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高速道路を走るハイヤーの中で次から次へと変わる景色を睨みつつ、ティコは考えを巡らせた。
何でマルチェロは私とマークの肖像画を持っていたんだ? アレはパンドラに預けたものだ。
パンドラは……彼女は客の情報を他の客に喋る女ではない。彼女は悪魔ランゲルハンスとハデスの命に従う、死神の統括者だ。ホムンクルスであり神ではないが故にタブーを犯せば消されてしまう。それに私が預けたものを易々と他者に渡すような気性ではない。博愛に満ちた女性だ。
……しかしマルチェロの手に肖像画が渡ったと言う事はパンドラが某かの理由で手放したのは間違いない。何故それをマルチェロは手にしたんだ? パンドラが働くバー『ステュクス』は死神とハデスに許された者しか出入りが出来ない。またパンドラは店から出られない。
マルチェロは死神なのか?
ティコは唇を噛む。
……いや、それはないだろう。瞳は私と同じ色ではなかったし、右手も爛れてはなかった。出入りを許された者だとしても、ここ数百年通う私が知らない訳が無い。
マルチェロ……お前さんは一体何者なんだ?
寝癖も直さず化粧気も無く、窓の外を睨む異国の女をドライバーはルームミラーから見遣ると『そろそろ空港に着きます』と言った。
ロータリーに停車したタクシーから弾かれたようにティコは飛び出した。
エントランスへ駆け込むと電光掲示板を見上げる。首都へ向かう、とマルチェロは言っていた。首都行きの便を見つけたが既に搭乗手続きが終了していた。
ティコは唇を噛んだ。
しかしまだ諦めなかった。
窓越しから出発ロビーを覗き、ティコはマルチェロを探す。早朝故に旅客が少ない。もしかしたら見つけられるかもしれない。ガラスの側を早足で渡り、ティコは青白く光る不思議な瞳をキョロキョロと動かした。
ある搭乗ゲートに列が出来ていた。案内板には首都行きと表示されている。駆け寄ったティコはガラスに手を突き、マルチェロを探した。
マルチェロは居た。欧州の男であるマルチェロは極東特有の小柄で華奢な人種に紛れて列に並んでいたので直ぐに見つかった。彼は右手にアルミのアタッシュケースを提げ、左手に土産物が入った紙袋を提げていた。寝不足のようで大きな欠伸をする。マルチェロはアタッシュケースを提げた手で口許を覆い隠した。
ティコはガラスを叩く。しかしマルチェロは気付かない。
唇を噛んだティコはガラスを小突きつつ彼の名を叫んだ。
しかし欠伸をしていた彼は手を滑らせアタッシュケースを足に落とした。打ち所が悪かったので表情を歪め、悪態を吐く。無論ティコの声など気付く余裕など無い。
ハプニングを楽しむ彼を避け、列の後ろに並んでいた旅客達は先に進んだ。
順番を抜かされたマルチェロは待ってくれ、と言わんばかりにアタッシュケースを抱え片足を引きずり、急いでゲートに入って行った。
遠ざかる彼の背を見つめ、ティコは眉を下げる。
……行ってしまった。
項垂れたティコは長い溜め息を吐いた。
ホテルに戻ったティコはその日、部屋から一歩たりとも出なかった。
夕陽に染まるベッドに横たわる彼女は物思いに耽る。
結局マルチェロから何も聞く事は出来なかった。彼は一体何者だったのだろう。ステュクスに出入り出来ると言う事は冥府の関係者なのは間違いない。しかし死神ではない。
ティコは寝返りを打った。
ホムンクルスのパンドラを創造した悪魔ランゲルハンス、その友人の悪魔ライルとやらは出入り出来ると聞いた事がある。……マルチェロも悪魔なのだろうか。仮に悪魔だとして私に何の用があると言うのだ。もう直ぐ死ぬ権利を得ると言う事で契約を迫り、魂を奪いに来たのだろうか。……いや、まさか。
しかし何故パンドラはマルチェロに肖像画を渡したのだろうか。パンドラが渡さなければあの肖像画は手に入らなかった筈だ。義理堅く聡明な彼女は何の理由も無しに大切な物を他者に渡したりはしない。マルチェロだからこそ渡した理由があるに違いない。
パンドラから肖像画を渡される理由……。
ティコは左手の薬指を唇に触れさせるとそれを食んだ。爪を噛み、指の腹を舐る。
懸命に思考を整理しようとするが、もう二度とマルチェロに会えない運命だと想うとどうでもよくなってしまった。会えないのだったらもう二度と聞けないだろう。今までステュクスでも会わなかったぐらいだ。二度と会えないのなら余計に考えても無益だ。
……二度と会えない?
