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第八章 江東の小覇王と終焉の刻
第九十三話 劉玄徳と若武者
しおりを挟む雒陽から強制的に身柄を長安へ遷された幼い皇帝は、しばしば体調を崩しては病臥する日々を送っていた。
帝は雒陽へお戻りになられたいのだ…
侍中の劉和は、深い溜め息を吐きつつ哀れみの眼差しでその様子を見ていたが、彼はある時、遂に意を決して長安からの脱出を試みた。
劉和の父は、幽州牧の劉虞(字は伯安)である。
彼は董卓から逃れる為に逃亡した様に見せかけ、実は皇帝から預かった密詔を父の元へ届けに向かったのである。
漢の忠臣である劉伯安ならば、必ずや皇帝の願いを聞き入れ、軍勢を率いて迎えに向かうであろう。
苦しむ皇帝を救えるのは、父しか居ないと考えていた。
所が、南陽郡を通り掛かった時、皇帝の密詔の事を聞いた袁術(公路)に引き留められ、自分が皇帝を雒陽へ帰還させた功労者になりたいと考えた公路は、劉伯安の元へは別の使者を立て、劉和に書かせた書簡を送るに留めたのである。
袁公路の思惑を察し、劉和は彼の元から逃げ出し幽州を目指したのだが、今度は冀州で袁紹(本初)に引き留められてしまった。
一方、書簡を受け取った劉伯安は、袁公路の求めに応じて早速兵を派遣しようとしたが、それを知り、公路に野心がある事を見抜いた公孫瓚(伯圭)に派遣を取り止めるよう進言された。
しかし、劉伯安はそれを聞き入れず兵を派遣。
派兵に反対した事を公路に知られてはまずいと考え、伯圭は従弟の公孫越に千騎の兵を付けて公路の元へ向かわせ、公路と密かに同盟を結んだ。
所が、その後豫州刺史の座を巡って袁公路の配下、孫文台と、袁本初が派遣した周昂との間で争いが起こり、この戦で援軍として送り込まれた公孫越が流れ矢を受けて死亡してしまうという事態を招く。
この事で、公孫伯圭は争いの種を撒いた袁本初に恨みを抱く様になり、遂に自ら出兵して磐河まで出撃し本初を脅かしたのであった。
互いの武器が激突し、激しい火花が飛び散る。
開けた草原の上で、二人の男は既に一刻近くも馬上で打ち合いを続けていた。
「小僧…!いい加減に諦めてはどうだ?!これでは、いつまで経っても埒が明かぬぞ…!」
「あんたの方こそ、いい加減に大人しく降伏しろ!命だけは助けてやるぞ、悪党…!」
愛用の蛇矛で相手の鋭い槍撃を跳ね上げ、半ば呆れた様子で大声を放ったのは、馬上の張翼徳である。
それに対し、多少息が上がっているとはいえ不敵に言い返し、翼徳と互角に打ち合っているのは、身の丈八尺に近い偉丈夫だが、その顔には邪気なさの残る精悍な若武者であった。
「悪党だと?!ふざけるな、俺たちは盗賊では無いと、何度も言っているだろう?!」
翼徳は目を剥いてそう言ったが、小さく舌打ちをしながら振り返り、後方で彼らの様子を見ている劉玄徳と関雲長に向かって大きく首を捻って見せた。
「あの翼徳が音を上げている様だ…どうする?兄者…」
雲長は苦笑を浮かべ、黙って彼を見詰めている玄徳を見上げた。
翼徳は、性根の優しい男だ…
初めは「一撃で仕留める。」などと息巻いていた翼徳だったが、初めから本気で戦ってはおらず、少年を斃す積りなど無かったのであろう。
玄徳は微笑を浮かべ、彼を見詰めながらそう思った。
事の発端は数日前に遡る。
連合軍の瓦解と共に、集まった諸侯らはそれぞれの勢力地へと引き揚げて行ったが、劉玄徳と仲間たちは再び各地を流浪する日々を余儀なくされた。
そこで、彼らは一先ず玄徳の兄弟子である公孫伯圭を頼る為、義勇兵を募って仲間を集めながら幽州を目指す事にした。
「ちびすけの奴、無事に仲間の元へ帰ったんだろうか…?」
ふと遠い空を見上げて呟く翼徳を振り返り、馬上の玄徳は目元に微笑を漂わせる。
「孟徳なら心配無い。きっと今頃、仲間たちの元へ戻っているさ。」
彼らが酸棗の連合軍の元から去った時、まだ曹孟徳の行方は分かっていなかった。
しかし、玄徳には孟徳が生きていると言う確信があった。
彼に言わせれば、人には『生命の色』とも言うべき物が存在する。
その色は人によって異なり、微弱な色から強力な色までがある。
彼はそれを強く感じる事で、その人物の生命力の強さを計る事が出来るのである。
孟徳の色はまだ消えてはいない。
今は微弱だが、彼は間違いなく生きている…!
