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第三話 鈴星

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まだ少し冷たい春風が、屋敷の中を続く長い廊下に、小さな花びらを舞い散らしている。

「奉先が帰って来た…!」

使いの者からの連絡にそう叫ぶと、麗蘭れいらんは部屋を飛び出し、広い庭を横切って屋敷の門へ向かって走った。

門の近くで、奉先ほうせんを迎えにやって来た虎淵こえんと一緒になった。

「あ、麗蘭様!そんなに慌てて…先生が戻られるのが、余程よほど嬉しいのですね!」
「ああ、もうきんの稽古も、舞もうんざりだ…!」
虎淵の顔を見ると、麗蘭は白い歯を見せて笑った。

二人が門を開けると、すぐそこに奉先が立っていた。

「これは麗蘭殿!調度良い、麗蘭殿に賓客ひんかくをお連れした…!」 

奉先は二人に笑顔を向けると、振り返って、引いて来た馬の上に座る人物を紹介する。
馬上の人物は、頭に被ったかさを静かに取り、麗蘭に微笑した。
肩に掛かる柔らかい髪が風に揺れ、舞い踊る花びらに美しい少女の顔があった。

「麗蘭、久しぶりだな…!」

「え…!お前、鈴星りんせいではないか…?!」

麗蘭は驚いて、鈴星を見上げた。

あるじに頼まれて、鈴星殿を此処までお連れして参ったのだ。麗蘭殿に会うのを、楽しみにしておられたのだぞ…!」

奉先はそう言いながら、鈴星の手を取り、馬から降ろす。
ひらりと地に舞い降りる鈴星の姿は、まるで天女てんにょの様であった。

嗚呼ああ、とても美しいお方ですね…!」

麗蘭は瞠目どうもくしたまま、鈴星を見詰めていたが、隣に立つ虎淵が、その姿をうっとりと眺めながら呟いた。
その声に、我に返った麗蘭は、少し慌てて微笑する。

「え…?あ、ああ…そうだな…」

麗蘭の前に立った鈴星は、麗蘭をしげしげと眺め、少しいぶかし気な表情で顔を上げた。

「麗蘭、お前…」
「な、何だよ…?」

刺すような視線に、思わず不安がぎる。

「少し、背が伸びたのではないか…?!」
鈴星は、目元に不満の色を浮かべながら言った。

「はは、何だ…それは、お前が相変わらず"ちび"だからだろう…!」

そう言って笑うと、麗蘭は鈴星の頭を、ぽんと軽く叩いた。

「むう…!わらわは"ちび"では無いぞ!」

鈴星は怒って頬を膨らませ、ぷいと横を向く。
その仕草には、まだあどけないままの、鈴星の面影おもかげがあった。


夜、寝所しんじょとこに入った麗蘭は、小窓から見える遠く丸い月を見上げた。
昼間に見た、鈴星の姿を夜空に思い描くと、深い溜息ためいきれる。

いつの間にか、あんなに綺麗になっていたなんてな…

「ねえ、麗蘭…起きておるか…?」
「?!」

突然、部屋の外から聞こえた声に、麗蘭は驚いて飛び起きた。
「り、鈴星?!どうした…?」
部屋の戸を開けて、鈴星が顔を覗かせる。

「一人では、何だか寝付けなくてな…入っても良いか?」
「え、ああ…良いぞ。」

その返事を聞くと、鈴星は嬉しそうに笑い、部屋へ入りしょうの上へ上がって来る。

そして、甘える様に麗蘭の胸に体を擦り寄せた。

「お、おい…!鈴星…!」

「うふふ、昔はよくこうして、一緒に眠ったであろう。懐かしいな…」
鈴星は目を閉じ、しみじみと呟いた。

「麗蘭…お前は昔から、わらわの"姉妹"の様な存在だった…こうしているだけで、何だか安心する…」

「………」

麗蘭は目に戸惑いを浮かべながらも押し黙り、甘く香る鈴星の柔らかい髪に頬を寄せた。

「なあ、麗蘭…?」
「ん、何だ…?」
「お前の胸は、相変わらずぺったんこだな…!わらわがんでやろうか?少しは大きくなるかも知れぬぞ…!」

鈴星は顔を上げ、そう言って意地悪く笑うと、両手で胸を掴む仕草をして見せた。

「よ、余計なお世話だ…!貧乳ひんにゅうにも、需要はあるんだよ…!」

思わず麗蘭は赤面し、慌てて自分の胸を隠す様に、両手で押さえる。

「あはは、どういう意味だそれは…!…まさか、それが奉先の好みなのか…?」
「はあ?…て、何で奉先が出てくるんだよ…!」

首を傾げながら、自分の胸を眺める鈴星を見て、麗蘭は眉をひそめた。

「麗蘭、お前…奉先と結婚するのでは無いのか?」
「ええ?!する訳、無いであろう…!」

唐突な問いに、麗蘭は面食らった。
その後、思わず吹き出したが、鈴星は真顔まがおで麗蘭を見詰めている。