身を起こしたティコはフォトフレームを見遣る。額の中でマルチェロが満面の笑みを浮かべていた。
果たしてもう二度と会えないのだろうか?
ティコは写真の中のマルチェロを睨む。すると脳裡でマルチェロの声が響いた。
──笑顔で『またね』なんて大人になっても言えないものだよ。でもこれだけは言える。運命は手の中にあるんだよ。
大人になっても言えないって……どう言う事だ? マルチェロが子供の頃に私は会ったのか? なんで含みのある言い方をしたんだ?
まさか……。
フォトフレームを裏返すと留め具を外し、マークの肖像画を取り出す。そしてマルチェロの写真と並べた。
ティコはマルチェロとマークを交互に凝視する。思考を巡らそうとするが再び脳裡でマルチェロの声が響いた。
──明日を……未来を変えようとするべきなんだ。
──自分が変われば……運命も変わる。死んじゃったら変えようがないんだ。
やがて穏やかなマルチェロの声はマークのボーイソプラノに変わる。
──だからお願い。泣かないで。先に死なないで。
運命を変えてきたと、マークは運命を変えて会いに来たと言う事なのか?
見開いた瞳から涙を溢れさせ、唇を震わせたティコはベッドを飛び抜けた。
マークを……マルチェロを追いかけないと!
マークを失ってから再び『生きたい』と想う事は無かった。またそう想えたのがこんなタイミングなんて。焦燥したティコはクロークを開け放つと衣類を引っ掴み、スーツケースに投げ込む。
早く……早くしないと!
もしかしたら首都の空港から海外へ渡ってしまうかもしれない。首都へ向かった彼の行き先などティコは知らない。
しかし一刻も早く彼に追いつきたかった。
この瞬間、彼女は生きたいと強く想った。
スーツケースに荷物を乱雑に詰め込んだティコはフォトフレームを大切に抱き、弾かれたように部屋のドアを開けた。
ティコは声を失った。
そこにはマルチェロが佇んでいた。勢い良く開いたドアに彼は驚愕していたが、ティコの足許のスーツケースを見遣ると全てを察した。
「……あれ? 発つの明日って言ってなかったっけ?」
マルチェロの間の抜けた問いかけに気が緩み、ティコは震える。瞳から涙が溢れた。
「テーちゃん?」
ティコの脚から力が抜けた。床に崩れ落ちる彼女をマルチェロは抱きとめた。
力の抜けたティコを二人掛けの白いソファに座らせるとマルチェロは紅茶を淹れた。スーツケースが一個だけ置かれた部屋に茶葉の香りが漂う。
「どうぞ。女神様」床に片膝をついたマルチェロは恭しくマグを差し出した。
湯気が立ち昇るマグを受取ったティコは溜め息を吐いた。
マグを両手に包み込み瞳を伏せるティコをラグに片膝をついたマルチェロは愛おしそうに見上げた。
ティコは紅茶を一口飲む。しかし補給した水分の量だけ涙は頬に伝う。
ティコの隣に座したマルチェロは『いとしい女よ』を鼻歌で歌う。そしてティコの涙を親指で拭ってやった。
聞きたい事が沢山あるがティコは声が出せなかった。眉を下げてただ子供のように瞳を伏せて泣くしか出来なかった。
そんな彼女にマルチェロは微笑むと口を開く。
「……聞きたい事があるけど声が出ないって感じだね」
ティコは潤んだ瞳でマルチェロを見遣った。
「察しはつくよ。俺を追いかけようとしたんでしょ?」
微笑みつつも頬の涙を拭うマルチェロをティコは睨んだ。
「俺の女神は本当につれないなぁ。……まあ、そこが可愛いんだけどさ」
「わ、たしは……そんな、自惚れ屋のお前さんが……嫌いだよ」ティコは声を振り絞った。
マルチェロは両肩をすくめ戯けたように微笑する。
「良かった。元気が戻った」
ティコは鼻を鳴らすとマグに唇を付けた。
