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第十章 覇業への導きと蒼天に誓う絆
第百二十八話 降雪の決戦場
しおりを挟む軽やかな足音を響かせ、廊下の奥から此方へ走り寄って来るのは貂蝉である。
貂蝉は彼の顔を見ると忽ち頬を紅潮させ、瞳を潤ませた。
「奉先、おかえりなさい!嗚呼…雲彩、無事で良かった…!」
駆け寄った貂蝉は、奉先の腕に抱かれた雲彩に手を伸ばし、彼女の柔らかな頬を優しく撫でる。
雲彩は多少の衰弱は有るものの健康には問題無く、差し出された貂蝉の細い指を力強く握り返した。
「おばさんも、きっと喜ぶわ…!」
その様子を愛おしげに見詰める貂蝉は、まるで我が子を思う母親そのものである。
考えてみれば、雲彩を取り上げたのは彼女であり、母親の様な感情を抱くのも無理は無い。
初めて出会った時の貂蝉はまだ幼く、奉先の意識の中では何時までも少女のままだと思っていたが、気付けばすっかり成長し大人びている事に改めて驚かされた。
「貂蝉、悪いな…雲彩の事を頼む。」
奉先はそう言って、彼女の腕に小さな雲彩の体を預ける。
胸に雲彩を抱き、貂蝉は大きな瞳で彼を見詰めると黙って大きく頷いた。
それを見届けた奉先は、今度はその足で陳公台の邸へと向かった。
小さな燭台の灯る薄暗い室内に一人瞑座していた公台は、居室へ通された奉先を落ち着いた様子で迎え入れた。
「援軍要請は失敗に終わった。…これは、俺の失態だ。申し訳無い。」
「…仕方が有りません、奉先様。次の策を考えましょう。」
項垂れた様子の奉先を見詰め、公台は冷静な口調で慰めの言葉を掛ける。
やがて静かに立ち上がると、居室の窓から見える冷たい月を見上げて公台がぽつりと呟いた。
「もう、お聞きになったでしょう…」
「…ああ、士恭の事か。」
奉先は彼の背中を見詰め、小さく頷きながら答えた。
「仕方が無かったのです。ああでもしなければ、やがて暴動にも成り兼ねなかった…しかし、士恭殿は鋭敏なお方です。僕の真意を察し、何も仰らなかった…今、僕たちが争って喜ぶのは敵だけですから。士恭殿はそれを良く分かっておられたのです。」
「そうか、そうだったのだな…」
公台が語るのを聞きながら奉先は苦笑を浮かべたが、自分の心配が杞憂に終わった事に内心ほっとし、胸を撫で下ろしていた。
「張文遠を、下邳へ呼び寄せたいと考えている。どうだろうか?」
気を取り直す様に明るい表情で顔を上げ、公台の背中に問い掛ける。
すると、公台は彼を振り返って微笑を浮かべ、
「良いお考えです。早速、伝令を送りましょう。」
そう言って、直ぐに書簡を用意し忽ち文書を作成した。
そして出来上がった書簡を伝令に持たせ、その日の内に文遠の元へと送り出したのであった。
奉先が下邳を離れている間も、曹操軍は攻撃の手を緩める事無く攻め寄せていたが、公台は巧みな用兵術で敵を押し返し続けていた為、曹操軍では遂に兵糧が底を突き始め、次第に兵の士気は低下していった。
呂布軍側としては、この機に乗じて敵を突き崩し、起死回生の足掛かりを得たい。
張文遠が下邳へ到着すれば、奉先が兵を率いて出撃し、文遠と同時に敵軍を挟み撃つ。
その間、城は公台と士恭らで護ると言うのが公台の作戦であった。
