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第九章 中原の覇者と魔王の片鱗

第百十四話 濮陽の戦い

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曹孟徳の元に残ったのは、鄄城けんじょう東阿とうあはんの三城だけとなっていたが、孟徳は早速、鄄城で軍備を整え、奉先に奪われた濮陽ぼくようを奪還するべく進軍を開始した。

徐州から引き上げる時、孟徳は従弟いとこ曹子廉そうしれんに命じて東平とうへい国を占領させ、泰山たいざん郡から荀文若が守る鄄城までの街道を確保させた。
その時、奉先は先に東平国を拠点として、兗州と徐州の境に位置する泰山、任城国にんじょうこくの街道を封鎖ふうさし孟徳の退路を断つと言う事はせず、濮陽に籠城ろうじょうする構えを見せた。

奉先は、俺と真っ向から勝負をしたいのだ…!

孟徳はそう思い、濮陽までの道程みちのりにも伏兵を配していないと読んで、真っ直ぐに濮陽を目指した。
予想通り彼らの行く手に伏兵は配されておらず、向かう所敵無しの自慢の青州兵を率い、孟徳は遂に濮陽まで辿り着いたのであった。

「今ならまだ間に合うぞ…!大人しく降伏し城を開け渡せば、お前たちに謀叛むほんの罪は問わぬ…!」

大軍で城を取り囲んだ孟徳が、城兵たちに向かって大声で呼び掛けると、やがてざわめく敵兵たちの間から奉先が姿を現し、城壁の上から孟徳の軍勢を見下ろしながら答えた。

「よく来たな、孟徳殿…残念だが、我々は決して貴方あなたには屈しない。城が欲しければ、全力で攻めて来るが良い…!」

「奉先お前…!何故だ…?!何故、俺の邪魔をする?!」
太々ふてぶてしく言い放つ奉先を見上げながら、孟徳は強く歯噛みをした。

「父上と、虎淵こえんが殺されたんだぞっ!陶恭祖とうきょうその首を斬るまでは、俺は決して復讐を諦めぬ…!」
「その為に、徐州の民を虐殺するのか?!貴方は間違っている…貴方のやっている事は、董卓と何も変わらぬ。それが解らないのか?!」
「違う…!俺は、董卓なんかとは絶対に違う…!」

孟徳は強くかぶりを振って答えたが、奉先は冷めた目付きで彼の姿を見下ろしているだけである。
再び顔を上げた孟徳は、赤い目を奉先に向けながら、少し声を震わせた。

「奉先…お前、わざと俺を怒らせようとしているんだな…?!解っているぞ、そうやって自分だけ悪者振って…俺の怒りを買って気を引く積もりなのだろう…?!」

その様子を見ても、奉先は眉を動かさず冷淡れいたんに答えた。

「…貴方は、相変わらず自惚うぬぼれが強く、いつも自分が世界の中心にいると勘違いしている様だな…!俺はいつも貴方の事を信じ、貴方の為に生きて来た。だが、孟徳殿はどうだ?貴方は俺に隠している事がある筈だ…!」

「そ、それは…っ!」

奉先に鋭く問われ、孟徳は思わず顔色を変えて狼狽うろたえた。

「ち、違う…!俺は隠し事などしていない…時期が来れば、お前にも真実を話す積もりだった…!」

孟徳は馬上から身を乗り出し、必死に訴え掛ける。
しかし、奉先は小さく溜め息を吐くと城壁の上に並んだ兵たちを振り返り、

「もう良い、皆の者矢をつがえよ…!」
そう言って腕を伸ばし攻撃の合図を送った。
奉先の命令に、城兵たちは城壁の上から弓矢を構え孟徳を狙う。

「孟徳殿、危ない…っ!」

孟徳のそばに馬を並べていた楽文謙が叫び、その前に立ちはだかると降り注ぐ矢の雨を盾で防ぎ、剣で払い落とす。
すり抜けた矢が孟徳の頬をかすめたが、彼は微動だにせず城壁を見上げていた。

やがて開かれた城門から敵の騎兵隊がどっと押し寄せて来ると、彼らの軍勢は見る間に奉先の騎兵部隊に蹴散らされ、たちまち陣形を崩されて行く。
奉先が率いる并州へいしゅう騎兵隊は、それまで曹操軍が最強を誇っていた青州兵の力を遥かに上回っており、全くと言って良い程歯が立たなかったのである。

「このままでは壊滅する…!孟徳、一旦退がって立て直そう…!」
駆け寄った元譲が、孟徳のまたがる馬の綱を取り馬首ばしゅを返すよううながす。
孟徳はむを得ぬと強く歯噛みをすると、全軍に撤退てったい命令を下した。

