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二章

六節

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 別れの日、ローレンスの提案で三柱は写真館で記念撮影をした。別れの挨拶も程々に写真館から出るとティコは直ぐに車を捕まえて去った。

「もうちょっと別れを惜しみたかったのに……」眉を下げたローレンスはティコを乗せて走り去る車を見送る。

 イポリトは顔をしかめる。

「……クソばばあ、早くくたばりやがれ」

 ローレンスと酒を酌み交わして愚痴を言い、彼女との日々に決別したイポリトは仕事に明け暮れた。彼は外出先で地獄耳を澄まし、ローレンスの動向を探っていた。仕事を終えたローレンスはリビングの椅子に膝を抱えて座し、心を別世界へ彷徨わせていた。

 イポリトは偶の休日の昼を映画館や劇場で過ごし夜は売春婦と睦み合った。ティコとの想い出が詰まったピアノからは遠ざかった。

 彼は売春婦達の評判がいい客だった。大抵の客は欲望のままに抱くがイポリトは彼女達を一人の人格として思いやった。彼女達の気が乗らない時や具合が悪そうな時は金を払って自分の失敗談を面白可笑しく聞かせて夜を過ごした。

 ある時、彼は古参の売春婦から『新米の水揚げを頼みたい』と依頼を受けた。親を亡くした少女を充てがえられると、破瓜の際に彼女が恐怖を抱かぬように優しく抱いた。精力に溢れ逞しく優しい彼に恋する者も多かった。しかし彼女達の瞳に慕情の火が灯ると彼は二度とは抱かなかった。

 ──互いに不幸になるのはやめよう。

 ティコの言葉がイポリトの心に潜んでいた。

 金を払って性欲を吐き出しているとは言え同情や偽善にしか過ぎない。互いが向き合っても同じ未来を見据え寄り添っている訳では無い。これは愛ではない。唇を求める売春婦に彼は応じなかった。そして彼女達が妊娠しないように細心の注意を払った。

 数年後、イポリトはハデスから辞令を受けた。リビングで受取った辞令の紙には『ローレンスと共に別大陸へ渡り、戦場にてヒュプノスの任に務めよ』と書かれていた。

 世界中で軍靴の音が響いていた。イポリトの管轄区がある新興国の大陸では別大陸と相互不干渉を謡っていた。その時期、新興国にとって戦争は他人事であった。

 夏に起こった戦争はクリスマスを祝う頃には終結すると神々も人々も思っていた。しかし運命はそれを望まなかった。新しい兵器の投入により戦争は延び、戦死者は後を絶たない。苦役の死神のみでは戦死者の魂回収がつかなくなった。そこで各神族は死を司る神々を増員して各戦地に向かわせる事にした。故に罪を犯していないのにも関わらずイポリトは戦場での魂回収の辞令を受けたのだった。

 戦争か。

 歴史でティコから習ったな。人間はずっと戦争してるって。その度に禁忌を犯して苦役をしている死神連中は戦場へ送られる。人間も堪ったもんじゃねぇが死神や冥府の連中だって堪ったもんじゃない。仕事が一気に来やがるし眼前に広がるのは地獄絵図だ。内地で愛国心に燃え心躍らせ勇んでいても、戦地に足を踏み入れれば屍の山と腐臭に迎えられる。

『なんで戦争なんかすんだよ? 皆で仲良くすりゃいいじゃねぇか』ってティコに聞いたっけ。あいつは悲しそうに微笑んで答えたっけな。

 ──宗教も思想も文化も言語も違うんだ。民族問題や領土問題、資源問題がいつだってある。仲が良い奴もいれば悪い奴もいる。皆でお手々繋いで仲良くしましょうなんざ土台無理な話なんだ。……仲良くは出来ねぇけど本当は程々に付き合う事はできるんだ。しかしな、人間ってやつは命の時間が短い。そんな事はさっさと忘れちまうし口当たりのいい物しか受け入れねぇんだ。

