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二章

七節

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 イポリトとローレンスは別大陸の戦場へ渡った。様々な兵服に身を包んだ人間の他に各神族の魂の運び屋達が地を駆け巡り、そして死に逝く魂達が空を飛翔していた。ハデスやイポリトが所属する神族では本来、戦場での魂回収は禁忌を犯した死神の苦役だった。しかし世界を巻き込んだ大戦故に死者の数が膨大だった。従ってハデスは多くの死神達に非常召集をかけた。何処の神族も事情は同じようだ。戦場には数多くの死を司る神々が任を遂行していた。

 六百五十キロにも渡る塹壕網を同盟国、連合国の区別無しに多くの神々が行き来していた。何処の神族の許にも一日で数多くの死者が出る。従って指令を出す本部が纏まったリストを送る事が出来ない。故にイポリトやローレンスが所属する神族内も混乱していた。効率良く兵士に死の切っ掛けを与え魂の尾を切り離せられずに手間取っていた。

 大抵日中は静かだった。歩哨が敵軍を監視する中、同盟国、連合国の兵士は被弾し破壊された塹壕の防御壁を修理した。雨水、地下水で泥状になった塹壕の中で兵は交代で睡眠を取り、研き棒で兵服のボタンを磨いていた。足許ではネズミが這い回り、服や髪にはシラミがたかる。家族に手紙を綴る者、日記を付ける者、忍ばせていた恋人の写真を眺める者、詩作やスケッチをする者が居た。死の切っ掛けを与えるヒュプノス神であるイポリトはこの時間に集中して働いた。束の間の休息時間とは言え常に緊張は走っていた。運悪く敵軍の塹壕から視認出来る位置を通りすがった兵士は銃弾を受けて地に伏した。戦場である事を少しでも忘れた者から死は訪れた。

 明け方や夕方は特に空気が張りつめる。敵軍が攻撃する可能性が最も高い時間だ。兵士全員が射撃壕に身を潜め敵の一挙一動を、固唾を飲んで監視した。時折銃撃戦となっては多くの死者が出た。襲撃戦よりも銃撃戦が多く、多くの時間を神々は人間と同じく塹壕やその近くで過ごした。魂の尾を切り離すタナトス神であるローレンスは主にこの時間に働いた。ローレンスの監視役であるイポリトも彼の後を付いて回った。

 一度銃撃戦になれば兵士も神々も顔をしかめた。多くの機関銃や大砲が間断なく打ち出す爆音が響き、硝煙が一帯に立ち昇る。塹壕では汚物の混じった泥と血だらけの兵達が身を潜め、唇を噛み締める。そこには生きている者もいれば手榴弾の破片を受けて既に死んでいる者もいた。血と汚物の臭いに招かれたネズミが駆け回る。彼らは死者の肉を齧って生きていた。何カ国も跨いだ戦場では同盟国軍、連合国軍合わせて数百万の兵が塹壕を築いて互いを睨み合っていた。

 イポリトとローレンスは爛れた右手の包帯を解き、常に姿を透過させていた。同盟国、連合国の区別なく綴られた分厚いリストを片手に人々に死の切っ掛けを与え、戦場で散った魂を冥府へと送った。

 母の死に触れたイポリトは何も感じないよう何も想わないよう心を閉ざした。彼は普段の仕事時からそう努めていた。ローレンスを含むタナトス達は普段から悲惨な現場に立ち会う事が多いのでイポリトと同じ反応を示した。しかし死の現場に立ち会う事はないヒュプノス達は心を壊し瞳の光を失う者が多かった。

 ハデスに遣わされたのはヒュプノスやタナトスだけではなかった。黒い女神であるケール達が人間の血をすすり気に入った人間の魂を冥府へ運んだ。彼女達は死神にリストを渡す一方で本業である戦場での魂の運び屋も勤めた。イポリトが所属する神族の主神ゼウスが住まうオリュンポスからも神が来ていた。戦いの神アレスだ。彼は幼い双子の姉妹を肩に乗せていた。そして同盟国軍と連合国軍の塹壕の中間である無人地帯を嬉々として戦車でかけずり回っていた。

 魂が昇り逝く空も銃撃戦が起こる地も酷い有様だった。

 イポリトはローレンスの監視役とはいえ、頻繁に彼をロストした。地獄耳を使って探そうにも銃撃戦が始まると耳を澄ますどころではない。戦場へ出向く際ハデスに『絶対に眼を離さぬように』と忠告された。心根の優しいローレンスが死神の任を放棄して人命を助ける事が以前幾度もあった。特に大勢の人間が死んで逝く現場に立ち会うとローレンスは人間の肩を持つ。ハデスはそれを防ぐ為、優れた地獄耳を持つイポリトの家系にローレンスの監視役を任じた。

