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第九章 中原の覇者と魔王の片鱗

第百十九話 雒陽への帰還 《九章 最終話》

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秋の気配をまとった冷たい風が吹き付け、屋敷の窓をカタカタと鳴らしている。
真新しく何もえがかれていない屏風びょうぶを前に、鮮やかな染料せんりょうに筆を浸した白媛はくえんが、そこに美しい華の絵を描いていた。

「白媛、あなた劉玄徳の妻なの?」

その様子を後ろから眺めていた貂蝉ちょうせんが、おもむろに問い掛ける。
白媛はやがて振り返ると、たくに広げた本の上に頬杖ほおづえを突いて、こちらを見詰めている貂蝉に微笑を向けた。

「いいえ…私は、ただの侍女よ。あなたは、人の妻?」
「ううん…今は、まだ違うわ。私は妻になるには、まだ早すぎるって奉先は言うの…」
「あら、そんな事無いと思うわ。あなたは、しっかりしていて大人っぽいし、とても美しいのに…」
うつむく貂蝉に、白媛は少し首をひねって見せる。

十七になる白媛は、貂蝉と歳が近いと言う事で、話し相手になればと奉先が二人を引き合わせたのである。
初めの内は互いに警戒していた様子であったが、次第に打ち解け今ではすっかり仲が良くなっていた。

「そんな顔しないで。そうだわ、あなたを絵に描いてあげる!」
白媛は手を打って嬉しそうに微笑むと、新たな紙を床に広げ筆を走らせ始めた。
彼女の握る筆の先から鮮やかな色が描き出されると、真っさらな紙の上に生命が宿る様である。
それはまるで魔法の様で、貂蝉は瞳を輝かせてその光景を見詰めた。


戦場から退却した劉備軍は、呂奉先りょほうせんに奪われた下邳かひ城へと向かい、わずかな従者たちと城へ迎え入れられ、玄徳は奉先との和睦わぼく交渉にのぞんだ。

「あんたが戻れば、この城は返す積もりだった。」

謁見えっけんの間で対面した奉先は、玄徳に向かってそう切り出した。
すると、玄徳は小さく微笑した後、

「いいや、返す必要は無い。」

と、彼を見詰め返してよどみなく答える。
同行していた雲長と翼徳、従者たちは皆それを聞くと驚きの表情で彼を見上げた。

「…俺は、徐州をべるうつわでは無かった、と言う事だ。その代わり、俺たちは小沛を貰うぞ。奉先、徐州はお前が統治すると良い。お前は袁本初えんほんしょから嫌われており、袁公路えんこうろもお前を攻める事はしないであろう。」
「本当に、それで良いのか?」
奉先はいぶかしげな眼差しを向けながら問い掛けた。

「ああ、君子に二言にげん無しだ。お前もそれで異存いぞんは無かろう?」
余り感情を表さず、玄徳は冷静な口調で答える。

劉玄徳は奉先に敗北したとは思っていない。
彼の態度は、あくまで対等の立場である事を示し、小沛へ向かうという屈辱くつじょくを自ら望んでいるかの様に振る舞っている。
心底しんそこ、本性を見せぬ強情ごうじょうな男よ…
奉先は目を細めて彼を見詰め、その真意を見極めようと計ったが、それが無駄な事であると判断した。

「…そうか、分かった。では、玄徳殿には小沛へ向かってもらう。士恭しきょう、小沛を守っている張文遠ちょうぶんえんにその事を伝える為、共に向かってくれ。」
「はい、かしこまりました。」
振り返った奉先に告げられ、高士恭は素早く拱手きょうしゅすると、劉玄徳らをともなって広間を後にした。

こうして、人質として捕らわれていた仲間や家族たちは彼らの元へ返され、共に小沛へと向かう事となった。
出発の朝、下邳城を発つ玄徳らを、奉先は城門まで見送りに出向いた。

「貂蝉、これをあなたに。」
白媛はそう言って、奉先のかたわらに佇む貂蝉に丸めた掛軸かけじくを手渡す。
広げてみると、そこには色鮮やかな桔梗ききょうを胸にいだく貂蝉の美しい姿が描かれていた。

