上 下
2 / 22

しおりを挟む
 バッグを回収した後、ティコはシャワーを浴びにゲストルームに戻った。纏わり付く汗と湿気を洗い流すと、軽く髪と体を拭き、ショーツに脚を通す。ミニバーに入っていた冷えた缶を開け、ビールを乾いた喉に流し込む。直ぐに缶を空けるともう一缶のプルタブを起こし、ベッドに座した。

 開け放した大窓から波の音とサックスの音色が聴こえる。きっとカクテルタイムのプールサイドで演奏しているのだろう。日が傾いているがこの島の明るい時間は長い。太陽が水平線に身を沈めるのはそろそろだが、天を星が飾るのはコテージに泊まるヨアンが舟を漕ぐ頃だろう。

 円形テーブルに乗った書類が缶に唇を付けたティコの眼にとまる。

 缶をベッドサイドスツールに置くとティコは書類を手に取る。大事な書類だが死神文字で記されているので人間は読めない。従ってルームキーパーが目にした所で理解出来ない。いつでも気持ちを確認出来るよう、その辺に放って置いた。

 書類に眼を通す。

 冥府の支配者ハデスの直筆で手続きを進める同意を求めた文が綴られていた。

 署名の欄を見遣る。まだ空白だ。

 ……迷ってはいない。

 気が遠くなる程昔から望んで来た。

 しかし心残りがあるとすれば……。

 鼻を鳴らし視線を逸らしたティコは缶を呷る。そしてベッドから立ち上がる。すると豊かな胸が揺れた。

 小さな溜め息を吐いた彼女はローズオイルを手首に垂らし、首に塗る。

 そして黒いリゾートドレスに袖を通した。



 テラス席に通されたティコは暮れなずむ夕陽を背後に、シェリーのグラスを片手にメニューを眺める。篝火が揺らめき、視界が明滅する。メニューの文字が揺れる。ホテルのリストランテにはドレスコードがあるのでいつもの気楽な服装で食事を出来ないのは堅苦しい。より良い場所でより良い物を口にするには仕方ないルールだ。

 久し振りに粧し込んだな。

 ティコが微笑むと首の筋肉も動く。黒いチョーカーから下がる赤いガラスのティアドロップが鎖骨の間でちりりと揺れる。最後の教え子にプレゼントされた物だった。

 休暇じゃなければこんな上品な所へは来ないんだ。普段は道端でミートパイ齧ってるか、古びたカウチに座して教え子の文句を聞き流しつつ野菜ソテーを食べてるかの生活だ。贅沢するには金以外にも対価が必要だ。

 メニューを睨んでいると濃い影が字面を覆った。

 顔を上げるとストライプのビーチスーツを着たマルチェロが佇んでた。

「やあ。こんばんは」

 ティコは顔を顰めた。

「そんな顔しないで。……電話で呼ばれたんだよ、コンシェルジェに」マルチェロは肩をすくめる。

「……なんでコンシェルジェが私の予定をお前さんにバラすんだよ?」

 マルチェロはラタンの椅子を引くと腰掛ける。

「そう思うのは至極当然。俺も驚いたよ。さっき俺の優しい女神がヨアンを母親達に会わせただろ? 実はその母親達、お礼として俺達に食事をサービスしたらしいんだ。お連れ様がここで食事をしてるってコンシェルジェが案内してくれたんだ。テーちゃんに会いたくて足を延ばしたって訳だ」

「私は別々に食事を摂っても良かったんだけどね」ティコは小さな溜め息を吐いた。

「ダメだよ。『二人に』って言ってたんだから」マルチェロが微笑むと給仕が彼にメニューを差し出した。受取ったマルチェロはシェリーを頼む。

 給仕の背を見送るとシェリーに口を付けていたティコは問う。

「……それにしても何者だ、あの親子」

「知らない?」

「……お前さんは知ってるのかい?」

「素敵なドレス着て綺麗なチョーカー着けてるのにテーちゃんは服に興味が無いんだな」

「うるさいな」

 マルチェロは肩をすくめ小さな溜め息を吐く。

「彼女達は世界的なアパレルブランドの社長とデザイナーだよ。公私共にパートナーらしい。養子がいるってのは聞いてたけどまさか男の子だとは想わなかったよ」

「ほーん。金持ちの粋な恩返しって訳か」

 給仕に冷えたシェリーを差し出されたマルチェロはティコのグラスにグラスを当てた。高く小気味の良い音がテーブルに響く。

 シェリーに口を付けたマルチェロはメニューを眺める。

「何にする? コースにする? 肉料理は子羊のパン粉焼きだって。……アラカルトもいいな。シラスとトマトのピザってのも捨て難い」

 ティコは鼻で笑う。

「お前さんはよく喋るね」

「テーちゃんはあまり喋らないね」マルチェロは微笑んだ。

「お前さんが喋るからだよ」

「……俺、黙った方がいいかな?」

 マルチェロは店内を見遣った。夕陽が水平線に身を沈め、瑠璃色の帷が下りる。夜空の下、食事を楽しむ数少ない宿泊客の密やかな談笑、カトラリーを動かす音が聴こえる。篝火とテーブルのキャンドルに照らされた女性客の白いデコルテを飾る豪奢なネックレスが輝く。紅い唇は料理への賛辞や明日の予定を慎ましく紡ぎ出す。

