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第八章 江東の小覇王と終焉の刻

第百四話 終焉の刻 《八章 最終話》

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雨粒を斬り裂き、唸りを上げて迫り来る覇王槍はおうそうを、奉先は片手に握った方天戟ほうてんげきで受け止め、素早く弾き返した。
間髪入れず仕掛ける仲穎の攻撃に後退しつつも、付け入るすきを与えず、高い瞬発力しゅんぱつりょく俊敏しゅんびんな動きで応戦する。

「…ちっ!」
突き出す槍をことごとかわされ、仲穎は一度身を引いて槍を構え直すと、目に苛立いらだちを浮かべながら大きく舌打ちをした。
彼の攻撃を奉先は完全に見切っている。
仲穎から距離を置き、一瞬苦痛に顔をめたが、奉先は再び彼を鋭く睨み据え防御の構えを取った。

わしに刃向かうとは、生意気な…!
忌々いまいましげに彼を睨み付けると、仲穎は再び鋭い槍撃そうげきを放つ。
その槍撃は奉先の首筋をかすめて血が飛び散った。が、彼はひるまず相手の懐へ飛び込む様に前へ踏み出すと、戟で槍撃を退けながら膝を突き上げ、仲穎の胸板に強烈な膝蹴りを食らわせた。

「ぐっ……っ!!」

思わずうめき、仲穎が蹌踉よろめきながら後退した所へ、鋭い方天戟の突きが放たれる。

「おのれ…!」
仲穎はその攻撃を素早く旋回せんかいさせた槍の柄で強烈に撃ち返し、更に奉先の繰り出した回し蹴りを腕で防御する。
その勢いで体勢を崩し、後方の石灯籠いしどうろうを押し倒した。
直ぐ様立ち上がった仲穎は、追い撃ちを掛けようと走り寄った奉先に猛烈もうれつに突進したかと思うと、今度は激突した彼の体を抱え上げて勢い良く投げ落とす。

「うおおおおおっ…!」

目を血走らせて彼の体を倒れた石灯籠の上に叩き付け、灯籠を粉々に破壊した。
よろいを身に付けているとはいえ、その衝撃は凄まじく、背中を強打した奉先は息が出来ず、思わずその場でもだえた。

大きく乱れた呼吸を整えながら、仲穎が拾い上げた覇王槍を彼の頭上へ振り下ろすと、奉先は瞬時に右腕一本で体を支え、体を回転させて素早く立ち上がる。
左肩をかばいながら、仲穎が放つ槍撃に身をひるがえして右へ左へと巧みに回避した。

やがて背後を巨大な石像にはばまれ逃げ場を失ったが、電光石火でんこうせっかの如く突き出される覇王槍を咄嗟とっさに右手で掴み取り、目前に迫った槍を素早く躱すと、槍は石を深くえぐって石像に突き刺さった。

深く刺さった槍は、崩れた石像にはさまれびくともしない。
「くっ…!」
仲穎は渾身こんしんの力で槍を引き抜こうと両腕に力を込め、盛り上がる筋肉に血管を浮き上がらせた。

身をひるがえしてそこから離れ、土砂の中で激しい雨に打ち付けられている方天戟を拾い上げ右手に構える。
そして傍らにそびえ立った巨大な石像を振り返って見上げた奉先は、強く歯を食い縛って勢い良く左肩を石像の土台に打ち付けた。

「ぐあっ…!!」
声にならない叫びを上げ、激痛にうめいたが、外れた肩の関節は整復せいふくし方天戟を素早く両手で構える。
再び仲穎の方を振り返って見た時には、仲穎は石像から槍を引き抜き、大きく旋回させてこちらへ向かって来ていた。

覇王槍は雷光にひらめき、猛然もうぜんと迫り来る。
奉先は一瞬、瞼を閉じ精神を集中させた。
意識を研ぎ澄ませたその瞬間、激しく打ち付ける雨の音も感触も全てが消え失せる。
方天戟を握る両手に力を込め、かっと瞼を開いた時には槍は既に目前にまで迫っていた。

次の瞬間、戟と槍が激突し激しい火花を散らす。
凄まじい衝突音は雷鳴をも切り裂き、辺りに甲高かんだかく響き渡った。

神殿の前に立ち尽くして二人を凝視していた孟徳は、額に汗を浮かべ思わず固唾かたずを呑んだ。
時間も空間さえも、その刹那せつな全ての物が静止したかに思えた。
仲穎と奉先の二人は微動だにせず、互いに睨み合っている。

「………!?」

ようやく、仲穎は自分の握った覇王槍の柄が真っ二つに切断され、ね上げられた槍頭そうとうが背後の石像に突き立っている事に気付き、声を失った。

たちまち蒼白となった次の瞬間、体に強い衝撃が加わる。
見れば、奉先の腕から放たれた方天戟が、仲穎の体に深く突き刺さっていた。

「ぐっ……ぐはっ…!!」
仲穎は口から鮮血を吐き出し、その場に両膝を突いて体勢を崩した。
前のめりに体を傾かせて倒れ掛けたが、方天戟の柄を強く掴んで顔を上げると、鋭く奉先を睨み付ける。

