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六章

十六節

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「……つまり、一つ目の目的としては渦に突っ込んで渦に繋がった入り江に上がり、二人してお前のかあちゃんを解き放とうとしたんだな。神の端くれであるアメリアならお前の話を信じたアメリアなら出来ると想い、頼み込んだと」人だかりを背に仁王立ちするイポリトはトゥットを見下ろす。問う声はいつも通り低く穏やかだったが。奥には怒りを潜めていた。

 トゥットは蛇に睨まれた蛙のように動けないでいたが、頷いた。

「……二つ目の目的は無事に戻って来たアメリアが渦に巻き込まれた、と芝居を打ち俺を慌てさせようとした、と」

 小刻みに震えるトゥットは頷いた。殺されるかと覚悟した。仁王立ちで両腕を組み、自分を見下ろす男はアメリアと同じ死神ではなく鬼神と言った方が適当だった。

「結果どちらも失敗した。アメリアだけ渦に巻き込まれ、軽いお前じゃ助けようと手を差し伸べても助けられなかった、と」

 トゥットは頷いた。

「……分かった。取り敢えずポンペオの鱗とやらのお蔭で一時間は余裕があるんだろ? その間にアメリアを救出すればいいって事だな。説教は後回しだ」イポリトは上衣を脱ぐとカーゴパンツだけの姿になった。

「イポリトさん……」

 イポリトは砂浜に陣を描いた。ステュクスで男神に暴行された後、パンドラが床に描いた陣を彼は密かに見ていた。意識が飛びそうだったが目を瞑るまい、と必死にその様を見ていた。

 イポリトは陣からランゲルハンスを喚んだ。女姿のランゲルハンスは書庫の整理をしていたようで片手に本を携えていた。突如として現れた悪魔に人だかりはどよめいた。

「……また君かね?」ランゲルハンスは鈍色の隻眼でイポリトを睨んだ。

「あれだけヴルツェルが手紙を送っても来ねぇのによ、ご挨拶だな。それよりも契約をしたい」

「ほう。憎まれ口も程々に本題とはな。火急の契約と見える」

 ランゲルハンスは豊かな胸を揺らし、陣から出た。

「して、魂と引き換えに何を望む?」ランゲルハンスはイポリトの青白く光る瞳を見据える。

「アメリアが渦に飲み込まれた。俺はアメリアを救いたい。俺があいつの腕を取るまでの時間、水中で呼吸出来るようにしてくれ」

 イポリトはランゲルハンスの鈍色の瞳を見据えた。

「ファウスト」

 ランゲルハンスが人だかりに向かって声を掛けると白い遣い魔であるファウストが姿を現した。主人の肩に飛び乗ったファウストは耳打ちする。

「……そうか」

 独りごちたランゲルハンスは暫くイポリトを見据えていたが鼻を鳴らし笑う。

「……面白い男だ。アメリアの救助を願う訳では無く、アメリアを自ら救うべくそれの補助をしろと?」

「悪魔の契約だろ? 端から甘い事考えてねぇよ。俺が死んだら魂を犬に喰わせるなり瓶詰めにするなりして構わねぇよ」

「……いいだろう」

 ランゲルハンスは術で瓶を出すとイポリトに差し出した。

「あんだよ? これ」イポリトは眉を顰める。

「パンドラの匣だ。現世で知ってるだろう?」

「あー……あの何でも吸い込む魔術道具か」

「役に立つ筈だ。持って行き給え」

 契約を結び、パンドラの匣を持たされたイポリトはパンドラの匣をカーゴパンツのサイドポケットに入れ、海へと駆け出した。

 入水し、見る見る内にイポリトの逞しい背が遠ざかって行く。ランゲルハンスがそれを見つめていると、人だかりの中から息を切らせたヴルツェルが現れた。突如居なくなった白い遣い魔を探している内に騒ぎを聞き、駆けつけて来たらしい。

