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第九章 中原の覇者と魔王の片鱗
第百七話 袁公路の追手
しおりを挟む「公路殿、これは何の真似だ?!」
奉先は立ちはだかる公路の配下たちを睥睨し、大声を放つ。
「我々は公路殿の高名を頼って来たのに…英主たる者が、何故俺たちを騙そうとするのか?!」
すると、子台が青褪める公路を顧み、
「殿、詰まらぬ戯言を聞き入れては成りませぬ!」
そう喝すると、今度は部下たちを振り返って怒声を上げた。
「早く、呂奉先を取り押さえよ!」
「お前の様な佞臣(心が邪な臣下)が、主の尊厳を貶めるのだ!恥を知れ!」
奉先は子台を指差し、怒りを露わに彼を罵倒する。
「何を言うか!主君殺しの貴様に言われる筋合いは無い!恥知らずは貴様の方ではないか!」
子台は鋭く奉先を睨み返し、二人は互いに激しく罵り合った。
「もう良い、止めよ!」
声を上げたのは公路である。
「互いに誤解があった様だ…わしは、そなたらを騙す積りなど無い。」
「殿、こいつは豺狼の様な男ですぞ!此処に置けば、我々に害を及ぼします…!」
「止さぬか子台、お前は退がっておれ…」
公路に宥められ、子台は小さく舌打ちをしたが、部下に剣を収める指示を出すと大人しく引き退がった。
「将軍、気分を害したのなら謝罪する。だが…このままでは、そなたらも居心地が悪いであろう…?」
「御心配には及びません。我々は直ぐに、此処を立ち去る積りでしたから…」
「そうであったか…残念だが、また機会があればわしを頼ってくれ…」
奉先は、黙って公路を見詰め小さく頷くと、震える貂蝉の肩を強く抱き寄せながら、取り囲んでいた子台と側近らの間を抜けて広間を足早に去って行った。
宿舎へ戻り、事の次第を配下の将たちに話すと、彼らは一様に表情を曇らせ、高士恭は深い溜め息を吐いた。
「やっと落ち着く場所を手に入れたと思ったのに、この様な仕打ちを受けるとは…」
張文遠も落胆と憤りを混じえ、唸る様に呟く。
「結局、公路は己の利しか考えられぬ人間なのです。こんな所に長居は無用ですよ、早々に立ち去りましょう…!」
士恭が自分の膝を叩き、奉先に向かって言った。
「ああ、そうだな。愚図々々していては、またあの子台と言う者に妨害されるかも知れぬ。」
奉先は彼らに大きく頷いて、早速出立の準備に取り掛かった。
予想通り劉子台はまだ諦めておらず、公路の承認を得ないまま兵を動かし、彼らの後を追っていた。
奉先の兵たちは、長安から此処まで長駆して来ている。
疲弊した兵たちを叩くには今しか無いと考え、子台は彼らの行く手を阻もうと兵たちを急がせた。
自軍の領地を出る前に、呂奉先を捕らえたい。
やがて子台の前方に、砂塵を巻き上げて進む軍勢の姿が見え始めた。
飛焔に跨がる奉先が後方を振り返ると、遥かに子台の率いる追手の姿が見える。
追手の兵たちは、見る間に彼らに接近していた。
「このままでは追い付かれてしまう…!俺が殿で足止めをする間に、仲間を連れて逃げてくれ…!」
奉先は士恭に馬を寄せ、そう言って後方へ向かおうと飛焔の馬首を返す。
すると士恭も馬を返し、奉先に並んだ。
「俺も共に行きましょう!」
「いや、お前には家族を護って貰わねば成らぬ…!」
「しかし…!」
食い下がる士恭の肩を強く叩き、奉先は強く頭を振った。
「これは、誰よりも信頼しているお前にしか任せられぬのだ…!」
そう言って彼の瞳を真っ直ぐに見詰めると、士恭は強く歯を食い縛り黙って彼を見詰め返したが、やがて大きく頷き、奉先の家族を乗せた車を護衛しながら先へと進んだ。