「愚か者めが…っ!わしをたおした所で…漢王朝の滅亡を止める事など出来ぬ…!」
口から血を流し、目を血走らせながら首を回して視線を背後へ送った。

「あの小僧を見ろ、わしと同じ目をしている…!」

仲穎は神殿の入り口に立ち尽くす孟徳を指差し、声を限りに叫ぶ。

「孟徳殿は、お前とは違う…!」
「何故そう言える…?!皇帝を擁立ようりつし権力を手にすれば、奴もわしと同じ様になるだろう…奉先、貴様はあの小僧に利用されるだけだぞ…!」

「………っ!!」
奉先は、方天戟の柄を握る手に力を込めながら、眉をひそめて強く歯噛みをした。
そして、ゆっくりと瞳を動かして孟徳に視線を送る。
彼には、暴雨の音で二人の会話は耳に届いていない様である。
体を柱にもたれ掛け、不安の表情でこちらを見詰めていた。

一度目を閉じた奉先は、小さく息を整えてから再び瞼を開く。


たとえそうであっても…俺は、孟徳殿を信じている…!孟徳殿の為なら、悪鬼羅刹あっきらせつにでもなって見せよう…!」


目をいからせてそう言い放つと、奉先は突き立てた方天戟を更に深く仲穎の体に食い込ませ、遂にその背中を貫いた。

「ぐあっ…あああ…っ!!」

仲穎は激しく吐血しながら体をけ反らせ、冷たい雨の降り注ぐ天を仰ぐ。
まばゆい雷光に照らし出される下、やがて全身から力が抜けたその巨体は、後方へゆっくりと傾き仰向あおむけに土砂の上へと倒れた。

遂に、仲穎を斃した…!

それを見詰めていた孟徳の頬を、いつの間にかあふれた泪が流れ落ちていた。
長かった戦いが、ようやく終わりを告げたのである。
そう思った瞬間、突然緊張の糸が切れ、孟徳はその場に崩れ落ちた。

「はぁ、はぁ…!」

大きく肩で息をしながら、仲穎の体を貫いた方天戟を抜き取る。
全身に返り血を浴びて、鎧や着物は赤く染まっていた。
暗い天を仰ぐと、顔に掛かった返り血が雨で洗い流されて行く。

何処どこからか飛焔のいななきが聞こえ、奉先が指笛で呼び寄せるとたちまち彼の元へ走り寄って来た。
奉先は乱れた呼吸を整え、飛焔のたくましい首筋にもたれながら立ち上がると、痛む左肩を押さえて倒れた孟徳の元へと向かう。

「孟徳殿、しっかりしろ…!」
彼の肩を揺すって呼び掛けると、孟徳はうっすらと瞼を開いて彼の顔を見上げ、弱々しく微笑み返した。

「奉先…お前なら、きっとやり遂げると信じていた…ありがとう…」

それから今度は悲しげな表情を浮かべ、赤くれた瞼に泪をにじませ声を震わせる。

「貂蝉の事…まもってやれなくて、ごめんな…本当に…悪かった…」

その声を聞きながら、奉先は暫し悲痛な眼差しで彼を見詰めていたが、やがてその瞳をうるませ、悔しげに唇を噛み締めながら彼の体を強く抱き締めた。
あふれる泪が止めなく流れ、奉先は肩を震わせてむせび泣く。

激しく降り注ぐ雨が神殿の屋根から滝の様に流れ落ちていたが、その雨脚あまあしは次第に弱まり、やがて雷鳴も遠ざかって行った。


神殿へ駆け付けて来た王子師は、倒れた仲穎の亡骸なきがらを目にした瞬間、大きく息をみ、その光景に暫し言葉を失った。
急いで部下たちが仲穎の死を確認し、ようやく安堵の溜め息を吐く。

宮殿の外で戦闘を繰り広げていた兵たちにも仲穎の死が伝わり、彼の兵たちは次々と退却を始めたが、子師は仲穎の残党らをことごとく捕らえ獄に繋ぐよう命を下した。

それから直ぐ様、仲穎の死骸を回収すると、それを市場へ運んで長安の市民らにさらし、仲穎による暴政が幕を下ろした事を民衆に告げたのである。
仲穎は民衆からも多くの怨みを買っていた為、その死を嘆き悲しむ者は無く、皆彼の死を慶賀けいがし喜び合った。

一夜が明け、今度は仲穎の一族を全て捕らえるべく、子師は早速、奉先に兵を率いてへ向かうよう命じた。
市場では仲穎に怨みを抱いていた者が彼の死骸に火を放つなどして騒ぎが起こり、長安では未だ混乱が続いている。

