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παρελθόν 9(14)

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 男に謝ろうと誓ったものの、その日の任務は山積していた。終えるのに夜半まで掛かったので丁子は翌日こそ工房を訪ねようと誓った。

 翌夕方、食料を詰めたずだ袋を片手に丁子は工房を訪れた。ドアは閉まっている。ノッカーを叩いたが男は出て来なかった。

 驚かせないように声を掛けて入ろうとしたが丁子は男の名を知らない。

 無断で工房に入る訳は行かない。二の舞を踏みたくない。丁子は古びた木製のドアに凭れて男の帰りを待った。

 訪れてみたものの細かい事は決めていない。丁子はずだ袋を抱きしめつつ、どうやって謝ろうかと思案に暮れる。

 西日が射し、影が長くなる。

 大通りの方からだろうか、巣へ戻ろうとするツバメの鳴き声が聞こえる。

 項垂れて自らの影を見つめていると血の染みがあるすり切れた靴が視界に入った。

 丁子は顔を上げる。すると先日彼女が置いて行ったずだ袋を抱えた男が佇んでいた。

 青白く光る、丁子の不思議な瞳を見ると男の瞳が見開いた。そして眉を下げ、泣いたような笑ったようなどちらともつかない表情を浮かべた。

 丁子は非礼を詫びようと直様唇を開こうとした。しかし想うように声帯を震わせられない。

 謝らなければいけないのに。焦り、戸惑う。自らを落ち着かせようと丁子は唇に触れる。唇は小刻みに震えていた。

 そんな丁子に男は手を伸ばす。

 驚き肩を跳ね上げた丁子はずだ袋を落とした。地に青リンゴや干し肉が転がる。

 彼女は後退ろうとする。しかし背がドアに打ち当たり、ガタンと大きな音が響いた。

 それでも男は歩み寄る。

 進退窮まった丁子の瞳から一筋、涙が零れ落ちる。

 丁子は洟を啜る。ああ。馬鹿だ。なんて馬鹿なんだろう。決心したくせにビビってる。いざ相手が来れば何も出来ない。謝らなければならないのにそれが出来ない。長い年月が経っても、武術や体術を修めても、固く決心しても……私はやはり弱虫で、泣き虫で、あさはかで、ちっぽけな存在なんだ。情けない。逃げ出したい。

 次から次へと丁子の頬に涙が伝う。

 丁子の手がドアノブに触れた。緊張した手に力が入る。するとドアノブは回転する。無用心にも施錠されていなかったドアが開いた。

 ドアに凭れていた丁子はバランスを崩し、背から倒れこむ。ずだ袋を地に落とした男はすかさず丁子を抱きとめた。

 男の眼と丁子の眼が合う。

 互いの顔の距離は拳二つ分にも満たない。

 シャツ越しの背に男の逞しい腕の温もりを丁子は感じる。眺めているのと触れるのでは全然違う。職人である男の手は工具や木材、弦に触れているので軍神アレスの手よりも大きい。肉付きが厚く、武骨だった。それを感じたのだ。

 丁子は瞳を伏し、涙を流した。

「……探していたんだ」

 身を委ねた丁子に男は囁く。

 しかし唇を引き結び、涙を我慢しようとする丁子の瞼からは止めどなく涙が流れ落ちる。

「泣かないで」

 非礼を詫びようと丁子は唇を開く。しかし声が出なかった。

「泣かないで。探していたんだ」

 胸が締め付けられ、丁子は顔を背けた。後から後から涙が頬を伝う。

 眉を下げた男は濡れた頬にキスを落とした。

 驚いた丁子は男の方を向く。すると男は丁子の唇を唇で塞いだ。

 先程まで胸が張り裂けそうな程に苦しかったのにも関わらず、丁子の胸の奥にじんわりと暖かいものが広がる。男性に優しく抱かれるのは初めてで戸惑った。船上で乱暴を働かれた事を想い出したが、情熱的に抱きしめる男の逞しい腕に現実に引き戻された。

 この男ならば身を任せたい。心地良さに微睡んでいると、幾度となく唇を離されては塞がれるのを感じ、丁子は全てを委ねた。



 薄闇の中、点けたばかりのロウソクの炎が揺らめく。

 事後に男が点けた灯りだ。互いを貪り合っている内に夕方から夜へと変わっていた。

 薄目を開き、丁子は揺らめく炎をぼんやりと眺める。工房の寝所で彼女は男との情事を反芻した。筋肉が隆起した男の背が丁子の背に触れる程に狭いベッドの中で丁子は満足そうに微笑する。