 イポリトは塹壕から前進する兵達の頭に右手で触れ想った。戦場じゃ無理な話だ。滅茶苦茶な状態で膨大な件数のリストを渡して……この有様を知って言ってるのかハデスの親爺は。……まあ知ってて言ってるんだろうな、恐ろしい男だ。

 機関銃の雨が降る中を兵と共に前進する。次々と地に崩れる兵を置き去りにしてイポリトはローレンスを探した。イポリトや兵が前進した後には命を散らした兵達が折り重なる。他神族の魂の運び屋達が現れると魂を取り上げ飛び去った。

 姿を透過させたローレンスは同盟国軍の塹壕にいた。彼は死に逝く兵士の手を左手で握っていた。眼窩が窪み濃い隈を作り死神然とした彼の容貌は戦場に来てから更に磨きがかかっていた。しかし死に逝く者を見つめる眼差しには慈愛と悲しみが混在する。手を握られた兵士は重傷を負っていた。彼は浅い呼吸をしつつもローレンスを見上げて微笑んでいた。どうやら霊感が強い性質のようでローレンスが見えているようだ。

 イポリトはローレンスを見つめた。ああ、あいつはやっぱり神様なんだなぁ。神様ってか、天使だな。

 手を握られた兵士は満足そうに笑うと息絶えた。

 彼の瞼を閉じたローレンスは胸から出ていた魂の尾を右手で断ち切った。魂を空へ放つと立ち上がり遺体に一礼する。踵を返したローレンスはイポリトに気付く。

「……はぐれたから心配してたよ。大丈夫。僕は仕事してるから」

 鼻を鳴らしたイポリトはリストをカーキ色の背嚢に仕舞うとローレンスの左手首を引っ張る。

「俺からはぐれるんじゃねぇ。行くぞ」

 日が落ちた。ヒュプノスの仕事が終わってもタナトスの仕事は終わらない。膨大なリストを青息吐息でこなしたイポリトはローレンスに付き添った。傷口が腐り全身に菌が回った兵士の手を取りローレンスは天使のような眼差しでみつめる。イポリトは彼に背を向けて座し、塹壕から満天の星空を眺めていた。瞬く星々はローレンスの悲しくも優しい瞳のようだ。

 ……そういえばローレンスの母ちゃん、つまり俺の大ばあちゃんって夜の神のニュクスだよな。こんなに綺麗な星々を纏ってんだから相当な別嬪なんだろうな。昔読んだ神話で知ったけどローレンスと同じく自分の仕事が大嫌いなんだっけか。今なら大ばあちゃんの気持ち理解出来るぜ。地上で起こる悲惨な事を毎夜見なければならないもんな。

「……お待たせ。付き合わせちゃってごめんね」死者となった兵士に向かって一礼したローレンスが声を掛けた。

「待ってねぇよ。疲れたからボーッとしてたんだよ」イポリトは鼻を鳴らし立ち上がった。

「何処か休める場所へ行こう。出来れば中間の無人地帯」

「おう」

 二柱は塹壕をよじ登り地上に出た。地上では様々な神族の神が一日の疲れに項垂れ、地に尻を着いていた。

 天を仰ぐと遮る物など無い夜空が二柱を出迎えた。

「……こんな戦場でも夜空は綺麗だな。母ちゃんを弔った時みたいだ」イポリトは夜空を仰ぎつつ歩く。

「……うん、星が悲しく瞬いてるね」ローレンスも眼を細め後に従う。

「ニュクスばあちゃんってローレンスの母ちゃんなんだろ?」

「うん。君の何代も前のおばあさんだね」

「ニュクスばあちゃんの息子がローレンスなんだから不思議だよな。俺と同じくらいの年に見えるくせに実は超絶じじいのタナトスなんだからよ」イポリトは笑った。

 すると先程まで地に尻を着けて項垂れていた者達が二柱を睨んだ。疲れ切った空気が急変し緊張が走る。

 イポリトは物々しい様子の彼らを見遣る。

「何だ?」

 ローレンスは俯いた。

 先程まで休んでいた男神が二柱に近付く。青白く光る瞳をして黒い翼を背から生やし、爛れた右手をぶら下げている。どうやら同じ神族の死神のようだ。

「……お前、タナトスだな?」近付いた男神が俯いたローレンスに問う。男神の表情は険しい。

 眉を下げたローレンスは爪先を見つめていた。

「んだよ?」イポリトは問い返した。

 男神は再度問う。

「タナトスの始祖だな?」

 黙していたローレンスは小さく頷いた。

 すかさず男神は左手でローレンスの頬を殴った。痩躯のローレンスは地に尻を着いて倒れる。肉体的疲労と精神的疲労もあって彼は気を失った。イポリトは男神を左手で殴り返す。先制攻撃をした男神とは違い、逞しい体躯のイポリトの一打は重かった。