「綺麗…っ!」
「知ってる?この華はね、“永遠の愛”を表しているのよ。」
瞳を輝かせて掛軸を見詰める貂蝉の横顔に、白媛は優しく微笑んで語り掛ける。

「本当?!素敵だわ白媛、有り難う…!」
貂蝉は嬉しそうに顔を上げたが、白媛の顔を見ると途端に瞳をうるませ、それをさとられまいと、思わず彼女の胸に強く抱き着いた。
小さく震える貂蝉の肩を優しく抱き締める白媛は、いとおしい眼差しで見詰め、彼女の艷やかな髪をで下ろす。

「私の事、忘れないでね。」
「うん…!忘れない。」
「あなたのおもい…きっと、いつか彼に届くと思うわ。」
やがて白媛の瞳から大粒のなみだあふれ出し、彼女の頬をらした。

芙蓉ふよう、そろそろ行くぞ。」
開かれた城門の下で、暫し黙して二人の姿を眺めていた玄徳が、そう言って彼女にしゃへ乗るよううながす。
白媛は振り返り彼に小さくうなずくと、貂蝉と別れ静かに車へと乗り込んだ。

貂蝉を連れて楼門ろうもんへ上った奉先は、どこまでも続く青空のもと、“劉”の旗をなびかせ列を成して去り行く軍勢をいつまでも見送り続けた。



長安ちょうあんで政権を握っていた李傕りかく郭汜かくしはやがて内紛を起こし、長安はすっかり荒廃こうはいしてしまった。
そこで、李傕の元配下だった楊奉ようほうは、部下の徐晃じょこう(字を公明こうめい)の進言により、衛将軍えいしょうぐん董承とうしょうらと共に皇帝を連れて雒陽らくようへ逃亡する計画を立てた。

長安を脱出した彼らは、李傕、郭汜らの追撃を受けながらも、雒水らくすいを渡り何とか安邑あんゆうまで逃げ延びる事が出来た。
この時、船で水路を使って逃げる途中、おぼれた官人たちが大勢船縁ふなべりにしがみ付こうとした為、船の転覆てんぷくを防ごうとした董承はほこを手に取り、その手指を容赦無く斬り落とした。
斬り落とされた官人たちの手や指は船内に転がり、両手ですくう程の量であったと言う凄惨せいさんな光景が繰り広げられたのである。

元々黄巾党白波賊はくはぞく頭目とうもくだった楊奉は、昔仲間の李楽りがく胡才こさい韓暹かんせんらに救援を求め、その後紆余曲折うよきょくせつて李傕らとの和睦わぼくが成立したものの、今度は皇帝をめぐり董承、韓暹及び安邑で合流した張楊ちょうよう(字を稚叔ちしゅく)らはめて抗争こうそうへと発展してしまう。

張稚叔は皇帝と共に雒陽へおもむく事を望んでいたが、諸侯らは誰も従おうとしないので、稚叔は幕下ばくかへ入っていた董昭とうしょう(字を公仁こうじん)を安邑に残し、自分は任地へと引き返してしまった。

そこで残された董公仁は、車騎しゃき将軍楊奉の部下、徐公明と面会し、彼に相談を持ち掛けた。

「私は、やはり皇帝陛下を、雒陽へ帰還させて差し上げたいと考えている。その為には、楊将軍を説得し、彼に動いて頂かねば成らぬ…」
そう言うと、公仁はおもむろに一通の書簡を取り出し、徐公明の前に差し出した。

「これは…?」
「曹孟徳からの書簡だ。これを楊将軍に渡し、彼を説得してもらいたい。」
「曹孟徳からの…?!」
公明は驚いた顔で、手渡された書簡を凝視ぎょうしする。
すると公仁は身を乗り出し、彼に小さく耳打ちをした。

「実は…曹孟徳から、と言うのは嘘だ。それは私が書いた。」
「?!」
「曹孟徳の元へは、雒陽へ来てくれるよう書簡を送っているので、うまく行けば雒陽で合流する手筈てはずになっている。」
「しかし、曹孟徳を介入かいにゅうさせても大丈夫なのですか?」
不安を口にする公明に、彼は大きくうなずいて見せた。