冀州を通過し幽州まであと少しの距離にまで近付いた辺りで、彼らはある小さな城邑を訪れた。
彼らは小集団であるとはいえ、百人余りの部下や兵士を引き連れている。
それでも、邑人たちは快く彼らを迎え入れ、親切にもてなしてくれたのであった。
村長は非常に穏やかな物腰の中年男性で、常ににこやかな表情で彼らに接し、邑の住民たちは老若男女を問わず皆朗らかである。
その邑の至る所には、大きな酒甕が山の様に積まれており、それを見た玄徳が長に尋ねると、
「この辺りの山々では綺麗な水が取れまして、穀物も豊富に育つのです。その為、酒造りが盛んなのでございますよ。」
と、彼は笑顔で答えるのであった。
更に、住民たちは彼らの為に夜宴を開いてくれると言う。
それを聞いた玄徳は喜びを示し、彼らに深々と礼を述べた。
その後、宿舎へ向かった玄徳は部屋に数名の部下たちを呼び集め、雲長と翼徳に向かってこう告げた。
「この邑へ来てから、“悪い兆し”がある…皆の者に、この邑の住民から贈られた品々には、決して手を付けては成らぬと伝えてくれ。」
「ああ、確かに。此処の邑人たちの様子は何処か可怪しい…」
雲長が大きく頷くのを見て、今度は部下の者たちを振り返ると、
「邑人に気付かれぬよう、邑内を探って欲しい。」
彼らにそう指示を出す。
黙って頷いた部下たちは急いで部屋を出ると、直ぐ様偵察へと向かった。
夜になり、邑を捜索していた部下たちが血相を変えて玄徳の元へ戻って来た。
「玄徳殿の勘は当たっていました…!あの酒甕を調べた所、中身は酒ではなく、白骨死体が隠されております…!」
「やはり…!」
玄徳はそう言って唸った。
彼の予想では、恐らく元々この邑に住んでいた者たちは既に盗賊たちに殺されている。
邑を占拠した盗賊らは邑人に成り済まし、此処を訪れた商人や旅人を襲っては金品を奪っているのであろう。
その死体をあの酒甕に隠したのである。
数名の部下を引き連れた玄徳は、大広場で開催される宴の準備を手伝いたいと申し出て、邑人たちと共に準備を手伝った。
そうして彼が邑人たちの気を引いている間に、それぞれ残りの仲間を引き連れた雲長と翼徳が密かに邑を抜け出したのである。
その後、玄徳も仲間たちと共に邑を脱出すると、それに気付いた村長は烈火の如く怒り、彼らを追うと共に役所へ駆け込み、彼らを盗賊団だと主張して手配書を作らせた。
手配書は直ぐに州内にばら撒かれ、彼らは再び“お尋ね者”となってしまったのである。
「やはり、あの村長や住民たちは全員始末しておくべきだったな…!」
翼徳は悔しそうに歯噛みをしたが、
「無駄な争いは避けたい。州を越えて伯圭殿の元へ行けば、何とかなるさ。」
玄徳はそう言って笑った。
あの邑を去ってから“悪い兆し”はすっかり消え失せ、この先には“良い兆し”が待っている様に感じられて仕方が無かった。
そう思うと、玄徳は一刻も早く幽州の伯圭の元へと辿り着きたかったのである。
所が、州境まであと僅かの所で、彼らは追手と遭遇してしまった。
「お前たちを此れより先へ通す訳には行かぬ!」
兵を率いたそのうら若い将は、手配書を手に彼らの進路を塞いだ。
歳は十五、六であろうが、彼は立派な白馬に跨がり手には見事な長槍を構えている。
それに対し、玄徳らの風貌は荒くれ者そのものであり、一見すれば盗賊団に見えても仕方が無い。
「俺たちは盗賊団では無い、義勇軍だ。悪いが、お前たちの相手をしている暇は無いのでな…通してもらうぞ。」
玄徳は鋭く少年を睨み付け、彼の前を構わず通り抜けようとしたが、少年は怯む所か玄徳に鋭い槍の切っ先を向ける。
それを見た翼徳は素早く馬を寄せ、旋回させた蛇矛で彼の槍を弾き返しながら怒鳴った。
「小僧…!良い度胸だ、俺が相手になってやる…!」
少年は、ふんっと鼻で笑い、一度馬を引いて翼徳に対峙すると、
「良いだろう!悪党、貴様らを成敗してくれる…!」
そう言って馬上で槍を構えた。
「翼徳…っ」