「奉先…っ!」
車から身を乗り出した貂蝉が、風に靡く髪を揺らしながら悲しげな眼差しで彼を見詰めている。
黙ってその様子を見送っていると、今度は張文遠が彼に馬を並べて来た。
「殿軍なら、俺に任せよ!」
文遠はそう言って、大刀を構える。
「お前は俺より統率力がある。父上の軍を纏められるのは、お前を措いて他にはいない…!いざとなれば、俺の首一つ差し出せば済む事である。」
それを聞くと、文遠は強く眉根を寄せて語気を荒げた。
「馬鹿な、こんな所でお前一人を死なせる訳には行かぬ!」
すると奉先は、瞳に微笑を漂わせ、ふっと小さく微笑んだ。
「故郷で、玲華殿が赤児と共にお前の帰りを待っているのであろう?お前が戻らねば、玲華殿が悲しむ…」
「赤児が産まれるのは、お前も同じではないか!俺はこんな所で死ぬ気は無いし、お前も死なせはせぬ…!」
文遠はそう言うと、今度は眉を開き破顔する。
「玲華は、男児を産んだそうだ。お前の子が男なら義兄弟に、女なら許嫁にしよう…!」
「そうか…それは良い!」
「では、何としても二人共生きて仲間の元へ帰るのだ…!」
文遠が奉先の肩を握った拳で強く叩くと、彼も白い歯を見せて笑い返し、迫り来る子台の兵たちに向き直りながら方天戟を構えた。
相手は百騎近い精鋭部隊である。
その敵を前に、奉先と文遠は数十騎の兵で立ち向かう。
赤兎馬、飛焔に跨がり、方天戟を唸らせながら、奉先は一人で数十人もの敵を相手に戦った。
文遠も大刀を振り回し、敵を次々に斬り伏せて行く。
しかし倒しても倒しても限りが無い。彼らの部隊は次第に減少し、包囲網は狭められ、やがて二人は追い詰められてしまった。
「呂奉先、大人しく降伏せよ!」
馬上の劉子台が、彼らに剣の切っ先を向けて太々しく言い放つ。
最早、ここまでか…!
二人は強く歯噛みをしながら、武器を下ろした。
その時である。
子台の兵たちが何かに気付き、丘の上を見上げて騒めき始めた。
「…?」
子台が訝しげにそちらを見ると、丘の上に何処かの軍勢がずらりと兵を並べ、此方に弓矢を向けている。
「あ、あれは…?!」
途端に子台は青褪め、狼狽えた。
奉先と文遠も振り返って彼らを見上げたが、逆光に遮られ、その姿をはっきりと捉える事が出来ない。
怒りに声を震わせながら、子台が叫んだ。
「呂龍昇殿…!殿の客将でありながら、我々に牙を剥くとは、どう言う積もりだ?!」
部隊の先頭に立つのは、漆黒の馬に跨がる人物である。
「呂…龍昇…?!」
思わず瞠目し、奉先はその名を呟いた。
「子台殿、悪いがそいつは、わしの義弟でな…黙って見過ごす訳には参らぬのだ…!」
そう言うと龍昇は部隊を引き連れ、馬を駆って丘を降って来る。
子台の兵たちに対峙すると、馬上の龍昇は、ふんっと小さく鼻で笑った。
「それで、どうする?わしらと一戦交えるか…?」
「…っ!」
龍昇の率いる兵力は、少なく見積もっても千に近い。
これでは分が悪いと子台は小さく舌打ちし、兵たちを退がらせた。
「もう此処に、お前たちの居場所は無いぞ…!即刻立ち去れ…!」
「言われずとも、出て行く積もりだ。袁公路殿とは、どうも肌が合わぬと思っていた所でな…」
恨めしそうに怒鳴る子台に、龍昇は冷静な態度でそう答え、仲間を振り返って出発の合図を送ると、奉先と文遠の前へゆっくりと馬を進めた。
「久し振りだな、奉先。元気そうではないか…!」
「義兄上…」
奉先は目元を少し赤く染めながら、微笑を浮かべる龍昇を見詰めた。