そんな彼女をマルチェロは愛おしそうに見つめる。
「……明日発つって聞いたからとんぼ返りしたんだ。用が済んだらショッピングを楽しんで女神に合う物を選ぼうって想ったんだ。でも止めた。一刻も早く戻らなきゃって想ったんだ。朝早く発ったのに空港の見送り口まで追いかけられたからね」
ティコは表情を顰める。
「気付いてたのか!? だったら何故」
「取引先待たせちゃならないから女神に気付いてない振りをしただけさ。俺は勘がいいからね。気配で分かった。でも声まで聴こえたからさ、気付かないのも不自然だと想って芝居を打ったんだ。アタッシュケースをわざと落とすの結構痛かったよ」マルチェロは悪戯っぽく微笑んだ。
マルチェロはティコの瞳の奥を見据える。
少年のように純粋な男の瞳にティコは魅入った。
「……フォトフレームの中、見たんでしょ?」
マルチェロの問いにティコはこっくりと頷いた。
オオカミのように精悍な顔つきの男の頬が薔薇色に染まる。
「……そう。パンドラから預かったんだ。大切なものなのにティコが手放してしまったから、届けに来たんだ」
ティコの瞳は夕陽を受けた海面のように涙を湛えて輝いた。
「……汽車に乗った俺が落とした絵……今まで大切に持ってくれてたのがとても嬉しかった。俺は毎日ティコを想ってた。忘れた事なんて一日たりともなかった。想いに想って心がやつれた」
ティコの頬に幾筋も涙が伝う。
「……どうして私を想い出したんだ? 幸福に暮らせるように記憶を消した筈なのに」
マルチェロはティコの頬を親指で拭う。
「ムネモシュネ女神から聞いたよ。『死神だと言う事を人間に打ち明けても記憶を消せるキス』だろ? ……実は俺、神の血を引いてるんだ。だから純粋な人間じゃない」
ティコは瞳を見開いた。マルチェロは彼女の頬を撫でる。
「俺の母さんは人間、父さんは旅と商業を司るヘルメス神だ」
「……爺さんってのはまさか」ティコは問うた。
「うん。大神ゼウスだ」
瞳を細めて唇を噛み締めこれ以上涙を流すまいと堪えるティコの手をマルチェロは優しく握る。
「生を受けた段階で神となる死神の子供と違って、俺は神と人の間の子だったんだ。だからこそキスをされた時は記憶が混乱した。でも神の血を引いていたが故に時間と共に記憶が戻った。……あの時程ティコを恨んだ事はなかったし、俺の女神の慈悲深さを愛しいと感じた事は無かった」
マルチェロはティコの手首にキスを落とすと話を続ける。
「爺さんや父さんにしごかれて漸く認められた。神の酒であるネクタルを飲まされ、神として迎え入れられた。暫くは父さん……いやヘルメス神の代行として死出の旅路の水先案内者を務めていたんだ。冥府へ向かう度にずっと君を探していた。……でも」
再びマルチェロは手首にキスを落とす。そして唇を付けたままティコを見遣った。ティコの頬が薔薇色に染まった。
「死神の子を教育する君は現世に入り浸りだったし、俺は君に見合う男になりたくて仕事に邁進していたんだ。……だけどパンドラから俺の『大切なもの』の期限が迫ってるって聞いてね。迎えに来たんだ」
ティコは目を細める。
「……だ、だったら……どうして正体を隠して私に近付いたんだ? 私はどれだけ……どれだけマークを想っていたか! マークが死んだのならもう希望は無いって……死亡手続きの書類にサインし……よ、うと……」
唇をきつく噛み、ティコは嗚咽を我慢した。
マルチェロは眉を下げる。
「寂しい想いをさせてごめん。それでもティコに男としてどれだけ認めて貰えるかって……自分を試していたんだ。でもティコはガードが固くて友人として付き合うだけで精一杯だった。……俺、そんなに魅力ないかな?」
