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παρελθόν 14(19)

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 船室に戻ってからもティコの様子はおかしかった。

 ベッドに座してぼぉっとしている。時々深い溜め息を吐いては唇を噛み締める。

 そんなティコを励まそうと、マークは深く理由を聞かずに面白可笑しいマリアとの想い出話を聞かせてやった。

 懸命に元気づけようとするマークにティコは微笑を浮かべ応えようとするが、どうも唇や頬に力が入らない。ぎこちない笑みを浮かべるだけで、マークの心配を余計に煽った。

 マークはティコの唇にキスを落とす。

「……どうしたの? ティコ。さっきから元気が無いよ? 守るのに遅くなってごめんね」

 ティコは首を横に振る。

「違うんだ、マーク。マークは私をちゃんと守ってくれてるよ」

「じゃあどうしたの?」マークはティコの隣に座すと彼女の包帯を巻いた手を愛おしそうに撫でた。

「私がマークを守れていないんだ」

「そんな事気にしなくて良いよ」

 瞳を閉じたティコは首を横に振った。

「どうして? 僕がティコをエスコートするの不満?」

「そうじゃないんだ。……なぁ、マーク。私達は周りの人にどう想われてると想う?」

 マークは眉を顰める。

「どう想われてるって……」

 ティコは長い溜め息を吐いた。

「マークは身寄りの無い少年で私はマークを誑かす頭のおかしい女なんだ。端から見れば夫婦ではないんだ。幾ら自分達がそう想っていたって神の前で誓った仲でもないし、周囲から祝福され認められた訳でもない。世間って奴はそんな少し形が変わったものを虐げるのが好きなんだ」

「……もしかしてさっきのにーちゃんに酷い事言われたの?」察しの良いマークは眉を顰めた。

「いいや、あの人は親切にも忠告してくれたんだ。このまま仲睦まじく過ごせば、皆が私達に後ろ指を指すだろうって……。私は構わない。でもマークに辛い想いをさせる」

 ティコは唇を噛んだ。あの親切な青年の忠告により現実に引き戻され、後ろ指を指される以上に恐ろしい事を想い出してしまったからだ。しかし言葉にすればもっと心細くなる。どうしようもない未来が待っている。このまま進めばヒビが広がり、痛みは徐々に大きくなる。今回は耐えられるかどうか分からない。耐え切れずに砕け散るかもしれない。……だったら少しでもヒビが小さい方が良い。今別れてしまえば……。

 悪魔の囁きがティコを蝕んだ。

「僕が傷つくかもしれないって心配してるの?」マークは問うた。

 ティコは頷いた。……本当はそれが真の問題では無いけれども。

「なぁーんだ」マークはクスクスと笑う。

 眉を下げたティコはマークを見遣った。マークはティコの頬にキスをした。

「僕、確かにガキで弱いかもしれないけど、そんなに柔じゃないよ? だって強くて弱いマリアと暮らしていたんだ。そりゃまだまだガキだから打ち負かされる事が多いけどさ、守る者があるんだもの。マリアをちゃんと守れなかった分、ティコをちゃんと守るんだ。だって……マリアと約束したから」

 ティコはマークのターコイズブルーの瞳を見つめる。瞳には恐れや動揺など潜んでいなかった。力が宿り、綺麗な瞳だった。

「言いたい奴には言わせておけば良い。僕が何か言われる分には構わない。でもティコが酷い事を言われると僕は苦しい。だってティコは僕の誇りだもの。そんな酷い奴には僕が立ち向かう。僕と一緒じゃ恐い? 僕は弱っちいから嫌?」

 首を横に振ったティコはマークを抱きしめた。

「ティコ、僕がとても恐いのはね……永遠にティコと離ればなれになる事」

 マークの口から出た残酷な未来の話にティコは瞳を見開いた。

「ガキだ、バンビだってみんな僕を馬鹿にする。でも僕、分別出来ない程ガキじゃないんだ。母さんとだって死に別れたし、父さんと別れる事でマリアにも出会えたし……マリアと別れた事でティコに出会えたもの。それぞれに道があるんだって分かってるんだ。ティコはティコの道を行かなければならない。僕は僕でじいちゃんの許に行かなければならない。お互いに通らなければいけない道があるんだ。それに今のままじゃ僕、ティコに甘えるだけで大人になれない。ティコが手放した代わりのルビーも用意してあげられない。ティコに見合った男になりたいんだ。ガラスのようなティコを守りたい……だから一旦別れなきゃならない」