 男神は口の中を切って地に手を着いた。しかし血を吐き捨てると立ち上がりイポリトに突っかかる。

「ヒュプノスのガキは黙ってろ! これは不能じじいと俺達タナトスの子孫だけの問題だ!」

「俺はそいつの監視役だ。じじいに用があるなら俺を倒してからにしな」イポリトは男神の瞳を見据え構えをとった。

 男神もイポリトを見据え構えをとる。空気が張りつめた。

 両者が睨み合っていると、突如として二柱の間に光の粒子が巻き起こる。イポリトと男神が光の粒子を見つめていると中から女が現れた。彼女は肩にフクロウをとまらせていた。

「おやめなさい、二柱共」鎧に身を包んだ女は冷ややかに二柱の男を見遣る。

 イポリトと男神は矛を収めた。

 なんだ、この堅物そうなねーちゃんは。ただモンじゃなさそうだな。イポリトが女を眺めていると男神は鼻を鳴らし何処かへ逃げ去った。

「人間が下らない争いをしているからと神まで争う事はないでしょう?」女はイポリトを見据えた。

「……最もだとは想うがねーちゃん、あんた一体何者だ?」

 女は眉をひそめたが咳払いをして口を開く。

「私は知恵と戦いの女神アテナ。主神ゼウスの娘です。少しくらいはご存知でしょう?」

 神話を想い出したイポリトは大声を上げる。

「堅物処女のアテナか! 黒髪美少女を蛇頭に変えた嫉妬深い真面目処女!」

 アテナはイポリトの頭に拳を下ろす。戦いの女神だけあって重い一打だった。

「痛ぇな!」イポリトは頭をさすった。

 石頭のイポリトを殴り、赤くなった手をアテナは幾度となく振る。

「『堅物・嫉妬深い』は余計です。ローレンスが彼の子孫に絡まれていたようですね。貴方は彼の監視役でしょう。しっかり見張らなくてどうするのですか、イポリト」

「ローレンスはともかく、何で一介のヒュプノスの名前を知ってんだよ?」

「貴方はローレンスと同じく冥府でもオリュンポスでも有名ですよ。好色で品位に欠けているものの心根が優しい男だと。女性が苦手で品が良く心根の優しいローレンスとは優しさのベクトルが違うようですけれども」

 イポリトは鼻を鳴らした。

「ローレンスをよく想わない神が多いのです。その神々からローレンスを守らなくて何が監視役ですか。しっかりなさい、イポリト」

「……ローレンスに敵が多いって、どういう事だよ?」

 アテナは咳払いをすると、岩に腰を掛ける。

「人の死を司る仕事は忌み嫌われるものです。ハデスの命を受け鍛冶の神ヘパイストスによって作られたローレンスのクローンの末裔達が彼を恨んでいます」

 腕を組み、話を聞いていたイポリトは問う。

「つまり、アレか? 『てめぇがさっさとファック決めねぇからクローンなんか作られたんだ、クソインポ。てめぇの所為で俺達の先祖が造られて、俺達はこんな仕事させられてサノバビッチ!』って訳か?」

「……多少語弊がありますが大筋はそうです」アテナは品のない言葉遣いに頭を抱えた。

「……救われねぇじじいだな。まだ見ぬ子孫を守ろうとしたのに自分の遺伝情報を弄ばれて。挙げ句の果てにはクローンの子孫達に恨まれてるなんてよ」イポリトは溜め息を吐く。

「故にその為の監視役でもあるのです。優れた地獄耳の能力もそうですが貴方の家系は体躯が逞しく武術に向いています。従って代々、ハデスに監視役を任じられるようになりました」

