上 下
94 / 132
第八章 江東の小覇王と終焉の刻

第九十四話 義兄弟

しおりを挟む


「お三方さんかたは知り合ってから、もう長いのですか?」

幽州ゆうしゅうへ向かう劉玄徳りゅうげんとく趙子龍ちょうしりゅうの一行は、広がる星空の下で野営をしていた。
軽い夕食を済ませた彼らは、焚火たきびを囲んで談話を交わしている。

「そうだな、彼此かれこれ七、八年…といった所か…?」
子龍に尋ねられ、翼徳は指で顎をひねりながら年月を数えた。

「翼徳、兄者に初めて会った時の事を覚えているか?」
笑いながら雲長が問い掛ける。

「ああ、勿論だ!最初は、随分と薄気味の悪い奴だと思ったよ…」
「玄徳殿が?」
子龍は少し意外な様子で声を上げ、雲長と翼徳に驚きの表情を見せた。
この場に玄徳の姿は無かったが、彼の目に映る玄徳とは、男気おとこぎの感じられる、明るく爽やかな好青年である。

「兄者は…たった一人で故郷を出て、ある時、俺たちの住むむらへ流れ着いた。丁度その頃、近くの山に山賊が住み着いていて、邑から兵士を募って討伐軍が結成された。俺たちはまだ餓鬼がきだったが、腕っ節には自信があったからな。翼徳と共にその討伐軍の一兵卒いっぺいそつとして参加したのだ…」

近隣の邑々から集められた討伐軍の中には、まだ十代の若者たちが大勢いたが、そんな中一際ひときわ大人びた少年がいる事に気付いた雲長は、彼に近付いて声を掛けた。

「お前、見掛けない顔だ。名は何と言う?」
「………」
少年は雲長を一瞥いちべつしただけで、何も答えない。

「雲長兄貴、そんな奴放っておけよ…!」
その様子を隣で見ていた翼徳が、怪訝けげんな顔で雲長の肩を揺すった。

実は雲長も故郷を追われ、この邑へやって来てから凡そ一年余りである。
翼徳は元々邑に住んでおり、雲長とは知り合ってからすっかり意気投合し、それからは何時も彼を“兄貴”と呼んでしたっていた。
雲長は翼徳を稍々たしなめ、再び少年に向き直る。

「この辺りの者では無い様だな…何故、討伐軍に参加した?」
しつこく聞いて来る雲長に少しわずらわし気な様子ではあったが、彼はやがて「…食べる為だ。」とだけ小さく答えた。

「そうか、ならば俺たちも同じだ。俺は雲長、関雲長と申す。」
「…俺は、玄徳だ。」
雲長が笑いながら自分の名を名乗ると、彼も小さくではあるがそれに応えた。

礼を知っている者である…
雲長は、彼に少なからず教養が備わっていると見た。

討伐軍は険しい山岳の道を抜けて、山賊の砦を目指し進んでいた。
天候は悪くなく見通しも良かったが、彼らの指揮官は戦経験の少ない人物で、うっかり敵の伏兵に遭い奇襲を受けてしまった。

指揮官は敵の矢を受けて落馬し、崖の上から無数の矢が飛来する。
兵士たちは盾で矢を防ぎながら、退却するのも必死な状況であった。

落馬した指揮官は怪我を負いつつもまだ生きており、倒れた馬の陰に潜んで飛来する矢から身を守っていたが、激しい矢の勢いに彼を救い出そうとする者は居ない。
そんな中、一人の少年が矢嵐の中へ飛び込み、指揮官の救出に向かった。

彼は激しく降り注ぐ矢を盾で防ぎ、片手に握った剣で払い落としながら指揮官の元へ辿り着いたが、指揮官は足に矢を受けて立ち上がる事が出来ない様子である。
少年は指揮官に盾を持って身を守らせながら、頃合いを見計らい、彼の体を引きって仲間の方へと走った。

再び降り注ぐ矢が二人を狙って次々に放たれたが、二人は傷を負いながらも無事に仲間たちの元へ辿り着いたのである。

「玄徳…!お前、死にたいのか?!」
傷だらけで戻って来た彼の肩を雲長は激しく掴んだが、彼は黙って雲長の目を見詰めただけで何も答えなかった。

「…俺は、医術の心得がある…見せてみろ。」
そう言って、雲長は彼の体の傷を診て手当てをほどこす。

「俺は、故郷で人をあやめてしまってな…以前、雒陽らくように潜伏している時に役人に捕まり殺されかけた。その時、華元化かげんかという名医に助けられたのだ。」
雲長が語るのを聞いているのかいないのか、玄徳は虚ろな眼差しで俯いたままである。