その時である。
敵兵の放った矢が、振り返り様の元譲に命中し、途端に彼は馬から転落してしまった。

「元譲ーーーっ!!」

驚いた孟徳は馬から飛び降り、倒れた元譲に駆け寄ると彼の体に取りすがって叫んだ。
見れば、矢は彼の左目に深々と突き立っている。

「しっかりしろ!元譲…!」
その呼び掛けに意識を取り戻した元譲は、苦しげにうめきながらも痛みをこらえ、体を起こすと孟徳の肩を強く掴んだ。

「俺は平気だ…!構わず逃げろ…!」
「だ、だが…お前を此処へ置いて行く訳には…!」
激しく動揺する孟徳を強引に立ち上がらせ、元譲は彼を馬上へ押し上げようとする。

「この程度の傷で、俺は死にはしない…!」

そう答えると、元譲は突き刺さった矢柄やがらを両手で掴み、何と力任ちからまかせにその矢を引き抜いてしまった。
抜き取ったやじりには彼の眼球が突き刺さったままであり、途端に傷口から血があふれ出す。

それには孟徳も思わず顔をそむけたが、自分の着物を歯でくわえて引き千切ちぎり、少し落ち着きを取り戻して、それを元譲の左目の傷に強く巻き付けた。

「孟徳殿、元譲殿…!」
「文謙、孟徳を頼むぞ…!」
そこへ駆けつけて来た文謙に孟徳の身柄を預けると、重傷を負ったままの元譲は果敢かかんにも、再び馬にまたがり敵に立ち向かって行く。
その姿は正に鬼神きしんさながらで、それを見た敵兵たちは彼の気迫きはくに圧倒され、さんを乱して後退した。

そのまま元譲の部隊は見事に曹操軍の殿しんがりつとめ、曹操軍は濮陽から数里退しりぞいた所で無事に兵を立て直す事が出来たのである。
呂布軍はそれ以上の深追いはせず、兵をまとめて濮陽城へと引き返すと、再び堅固に守りを固め籠城の構えを見せたのであった。

孟徳と奉先が直接互いの兵をぶつけ合って戦ったのは、この時が初めての事である。
正直な所、孟徳は奉先の率いる并州騎兵隊の強さをあなどっており、濮陽の奪還にはそれ程時間を掛ける事は無いと踏んでいた。
しかし、奉先の騎兵隊の強さは想像を遥かに超えており、その強さをまざまざと思い知らされてしまった。
その上、夏侯元譲は片目を失うと言う大怪我まで負わされ、文字通りの大敗北となったのである。

どうして…こんな事に…?!

薄暗い幕舎の中、小さな座卓ざたくの上で自分の頭を抱え孟徳は苦悶くもんした。
強く打ちひしがれた孟徳は、暫く自分の幕舎ばくしゃに籠もり、数日誰とも会おうとしなかった。
盟友めいゆうの張孟卓だけでなく、奉先までもが自分に牙をいたのである。

だが、それが奉先の本心では無い…
奉先は俺の真意しんいを確かめ、試したいのだ…
彼はそう強く思った。

父、曹巨高が亡き今、奉先の出生の秘密を知っているのは、自分と彼の産みの親であるちょう夫人だけである。
しかし、奉先が桓帝かんていの遺児である確固かっこたる証拠はまだ無く、彼女の話が真実である確証も無かった。

もし仮に、その話を奉先に伝えたとして、今はまだ長安にみかどが健在であり、趙夫人の話が嘘だと片付けられれば、奉先は皇帝の遺児だと詐称さしょうした罪に問われる可能性も出て来る。

それに、もしそれが袁本初えんほんしょや他の諸侯しょこうらに知られればどうなる…?
彼らは全力で奉先を潰すか、利用しようとするであろう。

「俺は、どうすれば良い…?!虎淵……教えてくれ…!」

孟徳は赤い目を上げ、薄暗い虚空を見詰めて一人呟いた。


「奉先殿、本気で曹孟徳を敵に回すお積もりか…?」
「ああ、我々も何時までも放浪ばかりしてはおられまい…この濮陽を本拠にする為、此処は何としても孟徳殿に奪われる訳には参らぬ…」

居室を訪れた高士恭こうしきょうに尋ねられ、奉先は余り感情を表す事無く冷淡な様子で彼にそう答えた。

だが士恭は、奉先が誰より曹孟徳の元へ帰りたがっていた事を知っている。
黙って彼の表情を見詰めながら、士恭は張孟卓と陳公台が再び訪れ、奉先らとみつに会談した時の事を思い出していた。

