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第九章 中原の覇者と魔王の片鱗

第百十五話 悪来典韋

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曹操軍では、孟徳が行方知れずとなっている事で兵たちにも動揺が広がり、楽文謙がくぶんけんら指揮官たちが冷静に兵を取りまとめてはいたが、彼らも内心おだやかでは無かった。

まさか、敵に捕らえられたのでは…?!
そう思うと不安な思いにさいなまれる。
その時、

「楽将軍、殿が帰還きかんなさいましたぞ…!」
伝達の兵士がこちらへ向かって走りながらそう叫ぶのを聞き、文謙は即座そくざに馬を返して彼の元へと急いだ。
孟徳は腕や足に負傷を負いながらも、何とか無事に仲間たちの元へと辿たどり着いたのである。

「孟徳殿!良くぞご無事で…!」
文謙は孟徳のまたがった馬に駆け寄り、彼が馬から降りるのを手伝うと、直ぐに衛生兵を呼び寄せて、その場で傷の手当てをさせた。

「あの男が居なければ、俺は死んでいた…!」
…とは?」
少し興奮気味に話す孟徳を見て、文謙は首をかしげる。

「身のたけ八尺以上もある大男だ…!知らないか?!」
「ううむ…さて、心当たりが無くもないが…」
あごに手を当て考えていると、

「あっ!」
突然瞠目どうもくした孟徳が、咄嗟とっさに彼の二の腕を強く掴み後方へ視線を送ると、文謙も振り返ってそちらを見上げた。

するとそこには、馬に跨りこちらへ向かって来る人物の姿がある。
男は孟徳の話通りの大男で、乗っている馬はまるで仔馬こうまの様に見えた。

「ああ、やはり…!あの男は夏侯元譲殿の部下で、典韋てんいと言う者です。」

「典韋…!」

孟徳は瞳を輝かせて彼を見上げた。

典韋は兗州陳留郡の出身で、張邈の配下、趙寵ちょうちょうの下に付き兵士として活躍していたが、夏侯元譲にその能力を見出され、その後彼の部下となっていた。
彼は、十人掛かりでやっと持ち上がると言う、軍門に掲げる“牙門旗がもんき”を「片腕で持ち上げる事が出来る」と言われる程の怪力の持ち主であった。
今回、夏侯元譲は怪我のため出兵出来ず、自分の代わりに典韋に兵を預け、孟徳に従軍させていたのである。

「殿、ご無事で何より…!」
典韋は孟徳の前まで来ると馬を降り、彼の前に膝を突いて拱手きょうしゅした。

「典韋、お前のお陰で助かった…!しかし、お前の怪力振りには驚いたぞ!お前のゆうは、いにしえの猛将“悪来あくらい”の再来である…!」

すすで汚れたままの顔で破顔はがんした孟徳は、そう言って彼のたくましい肩を叩く。

“悪来”とは、いん紂王ちゅうおうに仕えた猛将、贏来えいらい渾名あだなである。伝説によると父親は蜚廉ひれんと言う名で足が非常に速く、その息子の贏来は凄まじい剛力の持ち主で、戦場で彼にかなう相手は誰もいなかったと言う。
「悪来」は、「しきらい」と言う意味で、人々が彼を忌み恐れた事に由来する。

この戦いで再び奉先に敗北をきっしてしまった孟徳だったが、兵を立て直すと今度は攻城戦を挑むも成功せず、彼らの戦いはやがて膠着こうちゃく状態へと突入した。

しかし、その年は大規模な蝗害こうがいが発生した為、作物が充分に収穫出来ず、両軍とも兵糧難におちいってしまった。
「蝗害」とは、いなごなどバッタ類の昆虫の大量発生により作物が食い荒らされ、いちじるしく収穫が減少してしまう災害で、中国では太古の昔から天災の一つとして人々を悩ませ続けて来た。

