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翌朝、ファインダイニングで朝食を摂った。一人分のチェックを済ませたマルチェロは『また夕食の時にね』と寂しそうに笑ってテーブルを去る。テーブルに一人残されたティコは食後のコーヒーに口を付け、徐々に遠ざかるマルチェロの背を見送った。
昨日ドライブから戻ってからも部屋で休むまでマルチェロはティコの後を付いて回った。ホテルの敷地内のコンビニへ向かい、剃刀の替えや酒のあてを買い物籠に放り込んでいると『持つよ』とマルチェロは籠を持った。『レディとして扱うつもりなら止めてくれ。私はレディじゃない。それくらい持てる』と言うと、彼は寂しそうに笑ってティコに籠を返した。
コンビニを出るとこれがいい折りだとばかりにティコは不満を述べた。昨日の昼食といい、夕食といい腹が立っていた。ティコが化粧を直しに席を立った隙にマルチェロが勝手にチェックを済ませたからだ。それにドライブの際、車に乗降する折りに恭しくドアを開閉された。まるで割れ物を扱うようにマルチェロは丁寧に接する。
「奢られたりエスコートされたりするのは嫌だ」
「どうして?」マルチェロは問うた。
「……私はガラスのように脆くない。それに見返りを求められているようで苦手だ」
「見返りなんて求めてないよ。俺は『一緒に過ごしてくれてありがとう』って意味でチェックしてエスコートしてるのに」
「……私の気持ちの問題だ。数を重ねる度に代償が大きくなっていくようで嫌だ。それに……私はそんな事されるの慣れてない」
「代償なんて望んでない。俺はテーちゃんと一緒に過ごしたいだけだよ」
眉を下げたマルチェロはティコの瞳を見つめた。
ティコは視線を逸らす。
「……ベッドで過ごすのが目的だろ? だったらさっさと押し倒せばいい。だけど体を差し出しても心は差し出さない。さっさと終わりにしよう」
それ以降、マルチェロは寂しそうな顔をしていた。
ティコは溜め息を吐いた。キツい言い方をしてしまった。しかし駆け引きし合う男と女が行き着く先と言うのはやはりファックだ。
……愛しい者にだったら体を開きたいが、それ以外の者なんて苦痛でしかない。
諦めて他の女性の尻を追いかけてくれればいい。所詮、ファック抜きの男女関係なんて成立しないのだから。
チェックを済ませたティコはファインダイニングを後にした。
ジムで汗を流し、プールで泳いだ後、ティコは敷地内のクラフトショップへ出向いた。パンドラに土産を買った方がいいだろう。細かい事が嫌いな性分なのでパンドラに休暇の全てを手配して貰ったのだ。
青く抜けた空にレンガ色のなだらかな屋根と白い外壁が映える、スパニッシュスタイルのヴィラの前にイーゼルに掛けられた黒板があった。ガラス工芸と陶芸、フォトフレーム製作、紅型染めを体験出来るクラフトショップだと記されている。暇潰しに丁度良い。何か作ってみようか。ティコはショップに入ろうとした。
しかし見慣れた逞しい背が眼に入る。マルチェロだ。ティコは足を止め、作業デスクの前に座した彼の背を見つめた。彼の隣には極東の女性が座していた。華やかなリゾートドレスを纏っている。クラフトの講師ではないようだ。仲睦まじそうに作業をしていた。
なんだい。早速、女を引っ掛けているのかい。切り替えが早いな。心配して損した。
小さな溜め息を吐いたティコは踵を返した。
ゲストルームに戻ったティコはミニバーからビールを取り出すと立て続けに四缶、アルコールを胃の腑に送った。むしゃくしゃしていた。他の女性の尻を追いかければいいと思ったものの、いざその現場に遭遇すると胸がムカついた。
気が遠くなる年月を独りで生きて来たんだ。好きだの嫌いだのに気付かないガキでもない。好意を抱いてる男じゃないのになんで……。
盛大にゲップを吐いたティコは大窓から空を眺める。雲一つない空は海の色を映す水鏡のようだ。静謐な景色だが今はそれすら腹立だしかった。
片足に重心を掛けて佇むティコは折り曲げた右脚の爪先でフローリングを小突く。唇を犬歯で噛み締め鼻を鳴らす。