一夜が明け、張孟卓と陳公台は約束通り翌日、再び奉先の屋敷を訪れた。
その日は部下の張文遠ちょうぶんえんや高士恭らも呼ばれ、彼らは広間で会談を行った。

「公台…孟徳殿に反旗をひるがえすなら、半端はんぱな覚悟では駄目だ。やるからには、全力で立ち向かわねば成らぬ…!それでも良いのだな?」

孟卓と公台を前に、奉先は自らの決意を語り彼らの意志を確かめる。
すると、公台は彼の瞳を真っ直ぐに見詰めながら答えた。

「はい、勿論です。僕たちにもその覚悟は出来ています…!」

膝を進め大きくうなずく公台の姿を見て、奉先も彼に強く頷いて見せる。

「では、そうと決まれば迅速じんそくさが肝心だ。奉先殿には兗州牧えんしゅうぼくいて貰い、私は弟と共に各地の太守、県令らを説き伏せて参る。」
孟卓は迷いの無い口調でそう語ると、速やかに自分の兵をまとめて陳留ちんりゅうを発つ準備へと取り掛かった。

その日の午後、城から去り行く孟卓らの軍勢を見送りながら、公台は振り返って隣に肩を並べる奉先を見上げると、瞳に力を込めて彼の横顔を見詰める。

「奉先様、我々こそが真の忠臣ちゅうしんである事を、孟徳様にお見せしましょう…!」

「…ああ、そうだな。」
沈み行く夕陽に照らされる軍勢を遠く眺めながら、奉先は振り返る事無く答えた。


その日、孟徳は負傷した夏侯元譲の様子を見舞う為、彼の幕舎を訪れていた。
あれから元譲は数日の間、目の傷が元で高熱に浮かされ、生死の境を彷徨さまよったのである。
今は容態ようだいが安定し、意識もしっかりしていると言う事で来てみると、元譲はすっかりとこを払った状態で彼を迎え入れてくれた。

「元譲、思ったより元気そうではないか…!」
「ああ、孟徳…お前の方こそ随分ずいぶんと落ち込んでいると聞いていたが、顔色は然程さほど悪くは無い様だ…」
二人は互いの顔を見ると、肩を叩き合って笑みをこぼしたが、元譲の失った左目の傷を見た孟徳は、少し表情を曇らせる。

こんな所で足踏みをしている場合では無いと言うのに、呂布軍最強の騎兵隊を前に、突破口を見出みいだせないでいる。
孟徳は胸に自分の不甲斐ふがいなさと、激しい焦燥感しょうそうかんを抱いていた。

そんな折、一通の書簡を手に、濮陽から抜け出したと言う人物が曹操陣営へ現れた。
その者は田氏でんしの使いの者で、書簡に書かれていた内容とは、曹操軍に内応ないおうするむね示唆しさするものであり、今の曹操軍にとっては正に渡りに船であった。

濮陽の田氏と言えば名士であり、信頼出来る人物である。
孟徳は自ら選んだ精鋭部隊を率い、濮陽城に総攻撃を掛けるべく、田氏が内側から門を開くと約束した時間帯に合わせて進軍を開始した。
夜闇に紛れて濮陽城外に辿り着いた彼らは、息を潜めて門が開くのを只管ひたすらに待ち、夜半過ぎ、遂に城門が内側から開かれると、孟徳は部隊を率いて城内へと突入した。

所がその直後、突如として城門から火の手が上がり、彼らの退路は絶たれてしまった。

まさか…これは、罠だったか…っ?!

そう思うのもつかの間、今度は城内に伏せられていた敵兵たちが一斉にき上がり、
孟徳の部隊に襲い掛かる。
たちまち部隊は大混乱におちいり、孟徳は必死に立て直そうとしたが、敵兵に襲い掛かられ馬から転落してしまった。

地面に転がり落ちた孟徳は、素早く立ち上がって飛び掛かる敵兵を剣でぎ払いながら、燃え盛る城門の方へ向かって走った。
気付けば部隊はほぼ潰滅かいめつし、周りは敵だらけである。
敵に行く手をはばまれ、孟徳は遂に敵兵たちに取り囲まれてしまった。