 マークを強く抱きしめたティコは震えつつも頷いた。

「二人の間にどんなに距離があってもちゃんと心が繋がっていればまた会えるんだ。僕、父さんみたいな商人になってお金持ちになって強くなってティコを迎えに行く。ティコが世界中の何処に居ても見つけ出して迎えに行く。絶対に迎えに行く。死神って年をとらないんでしょ? ずっと待っててくれるでしょ? ……ううん。待ってなくても良い。誰かと結婚してても僕がティコを奪いに行く。……だからお願い。泣かないで。先に死なないで」

 ティコは深く頷いた。

「……ティコ、約束してくれる?」顔を上げたマークの瞳は潤んでいた。

「ああ。勿論だ。マークを待ってる。私はマークのものだ」



 その日から二人は人目を気にせず出歩いた。

 陰口を叩く者も居たが気に留めなかった。気にする程時間の余裕が二人にはなかった。あと数日で港に着いてしまう。港に着けば長い別れが待っている。二人は無情に過ぎ行く一秒一秒を惜しむべく、互いを思いやり慈しみ合った。

 甲板で水平線を眺めつつ潮風に当たっていると、身なりの悪い中年の画家に声を掛けられた。『マダム、記念の絵を残しませんか? 勿論可愛いぼっちゃんもご一緒に。一枚、銀貨八枚ですが如何でしょう?』と画家は黄ばんだ歯を見せ笑った。『ムッシュウ』ではなく『ぼっちゃん』と呼ばれたのがマークは癪だったが、ティコとの想い出を残したいので描いて貰った。

 夫婦としても過ごしていたがマークはティコを師としても仰いだ。マークは様々な事を知りたがった。軽い武術、歴史、神話……学問や生きる術としても勿論知りたかったが、何よりもティコの声が少しでも聴きたくて真剣に取り組んだ。

 それを知ってか知らずかティコはイポリトと同じく自分の持て得るものを全てマークに注ぎ込もうとした。マークは彼女の熱意に応えた。

 しかしマークは不満だった。愛しい女に世話になりっぱなしなのに何も恩を返せない、と呟いた。苦笑したティコは首を横に振る。『いいんだよ。私の側に居てくれるのが何よりの恩返しだ』と彼女はマークを抱きしめた。マークは彼女を見上げると『それは違うよ。だって僕もティコが側に居てくれると幸せだもの。それじゃ恩返しにならない』と反論した。

「それじゃあマークはどうしたいんだい?」船室のベッドに座すティコは問うた。

 向かいに佇むマークはティコの額に自分の額を当て、瞳を閉じて思案する。

 恋に慣れた大人の男のように大胆でもあり、無邪気で子供らしくもあるマークの所作にティコは微笑した。

「……うーん」瞳を閉じたマークは微笑を浮かべる。

「何か思いついたかい?」

「……ティコは、歌は好き?」マークは瞳を開いた。

「ああ。好きだよ」

「じゃあ歌をプレゼントするよ」

 満面の笑みを咲かせたマークは額を離すと、脚を肩幅に開いた。そして呼吸を整えると声を響かせた。

 船室に穢れの無い少年のソプラノが響き渡る。彼が紡ぐのは童謡でも聖歌でも無く、切ない愛の歌だった。

 耳を澄ませたティコは頬に涙を伝わらせた。

 唇を閉じたマークは恥ずかしそうに頭を掻く。

「……どう? 恩返し、少しは出来たかな?」

 頷いたティコは涙を指で拭う。

「もしかして母さんの母国の歌か?『いとしい女よ』って男が切ない恋心をつれない恋人に向けて捧げる歌だろ?」

「歌、知ってたんだ。なんだ。恥ずかしいな」面映くなったマークは腕を背で組むと外方を向く。そして左膝を曲げて片脚立ちをすると爪先でトントンと床を小突いた。

「ああ。私もその国で仕事をした事があるからね」

「母さんが生きてた頃、教えて貰ったんだ。父さんに歌って貰ったんだって。父さん、母さんを一目見て恋に落ちたんだ。お喋りの父さんは胡散臭い恰好をしていたから母さんに振られたんだ。でも何回も何回も真剣に愛を告げてこの歌を歌って、漸くOK貰ったんだ」