 地に倒れたローレンスをイポリトは見遣った。ローレンスは戦火でボロボロになり、顔は煤と泥だらけになり苦悩し気を失っていた。

 アテナは腰を上げる。

「兎にも角にも、これ以上ローレンスが争いに巻き込まれぬよう監視して下さい」

「簡単に言うけどよ、こんなしっちゃかめっちゃかな戦場じゃ無理だぜ。俺だってローレンスだって日中は仕事があるんだ。直ぐにロストしちまう」イポリトは鼻を鳴らした。

「勿論心得てます」

 アテナは瞳を閉じると名を呼ぶ。

「アレス!」

 地に倒れるローレンスの側で光の粒子が巻き起こる。すると中から甲冑を纏った容貌の美しい男が現れた。筋骨逞しい男の肩には黒髪の双子の幼い姉妹がへばりついていた。彼は戦いの神アレスだ。彼もアテナ同様、主神ゼウスを父に持つ神だった。しかし知恵を司るメティス女神を母とするアテナとは腹が違う。彼の母は結婚を司る女神であり、大神ゼウスの正妻ヘラである。アテナとアレスは腹違いの姉弟だ。

 腕を組むアレスは舌打ちするとアテナを睨んだ。アテナは臆さずアレスを見据える。

「日中のローレンスの警護を頼みます」

 アレスは唾を吐く。

「うるせぇクソばばあ。俺は戦いの神だ。戦場かけずり回って忙しいんだよ」

 ぶち切れたアテナはアレスのサンダルを踏みにじって肉薄する。

「お黙りヤリチン! あなたはどうせ戦車を転がして遊んでいるだけでしょう? 私は何も生み出さない戦争を早く終わらせる者に味方しなくてはならないのです。戦いとは刃を交えるだけではありません。戦車を転がすだけなら死神の仕事を手伝っておやり! ローレンスの警護をしておやり!」

 アレスは金のサンダルを履いた足をアテナに踏みつけられる。苦悶の表情を浮かべた彼は首を縦に振る。

「やればいいんだろ、やれば!」

「分かれば宜しい」アテナはサンダルから足を離した。

 姉弟喧嘩を眺めていたイポリトにアテナは『あとは頼みますよ』と微笑むと光の粒子となって消えた。

 サンダルから覗く素足を擦っていたアレスはイポリトを睨む。

「日中はローレンスの面倒を見てやる。しかし夜は知らんからな。明け方の睨み合いになる前にここに連れて来い」

 気を失って倒れているローレンスをつつく幼子達にアレスは声を掛ける。

「フォボス、ディモス、行くぞ」

 幼子達は可愛らしい声で返事をすると、父であるアレスの肩に飛び乗った。アレスはイポリトを見下ろして鼻を鳴らすと光の粒子となって消えた。

 残されたイポリトはローレンスの介抱をしつつ、これからどうするか考えた。有り難い事にアテナとアレスの二柱が手を貸してくれた。日中はローレンスの心配をせずに仕事を全う出来そうだ。夜は俺がローレンスを見れば良い。……しかしこれじゃ根本的な問題解決にはならない。ローレンスを憎むクローンの子孫達を遠ざけたって怨嗟は深くなるばかりだ。それに人間が酷い想いをしている時に神同士が争ってどうするんだ。ティコが言っていた通り人と人、神と神、互いを理解するのは難しい。仲良くなるのは不可能だとしても程々に付き合える道はないのか。

 イポリトは胡座をかいて夜空を仰いで惚けた。

 優しい日々を想い出した。酒にピアノに映画に芝居……どれも楽しかったなぁ。特に芝居観た後は台詞をティコに聞かせてやったっけな。あのハゲのおっさんの芝居……なんて言ったっけかな、タイトル忘れちまったよ。ずる賢いあの女の台詞をティコは気に入っていたな。

「天の力でなくてはと思うことを、人がやってのけることもある。運命が司る空の下にもずいぶん自由な余地があるはず。でも、私たち人間が到らないせいで、できることも駄目にしてしまうのだ」

 イポリトは夜空に向かって溜め息を吐いた。

 すると足音がした。イポリトは振り返る。背後には馴染みのケールであるカーミラが書類を持って佇んでいた。

「明日のリスト、お前の分とローレンスの分持って来たよ」カーミラはイポリトに書類を差し出した。

「……おう。サンキュ」イポリトはそれを受取ると、カーキ色の背嚢に仕舞った。

「しかし戦場でシェイクスピアが聞けるとはね。こんな無法地帯で随分文化的だね」

 イポリトは鼻を鳴らした。

「戦争終わったらまた独り芝居観せてよ、あの補佐役居なくなってから観てなかったもの。イポリトの『サロメ』とか『お気に召すまま』とか好きだったなぁ。楽しみにしてるから。じゃあね」カーミラは踵を返した。

 イポリトは彼女の言葉に眼を見開かされた。

 それだ!

「頼みがあんだ! 聞いてくれ!」

 イポリトはカーミラの腕を掴んだ。
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