点しみ一つ附けずに持って行くのだ」

 シラノは剣を高く翳して躍り上がる。

「他でもない、そりゃあ……」

 シラノの手から剣が離れた。シラノはよろめき、黒いソファに座したイポリトの隣に倒れ瞳を閉じた。

 そして静かに瞳を開く。

「私の心意気だ」

                                                                                                       続

*ランゲルハンス島奇譚(3)「シラノ・ド・ベルジュラックは眠らない(下)」に続きます。
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