酔えば苛つきも収まると想ったが兄を含む極東の人種とは体質が違い、酔い難くて苛つきが収まらない。
……もう一度汗でも流すか。忘れちまおう。
ガラスのティアドロップのチョーカーを外しトレーニングウエアに着替える。ティコは椅子の背凭れに掛かっていたスポーツタオルを取るとジムへ向かった。
夕方、共に夕食を摂ろうとロビーの椅子に座したマルチェロはティコを待っていた。いつもは手ぶらだが、今回は書籍を二冊携えていた。手持ち無沙汰になり本に眼を通したくなるが我慢した。やって来たティコに手の内を見られたくはない。
人影が近付いたのでマルチェロは顔を上げた。しかしティコではなかった。白いお仕着せを纏ったバトラーが通りすがっただけだった。
会釈をしたバトラーを見送るとマルチェロはビーチスーツの袖をずらし、シンプルな造りだが高価な腕時計を見遣る。闇色の文字盤で冷たく光る分針は約束の時間を三十分も過ぎた事を告げる。
……遅い。
テーちゃんは嫌な事は嫌だとはっきり言うが、約束をすっぽかす女性ではない。しかし彼女の人柄から察するに、お洒落に時間を掛けているという訳でもないだろう。
嫌な予感がする。
部屋を訪ねてもし何事もなかったら……更に嫌われるだろうな。『そんなに信用が置けないのか』とか『遅れたぐらいで詮索するな』とか怒鳴られそうだ。
マルチェロは深い溜め息を吐く。
でも……もし何かあったら……。
眉を下げ、瞳を潤ませたマルチェロは唇を噛む。
更に嫌われてもいい。口を利いてくれなくなってもいい。テーちゃんが無事ならそれが一番だ。それを確認する為だ。
腰を上げたマルチェロはティコが滞在するゲストルームへ向かった。
客室のドアをノックしたがティコは出なかった。
もう一度木製のドアをノックする。耳を澄ますが足音や衣擦れの音は聴こえない。
唇を噛んだマルチェロはドアノブを回した。すると解錠されていたようでドアが開いた。
ドアの隙間から室内を見遣る。電気が点いている。様子がおかしい。
「入るよ、テーちゃん」
マルチェロは磨いたばかりの革靴で一歩踏みしめた。
エントランスの側のバスルームとバーカウンターを通り過ぎ、ベッドルームに入る。するとツインベッドの奥の方でティコが大窓の方に顔を向け、仰向けで寝そべっていた。
「テーちゃん、寝てるのかい? 風邪引くよ」
ティコの肩に手を掛けたマルチェロは揺すぶる。すると強烈なアルコール臭が鼻腔を突いた。涎を唇の端から垂らしたティコの顔は赤く、呼吸は浅い。
マルチェロはベッドサイドテーブルを見遣った。赤いガラスのティアドロップチョーカーの側にプルタブが開いたビールの缶が多数転がっている。ソファの背凭れには湿ったスポーツタオルとトレーニングウエアが無造作に掛けられていた。
状況を察するに運動前後に多量のアルコールを摂取したのだろう。血圧低下し筋肉で血を使い、血流不足で脳貧血を起こしている。
最悪だ。一刻も早く回復処置を施すべきだ。
マルチェロはティコのシャツのボタンを胸許まで外してやる。背に手を差し入れ、ブラジャーのホックを外して圧迫を緩める。するとブラジャーの隙間から古い傷跡が見えた。誰かに噛まれた物だ。瞳を細めたが冷静に戻ったマルチェロはティコの頬を幾度か叩いた。しかし反応しない。
手荒な処置かもしれないが意識が無いよりあった方がいい。マルチェロはティコの掌を想いきりつねった。
するとティコが微かに唸った。
「テーちゃん」マルチェロは呼びかける。
ティコは表情を歪ませた。
「テーちゃん!」
眉を顰めたティコは薄目を開ける。
「……あん……だ、よ。うるさ……い、な」
意識が戻った。胸を撫で下ろしたマルチェロは言葉を続ける。
「勝手に上がってごめん。でも心配したんだ。介抱するから、寝ちゃダメだよ。水を沢山飲んでアルコール出さなきゃ」
返事の代わりにティコは唸る。彼女は重い瞼を下ろそうとした。
「ダメだ。起きて!」マルチェロはティコの上半身を起こす。
ティコは唸った。石化した脳をハンマーで殴られたようなのに、無遠慮なマルチェロの声が返しのついた矢じりのように突き刺さる。体はひたすら重い。胸と喉は焼け付き、腹は全ての内臓を掻き回してごった煮にしたように煮え滾っている。こんな状態なのに起きろだなんて鬼畜過ぎる。吐き気を催した。