 ……荒々しかったけど……船で幼い私を犯した奴らとは違って愛があった。好きな奴に抱かれると心地良いものだな。

 面映くなり身じろぐと、下半身に鈍い痛みを感じた。

 丁子は秘所に恐る恐る左手を伸ばす。指先に粘液が触れる。伸ばした手を引き上げ、ロウソクの灯りに翳す。

 指先をぬらりと濡らすのは泡立った薄桃色の体液だった。幼少時の船での出来事を想い出して初めの内は濡れなかった。しかし丁子の背に腕を回した男の温もりや木材と汗の匂いを感じる内に嫌な想い出は薄まって行った。それでも性器同士の摩擦が多かった所為か、少しだけ血液が混ざっていた。

 長い溜め息を吐くと、背後で男が身じろいだ。丁子は咄嗟に胸を隠した。

 男は逞しい腕を伸ばすと丁子を抱きしめ、耳許に囁く。

「……起きてたんだ?」

 男の吐息が耳朶に当たる。屹立した男根が丁子の大腿に触れる。熱を孕んでいる。恥ずかしくなった丁子は瞳を伏せた。

「可愛いな」

 胸の奥が甘く疼いた丁子は胸を抱く腕をきつく締めた。

「出会った時から好きだったんだ。ずっとこうなりたいって想ってた。……きっと死んだジゼルが君を引き合わせてくれたんだ。これは運命なんだ」

 丁子の首筋に鼻先を付けた男は彼女から漂う芳香を胸に吸い込む。薔薇の香りがした。

「良い香り。連弾の時から香って気になってたんだ。君の香りと薔薇の香りが混ざって……胸が熱くなる。……ねぇ、やっとこんな仲になったんだ。名前、教えてくれよ。俺はノエル。俺の奥さんの名前を教えてくれよ」ノエルは丁子の肩口に顔を埋めた。