「昔、大きくなったら奉先と結婚する、と言っていたではないか…!」
「う…っ!そ、そんな事、言っていたかな…?!」

戸惑った麗蘭は、あせって目を泳がせた。

「そんなの、幼少の頃の事であろう…!奉先と結婚なんて、絶対に無い…!」
「…そうなのか…?本当に…?」
「ああ、本当だ…!」

鈴星はいぶかしい目付きで麗蘭を見ていたが、やがて表情を和らげる。
「そうか…それなら、良かった…!」
そう言うと鈴星は、再び麗蘭の胸に体を擦り寄せる。

「ああ、麗蘭…お前はこれからもずっと、わらわの親友でいてくれるか…?」

「鈴星…」

鈴星の肩を優しくでながら、麗蘭は伏し目がちに呟いた。
「…これを言ったら、お前はきっと怒るであろうな…」
そう言いながら、麗蘭は鈴星の肩を引き寄せた。

「鈴星…俺はな、本当は…!!」

目を開いて鈴星を見下ろすと、小さな寝息が聞こえて来る。

「鈴星…?」
鈴星は目を閉じ、麗蘭の胸に体を預けたまま、旅の疲れからか既に眠りに落ちていた。

「はぁ…」
麗蘭は深い溜息を吐き、鈴星を胸に抱いたまま、ゆっくりと仰向けになった。

小さな窓から見える月は、青白い光を放ちながら、夜空にこうこう々と浮かんでいた。



「奉先、鈴星殿との道中は如何いかがであった?仲良くなれたか?」
「ああ、はい…」

一日遅れで、屋敷へ戻って来た主の部屋へ呼ばれた奉先は、主の前に座り、向かい合って話しをしていた。

「鈴星殿に、思い切り蹴られてしまいました…」

奉先はそう言って、頭をきながら苦笑した。
「何?!嫌われたのか…?」
主は驚き、顎髭あごひげしごきながら唸った。

「…むぅ、そんなはずは無いのだがな…」
「?」
「実は…鈴星殿には、見合いの話があってな…しかし、どんな良い縁談でも、相手に会おうともせぬそうだ…」


『会ってみるだけでも良いでは無いか…!お前は一体、どうしたいのだ、鈴星…?何処へも、嫁に行く気が無いのか…?!』
『………』

劉氏は困った顔で、俯いたままの鈴星を見下ろしている。
やがて、鈴星は小さく呟いた。

『…奉先となら、一緒になっても構いませぬ…』

『奉先…?…あの、曹家の小間使いの少年か…?』
その意外な答えに劉氏は驚き、目を丸くした。


「鈴星殿が…?!」

奉先は瞠目どうもくすると、暫し言葉を失った。

「鈴星殿は、どうやら昔から、お前を好いていた様だ。劉家とは古い付き合いだし、お前さえ良ければ、婿に欲しいと申されておる。お前はどうだ…?」

奉先は俯くと、劉家の庭で会った時の、鈴星の姿を思い出した。
『お前など、知らぬ…!』
そう言って、横を向いた鈴星の姿が浮かぶ。
奉先は顔を紅潮させ、ふっと笑って呟いた。

「鈴星殿が…」

それから顔を上げると、主を真っ直ぐに見詰めながら答えた。
「俺は構いません。…しかし、麗蘭殿が何と言うか…」

「麗蘭の事は、心配しなくても良い。それより、これはお前の問題だ…お前の後任には、虎淵が良かろう。あれは麗蘭と同じ年頃だが、しっかりした立派な子だ。」
主は、心底喜んでいる様子で、目を細めて奉先を見詰め返す。

「はい…」
奉先は主に微笑すると、静かに頭を下げた。



「…え?!今、何と言った?!」

うららかな、春の陽射しが差し込む屋敷の庭まで、麗蘭の叫び声が響き渡って来る。

「ですから…これからは、僕が麗蘭様の護衛隊長を勤めさせて頂き…」
「違う!その前だ…!」

今までに無い程取り乱した様子の麗蘭は、自室で目の前の虎淵に、掴み掛からんばかりである。
虎淵は退け反る様にして、慌てて答えた。

「え、ええと…先生は、鈴星様と御結婚なさり、劉家へ婿入りされます故、僕が…」
その後の虎淵の説明は、全く耳に入って来なかった。

「…奉先が、鈴星と…!」

麗蘭は瞠目どうもくし、声を失って虚空を見詰めた。


屋敷の近くにある、草盧そうろの一室に、奉先が寝起きしている部屋がある。
部屋の中の少ない荷を籠に詰め、一人で旅支度をしていた奉先は、戸口に人の立っている気配を感じ、後ろを振り返った。

「麗蘭殿…!」

そこには、無言で立ち尽くす麗蘭の姿があった。
「も、申し訳無い…急な事で、後から報告に参る積もりであったのだが…」
奉先は慌てて腰を上げ、麗蘭に歩み寄った。

「鈴星の奴…」
麗蘭は俯いたまま、呟く様に言った。

「?」
「…覚えていたんだよ。俺が、大きくなったら、お前と結婚すると言った事…」
「え…?そ、そんな事を言っておられたのか…?」
奉先は少し驚いて、麗蘭を見下ろした。

