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三章

二節

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 イザベラの死から一月が過ぎた。

 見習いの期間もあと僅かとなったが、未だにローレンスに気付いて貰えないアメリアはもう諦めていた。ハデスが言った『気付いて貰えなければ存在を消す』のは嘘だろう。ただの発破にすぎない。人間があまりにも増え過ぎた為、一介の死神の存在を簡単に抹消する事はない。父とはかけ離れた任地に飛ばされ、仕事をしつつ細々と暮らすのだろう。母に操を立てた父は人類が死に絶えるまで任を全うするだろう。母は永遠にランゲルハンス島に一人残されたままだ。

 しかし『自分が実の娘である事を告白する』事は叶わない。それをすれば掟破りになる。『人一倍鈍いローレンスが自然に気付くのが十三の苦役の最後の苦役だ』とハデス様に厳命されている。それを破れば父の罪は永遠に許されない。

 力が及ばなかった。娘らしくもなかった。全ては自分の所為だ。

 母さん、ごめん。

 でも別れるまでは父と共に過ごせる日を大切にしたい。アメリアはそう覚悟していた。

 ある日、仕事から戻ると集合玄関のポストに一通手紙が入っていた。愛らしい春の使者であるミモザが印刷された封筒にはアメリアの宛名と住所しか記されていない。不思議に想いその場で封を破ると手紙を読む。

 レオからだった。

 携帯電話を落としたようで手紙をしたためたらしい。イザベラを葬った後の事が色々と記されていた。イザベラの墓地の隣に土地を買った事、自分の事務所を畳んで新しい事務所に世話になっている事、そこで民事の勉強をしつつ今度はボリスやザックのような声無き者の声を照らし法に反映出来るように努めたい、と記されていた。

 自分の道を歩き始めたんだ。

 小さな溜め息を吐いたアメリアは瞳を伏せる。あたしはもう諦めてただ時が過ぎるのを見送るだけなのに……レオは自分の足で歩き始めたんだ。

 気を取り直し文末に目を通すと『君のお蔭でイザベラの最期の時を家族として過ごせた。ありがとう。君の勇気と優しさに感謝と敬意を示す。困った事があればいつでも来なさい。格安で依頼を受けよう』と記されていた。

 勇気なんてないのに……。自分の事になると全くダメで、それなのに他人の事になると懸命に熱くなって……ただのおせっかいの馬鹿なのに。

 手紙を折り畳んだアメリアは長い溜め息を吐くと階段を上がり家へ向かった。

 玄関でブーツを脱いでいるとオーブンの匂いが漂って来た。鉄を熱した、決して良い香りとは言えない胃が酸っぱくなる匂い……。イポリトが何か作ってるのかな。ピザだったら嬉しいな。あいつ、口も態度も最低だけど料理はとても美味しいもん。

 キッチンに顔を出したアメリアは瞳を丸くする。

 イポリトが立っていると思いきや、そこにはエプロン姿のローレンスが佇んでいた。一つに結った長い黒髪は小麦粉を被り、ワークトップには水分と粉が纏まらない生地の塊やゲルが幾重にも重なり、シンクには使用済みのボウルや泡立て器等が山積している。小麦粉が飛び散ったカウンターには折り畳まれた紙片が置いてある。キッチンは眼を当てられない様になっていた。

「何やってるんですか」眉根を寄せたアメリアはジャケットを脱ぐとローレンスに近付く。

 アメリアの帰宅に気付いたローレンスは瞳を丸くするとカウンターの紙片を咄嗟に取り上げ、握り締めた。

「あ……おかえり、アメリア」

 ローレンスは片手でボウルを抱えている。アメリアはボウルを覗き込んだ。どうやら生地を捏ねていたらしい。生地が巧く纏まらずにダマになっている。

「お菓子作ってるんですか?」アメリアは問うた。

「……うん。いつもマフィンとかクッキーとか焼いてくれるから御礼にって。……アメリアが帰る頃に焼きたてのクッキーを御馳走しようと企んでいたんだけど、何回やっても生地が纏まらなくて……」