「雲長兄貴!無事だったか!」
そこへ兵士たちをき分けて翼徳が二人に走り寄った。

「お前…っ」
翼徳は俯く玄徳に鋭く迫ると、彼の肩を掴んで睨み付ける。

「命知らずな奴だな、感心した…!」

彼はそう言うと、にやりと笑って白い歯を見せた。

その後、部隊を立て直した討伐軍は奮戦し、山賊たちを砦から追い出す事に成功した。
そこでも玄徳は身の危険をかえりみず敵と戦い、その戦い振りとは正に鬼神の如くであった。
邑へ戻ってからの玄徳は、相変わらず人との接触をこばみ、邑の片隅で乞食こじき同然の身形みなりで暮らしていた。
そんな彼の姿を、邑人たちは不快な眼差しで見て見ぬ振りをするのであった。

ある時、大雨が降って近くの川が氾濫はんらんを起こし、近隣の住人が濁流だくりゅうに呑まれたと聞くと、玄徳はまたしても危険を顧みる事なく川へ飛び込み、五人中、三人を助け出したのである。
その後、自身も流されたが、駆け付けた雲長と翼徳が縄で体を縛って濁流に飛び込み、何とか彼を救出した。

「今回は、本当に死ぬ所だったぞ…!何故そんな無謀な真似をするのだ?!」

岸へ引き上げ、彼に水を吐かせながら雲長が怒鳴り付ける。
玄徳は激しくせながら、彼に肩を貸そうとする雲長と翼徳を、わずらわし気に手で押し退けた。

「助けてやったと言うのに、礼の一つも言えぬのか?!」
翼徳が突っ掛かると、

「助けてくれと、頼んだ覚えは無い…っ」
そう言って、玄徳は振り返る事も無く歩き去って行く。

彼は、死ぬつもりなのだ…

雲長はその時、強くそう思った。
彼の命知らずな行動の裏にあるのは、恐らくそれであろう。
玄徳は何を思っているのか、命懸けで人を助けようとしているのだ。
その結果、自分が死ぬ事になっても構わないとさえ考えているらしい。
雲長は遠ざかる彼の後ろ姿を、憂いの眼差しで見送った。

しかしそれから間もなく、彼に対する邑の人々の視線は以前より少し好意的なものへと変わっていた。
子供たちは、きっと彼は“仙人”だと言ってみつぎ物を持って来る事さえある。
そんな子供たちの姿を、初めは迷惑そうに見ていた玄徳であったが、乾いた彼の心に子供たちの純真無垢じゅんしんむくな魂が潤いを与えたのであろう。
やがて心を開き、彼らと打ち解ける様になって行った。

長く寒い冬を越え、邑に春の日差しが降り注ぐ季節となった頃、一人の男が玄徳の前に現れた。

「死にたがっている男が居ると聞いた…お前か?」

男は頭から頭巾(フード)をすっぽりと被り、自分の素姓すじょうを明かさぬ様にしたまま、目の前の玄徳に声を掛ける。
「……」
玄徳はむしろに座ったまま、訝しげに男を見上げた。


「お前が俺を訪ねて来るとは、珍しい事があるものだ…!」
雲長は小さな家屋の扉を開き、嬉しそうにその訪問者を室内へといざなった。

「長居は出来ぬ。直ぐにでも此処を発たねば成らぬのだ…」
戸口に立ったままの彼に背中へ呼び掛けられ、振り返った雲長は直ぐに笑顔を掻き消し、再び彼の側へ歩み寄った。

「どういう事だ?お前に急用など…何があった?」
「実は…これを、お前に預かって貰いたい。」
そう言って、彼が差し出したのは少々重そうな小箱である。
雲長は怪訝な眼差しのまま、その箱のふたを開いた。

「こ、これは…?!」
中には、金銀銅貨やぎょくなどが詰まっている。

「ある人物から、仕事を依頼された。それはその報酬だ。」
「これ程の財宝を与えてくれるとは…一体、何の仕事だ?!」

「…この金で、邑の子供たちの為に学舎がくしゃを建てて欲しい。」

雲長の問いには答えず、玄徳は穏やかな表情で彼にそう頼んだ。

「どうして俺に…?この金を俺が持ち逃げしたらどうする?!」
「お前は、その様な事はしない…」
そう言うと、玄徳はそこから去ろうとした。

「待て、まだ質問に答えておらぬであろう…!仕事とは何だ?!正直に話さねば、これを預かる訳には行かぬ…!」
そう言って、雲長は箱を彼の胸元へ押し返す。

「………」
玄徳はしばし黙して俯いていたが、やがて彼に事の次第を説明した。

ある日突然、玄徳の前に現れた謎の男は、自らの素姓は明かさなかったものの、地元の有力者でかなりの富豪であるらしい。
彼が玄徳に依頼した“仕事”とは、ある人物の身代わりである。

