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παρελθόν 10(15)

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 翌日は休養に充て、翌々日の昼にティコは工房へと出向いた。

 工房の扉は開いていたがティコは一応ノッカーを叩いた。しかし反応がなかった。一分程待ったがノエルが出迎える気配はなかった。

 ティコは再度ノッカーを叩く。しかしノエルは出迎えに来なかった。

 明日、また訪れよう。ティコが踵を返すと、工房の奥の部屋から人の声が聞こえた。初めてノエルと仲違いした際に聞こえた男の声だ。

 ……そう言えばあの時、男の姿を見かけなかったな。私が逃げ出しても男は工房に居たのだろうか。ノエルはいつになく恐ろしい形相をしていた。私の胸の古傷を噛む時よりも恐ろしい形相だった。聞かれて不味い話だったには違いない。ノエルと男はどんな関係なのだろう。……あまり危険な事に関わって欲しくないのだが。

 何かあるに違いない。

 だったら知っておくべきだ。

 小さな溜め息を吐いたティコは右手の包帯を解くと爛れた右手を空気に晒した。

 すると彼女の姿が工房の前から消えた。

 姿を透過させたティコは物音を立てないよう慎重に工房のドアを開いた。工房の作業場には誰もいなかった。しかし奥の部屋……ノエルと出会ったばかりの頃に連弾をしていたピアノがある部屋から話し声が聞こえた。以前もそこからノエルと男の話し声がした。きっと今日もそこで話をしているのだろう。

 二人の男は声を潜めて話しているが、時折話に熱が入るとノエルの語気が上がり、デスクを叩く音が響いた。

 ……穏やかではない話をしているようだ。ノエルが憤っていると言う事は借金の話ではないようだな。

 瞳を閉じたティコはピアノの部屋に意識を向け、地獄耳を澄ませた。

 冷静な男の声と憤るノエルの声が聞こえた。

 ──だから落ち着けよ、お前らしくないぞ、ノエル。

 ──落ち着いていられるものか! ……太いパイプが折れたんだ。計画が始めからやり直しだ。

 ──時間が掛かるだけだ。焦るな。

 ──焦らないで居られるものか! 俺達が足踏みをしている間に農村では飢えた民が次々に死んでいくんだ! 王や僧侶、貴族どもは俺達がいてこそ喰えているって事を忘れてるんだ! 虫けらのように扱いやがって! 誰があいつらを喰わせてやっているのか思い知らさなければならない!

 ──落ち着け! 声を落とせ! 王族貴族の犬共がここを嗅ぎ付けるぞ。そしたら何もかも終わりだ。俺やお前ばかりじゃない、お前のカミサンも斬首されるぞ。

 ──カミサン……? ティコか?

 ──ティコって言うのか。変わった名前だな。この間物陰から覗いたが男の恰好をした綺麗な女だったな。……斬首されるだけならまだマシだ。牢に繋がれたら刑の執行まで辱めを受ける。

 ──構うものか。あんな売女。

 ──どうした? 前回ここを訪れた時は随分ご執心だったのに。

 ──既に手垢がついてたんだ。胸に咬み傷があってな。処女の訳が無い。だったら腹が膨らむまで犯してやろうと想った。どうやら他の男にも股を開いているらしいしな。毎晩帰るんだよ。一昨日、それで喧嘩して出てったきりだ。

 ──一昨日って……なんだ。それまでヤリまくってた訳か。結構使い込んでるんじゃないか。死んだ妹の……ジゼルの腹だけじゃ足りない鬼畜が革命家だとはね。恐れ入るよ。

 ──勝手に言えば良い。俺はジゼルを愛していた。……ティコはジゼルと違って利用価値がありそうだったからな。自分に自信の無さそうな女だ。あの手の女は言う事を聞き易いんだ。運命だの、奥さんだの甘い言葉を囁いて抱けば言いなりになると想ったがな……。

 ──ファックでつなぎ止めようとはな……悪い男だな。何故ティコとやらを利用しようと想った?