彼は以前と変わらず剛健で、精悍さを備えていたが、何処か覇気の様な物が感じられない。
龍昇は元々清潔さを好み、潔癖な男である。
そんな彼が、今では鬢から顎にかけて無精髭を伸ばし、薄汚れた着物をだらしなく着崩している姿には、少し悲哀を感じた。
「お助け下さり、有難うございます。」
「なに、当然の事だ。お前には、命を救われたのだからな…」
丁建陽との死闘で、龍昇は彼に斬られる所を奉先に助けられている。
拱手する彼を見て龍昇は笑って答えたが、その目には愁いを漂わせていた。
奉先もまた、亡き義父の面影を思い浮かべると、物哀しさが胸に込み上げるのを感じた。
「奉先、久し振りだな!」
朝、宿舎へ現れた一人の青年が、嬉しそうに声を弾ませながら奉先に走り寄る。
彼らは無事に袁公路の領地を抜け、日が傾いた頃には小さな城邑へと辿り着いたのであった。
城内には狭いながらも兵舎があり、所狭しと並べられた幕舎と併用して、彼らは兵たちをそこで休ませる事にしたのである。
その顔を見ると、奉先は忽ち破顔し、彼の肩を強く抱き寄せた。
「陵牙、元気だったか?!」
「ああ、またお前に会えるなんて…!夢みたいだ!」
途端に瞳を潤ませると、陵牙は奉先の体を強く抱き締め、その存在を確かめる様に彼の背中を何度も強く叩く。
「管狼殿と、李月殿も一緒だ。お前が去ってから、管狼殿はお前の代わりに俺を可愛がってくれるようになってな、剣術なども教えて貰っているのだ…!」
「そうか、それは良かったではないか…!」
奉先は目を細め、嬉しそうに語る陵牙の横顔を眺めたが、管狼の名を聞けば、胸に熱い物が込み上げる。
「それから、白の事なんだが…途中の邑で知り合った娘が白を気に入ってな、どうしても譲って欲しいとせがまれたので、その娘に預けたのだ。だが、とても良い娘なので、心配は要らないぞ…!」
「へえ、それで…その娘とやらは、お前の妻になる女なのか?よくも、白を出しに使ってくれたな…!」
「そ、そう言う訳では…!だが、将来的に妻にならぬとも言い切れぬが…」
照れた様に話す陵牙の背中を強く叩き、奉先は白い歯を見せて笑う。
陵牙と共に宿舎の外へ出ると、そこには懐かしい二人の姿があった。
「お前、少し見ぬ内にすっかり大人になったな…!」
李月が笑って自分の顎髭を撫でる。
その隣に立つ管狼は静かに微笑し、少し眩しそうな目で奉先を見詰めていた。
「管狼…」
奉先は二人に歩み寄ったが、彼の顔を見ると言葉が出て来ない。
二人共あの頃と変わった様子は見られなかったが、彼らの髭に少し白い物が混じっているのを見ると、時の流れを強く感じた。
「奉先、無事で何よりだ。お前も色々と、苦しい思いをしたのであろう…」
管狼はそう言って奉先に歩み寄り、左手を乗せて彼の肩を強く揺さ振る。
「世間では、お前を“親殺しの裏切り者”と謗る者もあるが…わしは、お前の性根を良く知っている。何と言われようと気にしては成らぬ。お前には、わしらが付いている…!」
すると忽ち瞼に泪が溢れ、奉先は思わず彼の体を抱き締めた。
感慨深い思いを胸に懐きながら、管狼もまた瞳を潤ませながら、彼の震える背中を優しく撫で下ろした。
呂龍昇と彼らの一行が此処へ至るまでの経緯を、三人から端的に教えられた。
龍昇は黄巾討伐で功を挙げ、王朝から領地を賜ったが、董仲穎が漢王朝の覇権を握った後、その領地は奪われ、蓄えた財産も取り上げられてしまったと言う。
流浪の身となった彼らを迎え入れ、龍昇を客将として礼遇してくれたのが袁公路だったのである。
奉先は彼らに案内されて、龍昇の宿舎を訪ねた。