ティコは首を横に振る。
「……少しだけ……気になってた。でも私のマークを裏切りたくなかった。私はマークのものだから」
マルチェロは微笑む。
「……そんな事言って貰えるなんて嬉しいよ。ティコ、遅くなってごめん。俺はティコと共に生きたい。共に笑い、共に分かち合い、共に歩みたい。……それでもまだ死を望む?」
「……生きる事も、マークの事も諦めてた。でも……生きたい。マークと共に生きたい!」
破顔したマルチェロはジャケットの内ポケットから何かを取り出しティコの手に握らせた。
ティコはマルチェロを見上げる。
マルチェロはティコに頬を寄せると耳朶に唇を微かに付け、囁く。
「手を開いて。約束していたものを首都まで取りに行ったんだ」
最愛の男の柔らかい唇が耳朶をくすぐり、密やかな息が首筋にあたる。ティコは恍惚とした。
目を細め陶酔するティコを見遣ったマルチェロは微笑すると手に触れて優しく開かせた。
ティコの瞳は見開いた。彼女の心はさざめいた。
掌には赤いガラスのティアドロップのピアスが一揃い乗っていた。ペルセポネ妃から下賜されたルビーの片耳のピアスに酷似していた。
ティコはマルチェロを見つめる。マルチェロはピアスを片方取るとティコの耳に触れさせる。
「想った通り、ルビーよりもガラスの方がティコらしくて似合うな」
「……こ、れを取りに……首都へ?」ティコは問うた。
「うん。乗船代の代わりにルビーのピアスを手放してくれただろ? それの埋め合わせ。フォトフレーム作った時に首都でガラスを作るお嬢さんに世話になったって言ったろ? 依頼してピアスを作って貰ったんだ。郵送だと時間が掛かるから航空機乗って取りに行ったんだ」マルチェロは照れ臭そうに笑った。
瞳を伏せたティコは赤いガラスの粒を見つめた。
「……受取って貰えるかな? 美しいガラスのように繊細で気高い女神には忠実なオオカミが必要だ」マルチェロはティコの瞳を覗いた。
涙を頬に伝わらせたティコはこっくりと頷いた。
面映くて声も出せないティコの唇をマルチェロは唇で塞いだ。
離れていた時間を埋めるように二人は互いの温もりを求め合った後、唇を離した。
歓喜と面映さを抱いたティコはマルチェロから視線を外すと、手の中の赤いガラスの粒を見つめる。
「……マ、マーク? そ、それとも……マ、マルチェロ?」
「呼び易い方でいいよ」マルチェロは微笑んだ。
愛しさを募らせたティコは頬を染める。
「私の……私のマーク。……ピアス、着けてみてもいいかい?」
マルチェロはティコの手からピアスを優しく取り上げる。
「ダメ」
ティコは眉を下げた。
マルチェロは微笑を浮かべる。そして瞳を潤ませるティコの頬にキスをするとソファに押し倒した。
「今はダメ。再会してからの、大人になってから約束を果たした後で……ね」
ガラスの女神は頬をピアスと同じ色に染めた。
了
何でマルチェロは私とマークの肖像画を持っていたんだ? アレはパンドラに預けたものだ。
パンドラは……彼女は客の情報を他の客に喋る女ではない。彼女は悪魔ランゲルハンスとハデスの命に従う、死神の統括者だ。ホムンクルスであり神ではないが故にタブーを犯せば消されてしまう。それに私が預けたものを易々と他者に渡すような気性ではない。博愛に満ちた女性だ。
……しかしマルチェロの手に肖像画が渡ったと言う事はパンドラが某かの理由で手放したのは間違いない。何故それをマルチェロは手にしたんだ? パンドラが働くバー『ステュクス』は死神とハデスに許された者しか出入りが出来ない。またパンドラは店から出られない。
マルチェロは死神なのか?