 奥さんだなんて……。面映い丁子は返事の代わりにもぞもぞと身じろぐ。左耳朶でルビーのピアスが揺れた。

「名前で呼びたい。お願いだ」ノエルは丁子の肩にキスを落とした。

 声を出す事すら恥ずかしくなった丁子は視線を彷徨わせた。

「ねぇってば」

 ノエルは丁子の腹部に手を這わせた。薄い腹の皮膚に武骨な手が滑り、くすぐったくなった丁子は堪え切れずに笑い声を漏らした。

「ほら。教えてくれないとやめないよ?」

 胸から手を離した丁子はノエルの手に包帯を巻いた右手を添える。

「やめとくれよ。名乗るから」

「うん。教えて?」ノエルは丁子の首筋に頬を寄せた。

 ノエルの魔手から逃れた丁子は小さな溜め息を吐く。

「丁子って言うんだ」

「テ……コ?」聞き慣れない名前にノエルは問い返す。

「テ・イ・コ」今度は噛み砕くように、ゆっくりと丁子は名乗る。

「ティ、コ?」

 丁子は溜め息を吐く。

「テ・イ・コ!」

「ティコ」

「……もういいよ。ティコで」

 ティコは鼻を鳴らす。

「この辺の国の奴らは私の名前をちゃんと言えないね」

「ティコの名前が難しいのがいけないんだ」

「そうかい?」

「そうとも」

 ノエルと視線が合い、はにかんだティコは瞳を伏せる。

「……でもこんな事になっても良かったのか? ノエルは連れ合いを亡くしたばかりだろ? それに腹の子供だって……」

「……連れ合いって……ジゼルの事?」

 ティコは小さく頷いた。

 ノエルは小さな溜め息を吐き、微笑んだ。

「ジゼルは妹だよ。幼い頃に両親が死んだからたった二人きりの家族だった」

「そうだったのか……。また悲しい事を想い出させてごめん」ティコは瞳を伏せた。

「そんな顔をしないで。今はティコが俺の家族なんだから」

 はにかむティコの豊かな胸にノエルは手を滑らした。

「あ。こら!」

 ティコは振り返る。しかしノエルの唇に唇を塞がれた。幾度となく彼に舌で舌を突つかれたり絡ませたりしている内に組み敷かれていた。

 薄闇に目が順応し、いつの間にかノエルの表情が鮮明に見えた。瞼を閉じ、慈しむように唇を合わせている。

 綺麗な表情してるな。

 ティコがぼおっと見つめているとノエルは唇を離し微笑む。

「そんなに見つめないでよ」

「……その言葉、さっきのお前さんにそっくりそのまま返すよ」

 片眉を下げたノエルはティコの頬を甘く噛む。驚いたティコは眼を見開く。

「こら!」

「『お前さん』だなんて酷いな。名前で呼んでよ。ティコは俺の奥さんなんだから」ノエルはティコの頬に唇を寄せた。

 ティコは頬を染め、瞳を伏せた。

「ねぇ。こっちを見てよ?」

 眉を下げてもぞもぞと身じろぐティコにノエルはキスを落とす。最愛の男に抱かれティコは恍惚とする。

 赤みが差した頬、少し開いた唇、細い首筋、汗が滴り落ちた鎖骨の窪み……ノエルはティコの筋肉を纏ったしなやかな腹を撫でつつ豊かな胸に唇を押し付けようとした。しかし思いとどまった。

 突如肌に触れなくなったノエルにティコは気付く。

「……ノエル?」

 瞼を開いたティコは自分を組み敷くノエルを見上げる。彼は眉根を寄せてティコの胸を見つめていた。

 青ざめたティコは瞬時に胸を隠した。先程は灯りを点けずに行為に至り誤摩化せたが、ロウソクに明かりを灯した今、胸の古傷は明るみに出た。

 眉を下げて瞳を伏せ、震える唇を引き結ぶティコをノエルは見下ろす。

「……誰にやられた?」

 夜の静寂に怒気を孕んだノエルの声が響いた。

 眼窩、鼻腔、口腔、性器……緊張で粘膜が乾くのをティコは感じた。

「誰にやられたと聞いてるんだ!」

 黙すティコにノエルは怒鳴りつけた。ティコは肩を跳ね上げる。

 幼少時犯された事なんて知られたくない。でも何か口に出さないとまた怒鳴られるだろう。唇を震わせつつ、小さな声をティコは絞り出す。

「……い、言いたくない」

 ティコの薄い脇腹を掴んでいたノエルの指に力が入る。

 ティコは首を横に振る。

「む……昔の、傷だよ」

 唇を噛みしめても怒りは治まらない。ノエルはティコの胸の古傷に想い切り噛み付いた。

 ティコの悲鳴が寝所に響く。

 涙を浮かべるティコを睨み、彼女の腹に爪を食い込ませ、ノエルは上書きした傷に舌を這わせる。

 愛してくれるのに何故、乱暴を働くのか。ティコはノエルに問いたかった。しかし嫉妬に狂ったノエルに恐れ戦き、問えなかった。

 ノエルは明け方までティコを犯した。



 その晩もティコは寝所を抜け、駆け出すと暗い工房の床に転がっていた空桶に吐いた。

 胃液が喉を焼け付かせる。食べてから間もないので未消化の食物も粒子が粗く、矢鱈と喉に引っかかった。

 息切れを起こし、肩を上下に揺らす。背や脇、鼻の頭に嫌な汗が湧き出るのを感じた。

 桶にぶちまけられた吐瀉物を一糸まとわぬティコは眺める。

 ……身籠った訳ではないよな。アスクレピオスのおっさんやペルセポネ妃に『次世代を産めない』って言われたもんな。特にアスクレピオス……医術の神がそう言うのだから嘘ではない筈だ。じゃあ何故吐く……?

 呼吸を整えていると再び吐き気に襲われた。込み上げた物を桶にぶちまける。屈んで下腹に力を入れたので秘所からノエルの体液が滴り落ちた。

 まだ腹や胸が気持ち悪いが未消化の物は吐き切った筈だ。脱がされた服を着て家に帰ろうと、ティコは脱ぎ散らかった服に手を伸ばす。すると足が見えた。顔を上げると裸体のノエルが窓辺から降り注ぐ月光に照らされ佇んでいた。