 もうピアノは弾けねぇかもな。

 イポリトは辞令の紙を丸めて床に放る。そして椅子の座面に積んでいた楽譜を退かした。楽譜を乱雑に繰り、気に入っている曲を見つけると数年振りにピアノの前に座した。

 ──耳で覚えるのも良いがちゃんと楽譜を読みな。基本を疎かにするな。

 ティコの言葉が甦る。殊に気に入った曲に関しては耳で覚えて弾いたからアレンジしちまって怒られたな。いつもティコは基本を、本質を大事にしていた。

 鍵盤蓋を開くと敷かれていたフェルトを床に放った。楽譜の間から紙切れが床へ落ちたがイポリトは気付かない。譜面板に楽譜を立てて鍵盤を軽く叩く。鍵盤が元の位置へ上がるとイポリトは次々と鍵盤を叩いて耳を澄ませた。

 随分とピアノから遠ざかってたのによ。音、狂ってねぇな。……ローレンスのクソじじい、いつの間にか調律師呼んでやがったな。

 イポリトは鼻を鳴らした。じゃ、あとは俺の指が狂ってねぇかどうかだな。

 鍵盤に指を添えて一息吸うと想いの丈を曲にぶつけた。ピアノの音が静寂を破る。少し余韻を持たせ、悲しみの嵐のように曲が展開する。

 クソ。久し振りで指がもたつく。自分の指じゃねぇみてぇだ。片手三拍子、片手四拍子なんて以前はよく弾けたもんだ。ショパンのおっさん、奏者泣かせの酷ぇ曲作りやがって。

 この曲を初めて聴いた時、幼かったイポリトは恋に落ちた。腕に粟が立ち瞳から涙が幾筋も流れ落ちる。走っても無いのに心臓は鼓動を速める。この感情を何処に向かわせれば良いのか分からない。もどかしくて切なかった。いつまでもティコが弾くこの曲を聴いていたかった。

 楽譜を眼で追い、鍵盤に指を走らせつつもティコとピアノを練習した日々を想い出す。

 ──ティコ、この曲教えてくれよ! 弾けるようになりたい! 惚れちまったんだ!

 ──クソ坊主の癖に眼が高いね。『幻想即興曲』に恋したなんて。

 ──『幻想即興曲』? なんで幻想なんだよ。

 ──本当は『即興曲』さ。作曲家のショパンが友人に『この曲気に入らねぇから俺が死んだら楽譜燃やせ』って病床で頼んだんだ。だけど死んでから友人に裏切られた。タイトルを変えられて世に出された。

 ──こんなにすげぇ曲なのに気に喰わねぇって……。でもショパンのおっさん、不憫だな。

 ──芸術家ってのは大抵不憫なモンさ。自分が気に入ってる作品は世に受けない事が多い。逆に気に喰わねー作品が受けちまうんだもの。やりたい事と受け入れられる事が違う。芸術家ってのは美女に叶わぬ想いを寄せる醜男みたいなモンさ。『シラノ・ド・ベルジュラック』みたいにな。

 ──ほーん。じゃあ俺も醜男のシラノみてぇなモンだな。……でもシラノは最期ロクサーヌと両想いになれるぜ。

 ──お前さんはシラノが好きだったな。じゃあお前のロクサーヌは誰なんだい? おっぱいがデカいパイ屋のエリーかい? 綺麗なブルネットの洗濯屋のジャネットかい?

 ──ほっとけよ! 絶対ぇお前だけには教えねぇ!

 ──あんだと?

 ──うっせ。クソばばあ。

 ──クソじじいだっつってんだろ、クソ坊主。

 ──うっせ。クソ。

 ──あんだと? クソ。

 曲調は嵐のように展開する。嵐の中に小さな灯火が見え曲は息を引き取るように終息した。イポリトは鍵盤に指を置いたまま項垂れた。

 長い溜め息を吐くと椅子から立ち上がってリビングを出ようとした。すると爪先に先程床に落とした紙が当たる。彼はそれを拾い上げると眺めた。

 数年前、別れの日に写真館で撮ったスリーショットだった。モノクロの世界では左から悪戯っぽく微笑むティコと死神面のローレンス、仏頂面の自分が写っていた。写真を受取った記憶は無い。きっとローレンスが何処か自分の眼につく場所に忍ばせたのだろう。

 鼻を鳴らしたイポリトはティコが映った箇所を折り畳む。ローレンスと自分のツーショットにするとシャツのポケットに写真を忍ばせた。
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