ティコは唇を噛む。
……いや、それはないだろう。瞳は私と同じ色ではなかったし、右手も爛れてはなかった。出入りを許された者だとしても、ここ数百年通う私が知らない訳が無い。
マルチェロ……お前さんは一体何者なんだ?
寝癖も直さず化粧気も無く、窓の外を睨む異国の女をドライバーはルームミラーから見遣ると『そろそろ空港に着きます』と言った。
ロータリーに停車したタクシーから弾かれたようにティコは飛び出した。
エントランスへ駆け込むと電光掲示板を見上げる。首都へ向かう、とマルチェロは言っていた。首都行きの便を見つけたが既に搭乗手続きが終了していた。
ティコは唇を噛んだ。
しかしまだ諦めなかった。
窓越しから出発ロビーを覗き、ティコはマルチェロを探す。早朝故に旅客が少ない。もしかしたら見つけられるかもしれない。ガラスの側を早足で渡り、ティコは青白く光る不思議な瞳をキョロキョロと動かした。
ある搭乗ゲートに列が出来ていた。案内板には首都行きと表示されている。駆け寄ったティコはガラスに手を突き、マルチェロを探した。
マルチェロは居た。欧州の男であるマルチェロは極東特有の小柄で華奢な人種に紛れて列に並んでいたので直ぐに見つかった。彼は右手にアルミのアタッシュケースを提げ、左手に土産物が入った紙袋を提げていた。寝不足のようで大きな欠伸をする。マルチェロはアタッシュケースを提げた手で口許を覆い隠した。
ティコはガラスを叩く。しかしマルチェロは気付かない。
唇を噛んだティコはガラスを小突きつつ彼の名を叫んだ。
しかし欠伸をしていた彼は手を滑らせアタッシュケースを足に落とした。打ち所が悪かったので表情を歪め、悪態を吐く。無論ティコの声など気付く余裕など無い。
ハプニングを楽しむ彼を避け、列の後ろに並んでいた旅客達は先に進んだ。
順番を抜かされたマルチェロは待ってくれ、と言わんばかりにアタッシュケースを抱え片足を引きずり、急いでゲートに入って行った。
遠ざかる彼の背を見つめ、ティコは眉を下げる。
……行ってしまった。
項垂れたティコは長い溜め息を吐いた。
ホテルに戻ったティコはその日、部屋から一歩たりとも出なかった。
夕陽に染まるベッドに横たわる彼女は物思いに耽る。
結局マルチェロから何も聞く事は出来なかった。彼は一体何者だったのだろう。ステュクスに出入り出来ると言う事は冥府の関係者なのは間違いない。しかし死神ではない。
ティコは寝返りを打った。
ホムンクルスのパンドラを創造した悪魔ランゲルハンス、その友人の悪魔ライルとやらは出入り出来ると聞いた事がある。……マルチェロも悪魔なのだろうか。仮に悪魔だとして私に何の用があると言うのだ。もう直ぐ死ぬ権利を得ると言う事で契約を迫り、魂を奪いに来たのだろうか。……いや、まさか。
しかし何故パンドラはマルチェロに肖像画を渡したのだろうか。パンドラが渡さなければあの肖像画は手に入らなかった筈だ。義理堅く聡明な彼女は何の理由も無しに大切な物を他者に渡したりはしない。マルチェロだからこそ渡した理由があるに違いない。
パンドラから肖像画を渡される理由……。
ティコは左手の薬指を唇に触れさせるとそれを食んだ。爪を噛み、指の腹を舐る。
懸命に思考を整理しようとするが、もう二度とマルチェロに会えない運命だと想うとどうでもよくなってしまった。会えないのだったらもう二度と聞けないだろう。今までステュクスでも会わなかったぐらいだ。二度と会えないのなら余計に考えても無益だ。
……二度と会えない?