飢餓きがにより、濮陽城では人が人を喰らう程の惨状が繰り広げられ、両軍ともむ無く撤退を視野に入れていた頃、奉先の元に思い掛けない知らせが届いた。

「呂将軍、ご家族の城邑に、黒山軍の残党が奇襲を掛けております…!」

「何だって…?!」

城から駆け付けた伝達兵の言葉に、奉先は一瞬にして青褪あおざめた。


陳留郡の城邑では守備兵たちが懸命に城を護っていたが、周辺の幾つかの城は既に陥落し、いよいよ雲月や貂蝉たちを残して来た城邑にも敵が迫って来ていた。

邑内の街道は何処も、逃げ出そうとする住民たちや馬、荷車などでごった返している。
奉先の屋敷の家人たちも荷車に家財道具を積み込み、脱出の準備を始めていた。

「お嬢様方!お急ぎくだされ、車の用意は出来ております…!」
急ぎ足で現れた家宰かさいが、室内の俊と貂蝉に声を掛ける。

「でも、何処へ行くの?!」
「一先ず、戦火を避けて山陽さんよう郡方面へ向かうのが宜しいでしょう…!」
「どれくらい掛かる?」
「そうですな、馬で五日から十日程は掛かるかと…」
それを聞くと、貂蝉は表情を曇らせた。

「そんなに長い時間移動するなんて、無理だわ…!」
「しかし、此処に居ては危険です!」

「分かってる…!でも、おばさんはもう臨月りんげつなの、そんな身体では連れて行けない…!」
貂蝉が大きくかぶりを振って家宰に訴える。
すると、

「貂蝉、私の事は良いから、あんたと俊は皆と一緒に逃げな…!」
室内から、大きなお腹を抱えた雲月が姿を現した。

「駄目よ…!おばさんの事、奉先に頼まれたの!置いては行けない…!」
「私は大丈夫だから…奉先に会ったら、二人の元気な顔を見せてやるんだよ…!」
雲月はそう言って、俊と貂蝉の肩を強く叩く。

「それじゃ、おばさんはどうなるの…?!奉先は赤ちゃんが産まれるのを楽しみにしてるのよ…!」
「赤ん坊なら、また産めば良いだろう…?その時は、あんたが奉先の妻になっていると良いんだけどね…」
雲月は目を細め、冗談とも本気とも取れぬ声色で微笑を浮かべる。
貂蝉は赤い目をして雲月を見詰めると、再び大きく頭を振った。

「駄目よ、私は此処に残る…!」
「貂蝉…?!」
困惑を浮かべる雲月の腕にすがり付き、貂蝉は瞳を潤ませて彼女の顔を見上げた。

「おばさんを此処で見捨てたら、奉先はあたしの事をきっと赦さない!奉先にうらまれるくらいなら、死んだ方がましだわ…!」

「貂蝉様、僕も此処に残ります…」
二人の後ろにたたずんでいた俊が言うと、家宰は思わず頭を抱える。

「ああ、全く…それでは、私も此処に残るしか御座いません…!他の者たちは、直ぐに発たせましょう!」
彼はそう言うと部屋を飛び出して行き、家中の使用人たちを急いで外へ連れ出すと、荷車や台車を引かせて先に屋敷から旅立たせた。

「主様の元へ伝達の兵を行かせましたが…戻られるまで、少なくとも五日は掛かると覚悟せねば成りませんよ…!」
屋敷から去って行く使用人たちを見送りながら、家宰は同じ様に不安な眼差しでそれを見詰めている貂蝉の横顔に声を掛ける。

「ええ、分かっているわ…!」
貂蝉は唇を強く噛み締め、自分に言い聞かせる様に力強く答えた。

城兵たちの奮戦により、それから二日の間、城は何とか持ちこたえる事が出来ていた。
その夜の事である。
眠っていた貂蝉は、小さな物音にふと目を覚ました。
音は雲月の寝所から聞こえて来るらしく、貂蝉はしょうからい出し、彼女の部屋へと向かった。
室内には、急に産気さんけ付いた雲月が壁にもたれてうずくまっている姿がある。

「おばさん、どうしたの?!産まれそうなの?!」
驚いた貂蝉は、陣痛じんつうの痛みで苦しそうにお腹を押さえている雲月に駆け寄った。

「はぁ、はぁ、貂蝉…!」
「しっかりして、大丈夫?!お医者様を呼んで来るわ…!」
「駄目だ、間に合わない…!もう産まれそうなんだ…!」
そう言って、雲月は貂蝉の着物の袖を強く掴む。

「お嬢様、奥方様…!」
そこへ、二人の声を聞き付けた家宰と俊が駆け付けて来た。
出産の現場に立ち会うのは全員が初めての事である。
どうすれば良いか分からず、貂蝉も狼狽うろたえたが、雲月が苦しそうに彼女の手を握り締めるのを見ると、冷静さと勇気を取り戻し覚悟を決めた。