「くっ…ここまでか…!」
強く歯噛みをし、観念かんねんして武器を下ろすと、呂布軍の部隊長と思われる人物が孟徳の前へ進み出る。

「おい、小僧…!曹孟徳は何処だ?!」

そう言って男は腕を伸ばし、彼の胸倉を強く掴んだ。
「…?!」
呆気あっけに取られた孟徳は、瞠目どうもくして男の顔を見上げたが、直ぐに

「あ、あれです…っ、あの黄色い馬に乗っているのがそうです…!!」
と、兵士たちの後ろを駆け抜ける騎馬を指差した。

「おい、逃がすな!曹孟徳を生け捕るのだ…!」
男は叫んで孟徳をその場へ突き放し、兵たちと共に騎馬を追って走り出す。
彼らは誰一人孟徳の顔を知らず、目の前にいるうら若く小柄な青年が本人である事に気付かなかったのである。
孟徳は暫し呆然ぼうぜんとしてその場に立ち尽くしたが、我に返ると再び城門の方へ向かって走った。

「奉先の奴、俺を生け捕りにする積もりだったのか…!」
この様な策略さくりゃくを考えるのは、きっと陳公台に違いない。
さきに夏侯元譲を捕らえた奇策も、公台による指示であったろう。
奉先は公台と言う策略家を得た事で武力戦だけでなく、頭脳戦も行えるようになったのである。
そう考えると、益々ますます厄介な相手である。

燃え盛る城門の下を走り抜けようとすると、門の柱が焼け落ち行く手をはばむ。
「くそっ…!」
引き返そうとした時、頭上で燃える柱の一部から火の粉が降り掛かり、炎が袖に燃え移った。
慌てて袖を払って火を消したが、右手に大火傷やけどを負った上、更に追い打ちをかける様に崩れた柱が倒れ掛かって来て、その下敷きになってしまった。
何とかして瓦礫がれきからい出そうとしたが、片足をはさまれ抜け出す事が出来ない。

「はぁ、はぁ…!俺をこんな目にわせるなんて…奉先の奴、絶対に許さん…!」
孟徳は、強く握った拳を地面に叩き付けて悔しがったが、内心では今すぐに声を上げて泣き出したかった。

考えてみれば、もっと自分が冷静な判断をしていれば、田氏の内応がいつわりだと見抜けた筈である。
それに元譲が左目を失ったのも、自分が奉先の率いる并州騎兵隊の力を侮ったのが原因であった。
公台や奉先が反旗をひるがえしたのも、兗州を空けて徐州で殺戮さつりくを行った事が原因である。

そうだ…全部、俺の所為せいだ…!
俺が、全ての判断を間違ったばかりに…こんな場所で、みじめに死んで行くのだ…

敵兵からも、ただの一兵卒へいそつとしか思われない様な貧相ひんそう見窄みすぼらしい自分を思うと、怒りよりも情けなさが込み上げて来る。
その時、頭上からメキメキと鈍い音が聞こえ、見上げた瞬間には、天井の板や柱が次々に落下して来た。

「うわあああ…っ!」
咄嗟とっさに腕で頭を抱えて叫んだが、最早けようが無い。
孟徳は死を覚悟した。

しかし、柱は孟徳の上には落下しては来なかった。
「…っ?!」
振り返って見上げると、崩れた柱を受け止めている大柄な男の背中が目に入る。

奉先…?!
一瞬そう思ったが、良く見れば、その男は奉先よりもずっと背が高くかなり大柄である。
男は柱を脇へ軽々と放り投げると、今度は孟徳が下敷きになっている瓦礫を退かし、彼の足を挟んだ柱を持ち上げた。

「殿、早くお逃げを!」
男にうながされ、呆気に取られて彼を見上げていた孟徳は我に返り、急いで瓦礫の下から這い出した。
その直後、燃え盛る城門は大きな音を立てながら遂に崩壊し、辺りに火の粉と熱風をき散らす。

孟徳が足を負傷し歩けないのを見た男は、彼の体を軽々と抱え上げ背中にかつぐと、引いて来た馬の所まで運んで、その馬の背にまたがらせた。

「さあ、しっかりお掴まり下され。」
そう言って馬の尻を強く叩き、瓦礫の上を勢い良く飛び越えさせる。
孟徳は振り落とされそうになりながらも、必死に馬の背にしがみつき、やっとの思いで城内からの脱出に成功したのであった。

「曹孟徳はらえたか?」
「それが…まだ見付かっておりません…」

奉先は城内を駆け回り、部隊長たちを問いただしたが、誰一人その行方を掴めてはいなかった。

「既に、城外へ逃れたのかも知れません…」
孟徳を捕まえそこねた部隊長が、歯切れの悪い口調で報告する。
彼は孟徳の顔を知らなかったばかりに、全く違う人物を追い掛け、捕まえて来たのである。

「…やむを得ぬ。一度兵を引き、壊れた城門を修復せよ…!」

暗い天を赤々と照らす燃える城門の方角をじっと見詰め、奉先は部下たちに指示を出すと、飛焰ひえんの馬首を返してその場から走り去った。
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