「俺は、気付いていたんだ…鈴星が、お前の事を好きなんじゃないかって…」
「?!」
「お前…全く、気付かなかったのか…?」
「うっ…!いや、き、気付いていた…」

奉先は、しどろもどろになりながら答える。
目を泳がせる奉先を見上げ、麗蘭は軽く溜息をついた。
「あの時はただ…ほんの少し、鈴星に意地悪を言ってやりたくなっただけなのだ…」

「だが今にして思えば、俺はお前に嫉妬しっとしていたんだな…今更になって、ようやくそれが解った…」

そう言って苦笑すると、麗蘭は顔を上げ、眉を寄せて、真剣な表情で見下ろす奉先を見詰めた。

「麗蘭殿…まだ、遅くは無い…!本当の思いを、鈴星殿に打ち明けてはどうだ?!」

奉先は麗蘭の肩を、強く掴んだ。

「い、言える訳無い…!鈴星は、俺を本当の姉妹の様に思っている…本当の事を知ったら、きっと俺をゆるさぬであろう…!」

麗蘭は強くかぶりを振った。

「そんな事は無い…!鈴星殿なら、きっと解って下さる!」

肩を掴む奉先の手に、麗蘭はそっと自分の手を重ねると、やがて顔を上げ、大きく澄んだ瞳で奉先を見詰めた。

「奉先…俺は、鈴星の事が好きだが、お前の事も同じくらい好きだ…!好きなお前たちが、一緒になるのなら…本当に、それで良いと思っている…!」

微笑む麗蘭の黒い瞳が、うるんで輝いている様に見える。

「麗蘭殿…!!」

思わず叫んで、奉先は麗蘭の体を引き寄せ、強く抱き締めた。

「うわっ?!」
「有り難う、麗蘭殿!俺も、あなたの事が好きだ…!鈴星殿を必ず、幸せにすると約束する…!」
「ほ、奉先…苦しい…!」

奉先の腕の中で、麗蘭は苦し気にもがきつつ、顔を紅潮させながら、苦笑を浮かべた。

「奉先…麗蘭…?!」

その時、脇から二人に呼び掛ける声が聞こえた。
二人は驚いて、同時に声の方を振り返る。

「鈴星…!」
「鈴星殿…!」

二人は、ほぼ同時に声を上げた。

「お前たち…!やっぱり、そういう関係だったのだな…!」
鈴星は、潤んだ瞳で二人を睨みつけ、声を震わせた。

「ち、違う…!鈴星、誤解だ!」
狼狽ろうばいした二人は、慌てて抱き合った体を離した。

「わらわは…お前たちなど、大嫌いだ…!」
鈴星の目から、大粒の涙が落ちると同時に、鈴星は二人に背を向け、その場を走り去った。 

「待て!鈴星…!!」
「鈴星殿…!!」
二人は叫んで、呼び止めようとしたが、鈴星の姿は垣根の向こう側へ消えて行く。


夢中でひたすら走った鈴星は、やがて城邑じょうゆうの大きな通りへ出た。
昼間だが人通りはまばらで、ふと気付くと、自分が何処を歩いているのか分からず、鈴星は不安にられた。
振り返って後ろを見たが、麗蘭と奉先の姿も見当たらない。

屋敷へ帰る道筋も分からなくなってしまった。
どうしよう…
鈴星は手で涙を拭いながら、暫く邑内ゆうない彷徨さまよい歩いた。

やがて、りいんと鳴る鈴の音が、何処からともなく聞こえて来る。
あ、あの音は…?
そう思って、後ろを振り返った瞬間、鈴星の記憶は途切れた。


麗蘭と奉先は、後を追って通りへ出たが、鈴星の姿は何処にも無い。
二人は手分けして探したが、それでも見付ける事は出来なかった。
鈴星はまるで、神隠しにでも会った様に、忽然こつぜんと姿を消してしまった。

「鈴星!何処へ行ったんだ…?!」

麗蘭は愕然がくぜんと辺りを見回した。

「もしかしたら、屋敷へ戻っているかも知れぬ。一旦戻ろう、麗蘭殿…!」
「ああ、そうだな…」
二人は捜索を諦め、一度屋敷へ戻る事にした。

屋敷へ続く通りを歩いていると、門の前に誰かが倒れているのが見えた。
「奉先!あれを見ろ…!」
そう叫ぶと、麗蘭と奉先はそこへ駆け寄った。

倒れていたのは、鈴星では無かったが、十歳前後の子供の様であった。
頭から全身がほこりまみれで、履いている靴はぼろぼろになっている。

奉先が少年を抱き起こすと、胸に耳を押し当てる。
麗蘭はその少年の顔を覗き込み、頬を軽く叩いてみた。

「おい、しっかりしろ…!死んでいるのか…?」
「いや、まだ息がある様だ。屋敷へ連れて入ろう!」
そう言って、奉先は少年を抱き上げると、麗蘭と共に屋敷の門をくぐった。


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