 ワークトップの材料や道具をアメリアは見遣る。インスタントコーヒーやココア、バターの箱、昨日買ったばかりの牛乳パックが乗っていた。牛乳パックを手に取ると中は殆ど空だ。牛乳なんてクッキーで大量に消費する材料ではない。

「レシピ読んでちゃんと計量してますか?」

「え……? 計量って?」

 アメリアは溜め息を吐いた。ローレンスは狼狽える。

「イポリトが『料理なんて目分量でいいんだ。レシピの流れだけはちゃんと把握しておけ』って言ってたから……計量は要らないんじゃないの?」

「日常的に料理をする人は目分量でも大丈夫です。でもそもそも料理とお菓子作りは違います。料理は作り手のセンスによって多少左右されますが目分量でもそこそこ美味しい物が出来ます。お菓子は科学です。量と手順が狂えば結果は出ません」

 ローレンスは瞳をぐるぐると動かす。

「え……つまり……?」

「計量しないからこんな悲惨な状態になったんです」

「悲惨……」ローレンスはキッチンを見渡す。先程追加で買って来たバターは既に空になり、失敗作の生地も極東の五重塔のように重なっている。ストッカーを見遣ると小麦粉もそろそろ在庫が尽きそうだ。だのにボウルの中の生地は一向に纏まらない。ローレンスは眉を下げた。

 しまった。言い過ぎた。自分を喜ばそうとした父の悲しげな表情を見たアメリアは眉を下げた。

「……そうだよね。幾らなんでもこれはないよね。ごめんね」

 瞳を潤ませ片付けようとするローレンスの手をアメリアは慌てて抑える。

「手伝います! 手伝わせて下さい! もう直ぐここを去らなきゃいけないのにあたし、お菓子作りくらいしか父さんに恩を返せないから……」

「アメリア……」

「手伝わせて下さい。一緒に作ったら絶対に美味しいクッキー焼けますから。あたし、母さんに教えて貰ったから腕に自信はありますよ!」

 自分を真っ直ぐ見詰めるアメリアにローレンスはこっくりと頷いた。

 ローレンスがキッチンを片付けている間、アメリアはレシピにざっと眼を通すと、足りなくなった材料を買いにスーパーへ出向いた。帰りにイポリトと鉢合わせたので『料理とお菓子作りの違いくらいちゃんと教えてあげなさいよ馬鹿』とイポリトの向こう脛を蹴っておいた。

 そのまま一緒に帰ると思いきや、イポリトは『ちょっくらステュクスで一杯引っ掛けて来るわ』と背を向けてしまった。もう直ぐお別れだし父さんと二人きりになれるように気を遣ったのだろうか? いや、まさか。ガサツなイポリトがそんな事考える訳ない。帰り道が一緒だと会話が気まずいだけだし、本当に呑みたくなったのかもしれない。

 帰宅したアメリアはローレンスと共に、綺麗になったキッチンでクッキー作りに励んだ。

 材料を電子スケールで正確に計量し、ボウルに入れて混ぜる。バターは電子レンジ温めるよりも室温で柔らかくする方が風味は飛ばない事、生地を練る際は纏まり辛くても焦らない事……コツを説明しつつ実際にやって見せ、ローレンスにもやらせた。

 ダマの生地がついた華奢な手がボウルから離れると白くとも武骨で大きな手が代わりに入り、生地の塊を捏ねる。しばらく捏ねているとボウルに張り付いていたダマの生地が塊に吸着した。

