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第九章 中原の覇者と魔王の片鱗
第百十六話 白芙蓉
しおりを挟む曹孟徳の徐州侵攻に怯えていた陶恭祖は、やがて病を発して重篤となり、自分に死期が迫っている事を悟って病床に配下の糜竺(字を子仲)を呼び寄せた。
糜子仲の家は、先祖代々から広大な農地を所有しており非常に裕福で、屋敷で働く使用人の数は一万にも上ると言う。
人柄は温和で気性に激しい所は無く、人を御する事は得意では無かったものの、一方では弓馬に長けていた。
陶恭祖に招かれ、この時別駕従事の職にあり、恭祖から最も信頼される人物であった。
恭祖は、実子である陶商、その弟の陶応が揃って不出来である事を憂いており、自分の後継について子仲に相談していた。
そもそも、実子に徐州を任せれば曹孟徳の怒りは収まらず、再び徐州で虐殺が行われる可能性が大いに考えられる。
そこで恭祖は、劉玄徳に徐州を譲りたいと言う意向を伝え、子仲はそれに理解を示すと、彼の死後、主の遺命を奉じて小沛に駐屯している劉玄徳の元へと向かった。
陶恭祖から豫州刺史を拝命し、小沛への駐屯を頼まれていた劉玄徳は、再び任地へ向かう途中、通り掛かった邑里の小高い丘に建つ山寺を訪問していた。
高い階段の上にある寺の山門には、“甘露寺”と書かれた扁額が掲げられている。
「これは見事な…この絵も、ご住職が描かれたのですか?」
玄徳の目の前の壁には、見事な龍を描いた掛軸がある。
茶を淹れていた住職は彼を見上げ、
「はい、その通りです。お気に召されましたか?」
そう答えると、目を細めて柔らかく笑みを浮かべた。
寺の壁には、幾つかの掛軸が掛けられているが、どれも見事な風景や鳥、獣などの生き物が描かれていた。
「そうですか、ご住職が…この絵には、繊細さと力強さを感じる。実に良い絵だ…」
「そんなに気に入って頂けたなら、その絵は差し上げましょう。」
玄徳が頻りに関心している様子を見ると、住職は笑って彼の背中に声を掛け、丸めた掛軸を箱へ納めて玄徳の前へ差し出した。
「こんな良い物を頂けるとは…!有り難うございます!」
玄徳は嬉しそうにその箱を手に取り、住職に礼を返す。
それから二人で暫く談笑した後、ふと小窓から覗く庭に目をやれば、若い娘が一人庭の華を摘んでいるのが目に入った。
まだ十代であろうか、透き通る様な白い肌に美しい黒髪を肩に掛け、鮮やかな浅葱色の着物を纏っている。
艶やかに彼の目に映るその姿は、仙女の如き美しさであった。
暫しその姿に見惚れていると、ふいに娘は視線を感じたのか、顔を上げて玄徳と目が合うと、忽ち頬を紅潮させ恥ずかしそうに俯いた。
「ご住職の娘さんですか?」
「いいえ、あの子は幼い頃に此処へ預けられ、私の養女として育てている娘ですよ。名は、白媛と申しますが、いつしか邑人たちから、“美芙蓉”とか“白芙蓉”などと呼ばれるようになりました。」
住職は目を細め、娘の様子を愛おしげに見詰めながら答える。
“芙蓉”とは花の名である。ハイビスカスの花と言えば想像がつくであろうか。
昔から美しい女性を表わす言葉として、しばしば用いられる事があった。
「白芙蓉とは、良く似合っている…!」
玄徳は恥じらう彼女の初々しい様を眺め、微笑を浮かべた。
やがて住職に呼び寄せられた白媛は、静かに玄徳に近付いたが、彼女は相変わらず恥ずかしそうに俯いたままであった。
「さあ、刺史様にご挨拶をなさい。」
住職に促され、少し視線を上げて彼を見詰める。
その瞳は、澄んだ宝石の様な輝きを放ち、思わず息を呑む程の美しさであった。
「…刺史様、始めまして…」
白媛は、今にも消え入りそうなか細い声で言うと、小さく礼をする。
小さな小鳥の様な彼女を見下ろし、玄徳は微笑を向けながら、着物の袖口から覗く彼女の細い手をそっと取った。
「あの絵を描いたのは、君だな…」
「……っ?!」
玄徳の言葉に驚き、白媛は思わず目を見開いて彼の顔を見上げた。
「刺史様…一体、どうして…っ?!」