胸に抱いた幼い雲彩が何かを掴もうと、小さな手を伸ばす。
ふと顔を上げると、寒空から白い小さな一片が舞い落ちて来るのが見えた。
「雪…」
白い吐息と共に雲月が呟く。
やがて本格的な冬がやって来る。
この数日で気温は急速に低下し、底冷えする日々が続いていた。
「わあ、雪ね。綺麗…!」
無邪気な笑い声を上げながら、貂蝉が庭の門を潜って入って来た。
貂蝉はひらひらと舞い落ちる雪を指先で捕まえ、それを雲彩の頬にそっと乗せる。
雲彩はその冷たさに少し驚いた顔を見せたが、次の瞬間には小さな燥ぎ声を上げていた。
二人の様子を、雲月は目を細めて眺めていたが、やがて憂いの眼差しを灰色の空に向けた。
それから数日後、張文遠が下邳の近くまで来ていると言う報告が奉先らに齎された。
いよいよ、最後の決戦の刻が迫っている。
奉先は、鍛え抜かれた選りすぐりの精鋭部隊を準備し出撃に備えた。
その中には当然、健将、成爽直と、驍将、魏伯卓も含まれている。
最強無敵を誇る彼らの勇猛さを以てすれば、曹孟徳の自慢の青州兵を破るのも夢では無い。
決戦に向かう彼らは皆、瞳に強い決意と自信を漲らせていた。
そんな彼らの姿を、憂いの眼差しで見詰めていたのは妻の雲月である。
いつもは戦について口出しをする事の無い雲月が、珍しく彼を呼び止め不安な表情を見せた。
「奉先、どうしても…あんたが行かなければ駄目?」
「どうして?」
雲彩を胸に抱いて佇む妻に歩み寄ると、奉先は彼女の肩にそっと手を乗せる。
「何だか、嫌な予感がする…どうしても此処に残れないのかい?」
「この城は、公台と士恭が護る。心配無い、直ぐに戻って来るさ。」
「……」
宥める様に肩を撫でると、彼女はそれ以上何も言わなかったが、相変わらず不安を拭い切れぬ表情で、歩き去る彼の後ろ姿をじっと見詰め続けていた。
一方、曹操陣営では敵の奇襲に備え、夏侯元譲と彼の従弟である夏侯妙才らを前線に配置して警戒を続けていた。
下邳は泗水、沂水、沐水と言う三つの河に挟まれ、攻めるにも河を越えて行かなければならない。
敵が奇襲を仕掛けて来れば兵たちは逃げ場を失い、甚大な被害を受ける可能性も考えられる。
「雪か…」
灰色の空を見上げ、孟徳が呟いた。
紅い戦袍を身に纏い、止め処なく舞い落ちる雪に手を翳す。
寒風に靡く長い黒髪に絡み付く雪は、恰も舞い踊る花弁の様であった。
「この寒さで籠城を続けるのは過酷であろう。そろそろ、決着を付ける時だな…」
その様子を眺めながら、彼の背に声を掛けたのは劉玄徳である。
孟徳は振り向かず、相変わらず美しい雪景色を眺めながら、ふと彼に問い掛けた。
「玄徳…呂龍昇を覚えているか?」
「ああ、覚えている。」
玄徳は彼に肩を並べ、同じ様に辺りの景色を眺めながら小さく返事を返した。
「彼は、死んだ。俺が殺したのだ…」
「…そうか」
余り感情を表す事無く、玄徳は小さく頷く。
「俺は、昔からあの男が嫌いだった。優れた武勇を持ち、金や権力も握っていた。今思えば、何処かあの男に憧れていたのかも知れない。いつか、いつの日か…俺はあいつを越えると心に誓った。その為に、強くなると決めたのだ…」
「お前は、充分強くなったよ…」
「ああ…だが、俺は地位や権力が欲しかった訳では無い。ただ強くなりたいと願った…それが、今は虚しい。」