彼の居室へ入ると、龍昇は昼間から酒に浸り、すっかり酩酊している様子であった。
「奉先か、良く来た。此処へ座れ!」
龍昇は機嫌良くそう言って笑い、自分の座る筵の前を指差した。
奉先が彼の前に座ると、龍昇は酒坏に酒を汲んで差し出す。
「兄上…余り飲み過ぎては、体に毒です。それより、俺の為に袁公路の元を追い出されてしまって、良かったのですか…?」
「ふんっ…袁公路は詰まらぬ男よ。小心者で猜疑心が強い…あんな奴の下に長く居座れば、わしも詰まらぬ人間に成り下がるだけだ…!」
龍昇は鼻で笑い、悪態をつく。
「それでは、これから何処へ向かわれるのです?」
その問い掛けに暫し沈黙し、龍昇は酒坏の中の白く濁った酒を眺めた。
「兄上、俺と共に曹孟徳殿の元へ行きませんか?」
すると龍昇は、一瞬驚きの眼差しで彼を見たが、直ぐに不敵に顔を歪めた。
「何を寝惚けた事を…!わしが、曹孟徳の元へだと?!わしは奴を殺そうとしたのだぞ、受け入れられる筈が無い…!」
「いいえ、兄上。孟徳殿は、その様な過去に拘る人では無い…!才あればその能力を認め、出自や家柄などに関係無く受け入れる。兄上ならばきっと、孟徳殿の元で力を発揮するでしょう…!」
奉先はそう言って膝を進め力説した。
だが、龍昇は渋い顔のまま彼を見詰め返すだけで、やがて再び、ふんっと鼻で笑うと、
「曹孟徳を頼るくらいなら…もう一度、袁公路に泣き付いた方がましである…!」
そう言って、手にした酒坏の酒を一気に煽る。
その様子を痛ましい眼差しで見詰めると、奉先はやがて立ち上がり、龍昇に向かって拱手した。
「過去に拘り、詰まらぬ自尊心を抱き続ける以上、兄上は孟徳殿に遠く及ばない…貴方は一生、彼を超える事は出来ぬであろう…!」
去り際、奉先は肩越しに彼を見てそう言うと、そのまま振り返る事なく居室から出て行った。
「………」
龍昇は酔眼を鋭く上げたまま、彼の去って行った後の虚空を見詰めていたが、やがて床に酒坏を投げ付けると、小さく自嘲する様に笑った。
龍昇の宿舎を後にし、表門の近くで待っていた陵牙たちの元へ戻ると、奉先は彼らに向かって言った。
「俺はこれから、曹孟徳殿の所へ行く積もりだ。お前たち、俺と一緒に行かないか?」
すると、三人は困惑した様子で互いの顔を見詰め合う。
「龍昇様は、何と?」
「兄上は…行く気は無いと申しておられた。」
「そうか…」
陵牙は小さく溜め息を吐く。
「わしたちは、龍昇様にお仕えする身。主が行かぬならば、わしらが行く訳には参らぬ…残念だが…」
管狼はそう言って、瞳に少し憂いの影を漂わせた。
やはり、そうか…
彼らがそう答える事は、始めから予測出来たが、それでも一縷の望みを掛けて彼らを誘ったのである。
「分かった…では、また此処でお別れだが、皆達者で暮らしてくれ…!」
奉先はそれ以上のしつこさは見せず、笑顔で彼らに餞の言葉を贈る。
彼らも笑顔でそれに応え、
「ああ、お前も元気でな!またいつか、きっと会おう…!」
「奉先、わしらは何時でも、お前の味方だ。それを忘れるな…!」
陵牙と管狼がそう言って、名残り惜しさを滲ませながらも、彼に別れを告げた。
やがて出発の準備を整えた奉先は、仲間と家族を引き連れ、陳留郡の曹孟徳の元を目指して小さなその城邑を後にした。
城壁から、遠ざかる彼らの軍勢を見送っていた龍昇は、風に髪を靡かせながら上空を見上げ、
「曹孟徳に従うのは詰まらぬ…南へ行くか…」
高い蒼天を眺めながら、小さくそう呟いた。
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