「正しく愛の歌だね。ありがとう。とても素敵だったよ」

「ねぇ……ティコ?」マークはティコをちらりと窺った。

「うん?」

「明日でお別れだけど……僕を忘れない?」眉を下げたマークは小首を傾げた。

 胸を締め付けられたティコは悲しそうに微笑する。

「忘れる訳ないだろ? マークは私の掛け替えの無いパートナーだ」

「うん。僕のお嫁さんはティコだけだからね? ティコ以外の女の人なんて考えられないから。『いとしい女よ』じゃないけど……僕を信じてね? ティコがいないと僕の心がやつれちゃう事を覚えていてね?」

「ああ。私もマークと暫く会えないと想うと魂が引き裂かれそうだ」ティコは熱くなった目頭を抑えた。

 マークは洟を啜る。

「……絶対に、絶対に迎えに行くから!」

 俯いたティコは溢れる涙を拭い、頷いた。

「世界中、ティコがどんな所に居ても探しに行くから!」マークの瞳から涙が溢れ出る。

 ティコも涙を見せるまい、と両手で顔を覆った。

「だから……だから……だから、待ってて!」

 嗚咽を漏らすマークをティコは抱きしめた。

 男とは言え、伴侶とは言え、マークはまだ少年だ。頼もしくとも小さな肩に寄り掛かり過ぎた事をティコは反省した。辛いのも心細いのも同じなんだ。

 ティコはマークの華奢な肩を握り締めた。

 大人として恥ずべきだ。こんなに小さなマークに甘えてしまった。怖がらせてしまった。

 どうすれば恐くなくなる……?

 ティコが震えているとマークは顔を上げた。涙と熱で顔がぐしゃぐしゃだ。

「ティコ……」

 ティコは徐に顔を上げると、瞳を閉じキスをした。

 その晩、二人は生まれたままの姿で抱き合って眠った。

 夫婦として床を共にしたが礼節があった。互いに歓びを与え合うのは再び会ってからにしようと約束した。

 マークはもぞもぞと下肢を動かして落ち着きが無かったが、ティコは抱きしめ合っているだけでも心が満たされた。

 このまま時間が止まればいい。この幸福が続くなら生きていたい。ティコは生まれて初めて自分の『生』に感謝した。

 そんなティコの胸の内に気付いたのかマークは彼女を強く抱きしめた。

 互いの肌の温度差が埋まる。

 重なった肌が熱を孕み、新しい温もりが生まれる。

 互いの毛穴の一つ一つがマークの匂いとティコのローズオイルの香りを取り込む。

 二人は互いの匂いと温もりを確かめつつ眠りについた。



 翌昼に船は港に着いた。

 港に降り立ったティコは汽車のチケットを買った。

 停車中の汽車が白い煙を上げている。ホームには汽車に乗降する客、荷物を運ぶ人夫、土産を売りさばく若者達で犇めいていた。

 そんな中、ティコは幾ばくかの紙幣と共にチケットをマークに差し出した。大切な二人の肖像画を丸めて胸に抱いたマークはチケットを片手で受取るとしっかり握った。

「今度は失くすんじゃないよ」中腰になったティコはマークの顔を覗く。

「……うん」俯いたマークは消え入りそうな声で返事をした。

「降りる駅はここから五つ目だ。一晩乗れば着く。その後はもう一回船に乗るんだよ? 今度は島に向かうんだ。きっとじいさんは島の港で待ってくれてる筈だ」

「……うん」

 涙を堪え視線を合わさないマークにティコは眉を下げる。

「マーク……」

「……ごめん。ティコだって辛いのに。笑顔で『またね』って言いたいのに。どうしても難しいんだ。こんな……簡単な事が、今は出来ないんだ」

 ティコは屈むとマークの額に自分の額をくっつける。

「私もね、難しいんだよ? マークに笑って『迎えに来るの、あまり遅くならないでよ?』って言うのがとても難しいんだ。……でも『愛してるから離れるのが辛い』。この気持ちが一緒なだけでも同じスタートじゃないか」