「起きろ! ティコ!」
マルチェロに怒鳴られた刹那、ティコは吐瀉物をぶちまけた。
昨日ドライブから戻ってからも部屋で休むまでマルチェロはティコの後を付いて回った。ホテルの敷地内のコンビニへ向かい、剃刀の替えや酒のあてを買い物籠に放り込んでいると『持つよ』とマルチェロは籠を持った。『レディとして扱うつもりなら止めてくれ。私はレディじゃない。それくらい持てる』と言うと、彼は寂しそうに笑ってティコに籠を返した。
コンビニを出るとこれがいい折りだとばかりにティコは不満を述べた。昨日の昼食といい、夕食といい腹が立っていた。ティコが化粧を直しに席を立った隙にマルチェロが勝手にチェックを済ませたからだ。それにドライブの際、車に乗降する折りに恭しくドアを開閉された。まるで割れ物を扱うようにマルチェロは丁寧に接する。
「奢られたりエスコートされたりするのは嫌だ」
「どうして?」マルチェロは問うた。
「……私はガラスのように脆くない。それに見返りを求められているようで苦手だ」
「見返りなんて求めてないよ。俺は『一緒に過ごしてくれてありがとう』って意味でチェックしてエスコートしてるのに」
「……私の気持ちの問題だ。数を重ねる度に代償が大きくなっていくようで嫌だ。それに……私はそんな事されるの慣れてない」
「代償なんて望んでない。俺はテーちゃんと一緒に過ごしたいだけだよ」
眉を下げたマルチェロはティコの瞳を見つめた。
ティコは視線を逸らす。
「……ベッドで過ごすのが目的だろ? だったらさっさと押し倒せばいい。だけど体を差し出しても心は差し出さない。さっさと終わりにしよう」
それ以降、マルチェロは寂しそうな顔をしていた。
ティコは溜め息を吐いた。キツい言い方をしてしまった。しかし駆け引きし合う男と女が行き着く先と言うのはやはりファックだ。
……愛しい者にだったら体を開きたいが、それ以外の者なんて苦痛でしかない。
諦めて他の女性の尻を追いかけてくれればいい。所詮、ファック抜きの男女関係なんて成立しないのだから。
チェックを済ませたティコはファインダイニングを後にした。
ジムで汗を流し、プールで泳いだ後、ティコは敷地内のクラフトショップへ出向いた。パンドラに土産を買った方がいいだろう。細かい事が嫌いな性分なのでパンドラに休暇の全てを手配して貰ったのだ。
青く抜けた空にレンガ色のなだらかな屋根と白い外壁が映える、スパニッシュスタイルのヴィラの前にイーゼルに掛けられた黒板があった。ガラス工芸と陶芸、フォトフレーム製作、紅型染めを体験出来るクラフトショップだと記されている。暇潰しに丁度良い。何か作ってみようか。ティコはショップに入ろうとした。
しかし見慣れた逞しい背が眼に入る。マルチェロだ。ティコは足を止め、作業デスクの前に座した彼の背を見つめた。彼の隣には極東の女性が座していた。華やかなリゾートドレスを纏っている。クラフトの講師ではないようだ。仲睦まじそうに作業をしていた。
なんだい。早速、女を引っ掛けているのかい。切り替えが早いな。心配して損した。
小さな溜め息を吐いたティコは踵を返した。
ゲストルームに戻ったティコはミニバーからビールを取り出すと立て続けに四缶、アルコールを胃の腑に送った。むしゃくしゃしていた。他の女性の尻を追いかければいいと思ったものの、いざその現場に遭遇すると胸がムカついた。
気が遠くなる年月を独りで生きて来たんだ。好きだの嫌いだのに気付かないガキでもない。好意を抱いてる男じゃないのになんで……。
盛大にゲップを吐いたティコは大窓から空を眺める。雲一つない空は海の色を映す水鏡のようだ。静謐な景色だが今はそれすら腹立だしかった。
片足に重心を掛けて佇むティコは折り曲げた右脚の爪先でフローリングを小突く。唇を犬歯で噛み締め鼻を鳴らす。
酔えば苛つきも収まると想ったが兄を含む極東の人種とは体質が違い、酔い難くて苛つきが収まらない。
……もう一度汗でも流すか。忘れちまおう。
ガラスのティアドロップのチョーカーを外しトレーニングウエアに着替える。ティコは椅子の背凭れに掛かっていたスポーツタオルを取るとジムへ向かった。