「おじさん、お医者様を探して来て!俊、急いでお湯を用意して!」
貂蝉が二人を振り返り指示を出すと、彼らは慌てふためき再び室内から飛び出して行く。
貂蝉は雲月の肩を支えながら、彼女を牀の上に横たえた。

「はぁ、はぁ…!うう…っ」
「おばさん、大丈夫よ!私が付いてる…!」
陣痛は時間おきに繰り返し襲って来るが、その間隔は次第に短くなり、痛みはどんどん強くなっていく。
その痛みと苦しみは想像を絶するもので、雲月の額に浮かぶ汗を着物で拭き取りながら、貂蝉は彼女の手を強く握って励まし続けた。

「ああ…っ!」
雲月がいきむと遂に破水はすいし、出産が始まった。
嗚呼、神様…!
貂蝉にはどうする事も出来ない。
雲月の手を握り、ただ天に祈るしか無かった。

湯を沸かしおけに入れて運んで来た俊は、その壮絶な光景に狼狽うろたえ、桶を腕から落とし掛けた。

「俊、突っ立ってないで手伝って…!もう赤ちゃんの頭が出掛かってるの…!」
「あ…は、はい…!」
貂蝉に言われるがままに、彼は雲月の足元へと向かったが、それを直視して良いものか分からず躊躇ためらっていると、貂蝉が大声で呼び掛ける。

「私が頭を支えているから、俊は赤ちゃんの体を受け止めて…!」
「え…っ、ぼ、僕がですか…?!」
俊は驚きの余り声を上擦うわずらせたが、戸惑いつつも赤子を受け留める姿勢を取った。

それから、どれ程の時間が経ったのか、遂に雲月の腹から赤子が出て来ると、貂蝉と俊は汗だくになりながらそれを取り上げた。

「はぁ、はぁ、はぁ…っ!」
雲月も汗びっしょりになっている。
へそが繋がったままの赤子を湯にひたし、血や羊水ようすいを洗い流すと、赤子は突然「おぎゃあ、おぎゃあ」と大きな泣き声を上げた。
それを見た瞬間、貂蝉と俊は互いの顔を見合わせ安堵あんどの溜め息を吐く。
そして、貂蝉の瞳から知らぬ間にあふれ出した涙が血と汗で汚れた頬を伝い落ちた。

赤子を布に包み雲月の腕に抱かせると、頬を紅潮させながら赤子に頬を擦り寄せ、彼女の瞳からも大粒の涙が溢れ出す。

「貂蝉、俊…有り難う…!」

その時、家宰が息を切らせながら、漸く探し出した医者を伴って室内へ入って来た。

すっかり疲れ果てた俊と貂蝉は、翌日、日が中天ちゅうてんに差し掛かる頃まで深く眠り込んでいた。

「お嬢様方、大変です!起きてくだされ…!」
家宰に起こされ、二人は屋敷に敵兵が迫っている事を知らされた。
その日の午後、遂に城の城門はこじ開けられ、敵兵たちがどっと城内へ雪崩込んで来たのである。

元々体格の良い少年であった俊は、護衛兵として奉先から武術の指南しなんも受けており、なみの大人では彼の腕に到底及ばない程であった。
護身用のほこを手に取り、彼は他の護衛たちと共に襲撃する賊徒ぞくとを追い払うべく屋敷の門へと向かった。

屋敷の外から、時折飛び交う矢が窓を破って室内へ飛び込んで来る。
家宰は雲月を、貂蝉は赤子を胸にいだき必死に護った。
俊は仲間たちと共に奮戦し、賊徒たちを必死に追い返していたが、次第に敵に押され始める。

屋敷の門を固く閉ざしたが、破られるのは時間の問題である。
夕刻が近付き、最早もはや此処までかと、皆が諦め掛けていた頃、唐突とうとつに敵の苛烈かれつな攻撃の手が止まり、城内には突然静けさが広がった。

何と、到着に五日は掛かると思われていた奉先の部隊が城へ辿り着いたのである。
その報告に黒山軍の賊徒たちは慌てふためき、略奪を諦めて皆一散に逃げ始めた。

奉先の飛焰ひえんを先頭に、りすぐりの精鋭騎兵部隊は昼夜ちゅうや走り続け、何頭かの馬が途中で倒れ脱落する中、飛焰は全く衰えを見せる事無く、此処まで全速で走り抜いて来たのである。
そのまま、真っ直ぐに家族の待つ城邑へ向かい、城を襲っていた敵兵たちをあっという間に蹴散らして行った。