一先ひとまず傷付いた孟徳を屋敷へ連れ帰り、傷の手当てをほどこした奉先は彼の病床を訪れていた。

「孟徳殿、あなたは今の内に長安ここを離れ、故郷くにへ戻った方が良い。信頼出来る仲間に送らせよう。」
「ああ、だが俺一人では戻らぬ。お前も一緒に行くのだ…!」
そう言うと、孟徳は身を乗り出し奉先の肩を強く掴んだ。

「奉先、俺が此処へ来た真の目的は、お前を連れ帰る事だ。董仲穎を斃した今、お前が此処に残る理由は無いであろう?」

強く眉根を寄せ、孟徳はじっと彼の瞳を見詰めて訴える。

「今の俺には、まだ力が無い…お前が俺の元へ来て力になってくれれば、この乱世を収め天下を太平へと導く事が出来る筈だ…!」

奉先は暫し黙して彼を見詰め返していたが、瞳に稍々やや暗い影を落としてうつむきながら、

「俺は…まだ此処を去る訳には参らぬ。これから郿へ向かい、仲穎の一族を捕らえに行くのだ。この混乱がしずまれば、必ずあなたの元へ向かうと約束しよう…!」

そう答え、今度は顔を上げて彼に微笑を向けた。
孟徳は深い溜め息をき、少し心残りな表情を浮かべながらも、
「そうか…分かった。」
と小さくつぶやく。
そして、

「何があろうと、お前が来る事を信じ、俺は待っている…!」

大きな瞳を輝かせ、まぶしそうに目を細めると、奉先の肩を強く叩きながら爽やかにそう言って微笑んだ。


郿には、仲穎の弟である董旻とうびん(叔穎しゅくえい)と、九十歳になる彼らの母が滞在していたが、仲穎の死の知らせが届くと同時に、彼らはとらわれ投獄とうごくされていた。
郿へ辿り着いた奉先はすみやかに反乱勢力を制圧せいあつし、郿城を占拠せんきょした。
残るは残党の後始末だけである。

郿城の奥にある後宮へ足を踏み入れると、仲穎によって集められた美女たちが、皆肩を寄せ合いおびえていた。
彼女らをそこから連れ出し長安へ連れ帰る為、数多くのしゃが用意され、娘たちを次々に乗せて行く。

地下牢へと続く階段を降り、薄暗い牢の中を調べて行くと、その中に見覚えのある少女の後ろ姿を発見した奉先は、思わず息を呑んだ。

「ち…貂蝉、お前か…?!」

その声に反応し、少女はゆっくりと後ろを振り返る。
彼女の目には血濡ちぬれた布が巻き付けられていた。

「奉先?奉先なの…?!」

手探りで前へ進もうとする少女に駆け寄ろうとした時、突然何者かが彼の前を塞いだ。
見ると、そこに立っていたのは軍師の李文優りぶんゆうである。
咄嗟に剣を構えて彼を睨み付けたが、彼は無表情のまま貂蝉に近付くと、訝しげに見詰める奉先の前で彼女の目をおおう布を取り去った。

「……っ?!」
それを見た奉先は再び、はっと息を呑む。

貂蝉が閉じた瞼をゆっくりと開くと、そこには深い瑠璃色るりいろに輝く美しい彼女の大きな瞳があった。

「仲穎に渡したのは、死んだ兵士から取り出した眼球です…彼は、まんまとだまされてくれましたよ。」
文優は表情を変える事無く、さらりとそう答える。

「奉先…!!」

途端に瞳を潤ませ、貂蝉は弾かれた様に走り出すと、彼の胸の中へ飛び込んだ。

「ごめんなさい…!私…私…うわあぁぁぁぁんっ…!」
貂蝉は肩を震わせ、遂に声を上げて泣き出してしまった。
彼女の震える肩をしっかりと抱き留め、奉先はその体を強く抱き締めた。

「文優殿…ありがとう…!」
奉先は赤い目を上げて、文優に視線を送り感謝の言葉をべる。
すると彼は目を細め、

「言った筈ですよ。私は、あなたの見方だと…」
そう言って、ほんの少しだけ笑った様な顔を見せた。

地下牢を出て明るい日差しの下へ来ると、貂蝉はまぶしそうに太陽に手をかざして目をしばたたかせる。
空は前日までの豪雨が嘘のように晴れ、遠い地平線の先まであおく澄み渡っていた。

ずっと暗い牢で目隠しをされていた彼女には、明るい太陽の光は強過ぎるらしい。
足元には、きらきらと輝く水溜みずたまりが幾つも広がっており、奉先は立ち尽くす彼女を振り返って微笑を浮かべると、ふいに彼女の体を抱き上げた。

「きゃっ…!」
驚いた貂蝉は思わず小さな悲鳴をらしたが、彼の首筋に腕を回し、しっかりと抱き付いて紅潮こうちょうした柔らかな頬を彼の頬に押し当てる。

幸せそうな笑みを浮かべる貂蝉を抱え、奉先は遠い蒼天そうてんの彼方を見詰めながら、水溜りの上を歩いて進んだ。


ー《第八章 完》ー
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