やがて落ちて行く雪の花弁を追って、孟徳は地面に溶けて消えてゆく儚いその姿を見詰めた。
「奉先が居て、虎淵が居て…仲間が居れば、それだけで良かった。それなのに、こんな所で虚しい戦を続けている…」
広げた掌に落ちる雪を握り締めながら、孟徳は小さく苦笑を浮かべる。
そんな彼の横顔に、玄徳は憂いの眼差しを送った。
「戦とは、虚しいものだろう…いや、生きると言う事自体が虚しいのだ…」
そう言うと、今度は強く言い聞かせる様に言葉を繋ぐ。
「人は滅びに向かって歩んでいる。どう生きるかが大事なのだと、教えてくれたのはお前では無かったか…?」
その言葉に顔を上げ、孟徳は振り返って彼の瞳を見詰めた。
「孟徳…お前は遠くを目指して走り過ぎ、道を見失い掛けている。今は、生きる事だけを考えれば良い。」
「そうだな。生きてこの戦いを終わらせなければ、その先へ進む事は出来ない…!」
孟徳は微笑を浮かべ力強く頷く。
相好を崩し、目を細めて孟徳を見詰めると、やがて玄徳は彼の肩を強く叩いた。
「曹司空!」
そこへ、血相を変えて駆け付けて来たのは孟徳の側近である。
「張文遠率いる部隊が、本陣を目指し真っ直ぐに此方へ進撃中との報告が届きました!」
「何だって…?!」
突然の報告に驚愕し、孟徳は急いで本陣へ駆け戻った。
伝令の報告が届いた頃には、文遠の部隊は既に目と鼻の先にまで迫っていると言う。
敵ながら、その迅速さには舌を巻く。
すると息つく間も無く、今度は前線で警戒していた夏侯元譲の部隊が下邳から出撃して来た呂布軍と戦闘になっていると言う報告が飛び込んで来た。
元譲は先の戦で奉先に捕らわれる等、苦汁を舐めさせられている。
ここは何としても一矢報いたいと、疼く左目の痛みを堪え奮闘していた。
孟徳は配下の将たちを呼び集め、彼の指示により、徐公明と曹子廉が文遠の部隊を食い止めるべく慌ただしく出撃した。
それから急ぎ部隊を整え、孟徳は軍師の郭奉考を伴って味方の救援に向かったが、その頃には既に、奉先は元譲の部隊を破り、夏侯妙才の部隊をも突破して本陣へと突き進んでいたのである。
河に差し掛かった奉先は飛焔の脚を止め、川底を覗き込んだ。
見れば、川の水位が明らかに下がっている。
「上流で河の水を堰き止め、浅瀬を渡る積もりだな…」
川底に見える砂利や石を確認して呟くと、奉先は再び飛焔を走らせ浅瀬へと向かった。
暫く進むと、予想通り浅瀬を渡河しようとしている部隊の影が、降り頻る雪の間から見て取れた。
そうはさせぬ…!
奉先は自部隊に指示を送り、急速に馬の速度を速めて、河を渡る敵の部隊に強烈な突撃を食らわせた。
雪の中から突然現れた部隊に、曹操軍は忽ち突き崩され、兵たちは算を乱して河の中を逃げ惑う。
奉先の部隊は敵の三分の一にも満たないが、鋭利な刃物の様に曹操軍を切り裂き突き進んで行く。
やがて前方に、『曹』の旗を掲げた主力部隊が現れた。
旗の下には、紅い戦袍を纏った孟徳の姿がある。
奉先は馬首を巡らせ、主力部隊に狙いを定めて飛焔を走らせた。
方天戟で敵兵を次々に薙ぎ払う奉先の目に、孟徳の姿がはっきりと見て取れる距離にまで迫る。
舞い落ちる雪に垣間見える孟徳もまた、同じ様に此方を凝視しているのが分かった。
孟徳殿…!
今度こそ、ここで貴方と決着を付ける…!