夕方、共に夕食を摂ろうとロビーの椅子に座したマルチェロはティコを待っていた。いつもは手ぶらだが、今回は書籍を二冊携えていた。手持ち無沙汰になり本に眼を通したくなるが我慢した。やって来たティコに手の内を見られたくはない。
人影が近付いたのでマルチェロは顔を上げた。しかしティコではなかった。白いお仕着せを纏ったバトラーが通りすがっただけだった。
会釈をしたバトラーを見送るとマルチェロはビーチスーツの袖をずらし、シンプルな造りだが高価な腕時計を見遣る。闇色の文字盤で冷たく光る分針は約束の時間を三十分も過ぎた事を告げる。
……遅い。
テーちゃんは嫌な事は嫌だとはっきり言うが、約束をすっぽかす女性ではない。しかし彼女の人柄から察するに、お洒落に時間を掛けているという訳でもないだろう。
嫌な予感がする。
部屋を訪ねてもし何事もなかったら……更に嫌われるだろうな。『そんなに信用が置けないのか』とか『遅れたぐらいで詮索するな』とか怒鳴られそうだ。
マルチェロは深い溜め息を吐く。
でも……もし何かあったら……。
眉を下げ、瞳を潤ませたマルチェロは唇を噛む。
更に嫌われてもいい。口を利いてくれなくなってもいい。テーちゃんが無事ならそれが一番だ。それを確認する為だ。
腰を上げたマルチェロはティコが滞在するゲストルームへ向かった。
客室のドアをノックしたがティコは出なかった。
もう一度木製のドアをノックする。耳を澄ますが足音や衣擦れの音は聴こえない。
唇を噛んだマルチェロはドアノブを回した。すると解錠されていたようでドアが開いた。
ドアの隙間から室内を見遣る。電気が点いている。様子がおかしい。
「入るよ、テーちゃん」
マルチェロは磨いたばかりの革靴で一歩踏みしめた。
エントランスの側のバスルームとバーカウンターを通り過ぎ、ベッドルームに入る。するとツインベッドの奥の方でティコが大窓の方に顔を向け、仰向けで寝そべっていた。
「テーちゃん、寝てるのかい? 風邪引くよ」
ティコの肩に手を掛けたマルチェロは揺すぶる。すると強烈なアルコール臭が鼻腔を突いた。涎を唇の端から垂らしたティコの顔は赤く、呼吸は浅い。
マルチェロはベッドサイドテーブルを見遣った。赤いガラスのティアドロップチョーカーの側にプルタブが開いたビールの缶が多数転がっている。ソファの背凭れには湿ったスポーツタオルとトレーニングウエアが無造作に掛けられていた。
状況を察するに運動前後に多量のアルコールを摂取したのだろう。血圧低下し筋肉で血を使い、血流不足で脳貧血を起こしている。
最悪だ。一刻も早く回復処置を施すべきだ。
マルチェロはティコのシャツのボタンを胸許まで外してやる。背に手を差し入れ、ブラジャーのホックを外して圧迫を緩める。するとブラジャーの隙間から古い傷跡が見えた。誰かに噛まれた物だ。瞳を細めたが冷静に戻ったマルチェロはティコの頬を幾度か叩いた。しかし反応しない。
手荒な処置かもしれないが意識が無いよりあった方がいい。マルチェロはティコの掌を想いきりつねった。
するとティコが微かに唸った。
「テーちゃん」マルチェロは呼びかける。
ティコは表情を歪ませた。
「テーちゃん!」
眉を顰めたティコは薄目を開ける。
「……あん……だ、よ。うるさ……い、な」
意識が戻った。胸を撫で下ろしたマルチェロは言葉を続ける。
「勝手に上がってごめん。でも心配したんだ。介抱するから、寝ちゃダメだよ。水を沢山飲んでアルコール出さなきゃ」
返事の代わりにティコは唸る。彼女は重い瞼を下ろそうとした。
「ダメだ。起きて!」マルチェロはティコの上半身を起こす。
ティコは唸った。石化した脳をハンマーで殴られたようなのに、無遠慮なマルチェロの声が返しのついた矢じりのように突き刺さる。体はひたすら重い。胸と喉は焼け付き、腹は全ての内臓を掻き回してごった煮にしたように煮え滾っている。こんな状態なのに起きろだなんて鬼畜過ぎる。吐き気を催した。
「起きろ! ティコ!」
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