皇帝がまだ長安にいた頃、曹孟徳が皇帝とのよしみを通じる為に使者を派遣し、河内かだい太守の張稚叔の元へ、使者が領内を通行する事を認めて欲しいと願い出た事があった。
しかし稚叔は取り合わずそれを許さなかったが、この事を聞いた董公仁は、まだ弱小勢力に過ぎなかった曹孟徳に英雄の風格を感じ取っており、今の内から親しくしておいた方が良いと彼に進言したのである。

「此処にいる諸侯らは皆、自分たちの事しか考えていない。天下をべる英傑えいけつが一体何処にいると言うのか…?今曹孟徳は兗州えんしゅうを平定し、強豪きょうごうに対抗しる力を身に付けている。此処から最も近い“きょ”に拠点を置いている彼を頼るのが一番の選択肢だ。」

公明は、なる程と大きく頷いて見せると、
「分かりました。それでは、私は楊将軍を必ずや説得して見せましょう…!」
そう答え、書簡を懐へ納めるとさわやかに公仁に向かって拱手した。

早速、公明は楊奉の元へ向かい、董公仁から受け取った書簡を彼に手渡した。
書簡の内容とは、次の様なものである。

『将軍は名誉を求め正義をしたう方だと信じ、真心を込めて想いを伝えます。
将軍は天子を艱難かんなん(困難にあって苦しむ事)からお救いし、今旧都きゅうとかえらせようと尽力されておられる。将軍の翼賛よくさん(天子を補佐する事)の功績は超越し比肩ひけんする者はおりません。
今、群れなす凶徒らは猾夏かつか(中華を乱す事)し、天下は未だ静謐せいひつ(穏やかな事)ならず、天子の身の安全は将軍の補佐の如何いかんに掛かっております。
私には食糧があり、将軍には軍兵があり、互いに補い合えば共に充足する事が出来るでしょう。
どうか死生の契闊けいかつ(努力し苦しむ事)を共に分かち合いましょう。』

この書簡を受け取った楊奉は喜び、
「確かに、曹孟徳は手を結ぶには最も良い相手である…!」
そう言って、公明の進言に従う意向を示したのであった。

さて、こうなると問題は曹孟徳がどう動くかである。
兗州の平定はまだ完全に終わった、と言う訳では無い。そもそも、孟徳が兗州を抑えていられるのも、袁本初えんほんしょの援護があったからなのだ。
袁本初と曹孟徳は同盟関係にあるが、実質、立場は本初の方が遥かに上である。

安邑から董公仁の使者が訪れ、公仁からの手紙を読んだ孟徳は、先ず軍師の荀文若じゅんぶんじゃく程仲徳ていちゅうとくの二人に相談した。
二人の意見は共に同じで、雒陽で皇帝を迎えると言うものであった。

「しかし…今兗州ここを開ければ、袁本初に大群で攻められ奪われてしまわないか?」
孟徳が二人に問うと、文若は直ぐに答えた。

「いいえ、袁本初は今、公孫伯圭こうそんはくけい易京えきけいに追い詰めており、包囲を解いて此方こちらへ兵を向ける余裕は有りません。」
「殿、これは迅速じんそくさこそが肝心でございます。直ぐに決断され行動へ移さねば、後々後悔する事になるでしょう。」
仲徳もそう言って後押しをする。
信頼する二人の意見が揃った事で自信を取り戻し、孟徳は二人に大きくうなずくと、早速軍馬を整え、雒陽へと向かったのであった。

曹孟徳が計画に乗った事を知り、董公仁は急ぎ皇帝を連れて雒陽を目指した。
彼の計画はこれで終わりでは無い。
楊奉らに先行して雒陽へ到着した公仁と飢餓きがきゅうする皇帝の一行らは、孟徳から食糧や衣服を与えられ手厚く保護された。

まだ幼い皇帝が瞳をうるませ、冷たい手で孟徳の手を握って感謝の言葉を述べると、孟徳は以前、雒陽城外で見た幼い二人の童子の姿を脳裏に思い浮かべる。

あの時、董仲穎とうちゅうえいより先に自分が二人を発見していたならば、この様な苦難にわさずに済んだかも知れない…
そう思うと、皇帝の小さな肩を強く抱き締めたい衝動にられたが、そこは抑えて皇帝に対し丁寧に臣下の礼を取った。

董仲穎の長安遷都せんとによって焼き払われ、栄華えいがを極めていた頃の姿をすっかり失った雒陽には、崩れ掛けた建物の下で寒さに震え、飢えに苦しむ住民の姿が残されているだけである。
荒廃こうはいしたその様子に、皇帝は小さな胸を痛めている様子であった。