「そうそう。流石男の人。大きな手で力強く捏ねると早いですね」ローレンスが捏ねるボウルをアメリアは覗いた。

「アメリアの教え方が上手だからだよ。さっきはこうならなかったもの」ローレンスは微笑む。

「ううん。あたしが居なくても本の通りにちゃんと計量していれば出来ましたよ?」

「謙遜しないでよ。君が居たから生地が纏まったんだ」

 大好きな父に褒められ、気恥ずかしくなったアメリアは頬を染める。

「あ、あたし、オーブン温めておきます」

 背を向けオーブンレンジのボタンを押すアメリアにローレンスは話しかける。

「あと数週間でお別れだね」

「……はい」

 温度を設定する指が止まったが、アメリアは気を取り直して設定を続ける。それを知ってか知らずかローレンスは話を続ける。

「来週から仕事で僕が付いて回るけど……最終チェックの規則で弟子との接触は禁止されてるんだ……だからタンデム出来ない。僕はイポリトのサンダーバードを借りるつもり。移動中何かあればインターコムでのやり取りになるけど、インターコム買った?」

「ええ」

「良かった。今まで現場に少し付き合って来たけど殆ど問題ないから安心して臨んでね。形式的なものだから。それよりも僕の方が問題なんだよ。今までのアメリアの教育課程のレポート、サボってたからハデスに怒られた」

 いい年をして『怒られる』父にアメリアは失笑する。

「レポートをサボって……あたし、本当に一人前になれるんですか?」

「大丈夫だよ。僕の監視レポートをイポリトが提出してるけど、それにもアメリアの事少し記してあるみたいなんだ。この前ハデスに怒られた時、それでアメリアの様子を窺っていたみたい」

「そうですか……良かった」

 その会話を最後にローレンスとアメリアは黙す。互いに別れるのは辛かった。近い未来の話をするのは辛い。

 オーブンの運転音、生地を捏ねる音だけがキッチンに響く。

「最後に……教育者でもないのに君に教育を施せて良かったよ。……ハデスには感謝してる」

 アメリアは洟を啜ると目頭を押さえる。

「あたしも……父さんに会えて良かった」

「こんなにも優しくて素敵な娘と仕事ができたばかりか、お菓子作り出来た事にも感謝してる」手を止めたローレンスはオーブンに背を凭れたアメリアを見遣った。

 気配に気付いたアメリアは顔から手を離すと笑顔を作る。

「あたしも……父さんとクッキー焼けて良かった!」

 眉を下げ、ローレンスは微笑んだ。切ない想いから一転、気恥ずかしくなったアメリアはボウルを覗く。

「それより、ほら! 大分生地が纏まりましたよ! 漸くタネになった! 冷蔵庫で二、三十分寝かせないと」

 ボウルからタネを取り出し、ポリ袋に移し替えるアメリアを眺めローレンスは口を開く。

「……君にお菓子作りを教えたお母さん……ユウもそうやっていたの?」

 突如出た母の名に驚き、アメリアはタネが入ったポリ袋を落とす。驚きのあまり父から視線を外せない。時間が止まったようだった。

 ローレンスは瞳を伏せず、また潤ませず再度娘に問う。

「……ユウもそうやっていたの?」

 間違いなく父は母の名を口にした。見開かれたアメリアの瞳が潤む。父に気付いて貰えた喜び、鈍感な父を恨む怒り、今まで孤独に耐えた悲しみ、抱きつきたい衝動……胸に様々な感情や衝動が渦巻き、脳がそれを巧く処理出来ない。

 答えなければいけない。『はい』とただ一言……それだけで全ての苦しみやもどかしさから解放されるのだ。しかし言葉を紡ごうにも心と喉は反対で、アメリアは声を出せない。頷こうにも首の筋肉が石像のように固まりそれを許さない。下瞼から溢れ出た涙は次々と頬を伝う。泣いてはダメだ。泣いたら答えられなくなる。自分よりも辛い想いをしていたのは父だ。泣いてはいけない。アメリアは必死に歯を食いしばり嗚咽を堪える。