 マークはティコを正面から見つめた。額が離れたティコはマークの頬に両手を添える。

「少しの間だ。マークが私を迎えに来たら笑い話にしよう? あの時アレだけ悲しんだのに今は手を取り合って生きているって。同じスタートを切って同じゴールに辿り着くだけだ。ゴールで待ってる」

「……うん」

 ティコは微笑む。

「愛してるよ」

「僕も……愛してる」

 二人が見つめ合っていると駅員が汽車の出発を知らせる。

 ティコはマークの肩を両手で叩いた。その途端、彼女は気持ちを切り替えた。

「さ! 汽車に乗らないと!」

 ティコはマークを促し、機関士に合図を送ろうとした駅員にチケットを見させた。駅員はマークを客車に促す。客車のステップに乗るとマークは片手で手すりに掴まった。丸めた肖像画をしっかりと胸に抱き、身を乗り出してホームのティコを見下ろす。

「……ティコ!」

 ティコは返事もせずに微笑んでいた。

「必ず迎えに行くから!」

 ティコは頷きもせずに微笑を作る。

「必ず! 必ず……!」マークの声が鼻声に変わる。

 すると笛が鳴り、汽車はゆっくりと走り出した。ティコは早足で汽車を追いかける。

 マークは涙を見せまいと歯を食いしばった。

 するとティコは何事か呟いた。そして『しっかり掴まってな』と言うと一瞬、マークの唇に唇を重ねた。

 二人の唇は直ぐに離れる。

 ティコはホームに佇んだ。

 汽車は加速し、手すりに掴まり呆然とするマークを乗せて駆け去った。

 徐々に小さくなって行く汽車の影を見つめ、ティコは歯を食いしばった。泣くものか。泣いてやるものか。畜生。私は振られたんだ。振られたからには泣いたら惨めだ。

 拳を握り、肩を震わせ、瞼を堅く閉じティコは込み上げる涙を押さえ込む。

 彼女は記憶を司る女神ムネモシュネに授けられた力をマークに使った。

 相手は命が短い人間だ。今生で会えないのは充分理解してる。だからマークに辛い想いをして欲しくない。マークがティコを忘れ、新しい人生を歩めるように彼女は『死神だと言う事を人間に打ち明けても記憶を消せる』力を、詠唱しキスで行使した。一度きりしか使えない力だ。

 マークと過ごした愛しく美しい日々が脳裡を過る。

 ……良い夢を見られただけ、良い人生なのかもな。

 でも……『二人』の後の『独り』は『始めから独り』よりも辛いものだな。

 肩を落とし、力なく笑ったティコは瞼を開いた。足許に紙が落ちていた。ティコはそれを拾い上げる。

 癖がついた紙を広げるとマークと自分が描かれていた。どうやらマークが落としたらしい。黒炭画の自分はマークと見つめ合っていた。画家に『正面を向いて下さい、マダムにプティムッシュウ』と呆れられたが『このまま描いてくれ』と頼んだ物だった。モノクロームの二人は互いを思いやり慈しみ合い、ひたすらに幸福そうだった。

 想い出に残る物なんて……もう沢山だ。

 胸が圧し潰されそうになったティコは口を開けた。肺から重い空気が押し出される。浅い呼吸を幾度となくする。それでも胸の奥は積み木を突っ込まれたように苦しく、呻き声が漏れた。

 瞼を固く閉ざした彼女は天を仰ぐ。

 すると彼女の白い頬からガラスのような雫が一滴零れ落ちた。
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