「わしの息子が、誤って女を殺してしまった。捕吏ほりや役人に賄賂わいろを送って、事件をみ消そうとしたが、融通ゆうづうの聞かぬ人物に睨まれてしまってな…近々捕吏が送られ息子は逮捕をまぬがれなくなった。京師けいしに送られれば、死罪となるのは確実であろう…」

詰まり男は、玄徳に自分の息子の代わりに捕まって欲しいと言うのである。
勿論、ただと言う訳ではない。その代わり、どんな願いでも聞いて呉れると約束した。
玄徳は考えた末、引き換えに男から多額の金品を受け取る事にしたのである。

「そんな、馬鹿な話しがあるか…!自分の息子を助けたいが為に、お前に死ねと言うのか…?!」
話しを聞いた雲長は、目を吊り上げて怒鳴った。

「俺が死ぬのは構わぬ。俺が死んでも、悲しむ者は一人も居らぬからな…だが、どうせ死ぬなら誰かの役に立って死にたいのだ…」

「玄徳…」

彼は既に決心を固めている。
今更、引き止める事は叶わぬであろうと思い、雲長は瞳を赤く染めながら、じっと彼を見詰めた。

その日の内に、邑を去った玄徳は男の元へと向かい、それから数日後、息子の身代わりとなった玄徳は、現れた捕吏に捕らわれ京師へと送られて行ったのであった。

玄徳から金品を預かっていた雲長は、彼との約束を果たす為、早速村長むらおさに頼んで邑に学舎を建てて貰うよう頼み込んだ。
やがて真新しい学舎が建てられると、雲長は邑の子供たちを集めてそこで学問を教える事になった。
彼は役人になる為、幼い頃から勉学に励んでおり『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん』は彼の愛読書である。

それから毎日、邑には子供たちの元気な声が響き渡り、邑は活気に満ちていた。
山の桜や桃の花が見頃みごろとなったある日、いつもの様に学舎へ向かう道程みちのりを歩いていた雲長の目に、邑の門前に一人たたずんでいる長身の少年の姿が映った。

「あれは…?!」
雲長は驚きを隠せず、目をみはってそちらへ走った。

「玄徳…!お前、生きていたのか?!」

そこに立っていたのは、襤褸ぼろまとい、酷く汚れた格好ではあったが、紛れも無く玄徳であった。

京師へ送られた玄徳は、死罪を言い渡され牢へ閉じ込められたのだが、処刑を翌日に控えた前日、大赦たいしゃが発令され、今度こそ死ぬ覚悟だった彼は又しても生き残り、奇跡的に釈放されたと言うのである。
邑へ戻って来る気は無かったが、子供たちの様子が気に掛かり、自然と足が此処へと向かったのであった。

雲長は瞳をうるませながら玄徳の肩を掴むと、

「天は、お前を生かそうとしているのだ…!それが分からぬか?!」

そう言って彼の肩を強く揺さ振った。
俯いていた玄徳は、

「お前は、約束を守ってくれたのだな…それが分かっただけで、充分だ…」
そう呟く様に言うと、覚束無おぼつかない足取りで門を出て行こうとする。

「待てよ!何処へ行く気だ?!」
雲長が呼び止めたが、彼は振り向かず歩き去ってしまった。

やがて、彼は険しい山道を越え、美しい邑の風景が遠望出来る切り立った崖の上に立っていた。
見下ろせば、そこには足がすくむ程の高さの暗い谷底がある。

最期に、信頼出来る友が出来た。思い残す事も無い…

彼はそう思い、頭上に広がる澄んだ蒼天そうてんを見上げながら、深く深緑しんりょくの香りを吸い込んだ。
何度も命を捨てる覚悟をして来たのである。最早、恐怖心も何の感情もかない。

それどころか、これ程穏やかな気分に浸ったのは何時いつ以来の事であろうか…
彼はゆっくりと瞼を閉じて、その身を崖の上から投じようとした。

その時、突然、何者かが彼の腕を強く掴み取った。

振り返ると、そこには赤い目をした雲長が立っている。
彼は、玄徳の事が気になって密かにあとを付けて来たのである。

「お前が本当に死ぬ積りならば、もう二度と止めたりはせぬ…だが、その前に一つだけ、俺の願いを聞いてはくれないか…?」

「願い…?」
玄徳はいぶかしげに眉をひそめた。

「お前は、俺の事を信じてくれた。その思いにこたえたい…」
「…俺の頼みを、もう聞いてくれたであろう?」
「ああ、だから今度は、お前が俺の願いを聞いて欲しい。」
「……?」
赤い目を向けたまま、真っ直ぐに彼を見詰めて語る雲長に、玄徳は稍々やや戸惑いを覚えた。

「願いとは…何だ?」
そう問うと、雲長は一度大きく息を吸い込んでから答える。


「お前と義兄弟ぎきょうだいになりたいのだ…!」


「義兄弟…?」
玄徳は大きく首を斜めにかしげた。

しおりを挟む

処理中です...