「……吐いたの?」ノエルは問うた。

 立ち上がったティコは口臭を嗅がれたくないので掌で口許を覆い頷いた。

 しかしノエルはティコの腰に手を添えて引き寄せ、下腹に触れる。そして離れ、彼女の下腹を見つめる。

「もしかして……出来た?」

「……期待させて悪いが違う。ノエルを受け入れてから一月にも満たない」ティコは首を横に振った。

「じゃあ何故?」ノエルはティコの青白く光る不思議な瞳を見据えた。

「……分からないよ」責められるような視線に耐えかねたティコは眼を逸らした。

 眉を顰めたノエルは口許を覆ったティコの胸に齧り付く。ティコは目尻から涙を流しつつも唇を噛み、痛みに耐える。

 耐え切れず呻き声を漏らすティコにノエルは気付く。彼は唇を離すと彼女を睨む。

「毎晩事後に帰るのはどうして?」

 帰ろうと想っていたティコはピクリと肩を跳ね上げた。

「他の男の許に行くの?」

 顔を上げたティコはノエルを見据える。

「どうしてそんな事言うんだ? 私にはノエルしかいないのに」

「……ティコは毎晩、朝まで居ない。夫婦は一緒に居るものだろ?」

 ティコは眉を下げる。……夫婦か。工房を訪れたらノエルに請われるがまま、ファックばかりだ。大好きなピアノを弾いてないな。ファックするだけが夫婦なのだろうか?

「……暫くファック抜きで過ごさないか? 連弾もし」

「質問に答えろよ!」

 ティコの言葉を遮り、ノエルは怒鳴った。

「……それは……仕事があるから」怯えたティコは声を震わせる。

「以前から聞いてるけど仕事って何? どうして教えてくれないの?」

 言葉に詰まったティコは瞳を伏せる。言えない。死神だとは口が裂けても言えない。毎晩、帰宅しなければならないのは死亡予定者のリストをケール女神のイサドラから渡されるからとは言えない。

 唇を噛み、視線を彷徨わせるティコを見下ろしたノエルは深い溜め息を吐く。

「……もういい。よく分かったよ」

 縛を振り解いたノエルは背を向け、寝所へと去る。

 次第に遠ざかる愛しい男の背にティコの胸は締め付けられた。

 ティコが帰宅すると腕を組んだイサドラが粗末なベッドに座していた。

 イサドラは鼻を鳴らす。

「毎晩遅いな。男でも出来たか」

「待たせて悪かった」外套も脱がずにティコはイサドラに青白い手を差し伸べた。

 立ち上がったイサドラはリストを差し出す。しかし顔を顰めた。

「……お前、ゲロ臭いな」

 ティコは瞬時に口許を片手で覆う。

「悪かったな。さっき吐いたんだよ」

「顔も青白いぞ」イサドラは無遠慮にティコの顔を覗き込んだ。

 リストを受取ったティコは顔を逸らした。しかしイサドラは覗き込む。

「ここの所、ずっと顔色が悪い。死体が歩いてるのかと想えるぐらいに、だ」

「……ちょっと具合が悪いだけさ。よく眠れば治るよ」

「そう思ってペルセポネ妃に相談してここ最近のお前の仕事量を減らしてる。余暇は充分にある筈だ。しかしきちんと休養をとっていないようだ。何故休まない?」

「妃にチクったのかよ」ベッドにどっかりと座し、顔を両手で覆ったティコは大きな溜め息を吐いた。

「死神の様子を報告するのもケールの仕事の内だ。……妃は甚く心配なさってるぞ。お前は妃にとって娘のような存在だからな。貰われっ子の王女様だな。それに最近パンドラにも顔を合わせていないだろ。店に顔を出すとパンドラはお前の様子を聞きたがるんだ。皆、お前を案じている」

「……王女なんて大したモンじゃないよ。父に裏切られ、祖父と母を捨てたろくでなしさ」ティコは両手で顔を擦った。

「ろくでなしの王女様よ、もう少し自分を大切にしても良いんじゃないか?」

「案じてくれるのは嬉しいが大丈夫だ」

 イサドラは鼻を鳴らす。

「何が大丈夫だ。ゲロ吐いた癖に。娘の様子を聞きたがる妃を誤摩化すのも大変なんだぞ? 『毎晩男とファック三昧です』なんて口が裂けても言えない。人間の婿殿、無理くりネクタル飲まされて冥府の神にされちまうよ」