 ──平民にしては小綺麗な恰好をしていただろ? それに片耳に大粒のルビーを着けていた。貴族か王族のスパイか……それか貴族との間にパイプを持っている筈だ。国家を蝕むなら内部からの方が良い。ティコを手懐けてスパイをさせようと想ったが……無理かもな。

 ──綺麗な顔してお前は恐ろしい男だな。

 ──黙れ。……この間のお前との話を聞かれていた恐れもある。野放しは不味い。

 涙を頬に伝わらせたティコは耳を閉ざした。

 ……夫婦だと想っていたのは私だけだったのか。始めから心が通っていた訳じゃないんだな。

 壁に凭れたティコの頬から幾滴も涙が床に滴る。

 愛されていると想っていた。嫉妬故に胸の古傷を上書きするのかと想っていた。毎晩執拗に抱くのは少しでも触れ合っていたいのかと想っていた。

 愛されていた訳じゃないんだな。それどころか憎まれていただなんて……。思い上がりをしてただなんて……馬鹿じゃないか。

 ティコの脳裡にパンドラの言葉がよぎる。

 ──恋は愚者を賢者にさせ、賢者を愚者にもします。

 ……愚か者だな、私は。人間と深く関わらないように、関わっても心の奥を見せないようにって戒めていたのに……。もう直ぐ永訣を控えているから、と考え、ノエルの上辺だけしか見ていなかった。本質を見ていなかった。

 瞼を力一杯閉ざすとノエルの熱っぽい眼差しが想い起こされた。

 綺麗だったな。ピアノに向かう時の瞳。ピアノを深く愛しているからこそ、様々な人に触れさせたいという志も綺麗だった。きっと革命家の一員になったのもピアノを多くの人に触れさせたい、と考えての事だろう。綺麗だな。綺麗で……残酷だ。

 愛されたかった。

 胸の傷を見られるまで妹の……ジゼルの代わりだったんだ。彼らはたった二人きりの兄妹だったんだ。子を生す程に愛し合っていたのだ。何を揉めていたのかは分からないが、私が入り込む余地なんて始めからなかったんだ。……処女でもない、身の上も明かせない、子も産めない私なんて……。

 ティコの心に新たなひびが入った。

 やり切れなくなり叫びたい衝動を抑えつつティコは唇を噛み締める。爛れた右手を握り締めるとフラフラとクラゲのように漂いつつ、工房を後にした。

 ティコは涙を拭う。大通りに出ようとすると通りすがりの者に涙を見られた気がした。

 直様、彼女は人で賑わう通りに背を向ける。そして空を仰ぎ、深く呼吸した。瞳を閉じると裏切り者の父や自分を犯して笑う男、冷笑するノエル、優しく小うるさいじじ様、暖かいかか様、案じるイサドラやパンドラ、悲しむペルセポネの顔が瞼の裏に浮かんだ。

 誰にも涙なんて見られたくない。もう同情されるのは懲り懲りだ。……誰にも哀れまれたくない。自分でさえも哀れむものか。哀れんだら……惨めだ。

 涙なんて流すものか。

 瞳を見開いたティコは洟を啜ると唇を引き結び、振り返る。そして前を見据え、雑踏へと姿を消した。



 翌日もティコは工房へ出向いた。

 昨日の革命家仲間の男は居らず、ノエルは作業台で板材を削っていた。

 音も無く訪れたティコは、入り口付近の壁に凭れる。そして休み無く動くノエルの肩と背の筋肉を眺めていた。

 しかしノエルは人の気配に気付いた。彼は作業の手を止め、入り口を見遣る。そして鼻を鳴らすと再び板材に視線を落とし、作業を続ける。

 工房に板材を削る密やかな音だけが響く。

 沈黙を破ったのはティコだった。

「……この間はごめん」

 ノエルはティコに構わず作業を続ける。ティコは言葉を続けた。

「帰ってごめん。……処女じゃなくてごめん」

 手を止めたノエルはティコを見遣る。ティコは瞳を閉じると言葉を紡いだ。

「ごめんばかりでごめん。……でも愛していたのは本当だった。互いを知った晩、夫婦になれたと想ったんだ。心から嬉しかったよ……いつも独りぽっちだったから隣に愛する人が寄り添ってくれるのは心地が良かった。共に食事をしたり、連弾をしたり、楽譜に目を通したり、他愛のない事を話したり……幸せだった、ひたすらに。いつまでもこんな時間が続けば良いのにって想ったんだ。本当だよ」