身を起こしたティコはフォトフレームを見遣る。額の中でマルチェロが満面の笑みを浮かべていた。
果たしてもう二度と会えないのだろうか?
ティコは写真の中のマルチェロを睨む。すると脳裡でマルチェロの声が響いた。
──笑顔で『またね』なんて大人になっても言えないものだよ。でもこれだけは言える。運命は手の中にあるんだよ。
大人になっても言えないって……どう言う事だ? マルチェロが子供の頃に私は会ったのか? なんで含みのある言い方をしたんだ?
まさか……。
フォトフレームを裏返すと留め具を外し、マークの肖像画を取り出す。そしてマルチェロの写真と並べた。
ティコはマルチェロとマークを交互に凝視する。思考を巡らそうとするが再び脳裡でマルチェロの声が響いた。
──明日を……未来を変えようとするべきなんだ。
──自分が変われば……運命も変わる。死んじゃったら変えようがないんだ。
やがて穏やかなマルチェロの声はマークのボーイソプラノに変わる。
──だからお願い。泣かないで。先に死なないで。
運命を変えてきたと、マークは運命を変えて会いに来たと言う事なのか?
見開いた瞳から涙を溢れさせ、唇を震わせたティコはベッドを飛び抜けた。
マークを……マルチェロを追いかけないと!
マークを失ってから再び『生きたい』と想う事は無かった。またそう想えたのがこんなタイミングなんて。焦燥したティコはクロークを開け放つと衣類を引っ掴み、スーツケースに投げ込む。
早く……早くしないと!
もしかしたら首都の空港から海外へ渡ってしまうかもしれない。首都へ向かった彼の行き先などティコは知らない。
しかし一刻も早く彼に追いつきたかった。
この瞬間、彼女は生きたいと強く想った。
スーツケースに荷物を乱雑に詰め込んだティコはフォトフレームを大切に抱き、弾かれたように部屋のドアを開けた。
ティコは声を失った。
そこにはマルチェロが佇んでいた。勢い良く開いたドアに彼は驚愕していたが、ティコの足許のスーツケースを見遣ると全てを察した。
「……あれ? 発つの明日って言ってなかったっけ?」
マルチェロの間の抜けた問いかけに気が緩み、ティコは震える。瞳から涙が溢れた。
「テーちゃん?」
ティコの脚から力が抜けた。床に崩れ落ちる彼女をマルチェロは抱きとめた。
力の抜けたティコを二人掛けの白いソファに座らせるとマルチェロは紅茶を淹れた。スーツケースが一個だけ置かれた部屋に茶葉の香りが漂う。
「どうぞ。女神様」床に片膝をついたマルチェロは恭しくマグを差し出した。
湯気が立ち昇るマグを受取ったティコは溜め息を吐いた。
マグを両手に包み込み瞳を伏せるティコをラグに片膝をついたマルチェロは愛おしそうに見上げた。
ティコは紅茶を一口飲む。しかし補給した水分の量だけ涙は頬に伝う。
ティコの隣に座したマルチェロは『いとしい女よ』を鼻歌で歌う。そしてティコの涙を親指で拭ってやった。
聞きたい事が沢山あるがティコは声が出せなかった。眉を下げてただ子供のように瞳を伏せて泣くしか出来なかった。
そんな彼女にマルチェロは微笑むと口を開く。
「……聞きたい事があるけど声が出ないって感じだね」
ティコは潤んだ瞳でマルチェロを見遣った。
「察しはつくよ。俺を追いかけようとしたんでしょ?」
微笑みつつも頬の涙を拭うマルチェロをティコは睨んだ。
「俺の女神は本当につれないなぁ。……まあ、そこが可愛いんだけどさ」
「わ、たしは……そんな、自惚れ屋のお前さんが……嫌いだよ」ティコは声を振り絞った。
マルチェロは両肩をすくめ戯けたように微笑する。