「冗談やめてくれ。男なんていないよ」

 ティコの首筋に顔を近付けたイサドラは想いきり息を吸う。

「ゲロ臭っ!」

「二度も嗅ぐな!」ティコはイサドラを突き放した。

 イサドラは手首に鼻を近付け、自分の体臭を確かめるとティコを見据える。

「お前……やはり男の汗や体液の匂いがする」

 嘘はつけなさそうだね。ティコは長い溜め息を吐き、観念する。

「……ああ、そうさ。お前さんが察してる通りファック三昧だよ」

 イサドラは両腕を組み、ティコの顔を覗く。

「……あの時の……家族を亡くした男か?」

「……察しの良い奴は嫌いだよ」ティコは逸らしていた瞳を閉じた。

「馬鹿だな。同情を掛けて何になる? もう直ぐ死ぬ人間に同情だけで股を開いたのか? とんでもない大馬鹿だ」

「同情じゃない!」ティコは瞳を見開いた。

 イサドラは自分を睨むティコを見つめた。

 ティコの瞳から涙が溢れる。

「同情じゃない……私はノエルが好きだ。ピアノに傾ける情熱やあの瞳が好きだ! ……だけど辛いんだ」

「もう直ぐ死の切っ掛けを与えなければならないからか?」イサドラは問うた。

「……その覚悟はしてる。私だって死神の端くれだ」

「じゃあファックする度に忌まわしい記憶を想い出すからか?」

 唇を噛み締めたティコは首を横に振る。

「……いや。ノエルに初めて抱かれた時に想い出したが薄れて行った」

「何だよ。幸せなファックしてんじゃないか」

 長い溜め息を吐いたティコは青白い顔を擦る。

「なあ……ファックするだけが夫婦か?」

 イサドラは鼻で笑う。

「は! 独り者に聞く事か! 嫌だね、惚気なんて!」

 相談する奴を間違えたか……。ティコは瞳を閉じ、小さな溜め息を吐いた。すると瞼の裏にノエルの面差しが映し出された。ピアノに向かう彼や弦を張る彼は情熱的な瞳をしていた。しかし情事の真っ最中に胸に噛み付き、責め立てる恐ろしい表情に変わる。胃液が込み上げたティコは床に嘔吐した。

「おい!」

 案じたイサドラはティコの背を擦った。

 息切れを起こしつつもティコは片手を挙げる。

「だ……いじょう、ぶだ」

「大丈夫じゃないだろ……お前」

 鼻から胃液が垂れる。粘膜を灼けつかせる強酸にティコは顔を顰めた。見かねたイサドラはハンカチを手渡した。

「水飲むか?」ミニテーブルの水差しをとったイサドラは屈むとティコに差し出す。

「……いら、ない。……飲んでも全部吐いちまう」鼻をかんだティコは呼吸を整える。

 床に吐き出された固形物の無い吐瀉物をイサドラは見遣る。

「お前……飯は食べてるのか? それも吐いてるのか?」

 イサドラの問いにティコは頷いた。

「屈んで平気か? 妊娠してる訳じゃないよな?」

「そんな機能があれば……育て屋なんて就こうと想わないよ」

 イサドラは長い溜め息を吐いた。ティコは涙を浮かべつつも彼女を横目で見遣った。

「……お前、一度アスクレピオスに診て貰え」イサドラはティコの頭を掻き撫でた。

「嫌だ。……こんな体、もう誰にも見られたくない」

 イサドラはティコの瞳を見据える。

「……『こんな体、もう誰にも見られたくない』って……そんな言葉が出るとはな。お前の旦那にも見られたくないって事だろ? 胸の内に納めている事や裸を見せられないなんて夫婦として破綻してるじゃないか」

 ティコは遠い目をする。

「……やっぱり、そうなのかな」

「そう思いたくないなら話し合ってみろ。無論、死神である事実は隠してだがな。そいつが理解に努めようとするなら、それはお前の婿殿だよ」

 ティコは瞳を閉じる。ノエルは話し合いに応じてくれるだろうか。工房を訪れると連弾もせず、食事もせず、直ぐに睦み合いたがるノエルは話を聞いてくれるだろうか。

 表情を歪めるティコを余所にイサドラは立ち上がる。

「……三日猶予をやる。それまでに話し合え。それでも改善されないようならこの件は上に報告するぞ」

 瞼を上げたティコはイサドラを見上げた。

「……それがケールの任務だからな。悪く想うな」

 ティコは頷いた。

 鼻を鳴らしたイサドラは明日のリストを掴むと懐に仕舞う。

「三日間休養だ。その間、仕事の分配はしておいてやる。ちゃんと休んで飯を喰えよ?」

 そう言い放ったイサドラは黒い粒子と化して消えた。
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