 ノエルは鼻を鳴らした。瞳を開いたティコは寂しそうに微笑む。

「ノエルが考えている通り、私は悪い女だ。ノエルに話せない仕事に就いているし、母と祖父を捨て父に裏切られたろくでなしだ。それでもノエルが好きだった。心から……愛していた」

「愛していた……?」声を発したノエルは眉を顰めた。

 ティコは小さく頷く。

「ああ。愛していた」

 ノエルは大きな溜め息を吐く。

「わざわざ別れ話をしにここへ来た、と? 馬鹿じゃないの?」

「ああ。私は大馬鹿者さ。それでも愛した者に自分の気持ちを伝えたかった。ケリを着けに来たんだ」

 鋭い視線で見つめるノエルに臆しそうになったがティコは右手を握り締め、見据えた。

 ノエルが革命家になるよりも早く出会っていれば、彼がジゼルと肌を重ねる前に会っていれば……身の上を隠さなくても良ければ……相互理解は無理だろうが、それなりの距離を保ち付き合えたのかもしれない。でも……身の上を今、明かしたくない。他に私を愛してくれる者が居るかもしれない……ムネモシュネ女神に授けられた一度きりの力はその者の為に使いたい。

 鼻を鳴らしたノエルは背を向け作業台に向かう。

「……ろくでなしにチャンスを与えても良いよ」

 ティコは彼の背を見つめた。ノエルは工具を掴むと作業の続きをする。

「……指示を聞いて働くなら……俺の駒になるなら関係を続けても良い」

 ティコは首を横に振る。

「例え愛の無い関係を続けたくても無理だ。私には私の任がある。それはノエルの信念に沿ってはいけない事なんだ。私は私の生を、ノエルはノエルの生を歩むしか無い」

「そう……」

 工房を静寂が支配する。

 ティコは忙しなく動くノエルの背を見据える。

「ノエルを愛していた。これだけしか私は言えない。ジゼルの子供の父親がノエルであろうとも、ノエルが革命に邁進しようとも、私は私の道を独りで歩む」

 ノエルの背筋の動きが止まった。

 側にあったハンマーを瞬時にノエルは掴む。そしてそれを振り上げるとティコの頭へ振り下ろした。しかし動きを読んでいたティコは軽やかに体を交わす。ハンマーはティコの側にあった丸椅子の座面に打ち当たり、細かい木屑を撒き散らす。

 眉間に皺と血管を浮き立たせたノエルは直様ハンマーを座面から引き抜く。

「やはり正体を知っていたな!」

 ティコはフォボスとディモスに習った構えをとる。

「ああ。こそこそと嗅ぎ回るのが私の仕事でね」

「スパイか!?」

「似たようなモンさ。でも王族や貴族の犬でも、他の派閥の革命家でもない。私は私だ。ノエルの邪魔をする気はない」

「殺す!」

「穏やかじゃないね」

 ノエルは間合いを取ったティコの澄んだ瞳を見据えた。犯していた時とは違う瞳だった。自分の顔色を窺い、怯えている小動物の瞳ではない。何も恐れない、強者の瞳だった。静謐な森の奥にある波紋すら浮かばない湖面のようだ。

 舐め腐りやがって。女のくせに。

 ノエルは勢い良く踏み込むと横からハンマーを振り、ティコの肋骨を狙った。瞬時にティコは床に尻が着きそうな程に身を屈めると、片脚を伸ばしノエルの足を払う。しかしノエルは踏ん張った。

 両者は構えを取る。

 ティコはノエルの考えを読む為に彼を見据えた。その途端、毒気にあてられた。

 ……またあの顔をする。胸を齧る時の顔。ノエルのあの顔は嫌いだ。船員達みたいで嫌だ。

 ティコは心の奥底で記憶を反芻した。殺意を放ちハンマーを構えるノエルと胸の古傷に想い切り歯を立てるノエルの形相がだぶつく。死ね、と言わんばかりにベッドのノエルは胸に齧り付く。傷は上書きされ、白い乳房に深々と穴が空く。船上で犯された時に出来た痣のように鮮やかな傷が次々と刻印される。