住職も驚きを現し、彼に問い掛ける。
「あの絵は、他の作品とは筆使いがまるで違っていた。あの柔軟で柔らかい線は女性が描いたものだと直ぐに分かったよ…それに、君からはあの絵と同じ染料の香りがする。」
そう言うと玄徳は、彼女の細い指先に自分の鼻を近付け小さくその匂いを吸い込んだ。
「…わ、私……っ」
その途端、白媛は青褪め大きく肩を震わせ始める。
「どうした…?」
玄徳が不思議そうに首を傾げると、白媛は彼の手を振り解き、突然彼の足元に平伏した。
「刺史様…!どうか、どうかお許し下さい…!」
「一体、どうしたと言うのだ?!」
今度は玄徳が驚いて、彼女の肩を掴んで立ち上がらせようとした。
「実は…この邑では、昔から女が絵を描く事は禁じられているのです…!」
住職の言葉に振り返り、玄徳は訝しげな眼差しを向ける。
「それは、どう言う事ですか?!」
白媛を居室で休ませ、住職は玄徳に向き合って事情を説明した。
話に依ると、昔この邑には素晴らしい絵を描く女性絵師がいたそうである。
しかし、その絵師が絵を描くと、何故か決まって大きな災害や厄災が起こったと言う。
「それを、“龍神の呪い”だの祟りだのと、邑人たちは彼女の所為にして、やがては人身御供として、彼女を深い淵へ放り込んだのだそうです。それ以降、何人か女性絵師は誕生しましたが、皆祟りを恐れて彼女たちに絵を描く事を禁じました。それでも絵を描く事を辞めない者は、邑から追放、或いは生贄にされたと言います…」
「“龍神の呪い”か…以前、似たような話を聞いた事がある。そんな物は唯の迷信だ。」
「勿論、仰る通りでしょう。しかし、この邑では今もその迷信が信じられているのです。」
住職はそう言うと、大きな溜め息を吐いた。
「あの娘の母親も、素晴らしい絵を描く絵師でした…絵を描いていた事は隠しておりましたが、それが邑人たちに知られ、娘を此処へ預けた後、姿を消してしまった…恐らくもう、この世には居ないでしょう…」
「そうだったのか…」
玄徳は瞳に憐憫の情を漂わせ、白媛が描いた龍の掛軸を広げると、その見事な絵を見詰めた。
「私は…あの娘が幼い頃から、絵の才能がある事に気付いておりました。ですから、あの娘に絵を教え、私の作品として絵を描かせてやっていたのです…刺史様が一目でそれを見抜くとは、真に驚きました。」
そう言って住職は苦笑する。そして、更にこう続けた。
「あの娘が絵を描いている事を知られるのは、時間の問題でしょう…此処を、刺史様が訪れたのは、きっと天のお導きに他なりません。刺史様どうか、あの娘を連れて行ってやっては頂けませんか?」
「え…っ?!」
玄徳は思わず驚き瞠目した。
「私はこの寺を捨てて出て行く訳には参りませんので、あの娘を連れ出してやる事は出来ません。刺史様のお側に置いて、絵を自由に描かせてやって頂けるだけで良いのです…!」
「し、しかし…私の様な、見ず知らずの男に託されるのは不憫では有りませんか…?!」
「刺史様のご高名は聞き及んでおります。あの娘も、きっと喜んで付いて行くでしょう。」
住職が彼女を預けると言う事は、妻か或いは妾にして欲しいと言う意向であろう。だが白媛は、どう見てもまだ十代半ばの少女である。
そんな幼気な少女を、物の様に簡単に貰うと言う訳には行かない。
「それはどうでしょう…?ともかく、彼女の気持ちを確認してから考えた方が良いのでは…」
玄徳は稍々戸惑い、苦笑いを浮かべつつ取り敢えずその場を取り繕った。
山門の前で馬を控えて待っていた従者たちは、やがて主が寺から出て来ると急いで出発の支度を整える。
しかし良く見れば、彼が一人の少女を連れている事に気付き、皆不思議そうに首を傾げた。
「玄徳様、その娘は…?」
「ああ、彼女は…ご住職の養女で白媛と言う娘だ。他に身寄りが無いので、暫くお預かりする事になった…」
玄徳が従者たちに説明すると、白媛は彼の後ろから従者たちに向かって、小さく頭を下げる。
その愛らしい美しさに従者たちも思わず絆され、皆照れ臭げに彼女に礼を返した。