 ただ堪える事しか出来ない娘の頬にローレンスは手を添える。

「今まで寂しい想いをさせてごめんね、アメリア。……もう泣いてもいいんだ」

 俯いたアメリアは歯を食いしばる。唇の隙間から漏れた息がキッチンに響く。

 泣き顔を見せまいとする娘を不憫に……そしてこの世で最も愛しく感じたローレンスは彼女を引き寄せる。

「辛かったね。苦しかったね。でももう終ったんだ。生まれて来てくれて……そして僕に会いに来てくれてありがとう、アメリア」



 オーブンを予熱している間、ローレンスはソファに座らせたアメリアにシナモン入りのホットワインを作ってやった。

 シナモンスティックでワインを掻き回すアメリアの瞳は充血している。ローレンスは彼女の隣に腰を下ろす。

「どう? 少しは落ち着いた?」

 洟を啜ったアメリアはこっくり頷いた。

 ローレンスは微笑む。

 父の微笑みに心を溶かされアメリアは顔を上げた。ローレンスはティッシュを差し出した。

「……ありがとう」ティッシュを受取ったアメリアはコーヒーテーブルにマグを置くと鼻をかむ。ローレンスは微笑みながらそれを見つめていた。

 自分を見詰めるローレンスにどんな顔を向ければいいのか分からなくなり、アメリアは決まりが悪くなる。もぞもぞと膝を動かし視線を落とした。

 ローレンスは笑う。

「可愛いな。決まりが悪くなるとユウはいつもそうしていた」

 アメリアは唇を尖らせた。

「本当に君はユウに似ているね。優しい所、強気な所、可愛らしい所、元気な所、ポンポン怒る所、そしてその顔……全てユウ譲りだ」

「……父さん譲りの所は?」

 ローレンスは娘の髪を撫でる。

「綺麗な黒い髪、泣き虫な所、一度決めたら貫き通す頑固な所、鈍感な所……短所ばっかり似ちゃって」

「……母さんの事怒ってませんか?」

「怒るものか。……そりゃどうやって君が出来たかって考えが及ぶと男としてもタナトス神の祖としても複雑になるけど。でも娘を産んで一人で育ててくれたんだ。感謝してるよ。逆に僕が怒られないかってドキドキしてる」

「どうして?」

「いつまで経っても鈍感だって。娘を困らせて酷い父親だって」ローレンスは苦笑を浮かべる。

 大好きな父に実の娘と認識して貰えた。アメリアは破顔した。

「みんな元気?」ローレンスは問うた。

「はい」

「ハンスとニエは仲良くやってる?」

「ラブラブ。あっつあつで島の海が蒸発するくらいに」

「人魚とフォスフォロは?」

「相変わらず友達同士ですけど……仲良く喧嘩してます」

「そりゃ良かった」

 ローレンスは微笑むと頬を染める。

「……僕の大事なお嫁さんはどうしてる?」

「毎日父さんを想って暮らしてます。小ちゃくて美人だからモテるんだけど、言い寄ってきた男の人を片っ端から振ってます。ご飯食べる時はいつも陰膳してるくらい。今でも変わらずに父さんを愛し続けている」

 ローレンスは瞳を潤ませた。

 そんな父にアメリアは気付かない振りをする。

「母さんはあたしを死神にするつもりはありませんでした。父さんの忘れ形見として生きてくれればそれで充分だったって……。幼いあたしが『死神になる』って言った時には母さんは猛反対しました。でも『父さんに会いたい。皆の為に生きる優しい父さんみたいになりたい』って言い続けた。母さんは根負けしてハンスおじさんにあたしを託しました」

 ローレンスは瞳を伏せる。

「ハンスおじさんを介してハデス様にお会いして、父さんに身元を明かさない事を条件に死神の見習いに就く事を許されました」

「そうだったんだ……」

 アメリアは丸めたティシュをゴミ箱へ投げ入れる。

「……父さんはいつあたしの事気付いたんですか? 最近気付いたの? それともずっと前から?」

「うん……最近だよ」

「どこら辺を娘だと想ったんですか?」

「え……えと……」ローレンスは瞳をぐるぐる動かす。まさか他人に『アメリアはお前の娘だ』と言われたとは口が裂けても言えない。ましてやアメリアの祖母であり夜を司るニュクス女神に教えられたとは言えない。