その気迫に、彼の前を阻もうとする者は忽ち戦意を挫かれ、誰も止める事が出来ない。
河を渡り陸に上がろうとした、正にその時である。
彼の前に飛び出して来た一騎の騎馬が、その行く手を阻んだ。
奉先は、振り下ろされた敵の武器を素早く方天戟で受け止め、相手を睨み付ける。
「此処から先には行かさぬぞ!俺が相手になってやる…!」
方天戟が受け止めたのは、張翼徳の蛇矛であった。
蛇矛を弾き返し、一度飛焔を引いて対峙すると、奉先は再び忌々しげに彼を睨んだ。
「余計な邪魔を…!」
「この前の借りを、此処で返してやる!」
蛇矛を素早く頭上に振り翳し、目にも留まらぬ速さで打ち掛かる。
奉先はその攻撃を躱し撥ね退けると、数合に渡り馬上で打ち合った。
「貴様など俺の敵では無い!退がらぬと、今度こそ斬り殺すぞ!」
「ほざけ…!」
翼徳は目を瞋らせて息巻き、方天戟の攻撃を避けると、馬上から勢い良く奉先に飛び掛かる。
体勢を崩された奉先は、翼徳諸共飛焔の背から落下し、その足元へ転がり落ちた。
水嵩の低い浅瀬とはいえ、充分踝が沈む深さである。河の水は刺す程の冷たさであった。
背中から落下した奉先がずぶ濡れの体を起こすと、再び飛び掛かった翼徳が馬乗りになり、力任せに彼の顔面を殴打する。
激しい痛みと共に、忽ち口の中に血の味が広がる。
血の混ざった唾液を吐き出した時、再び勢い良く振り被った翼徳の拳が飛んで来た。
奉先は咄嗟に左手で彼の拳を受け止め、足で彼の胴体を蹴り上げて後方へ投げ飛ばす。
翼徳の体は回転しながら宙を舞い、大きな水飛沫を上げて水面に叩き付けられた。
水の中から方天戟を掴み取り、奉先はふらつく足で立ち上がったが、ある違和感に捉われ、揺れる水面を見詰めた。
その時、対岸から何者かの叫び声が聞こえた。
「翼徳、今すぐ陸へ上がれ!」
叫んでいるのは、馬で駆け付けて来た劉玄徳である。
しかし、彼の声は翼徳の耳には届いておらず、蛇矛を拾い上げ再び奉先に斬り掛かる。
振り返った奉先は素早く方天戟で蛇矛の攻撃を受け止め、二人は再び互いの武器で激しく打ち合い始めた。
「兄者、俺が連れ戻して来る!」
玄徳の脇を駆け抜け、関雲長が馬で河へ飛び込んで行く。
玄徳がその後を追って走り出すと、彼らの姿を見た孟徳も愛馬の手綱を扱いて駆け出そうとした。
「孟徳殿…!」
それを咄嗟に呼び止め、彼の戦袍を強く掴んだのは郭奉考である。
「…?!」
孟徳が振り返り訝しげに眉を顰めて彼を見ると、彼は黙ったまま目で訴えていた。
行っては成らぬ…と。
「はっ…!」
蛇矛と組み合った方天戟を押し返しながら足元を見ると、既に河の水嵩は膝の高さにまで上がっている。
「おい、このままでは全員死ぬぞ…!」
「何だと…?!」
翼徳を強く睨み付けながら奉先が言うと、漸く冷静さを取り戻した翼徳は辺りの異変に気付いた。
「翼徳、今すぐそこから離れろ!岸へ上がるんだ…!」
振り返ると、雲長が叫びながら仲間を撤退させている。
すると、敵味方入り乱れて戦闘を繰り広げていた兵士たちは突然青褪め、狼狽えながら岸へ向かって我先にと逃げ始めた。
見れば、河の上流から蛇の蜷局の如く畝った水が、大きな唸りを上げて此方へ向かって来ている。
奉先は素早く飛焔の背に跨り、部下たちに撤退命令を叫びながら岸へ引き返した。
しかし、激流はあっという間に彼らの元へ到達し、逃げ遅れた兵士たちを次々と呑み込んで行く。
凄まじい激流に押し流されながら、奉先を乗せた飛焔は必死に岸へと這い上がり、二人はずぶ濡れになりながらも難を逃れた。
飛焔の背から降り、その場に膝から崩れた奉先は、水を吐き出しながら激しく噎せた。
振り返って見ると河は激しく氾濫し、辺り一面河の水で水没している。
その後、何とか逃げ切った仲間たちが彼の元へ集まったが、その中に側近の成爽直の姿は無かった。
「奉先様、敵は上流の水門を開いて河の水を下邳城内へ引き入れ、城が水没しております!」
そこへ、城から慌てて駆け付けて来た伝令が彼に報告した。
「何だって…?!敵の狙いは、城内への水攻めであったか…!」
城には、妻の雲月や貂蝉たちが残されている。
家族に危険が迫っている事を知り、奉先は強く歯噛みをして唸ると、生き残った仲間たちを引き連れ、急ぎ城へと引き返して行った。
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