「……ハンス!」

 懐かしい声にランゲルハンスは振り返る。かつて食す程に深く愛し、憎み続けた男が目前に佇んでいてもランゲルハンスの表情は変わらなかった。

 かつて密かに愛したの反応にヴルツェルは戸惑った。しかしそれだけの事をしたのだ。胸が痛んだが口を開いた。

「アメリアはどうした? 渦に巻き込まれたと聞いた」

 ランゲルハンスは海の彼方に視線を遣る。

「私も召喚されたばかりでね。詳細はファウストから聞いた。彼はアメリアの動向が気になり尾行ていたらしい。アメリアを救う為にイポリトは私と契約を結んだ」

「……そうか。何か私に出来る事はあるか?」

 ランゲルハンスは眉を下げたヴルツェルを見つめる。

「悪魔と精霊が出来る事はここまでだ。後は神や英雄の領分だ。……君もアメリアを案じるのか?」

 ヴルツェルは頷く。

「……ハンスの体内でアメリアの声を聴いていた。ハンスが愛しいと想う者は私も愛しいと想う。……気が遠くなる年月をハンスの心臓に寄り添い生きて来たのだ。少しだけ、ハンスの心が分かった。私を恨み、悲しみに暮れるハンスを感じて来た。私の呪いの所為で伴侶に愛を伝えられずに苦しんだだろう。憎い相手が手紙を幾度となく寄越して腹ただしかっただろう。……しかし私の心の内を知って欲しかった。ただ……会いたかった」

「……君は何一つとして理解していない」ランゲルハンスは隻眼を伏せ、鼻で笑った。

「おこがましかったか?」

 ランゲルハンスは水平線の彼方を見遣る。

「……いや。会いたかった」

 ヴルツェルは紫色の瞳を見開いた。

 面映くなったランゲルハンスは視線を逸らす。すると人だかりが大きくなっていた。イポリトが海に消え、突如現れた美しい悪魔がこの街の支配者と懇意にする男と話しているのだ。見物する他無いだろう。

 鼻を鳴らしたランゲルハンスは提案する。

「少し、浜を歩かないか? ここでは人目がある。落ち着いて話せない」

「ああ」

 二人は人だかりに背を向けて浜を歩き始めた。

 ランゲルハンスは海を見つめる。

「……手術の夜、私が休む部屋の前で刃物を握り締め、佇んでいたと聞いたが……あれは私を土に戻そうとしてやった訳では無いな?」

 ヴルツェルは暫く黙していたが頷いた。

「……人質にしようと?」ランゲルハンスは問うた。

「それもある。……私は君を怒らせたのだ。まともに取り合ってもらえないと想い、強行に踏み切った。道中か南の街で説明すれば良いと。私は南の街を救いたかった」

「……それは私とて同じだ」

「では……手紙を幾通も送ったのにも関わらず、何故来てくれなかった?」ヴルツェルは問うた。

「……どのような顔を向ければいいのか分からなかった。妻には背を押されたがね。かつて君の体を取り上げたのだ。それに私の知らない範疇とは言え、体を得た君を拘束したからな」

「それは私も同じだ。ハンスが愛する者達を、罪無き者達の命を奪ったのだ。それなのにこの街の人々を救いたいなど身勝手と……笑止千万と蔑まれると想っていた」ヴルツェルはランゲルハンスの横顔を見つめた。

「罪は罪であり罰は罰だ。罰は受ければ消えるが罪は永劫に消えない。君の罪も私の罪も」

 ヴルツェルは瞳を伏せた。

「だが誰しも幸福になる権利を有している。罪があるからと何人たりとも権利を剥奪出来ない。罪を見据え生きる事は出来る。……私はその権利を君から奪い取ったのだ」

 ランゲルハンスはヴルツェルを見据えた。鈍色の隻眼の中で小さなヴルツェルが戸惑いの表情を浮かべた。

「許してくれ、とは言わない。罪を背負った私の手を取り、生きてくれるか?」

 ランゲルハンスが問うと、鈍色の隻眼に映るヴルツェルは揺らめいた。

 瞼を閉じたヴルツェルは頷く。

「……私こそ、また共に黄色い花の種を植えてくれるか? 側に居てくれるか?」

 ヴルツェルの問いにランゲルハンスは瞳を閉じた。そして男の姿に化すと悪戯っぽい微笑を浮かべる。

「さあ。それは無理な相談だな。ご存知の通り、私は妻帯者でね。男娼を置くのは控えたい」

 ヴルツェルは鼻を鳴らす。

「そんな意地の悪い冗談を言うのはハンスらしいな」

「私は悪魔だからな」

 微笑み合った二人は立ち止まると水平線の彼方を眺めた。

「イポリトはアメリアを救えるだろうか」ヴルツェルは呟いた。

「……救わなければ困る。二度目の契約の内容を聞いて漸く決心した所だ。あの実直な英雄にならアメリアをくれてやってもいい」

「まるで母親のような言い草だな」

「ああ。私はこの島全ての者の母なる土だ。……さて、君が私に会いたがっていたもう一つの理由だが、いつ決行する?」

 親友の問いにヴルツェルは鈍色の隻眼を見据えて答えた。

「……今、頼む」
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