「私は……迷惑とは想ってないよ。だけど店のエロい雰囲気ぶち壊さないようにトーンは落とした方が良いね」

「あれ? テーちゃん意外と俺に優しいな。怒られるかと想ってたのに」

 ティコは鼻を鳴らす。

「男のお喋りは嫌いじゃないよ」

「へぇ。元彼、お喋りだったんだ?」マルチェロは悪戯っぽく微笑む。

「うるさい。やっぱり黙りな」

 コースをオーダーすると、微笑んだマルチェロは話に花を咲かせる。彼は欧州や新大陸を仕事で頻繁に渡っているらしい。

「仕事って……何してんの?」ティコはカトラリーを持つ手を動かしつつも問う。

「何って、色々」

「色々って何?」

 眉を上げたマルチェロは肩をすくめて両手を広げ、唇を横に引き結ぶ。

「胡散臭い奴だ。……大方ペテン師だろ?」ティコは鼻を鳴らした。

「まあ、似たようなものさ」

「開き直ってるね」

「証拠が無ければ泥棒だってペテン師だって堂々と歩ける。それに気高い女神を眼の前に美味しい食事にもありつけるからね」

「呆れるよ」

「テーちゃんは何してる? 子供の扱いが上手かったから先生?」

「そんなモンさ」ティコは前菜を口に運ぶ。

「そろそろ新学期始まる頃だよね……先生がこんな所でのんびりしてても?」

「辞めたんだよ」

「へぇ。これからどうするつもり?」

「さあね」ティコはシェリーを呷った。

 ティコの青白く光る不思議な瞳をマルチェロは見つめる。

「じゃあ俺のパートナーにならない?」

 眉を顰めたティコはグラスを置く。

「犯罪の片棒を担げって? 他者が人殺しや強姦以外何してようが興味無い。だが巻き込まれるのはごめんだ」

「そっか。じゃあ惚れさせれば良い訳だ」

「阿呆抜かせ」

 ボトルを二本空け、ドルチェのサーヴを待つ間、気分が良いのかマルチェロは鼻歌を歌った。昼間ビーチで聴いた『いとしい女よ』だ。

「その唄、余程好きなんだな」ティコは赤ワインが浅く残るグラスを傾ける。

「そうでもないよ」

「いや、好きだろう。気が付けば歌っているからな」

「テーちゃんはこの歌好き?」

「残念だが嫌いだ」

「なんで?」

「なんでも」

「そっか。じゃあもう歌わない」マルチェロは微笑んだ。

 自分がマルチェロを苛めたようになってしまい、居心地が悪くなったティコは口をもぞもぞと動かした。

「歌えばいいじゃないか」眉を顰めたティコはマルチェロの瞳を覗いた。

「ううん。いいんだ。俺は歌よりもテーちゃんの方が好き。ビーチで出会った時と違って今はすっごく良い香りがする。ずっと嗅いでいたいなぁ」マルチェロは満面の笑みを向けた。

「酔っ払ってるなら部屋に戻りな」ティコは鼻を鳴らした。

「ヤだね。次の食事の約束取り付けるまで帰らない」

「私はもうペテン師とは食事をしない。今日はヨアンの母親達の顔を立てただけだ」

「それならずっとこのテーブルに齧り付いててやる」

「ご勝手に」

「いいのか? こうやって齧り付いてずっとテーちゃんの名前呼び続けるぞ? 『テーちゃん。テーちゃん。良い香りー大好きー愛してるー』って」マルチェロはテーブルの両端を掴んだ。白いクロスに皺が寄る。

 強面の男が酔っ払い、駄々を捏ねる様にティコは苦り切った。教え子なら向こう脛に蹴りを見舞う所だがいい年した男にこの手の店でこんな事をやられては辟易する。しかしただ言う事を聞くのも嫌だ。

「大の男がみっともない。……分かったよ。じゃあ賭けをして……コイントスで決めようじゃないか」

 ティコの提案に微笑んだマルチェロはクロスから指を離し、顔を上げる。

「何を賭ける?」

「私は滞在中にペテン師が干渉して来ない事を望む。……今後会っても挨拶も一切無しだ」

「手厳しいな。じゃあ俺はその反対。滞在中は俺が常に俺の女神をエスコートするってのはどう? おはようからおやすみまで。ガラスのように繊細な女神がオオカミに襲われないように部屋まで送り迎えする。勿論三食、お酒も奢るよ?」

「奢らなくていい。……構わないよ」

 マルチェロはコインを取り出した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

処理中です...