「良かった。元気が戻った」
ティコは鼻を鳴らすとマグに唇を付けた。
そんな彼女をマルチェロは愛おしそうに見つめる。
「……明日発つって聞いたからとんぼ返りしたんだ。用が済んだらショッピングを楽しんで女神に合う物を選ぼうって想ったんだ。でも止めた。一刻も早く戻らなきゃって想ったんだ。朝早く発ったのに空港の見送り口まで追いかけられたからね」
ティコは表情を顰める。
「気付いてたのか!? だったら何故」
「取引先待たせちゃならないから女神に気付いてない振りをしただけさ。俺は勘がいいからね。気配で分かった。でも声まで聴こえたからさ、気付かないのも不自然だと想って芝居を打ったんだ。アタッシュケースをわざと落とすの結構痛かったよ」マルチェロは悪戯っぽく微笑んだ。
マルチェロはティコの瞳の奥を見据える。
少年のように純粋な男の瞳にティコは魅入った。
「……フォトフレームの中、見たんでしょ?」
マルチェロの問いにティコはこっくりと頷いた。
オオカミのように精悍な顔つきの男の頬が薔薇色に染まる。
「……そう。パンドラから預かったんだ。大切なものなのにティコが手放してしまったから、届けに来たんだ」
ティコの瞳は夕陽を受けた海面のように涙を湛えて輝いた。
「……汽車に乗った俺が落とした絵……今まで大切に持ってくれてたのがとても嬉しかった。俺は毎日ティコを想ってた。忘れた事なんて一日たりともなかった。想いに想って心がやつれた」
ティコの頬に幾筋も涙が伝う。
「……どうして私を想い出したんだ? 幸福に暮らせるように記憶を消した筈なのに」
マルチェロはティコの頬を親指で拭う。
「ムネモシュネ女神から聞いたよ。『死神だと言う事を人間に打ち明けても記憶を消せるキス』だろ? ……実は俺、神の血を引いてるんだ。だから純粋な人間じゃない」
ティコは瞳を見開いた。マルチェロは彼女の頬を撫でる。
「俺の母さんは人間、父さんは旅と商業を司るヘルメス神だ」
「……爺さんってのはまさか」ティコは問うた。
「うん。大神ゼウスだ」
瞳を細めて唇を噛み締めこれ以上涙を流すまいと堪えるティコの手をマルチェロは優しく握る。
「生を受けた段階で神となる死神の子供と違って、俺は神と人の間の子だったんだ。だからこそキスをされた時は記憶が混乱した。でも神の血を引いていたが故に時間と共に記憶が戻った。……あの時程ティコを恨んだ事はなかったし、俺の女神の慈悲深さを愛しいと感じた事は無かった」
マルチェロはティコの手首にキスを落とすと話を続ける。
「爺さんや父さんにしごかれて漸く認められた。神の酒であるネクタルを飲まされ、神として迎え入れられた。暫くは父さん……いやヘルメス神の代行として死出の旅路の水先案内者を務めていたんだ。冥府へ向かう度にずっと君を探していた。……でも」
再びマルチェロは手首にキスを落とす。そして唇を付けたままティコを見遣った。ティコの頬が薔薇色に染まった。
「死神の子を教育する君は現世に入り浸りだったし、俺は君に見合う男になりたくて仕事に邁進していたんだ。……だけどパンドラから俺の『大切なもの』の期限が迫ってるって聞いてね。迎えに来たんだ」
ティコは目を細める。
「……だ、だったら……どうして正体を隠して私に近付いたんだ? 私はどれだけ……どれだけマークを想っていたか! マークが死んだのならもう希望は無いって……死亡手続きの書類にサインし……よ、うと……」
唇をきつく噛み、ティコは嗚咽を我慢した。
マルチェロは眉を下げる。