玄徳は相手にするなと言いたげに彼の肩を掴んだが、
「あんな奴、一撃で仕留めてやる…!口で言っても分からぬなら、腕で教えてやらねば成るまい?!」
翼徳は少年を睨み付けたままそう言うと、蛇矛を構えて少年に向かって行った。
彼らは開けた草原まで馬を進め、そこで一騎討ちを繰り広げたのである。
彼此れ一刻が過ぎようとしていた。
少年と翼徳の打ち合いは果てし無く続いている。
翼徳が多少手を抜いているとはいえ、少年は良く彼の攻撃に耐え、時折鋭い突きを放つ。
「あの少年、度胸があるだけでは無いな。槍の腕も相当のものではないか…!」
玄徳は暫し無言で彼らの様子を眺めていたが、やがて雲長が隣で感心しながらそう呟いた。
「………」
先程から、玄徳はある思いに捕らわれていた。
あの少年…何処かで会った事がある…
しかし、何処で出会ったのか幾ら考えても思い出せない。
そもそも、彼には会った事など無い筈なのである。
これは…
考えている内、遂に音を上げた翼徳が、埒が明かぬ、と此方へ訴え掛けて来る。
玄徳は馬を進め、彼らに馬を寄せると翼徳に武器を収めさせ、
「我々の負けだ…大人しく降伏しよう。」
そう言って少年に微笑した。
「兄者、本気なのか?!」
それを聞いた翼徳は、思わず驚きの声を上げる。
「あの邑人たちに騙され、盗賊に仕立て上げられたのも、全ては俺の不徳の致す所である…此処で捕らえられるのも、天命であろう。」
振り返った玄徳は、驚きの表情を見せる雲長と翼徳を宥める様に言うと、少年に向き直って馬を降りた。
「兄者…」
二人は悔しげに歯噛みをしたが、玄徳に従って彼らも馬を降りる。
その様子を黙して見詰めていた少年は、やがて引き連れた兵たちを振り返り、手で合図を送った。
すると、連なって道を塞いでいた兵士たちは二手に分かれ、彼らの前に道を開いたのである。
「盗賊団を捕らえて、その報酬を軍資金にしたいと考えていただけである。あなた方に恨みは無いし、どうしても此処を通りたいなら、邪魔をする積りも無い…」
少年はそう言うと、玄徳に向かって微笑を返した。
「何だよ、小僧!初めからその気なら、さっさと道を開ければ良かったではないか…!」
思わず息巻いて少年に怒鳴る翼徳を、雲長が笑って宥める。
玄徳は彼に拱手し、
「感謝する。俺は、劉玄徳と申す者だ。」
そう言って名乗ると、少年は馬を降りて玄徳の前まで歩み寄り、
「俺は、常山の趙子龍と申す。幽州の公孫伯圭様の元へ、義勇兵を率いて赴く途中である。」
爽やかにそう答え、素早く玄徳に拱手を返した。
「そうであったか…!俺たちも伯圭殿の元へ向かう所なのだ。これは奇遇だな!折角だ、一緒に行こうではないか!」
玄徳はそう言って、子龍の肩を強く叩いた。
その瞬間、彼の脳裏に激しい色が飛び込んで来た。
それは懐かしくも温かい色である。
嗚呼、この色は…
思わず玄徳は目頭が熱くなるのを感じた。
それは、幼くして亡くした妹と同じ色をしていたのだ。
妹が亡くなってから、十年以上の月日が経っており、もし妹の魂が生まれ変わっていたなら、彼と同じ年頃になっていても不思議は無い。
玄徳は、今すぐに彼を思い切り抱き締めたい衝動に駆られたが、その思いは自分の中だけに押し留めておいた。
赤い目で見詰める玄徳を、子龍はただ不思議そうに見詰め返していた。
子龍が率いているのは、元々公孫伯圭の配下であった彼の兄が集めた義勇兵であった。
所が、兄が病に倒れてしまった為、子龍が兄に代わって兵を率いて行く事になったのである。
「伯圭様から受けた恩を、俺が兄に代わってお返しせねば成りません。」
子龍の義侠心に感じ入り、やがて翼徳と雲長も彼を快く受け入れ、彼らは共に幽州を目指す事となった。
その頃、磐河まで出撃した公孫伯圭は、袁本初と一触即発の状態で睨み合っていたのである。
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