 口をもぞもぞと動かし煮え切らない態度をとる父にアメリアは片眉を顰めると迫る。

「誰かに教えられたんでしょう? 酷い!」

「ま、まままままさか」

 ローレンスの白い頬をアメリアは掴む。

「誰ですか? イポリト?」

「ちちちち違う」

「じゃあ誰ですか? 言ってくれるまで離しませんよ?」

 アメリアは指に力を込める。表情を歪ませたローレンスはもぞもぞと動く。するとジーンズのサイドポケットにねじ込んでいたメモが床に落ちた。先程アメリアに見つかりそうになって咄嗟に隠したメモだ。

 拾わないと……! ローレンスはメモを見遣った。

 その視線に気付いたアメリアは頬から指を離すとメモを拾い、眼を通す。署名がしてある。レオからだ。

「どうしてレオが父さんに……」

「ああ……読まないで……」ローレンスは眉を下げる。葬儀でレオとぶつかった際にポケットに入れられた手紙だ。

「『言える内が華だ。言葉にして伝えられる内が。……態度だけじゃダメだ。君の天使《むすめ》の言葉を贈る。君の娘のお節介のお返しだ』って……他人に言われて気付いたんですか?」視線を上げたアメリアはローレンスを睨む。

 眉を下げたローレンスは縮こまる。自分の母たるニュクス女神に言われて気付いた事はバレなかったが、どちらにしても自分が情けない事は露呈してしまった。

「……ごめん。だ、だだだって、こここここ子供を作るって、あああああアレだろ? みみにみに身に覚えがなかったたたし……それに」

「それに?」苛立ったアメリアは語尾を強めた。

「……それに」俯いたローレンスは頬を染める。

 煮え切らない父にアメリアは鼻を鳴らす。するとローレンスは言葉を紡いだ。

「それに……こんなに素敵で可愛くて優しくて勇気のある天使みたいな女の子が自分の娘だなんて……想いもしないだろう?」

 手放しで褒められたアメリアは頬を染めると満面の笑みを浮かべた。

「君は僕とユウの誇りだ。君は僕の家族だ」

 大好きな父に引き寄せられ頭を撫でられてアメリアは瞳を細めると体を委ねた。

 ローレンスは言葉を続ける。

「だから……僕が死んでもずっとは悲しまないでね。遠くない未来で、役目を終えた僕は死ぬ。世代交代だ。僕が神であるようにアメリアも神なんだ。……死神として他者の為に心を砕いて欲しい。周りの人の肩に凭れて欲しい」

 残酷であり誠実である言葉にアメリアの瞳は再び潤んだ。

 ローレンスはアメリアを抱きしめる。

「僕は……人に感情移入しすぎてそれが出来なかったから……。でも僕とユウの娘である君ならきっと出来る。僕が死んでも君は独りぽっちじゃない。独りで苦しみや悲しみを抱える事はないんだ。だから……だから……」

 教育を終えても尚伝えたい事が沢山ある。だのに命の時間は待ってはくれない。直系の子孫を残し、あれだけ願った死が与えられると言うのに瞳は潤み、下瞼から溢れた涙は頬を伝う。

 小刻みに震え嗚咽を我慢する父を見上げ、アメリアは身を起こす。

「……大丈夫。大丈夫だから。心配しないで」

 年若い天使は父たる天使を強く抱きしめた。



 全てをハデスに報告し、研修の最終チェックも終るとアメリアはローレンスの管轄区に在留する事になった。人事を担当する神の配慮でローレンスとアメリアは纏まった休暇をとった。

 ローレンスはアメリアにたっぷり甘えさせてやった。共にユウやイザベラ、エスターの墓参りに行ったり、芝居を観に行ったり、博物館巡りをした。

 互いを認め、互いを信じ合える真の『親子』にまで辿りつけたアメリアには夢のような日々だった。

 しかし夢はやがて醒める。

 ある朝父に温かい朝食を作ってやろうと、起床したばかりのアメリアはキッチンに向かった。カウンターからリビングを見遣ると革張りの黒いソファにローレンスが横たわっていた。

