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第二話 謎の教団
しおりを挟む屋敷の屋根に集まった雀たちが、鳴り響く琴の音色に合わせる様に、盛んに囀っている。
「あっ…!」
突然乱れた琴の音に驚いて、雀たちは一斉に飛び去って行った。
「如何されましたか?」
庭に面した室内で、琴の稽古をしていた麗蘭だが、小さく溜め息をついて手を止める。
麗蘭の前に座る初老の女性が、琴を弾く手を止めて問い掛けた。
「すみません、師匠…」
「お気分が、優れぬご様子ですね…今日はここまでにしましょう。」
廊下へ出た麗蘭は、裏庭で武術の稽古をしている、子供たちの声のする方へ歩いた。
欄干から身を乗り出して覗くと、庭の木々の間から、稽古に励んでいる子供たちの姿が見えた。
師範代の虎淵が、溌剌とした声で、弟弟子たちに稽古をつけている。
虎淵は、麗蘭と同じ年頃だが、武術の腕前は弟子たちの中で一番であり、眉目秀麗で素行も良く、奉先が最も信頼を寄せる愛弟子である。
虎淵の姿を眺めながら、欄干に肘を突いて腕に顎を乗せると、麗蘭は深い溜め息を吐いた。
「はあ…奉先の奴、早く帰って来ないかな…」
緑の生い茂る森の中を、なだらかな街道が続き、差し込む木漏れ日が、その白い道を明るく照らし出している。
奉先と鈴星を乗せた二頭の馬が、ゆっくりとした足取りでその街道を進んでいた。
「…しかし、鈴星殿の顔を見たら、きっと麗蘭殿は驚くであろうな…!だが、喜ぶ事間違いなしだ!」
奉先は嬉しそうに言いながら、馬上で揺られる鈴星を振り返った。
「お前、さっきからずっと、麗蘭の事ばかり話しておるな…!もう充分だ…」
鈴星は少しふて腐れ気味に、奉先を睨んだ。
「そ、そうか…申し訳無い。あ、そうだ!鈴星殿、疲れたであろう。この先に、小さな沢があるので、そこで少し休もうか?」
耳を澄ますと、確かに遠くから、小川のせせらぎが聞こえて来る。
街道を外れ、少し進むと、そこには綺麗な小川が流れていた。
奉先は近くの木に二頭の馬を繋ぎ、木陰にある大きな岩によじ登る。
「さあ、鈴星殿もこちらへ。」
そう言って、岩の上から鈴星に手を伸ばした。
鈴星は一瞬、その手を取るのを躊躇した。
それを見た奉先は、慌てて自分の着物に手を擦り付け、笑って再び手を差し出す。
鈴星は仕方が無いといった様子で、軽く溜め息をついて奉先の手を取り、岩へ上がった。
二人は並んで岩の上に腰を下ろし、きらきらと七色に水面を輝かせる川の流れを、暫しうっとりと眺めていた。
奉先の横で、膝を抱いて座っていた鈴星は、ふと目を落とし、岩の上に突いた奉先の手をじっと見詰めた。
膝を抱いていた腕を静かに解き、奉先の手の上に細くしなやかな指を、そっと伸ばす。
「おっ…!」
「?!」
突然、奉先が声を上げ、岩から身を乗り出して川を覗き込んだ。
驚いた鈴星は、慌てて自分の手を引っ込める。
「魚がいる…!」
そう言うと、奉先は岩から降り、着ていた衣服を脱ぎ始めた。
「こ、こら!お前…何をしておる?!」
鈴星は驚きながら、両手で赤い顔を覆い隠す。
「捕まえるのだ!」
奉先は笑いながら靴を脱ぎ、下服の裾を捲り上げると、上半身裸で、ばしゃばしゃと川へ入って行った。
川の流れは穏やかで、奉先の足元を、魚たちが優雅に泳ぎ回っている。
「いっぱい、いるなぁー…」
水面は彼の膝ぐらいの高さで、然程の深さは無い。
奉先は屈んで、川の底を覗き込み、素手で魚を捕まえようとしている。
「全く、もう…!」
鈴星は岩の上で膝を突き、川で魚を捕まえようとしている奉先の後ろ姿を、不満気に見下ろしていた。
その時、鈴星の頭上に、黒い影が忍び寄る。
突然、どさりと何かが首筋に落ちて来た。
「ひっ…?!き、きゃああああ!!」
けたたましい悲鳴に驚いた奉先は、慌てて川から上がり、鈴星の元へ向かった。