屋敷の前まで辿り着いた奉先は、飛焰から飛び降りると門へ向かって走った。
門の下には、乱れた髪のまま立ち尽くす貂蝉の姿が見える。
彼の姿を見ても、貂蝉にはこれが夢か現実か判別が付かぬ様子で、ただ呆然と見詰めているだけであった。

「貂蝉…っ!」

彼の呼び声に、貂蝉はようやく瞳に生気の光を取り戻す。

「奉先…本当に、奉先なの…?!」
「ああそうだ、しっかりしろ…!怪我は無いか?!」
駆け寄った奉先が強く彼女の両肩を掴むと、彼女の大きな瞳には泪があふれ出し、たちまちその場に泣き崩れた。
奉先は彼女の体を強く抱き留めたが、見れば彼女は腕に何かをしっかりといだいている。

「奉先、貴方の赤ちゃん…産まれたの…!女の子よ…!」
貂蝉は声を震わせながら、布に包まれた赤子の顔を彼に見せる。
貂蝉から赤子を腕に渡され、産まれたばかりの小さな命を胸に引き寄せると、赤子を見下ろす奉先の瞳にも大粒の泪が浮かんだ。

「そうか…!この子が、俺の…」

それ以上言葉が出て来ない。
奉先は片腕に赤子を抱いたまま右腕で貂蝉の肩を引き寄せ、彼女の体を強く抱き締めた。

産後間も無い雲月と、産まれたての赤子を別の場所まで移動させるのは危険が伴うと判断し、暫くはこの城で雲月の体力の回復と赤子の発育を待つ事となった。

「あの子たちが居てくれなかったら、私もこの子もきっと死んでいたよ…俊と貂蝉には、本当に感謝してる。」
「ああ、そうだな。あの子たちは良く頑張ってくれた…!」
牀に座り、腕に抱いた赤子に乳を飲ませながら語る雲月の手を握り、奉先は微笑を浮かべて大きくうなずく。

「貂蝉は、あんたの事を本気で愛しているんだよ…そろそろ、あのを妻にしてやってはどう?」
顔を上げ、彼を見詰めながら問い掛ける雲月に、奉先は少し苦笑を浮かべた。

「…だが、まだ十三になったばかりだ…」
「充分嫁に行ける年頃だろう?」
「ああ、そうか…そうだな。では、考えておこう…それより、この子の名はどうするのだ?」
奉先はどこか曖昧あいまいに答えると、無く話題をらす。

「名は、あんたが付けておくれよ。」
「そうだなぁ、では…“雲彩うんさい”と言うのはどうだ?雲にいろどると書いて、雲彩だ。」
「雲彩…良いではないか…!お前の名は、雲彩だ。」
雲月は微笑し、腕の中ですやすやと眠る赤子の頬を、指でそっと撫でた。


奉先は、已む無くそのまま兵を濮陽から引き、孟徳も一旦、本拠である東阿とうあへ撤退。その後、空になったも同然の濮陽を奪い返した。
この時、孟徳は張孟卓や奉先らに奪われた城のほとんどを取り戻しており、濮陽の南、定陶ていとうで彼らは再び激戦を繰り広げたが、奉先らは敗れ山陽郡へ逃れた。

夏には、乗氏じょうしの東に位置する鉅野きょやで陳公台ら一万の兵と合流し、再び孟徳と戦ったが、曹操軍は伏兵を用いて呂布軍を大破たいは
奉先は、孟卓らと共に雍丘ようきゅうで一族と共に防戦中であった弟の張仲卓の元へと向かったが、それを知った孟徳は雍丘を攻撃し、追い詰められた仲卓は、何と自らに火を放ち焼身自殺をすると言う壮絶な死を迎え、一族は皆、孟徳に処断されてしまった。

更には、寿春じゅしゅんの袁公路に援軍を求めに向かった孟卓が、その途中、部下の裏切りに遭い殺害されてしまう。

奉先は已む無く、その頃、陶恭祖から徐州をゆずり受けていた劉玄徳の元へと向かったのであった。
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