 背伸びをしてカウンター越しにコーヒーテーブルを覗くと書類がとっ散らかっていた。書類を作っている内に眠ってしまったのだろう。リビングに向かいブランケットを取り出すと冷えたローレンスにそっと掛けてやった。

 優しい寝顔をしている。父の寝顔を見詰めたアメリアは微笑む。

 大きく窪んだ眼窩の瞼は一等星のような瞳を遮蔽している。眼の下には濃い隈が影のように寄り添い、青白い肌は石膏のようだ。死を司る神らしく憂いを含んだ容貌だが、まだ誰にも踏みしめられていない新雪のように清く、天使のように安らかな寝顔だった。

 アメリアは大好きな父の顔を見つめていたが、それに気付くと表情を凍り付かせた。

 慌てて父の口元や首筋に手を当てる。しかし幾度確認しても呼吸も脈も既に止まったままだった。ベストの胸許から光り輝く玉が遠慮深げに覗いている。

 ローレンスは眠るようにして事切れていた。

 覚悟していた筈なのにそれでも『今日がある』と想って過ごしていた。突然の別れにアメリアの思考も感情も追いつかない。

 ローレンスを見下ろしたアメリアが呼吸を忘れ佇んでいると仕事から戻ったイポリトが彼らに気付いた。言葉をかわさずともイポリトは無二の相棒であったローレンスの死を直ぐに察した。

 ハデスの指令通りヒュプノスのイポリトがローレンスに死の切っ掛けを与えたのが一週間前、そして魂の回収が本日だった。

 イポリトに肩に手を置かれたアメリアは父から習った通り右手に巻かれた包帯を解いた。姿が透過してリビングから消える。彼女は爛れた右手を掲げると光の玉と骸を繋ぐ尾を切り離した。

 青白く光る瞳に涙を浮かべてアメリアは洟をすすった。胸の中に積み木を沢山突っ込まれたような心地になった。イポリトは青白く光る瞳を細め、唇を噛んだ。



 ステュクスに居る悪魔ランゲルハンスにローレンスの魂を引き渡すと、護岸の壁からアメリアが出る。河原では背を向けたイポリトが空を仰いでいた。

 涙を見られまい、と顔をそらし彼の背後を素通る。すると振り返ったイポリトに首根っこを掴まれた。

「何するのよ!」青白く光る瞳に涙を浮かべたアメリアは睨んだ。

 イポリトは眼を逸らし、鼻を鳴らす。

「痩せ我慢してどうすんだよ。……誰も見てねぇよ。こんな時くらい思う存分泣きな」

 アメリアは舌打ちをしようとしたがイポリトの胸に頭を押し付けられた。杖のような痩躯の父とは違う、筋骨張った体躯に戸惑った。働き盛りの体から漂う男の匂いに戸惑った。

 頬を引っ叩こうと思い口を開いた瞬間、嗚咽が漏れそうになる。天使のように優しい父の死と向き合ってからずっと涙を我慢していた。

 涙をこらえているとイポリトはアメリアの背を軽く叩く。

「親父とやっと出会えたのにもう今生の別れなんだ。お前は掟を破らずに親父の魂を悪魔のおっさんに渡した。一丁前の死神として仕事をしたんだ。誇りを持て。泣きたいなら泣け。もう泣いてもいいんだ」

 イポリトは彼女の背を優しく叩き続ける。アメリアは心細い時に父に背を優しく叩かれた事を想い出した。イザベラの葬儀に立ち会った日……アメリアは涙をこらえ唇を噛み締めた。そんな娘の背をローレンスは優しく叩いてやった。『もう泣いてもいいんだよ』と。

 ……父さんと同じ事しないでよ。

 アメリアはイポリトのTシャツを握ると肩を震わせて嗚咽を漏らす。

 遠くでクラクションや車が行き交う音が響く。河は素知らぬ顔で流れ、歌っている。雲一つ浮かばぬ空は天使のような父の心のように澄んでいた。


                                                                                                       了
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