「鈴星殿!どうした?!」
見ると、必死に手で後ろ髪を掻き上げている鈴星の着物の襟首から、蛇のしっぽが飛び出している。
奉先はそのしっぽを捕まえると、蛇を着物から引き擦り出そうと、強く引っ張った。
次の瞬間、蛇はスポン!と着物から飛び出したが、その勢いで鈴星が思い切り奉先に体当たりをして来る。
「うわ…っ!」
そのまま勢い余って、二人は大きな水飛沫を上げ、岩の上から川へと転落した。
鈴星が水から顔を上げると、目の前に、赤い舌をちろちろと動かす、緑色の蛇の顔がある。
「きゃあ!へ、蛇…!!」
鈴星は再び悲鳴を上げ、立ち上がろうとした奉先の背中に、思わず飛び付いた。
「うぐ…ぐえ…!」
突然後ろから鈴星に羽交い絞めにされた奉先は、慌てて彼女の腕を解こうと踠いたが、我を失った鈴星は、更に奉先の首を締め付け、背中を攀じ登って来る。
「り、鈴星殿!落ち着け…!お…ぶっ!」
暴れる鈴星の膝を、奉先は顔面に喰らった。
「鈴星殿…!!」
奉先は叫んで、自分の胸に鈴星を引き寄せ、その体を強く抱き締めた。
「あっ……!!」
奉先に強く体を抱き竦められた鈴星は、驚いてその場で固まった。
「もう、大丈夫だから…!」
鈴星を強く抱き締めたまま、奉先はその耳に囁く様に言った。
奉先の胸に耳を押し当てると、鼓動の高鳴りが聞こえて来る。
漸く落ち着きを取り戻した鈴星は、静かに目を閉じ、深く息を吐きながら、うっとりとした様子で、奉先の背中に腕を回す。
やがて、奉先は腕の力を抜いて、そっと鈴星の体を離した。
紅潮した顔を上げた鈴星は、奉先の顔を見て、再び悲鳴を上げる。
「きゃあ!血が…!」
「え…?」
驚く鈴星の顔を、呆気に取られて見ている奉先の鼻から、大量の血が滴り落ちていた。
やがて森に夕闇が落ち、空に星の瞬きが幾つも見え始めた。
焚火に晒された鈴星の濡れた着物が、夜風にはためいている。
奉先が川で捕った魚は、木の枝に串刺しにされ、焚火の回りに突き立って、香ばしい香りを辺りに漂わせている。
「仕方がないので、今日はこのまま、野宿に致そう。」
集めてきた小枝や薪を降ろし、焚火に木や薪を焼べながら、奉先が言った。
鈴星は焚火の前で、替えの衣に着替え、膝を抱いて座っている。
「………わらわの事、怒っておるか…?」
伏し目がちに、鈴星が問い掛けた。
「鈴星殿の事を?ははは、まさか…!悪いのは、あの蛇であろう。」
奉先は笑って、木の上を這う蛇を小枝で差した。
「お前、優しいのだな…」
鈴星は俯いたまま呟き、徐に、赤く染まった頬を上げた。
「麗蘭の事が、羨ましい…」
そう言うと、少し羨望を目元に表しながら、柔らかい微笑みを奉先に向ける。
焚火の炎に、幻想的に揺らめく鈴星の微笑みに、奉先は思わず、どきりとして言葉を失った。
「そ、そんな…買い被りだ…!」
奉先は慌てて、握った小枝を地面に突き立て、照れながら、よく分からない線をぐりぐりと描いた。
「あ、魚が焼けた…!鈴星殿、さあ食べて…!」
そう言うと、奉先はこんがりと焼けた魚を、鈴星の前に差し出した。
夜が更け、梟であろうか、夜行性の鳥の鳴き声が森の中に響き渡っている。
小さくなった焚火の炎が消えないよう、奉先は時々木の枝を火に放り込む。
鈴星は敷いた着物の上に横になり、いつの間にか、小さな寝息を立てて眠っていた。
奉先は眠っている鈴星の側へ行き、自分の着物を脱いで、そっと鈴星の肩に掛けた。
それから、鈴星の近くに腰を下ろし、暫しぼんやりと、鈴星の美しい寝顔を眺めていた。
ふと、奉先は耳を峙て、振り返って辺りを見回した。
遠くから、鈴の音の様な、りいんと鳴る微かな音が聞こえて来る。
その音は次第に大きくなり、街道の方から聞こえている様である。
「鈴星殿…!」
奉先は鈴星の肩を揺すり、小声で呼び起こした。