 彼の所業に戦いたティコは奥歯を噛み締める。波紋すら浮かばない湖面のような瞳はさざめいた。

 チャンスだとばかりにノエルはハンマーを振り下ろした。我に返ったティコは瞬時に体をかわす。バランスを崩してノエルは倒れ込むがティコの頬を掴んだ。

 ノエルと共にティコは倒れこむ。地に伏すと覆い被さったノエルがティコの頭にハンマーを振り下ろそうとする。ノエルの指でティコは頭を押さえつけられていたが直様想い切り首を振った。目標を失ったハンマーは床に穴を空けた。

 組み敷かれれば一方的にやられるのは目に見えている。簡単には死を許されない体だとはいえ、ハンマーでぶっ叩かれ頭部を粥みたいにぐちゃぐちゃにされたくはない。

 表情を歪めたティコは瞬時に大口を開くと、唇に掛かっていたノエルの小指を想いきり噛んだ。

 工房にノエルの叫び声が響き渡る。

 しかしティコは指を離さない。彼女の口腔に『ゴリ』と嫌な音が響いた。指を離させようとノエルはティコの頭をハンマーで殴打する。

 堪え難い痛みが走ると同時にティコの脳内に陶器が割れるような嫌な音が響いた。ティコは指を離した。痛みと衝撃に気を失いそうになるが、このまま地に伏したままでは確実に負ける。

 ティコの脳裡に様々な者の顔が過る。自分を犯していた船員達、胸に噛み付くノエル、過去を想い出し冥府の廊下で踞って震える小さな自分、夜の工房で桶に吐瀉物をぶちまける弱い自分……。

 屈したくない、誰にも。

 私は私だ。

 立ち向かわなければ。

 短く刈り込んだブロンドから夥しい血液がぬらぬらと顔を伝う。痛い。気持ち悪い。視界が歪む。しかし唇を引き結んだティコはノエルよりも先に立ち上がった。

 構えをとるティコを見上げつつノエルは立ち上がる。

「……阿婆擦れ! 指を……よくも、指を!」

「その指じゃ……ピアノを、作れたとしても、二度と弾けないね」

 ティコの残酷な言葉にノエルは獣のように咆哮した。

 両者とも肩を上下に激しく揺らし、呼吸を荒げる。

 血液で顔を紅く染めたティコは青白く光る不思議な瞳でノエルを見据える。

 息切れは不味い。相手は筋が優れ瞬発力に富んだ男故に、長期戦で粘ろうと想った。しかし予想以上にダメージを喰らった。この分だと相手よりも先に倒れちまう。次で倒さなくては。

 動きを探る為に互いに互いの瞳を見据えた。

 ティコの穏やかな湖面のような瞳には獣と化したノエルが映っていた。

 しかし睫毛を乗り越え、垂れた血液に視界を阻まれる。……出血が止まらない。

 焦ったら負けだ。

 するとまた胸に齧り付くノエルの顔が脳裡をかすめた。

 想い出すな。自身を信じろ。

 ティコが唾を飲み込んだ瞬間、ノエルは襲いかかる。

 体をかわしたティコはノエルの腰に想い切り、踵を打ち込んだ。

 人体の要である腰をやられたノエルは地に伏す。痛みに痺れて直ぐには動けない。

 ティコはノエルの腹を蹴り上げ、彼を仰向けにさせると腹に勢い良く尻を落とした。

 胃を圧迫されたノエルは吐瀉物をぶちまける。

 するとティコの聴覚は切断された。

 聴こえないという自覚はあったものの、ティコは構わずノエルの顔面を殴打した。

 ティコはノエルの顔面を殴打した。

 身動きが出来ないノエルは必死に許しを請うが、ティコの耳にも心にも届かない。時々何かが壊れる振動が拳に伝わった。しかし彼女はノエルを殴打し続けた。

 聴覚が遮断されて何秒……いや何分、何時間経ったのか分からない。

 自分の息切れが聴こえた時にはノエルは静かになっていた。殴打を止めた彼女はノエルの唇と鼻に手を翳す。生暖かい微かな風を感じた。

 長い溜め息を吐いたティコは頭部と拳の痛みに耐えつつ徐に立ち上がると、血染めになった右手の包帯を解いた。爛れた右手でいつものように頭に触れ、ノエルに『死の切っ掛け』を与えた。

 乱雑に包帯を巻き直すと、ティコは長い溜め息を吐く。そしてよろめきながら外へ向かう。ドアを出ようとすると、自然と言葉が口を突いた。

「……さようなら」
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