正式に鎮東ちんとう将軍に任命された孟徳は、符節令ふせつれいとなっていた董公仁を幕舎へ迎え入れ、彼に今後の計画について尋ねた。

「楊将軍には、雒陽は予想以上に荒廃こうはいしており、復興ふっこうに時間を要する状況であると伝え、その間に皇帝を許へお連れするのが宜しいかと存じます。」
それを聞いた孟徳は少し考えたが、公仁が言わんとする事は直ぐに理解出来た。

「楊将軍を出し抜き、皇帝を奪うと言う算段さんだんか…だが、俺が皇帝を擁立ようりつするとなれば、袁本初が黙ってはいないだろう…」
孟徳が迷いを口にすると、同席していた荀文若が彼に膝を進める。

「皇帝を擁立すれば、大義は此方に有ります。袁本初もそう簡単に手は出せないでしょう。ここは、公仁殿の策に従うのが良いと思います。」

「そうか…そうと決まれば、迅速じんそくさが肝心だな!」

孟徳は程仲徳の口振りを真似まね、そう言いながら膝を打って笑うと、早速、楊奉に書簡を書いて送った。

書簡を受け取った楊奉は安心して雒陽へ入ったが、既に曹孟徳らと皇帝の姿は何処にも無く、彼はまんまとだまされたと知って激怒した。

しかし配下の徐公明に、「今は、曹孟徳に帰順きじゅんした方が良い。」となだめられ、一時はその気になったものの、やはり途中で気が変わって、曹操軍から出迎えに来ていた曹子廉そうしれんの軍勢に突如として反旗をひるがえし襲い掛かった。
楊奉の率いる軍勢は精兵で、簡単には撃ち破る事が出来ない。
だが、董公仁は楊奉の人柄を良く理解しており、

「彼は思慮しりょが浅く、向こう見ずな人物ですので、策を巡らせれば簡単に撃ち破る事が出来るでしょう。」
と、伏兵を用いて奇襲を仕掛ける事を献策けんさくし、その策を採用した曹操軍は、りょうの地で見事に楊奉の軍勢を撃ち破ったのである。

この時、楊奉軍随一ずいいちの猛将で、腹心だった徐公明が曹操軍にくだった為、楊奉軍は圧倒的な劣勢におちいってしまい、楊奉は韓暹と共に袁公路を頼って落ち延びて行くしか無かった。

曹孟徳が皇帝を擁立し、許へ都をうつした事はたちまち各地の諸侯らの耳に届き、
その迅速さと鮮やかな戦術に誰もが驚愕きょうがくした。

北方ほっぽうで公孫伯圭と対峙たいじしていた袁本初の元にも急報は届き、彼の幕僚たちは喧々けんけんと議論を交わしていた。
そんな中、ふらりと会議の間に姿を表し、飄々ひょうひょうとして彼らの議論をただ聞いている一人の青年がいる。

それを見た、青年と同郷の辛評しんひょう(字を仲治ちゅうち)、郭図かくと(字を公則こうそく)らは眉をひそめ、彼に声を掛けた。

「君は此処で何をしているのだ、我々を冷やかしに来たのか?」
仲治が言うと、公則は彼に鼻を近付け大きく顔をしかめる。

「昼間っから酒の匂いがする!全く…同郷のよしみでお前を主君に会わせてやったと言うのに、主君は策略を好むが決断力に欠けている等とあげつらい、散々さんざん我が軍の欠点を指摘していたが、お前の方こそ礼を欠いているぞ…!」

「俺は、袁本初殿とお会いし真実を述べただけだ。悪い事は言わぬよ、君たちも早い内に見切りを付けて此処を去った方が良い。」
彼は表情を崩さずそう言うと、着崩した着物のすそを引きる様にして広間から出て行く。
二人はその後ろ姿を、忌々いまいましげに見送った。

建物の外は寒風が吹きすさび、曇天どんてんの空を見上げた青年は、風の冷たさに少し身震いをした。
彼が見詰めるのは、遠く兗州の空である。

「曹孟徳の元へ行くか…」

青年は小さくそう呟いた。


ー《第九章 完》ー
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