「何だ兄者、嫁を貰って来たのか?!」
別働隊を率いて先に小沛へ辿り着いていた張翼徳が彼らを出迎え、伴って来た白媛の姿を見ると不躾な態度で玄徳に問い掛ける。
「嫁では無い…!寺の住職に頼まれ、お預かりする事になったのだ…!」
「こんな綺麗な娘を、見ず知らずの兄者に預けたのか?」
「ま、まぁ、色々と事情があってな…!とにかく、これからは彼女も家族の一員として、優しく接してやってくれ。」
玄徳は大きく咳払いをし、白媛を呼び寄せると他の者にも紹介し挨拶をさせる。
「ふうん…あんなに若くて可愛い娘を貰って来るなんて、兄者も隅に置けないな。雲長兄貴が知ったら、何と言うだろう…?」
白媛を連れた玄徳の姿に目を細め、翼徳は自分の顎を撫でながら苦笑を浮かべた。
「兄者が嫁を娶るとは…!めでたい話ではないか…!」
早速、翼徳から話しを聞いた雲長は、居室で彼と面会すると笑ってそう言った。
「だから、嫁では無いと言っているだろう…!」
少し口を尖らせている玄徳を余所に、雲長は陽気な笑い声を上げながら彼の肩を強く叩く。
「何を恥ずかしがっている?俺たちも、もう嫁を貰っても良い歳だ。」
「だが…第一あの娘は妻にするには、まだ若過ぎる…」
「妻は、若い方が良いに決まっている!先程お会いしたが、良い娘ではないか…!心配するな。あの娘は、きっと兄者を好きになってくれるさ…!」
「………」
玄徳は少し小さく溜め息を吐きながら、窓の外に広がる庭先で、無心に草花の絵を描いている白媛の姿を眺めた。
白媛の愛らしさと美しさは、直ぐに皆から愛慕され、やがて“白芙蓉”の渾名から“芙蓉姫”と呼ばれたり、或いは『甘露寺』の名から“甘氏”と呼ばれる様になるのであった。
陶恭祖が病で死去し、主の遺託に従って、糜子仲が民衆を率いて小沛の居城へやって来たのは、それから暫くしてからの事である。
恭祖は死の間際、徐州を玄徳に任せたいと願ったと言う。
曹孟徳の徐州侵攻で、徐州の民たちの殆どが荊州や揚州方面へ逃れてしまっており、今の徐州には荒れ果てた土地が残されているだけである。
正直、その話しを受ける事に乗り気では無かった玄徳は、初めはやんわりと辞退したが、陶恭祖の元配下である下邳の陳登(字を元龍)や、孔子二十世代目の子孫である北海の相、孔融(字を文挙)らから説得され、漸く引き受ける気になった。
そもそも、玄徳は豫州刺史と言う名目であるとは言え、実際、刺史や州牧にそこまでの権力は無く、玄徳は相変わらず確かな地盤を築いていると言う訳では無かったのである。
「今の徐州は荒廃していると言えども、他の者に取られてしまっては、せっかくの機を逃す事に成り兼ねません。今こそ“劉”の旗を掲げ、他の勢力に名乗りを上げる時ですぞ…!」
子仲はそう言って玄徳を後押しし、自ら彼らの為に支援を惜しまぬ事を約束してくれたのであった。
こうして徐州の地を手に入れた玄徳は、民衆らに歓迎されて徐州に入り、徐州を立て直す事に尽力する事になるのであるが、彼は手始めに、先ずは袁本初の元へ伺いの使者を送った。
元々、公孫伯圭から派遣されて平原国の相になった玄徳だったが、このまま徐州で孤立するのは分が悪い。
袁公路が揚州を仕切っているが、彼は相変わらず傲慢で、民衆からの受けは頗る悪く、彼を当てにする事は出来ないと考えた。
それに、袁本初は曹孟徳と同盟関係にあり、彼が再び徐州を攻める抑止力になるとの考えもあった為である。
一方の本初は、玄徳からの使者を迎え入れ、彼が公孫伯圭と袁公路を見限ったと判断し、これを大いに喜んで受け入れたのであった。
そんな折、曹孟徳との戦に敗れた呂奉先が徐州の劉玄徳を頼ってやって来たのは、夏の終わり北の空から渡り鳥たちが一斉に羽ばたいて行く頃であった。
伝達の使者と面会し、彼らの話しを腕を組んだまま黙って聞いていた玄徳は、やがて顔を上げ、
「奉先の奴め…漸く俺の所へ来る気になったか…!」
そう言うと、小さく笑った。
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