「寂しい想いをさせてごめん。それでもティコに男としてどれだけ認めて貰えるかって……自分を試していたんだ。でもティコはガードが固くて友人として付き合うだけで精一杯だった。……俺、そんなに魅力ないかな?」
ティコは首を横に振る。
「……少しだけ……気になってた。でも私のマークを裏切りたくなかった。私はマークのものだから」
マルチェロは微笑む。
「……そんな事言って貰えるなんて嬉しいよ。ティコ、遅くなってごめん。俺はティコと共に生きたい。共に笑い、共に分かち合い、共に歩みたい。……それでもまだ死を望む?」
「……生きる事も、マークの事も諦めてた。でも……生きたい。マークと共に生きたい!」
破顔したマルチェロはジャケットの内ポケットから何かを取り出しティコの手に握らせた。
ティコはマルチェロを見上げる。
マルチェロはティコに頬を寄せると耳朶に唇を微かに付け、囁く。
「手を開いて。約束していたものを首都まで取りに行ったんだ」
最愛の男の柔らかい唇が耳朶をくすぐり、密やかな息が首筋にあたる。ティコは恍惚とした。
目を細め陶酔するティコを見遣ったマルチェロは微笑すると手に触れて優しく開かせた。
ティコの瞳は見開いた。彼女の心はさざめいた。
掌には赤いガラスのティアドロップのピアスが一揃い乗っていた。ペルセポネ妃から下賜されたルビーの片耳のピアスに酷似していた。
ティコはマルチェロを見つめる。マルチェロはピアスを片方取るとティコの耳に触れさせる。
「想った通り、ルビーよりもガラスの方がティコらしくて似合うな」
「……こ、れを取りに……首都へ?」ティコは問うた。
「うん。乗船代の代わりにルビーのピアスを手放してくれただろ? それの埋め合わせ。フォトフレーム作った時に首都でガラスを作るお嬢さんに世話になったって言ったろ? 依頼してピアスを作って貰ったんだ。郵送だと時間が掛かるから航空機乗って取りに行ったんだ」マルチェロは照れ臭そうに笑った。
瞳を伏せたティコは赤いガラスの粒を見つめた。
「……受取って貰えるかな? 美しいガラスのように繊細で気高い女神には忠実なオオカミが必要だ」マルチェロはティコの瞳を覗いた。
涙を頬に伝わらせたティコはこっくりと頷いた。
面映くて声も出せないティコの唇をマルチェロは唇で塞いだ。
離れていた時間を埋めるように二人は互いの温もりを求め合った後、唇を離した。
歓喜と面映さを抱いたティコはマルチェロから視線を外すと、手の中の赤いガラスの粒を見つめる。
「……マ、マーク? そ、それとも……マ、マルチェロ?」
「呼び易い方でいいよ」マルチェロは微笑んだ。
愛しさを募らせたティコは頬を染める。
「私の……私のマーク。……ピアス、着けてみてもいいかい?」
マルチェロはティコの手からピアスを優しく取り上げる。
「ダメ」
ティコは眉を下げた。
マルチェロは微笑を浮かべる。そして瞳を潤ませるティコの頬にキスをするとソファに押し倒した。
「今はダメ。再会してからの、大人になってから約束を果たした後で……ね」
ガラスの女神は頬をピアスと同じ色に染めた。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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毎日更新していこうと思います
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感想等お待ちしております
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