いつの間にか自分が眠ってしまった事に気付き、鈴星は慌てて起き上がろうとした。が、奉先が鈴星の肩を押さえ、しっと口の前に指を立て、声を上げぬ様に合図する。
「誰か近付いて来る…!」
そう囁くと、奉先は腰に剣を差しながら鈴星の手を取り、そっと立ち上がらせた。
二人は木の陰に身を潜め、街道の様子を伺った。
遠くに、幾つもの炬火の明かりが見える。
その明かりは次第に近付き、鈴の音も近くなって来た。
街道の上に浮かび上がったのは、白装束の集団であった。その列の後ろから大きな牛車が付いて来ている。
やがて、集団の先頭を歩く、成人であろう男性の姿が、見て取れる様になった。
男は白い杖を突き、その杖に大きな鈴が付いているらしい。
男が歩く毎に、鈴の音が辺りに響き渡る。
「あれは…天華様の一行だ…!」
「天華様…?」
奉先は首を傾げて、鈴星を振り返った。
「お前は田舎者ゆえ、知らぬであろうな…!天華様は、"天聖師道"の『聖母様』と呼ばれるお方で、民に幸福の祈りを捧げて下さるのだ…!」
「天聖師道…とは、道教か…?」
奉先は目を細め、近付きつつある集団を訝し気に見詰めた。
「そこに、誰かいるな…!出て参れ!」
集団の先頭を歩いていた男が、突然立ち止まり声を上げた。
男は目が見えぬらしく、目を閉じたまま、二人の隠れた木の方を杖で指し示している。
「俺たちは旅の途中で、この先で野宿をしている。怪しい者では無い。」
奉先は街道へ出て、その集団に近付いた。
目の見えぬ男は、暫し黙考したが、やがて辺りの匂いを嗅ぐ様に鼻を上に向けて呟いた。
「女が居るな、連れて参れ…!」
そう言われた奉先は躊躇したが、木の陰から顔を出した鈴星が、こちらへ歩いて来る。
「道士様、聖母天華様の御一行とお見受けします。どうぞ、私共に祈りを捧げて頂けませぬか?」
鈴星は恭しく、男の前で膝を折って、頭を下げた。
盲目の男は、見えない目を鈴星の方へ向け、彼女を見下ろした。
「…美しい声の娘よ、良かろう。」
男はそう言うと、後ろにいる仲間に耳打ちをし、牛車の方へ行かせた。
やがて牛車から、一人の女性らしき人影が降りて来た。
白い絹の布を頭から被ったその女は、静かに二人に近付いて来る。
表情ははっきりとは見えぬが、真っ赤な紅を引いた唇が、やけに目を引く。
奉先はさりげない仕草で、手を剣に掛けた。
女は二人の前に立つと、徐に被っていた布を取り払う。
そこには、口元に微笑を浮かべ、妖艶な美しさを持つ女の顔があった。
成人であろうが、若くも見え、年齢がよく分からない。
聖母天華は、跪く鈴星を見下ろし、側に立つ奉先にも目をやった。
「ふふ、あなたたちの旅の安全と幸福を、お祈り致しましょう。」
そう言うと、袖口から何やら護符の様な物を取り出し、二人の前に翳した。
暫くぶつぶつと祝詞を唱え、それが終わると、折り畳んだ護符を、鈴星の懐へ差し込む。
「さあ、これを肌身離さずお持ちなさい…」
そして鈴星の白い頬を、指先でそうっと撫で下ろし、にっこりと微笑んだ。
「お前は、とても美しい…頼もしい従者が付いておられる故、何も心配はありませんね…」
そう言って、今度は奉先を見上げた。
聖母天華は、再び牛車へ戻り、止まっていた行列がまた進み始めた。
奉先と鈴星は、道の傍らから、通り過ぎて行く一行を見送っていたが、やがて集団の最後尾から、二人の前を数十人の若い娘たちが通り掛かった。
顔を上げた奉先は、その少女たちを、奇妙な物を見る様な目付きで見送った。
先頭の男が鳴らす鈴の音に、導かれる様に歩く彼女たちは皆、死人の様に青白い顔をしており、何かに操られる様に、正気の無い足取りで行列に付いて歩いている。
鳴り響く鈴の音は次第に遠ざかり、その白い集団の姿も、やがて夜の闇の中へ溶ける様に消えて行った。
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