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第八章 江東の小覇王と終焉の刻
第八十九話 大橋小橋と侍女たち
しおりを挟む伯符と公瑾の二人が、再び舞い戻った幕舎へと飛び込むと、二人の侍女たちは体を寄せ合い、幕舎の隅に蹲って震えていた。
怯える二人の腕を掴んで立ち上がらせようとしたが、幼い方の侍女は足が竦んで立ち上がる事も出来ない。
「公瑾、その子を背負えるか?!」
「ああ、わかった!」
伯符の指示で公瑾が急いで少女を背負い、もう一人の侍女水蘭と共に幕舎を出た。
外へ出ると、彼らを見付けた山賊が武器を持って後を追い掛けて来る。
少女を背負った公瑾が敵に追い付かれそうになっているのを見て、伯符は剣を振り翳して敵の前に立ちはだかった。
「豎子め!そこを退かねば、斬り捨てるぞっ!」
山賊は若い伯符を侮っており、戟に似た武器を振り上げ邪魔臭げな表情で言い放つ。
剣を構えた伯符は動じず、後から後から集まって来る山賊たちを睨み付けた。
武勇に名高い父に似て、同じ年頃の少年たちの中でも武勇に抜きん出ている伯符は、かっと目を見開くと、目にも留まらぬ速さで剣を振り、山賊たちの武器を次々に切断していった。
真っ二つに断ち斬られた武器を手に山賊たちは驚き、皆慌てふためく。
その隙きを見て、伯符は再び茂みの中へ飛び込み、公瑾の後を追い掛けた。
大橋、小橋の二人を伯符が乗ってきた馬に跨がらせ、もう一頭の馬に侍女の風蘭を背負った公瑾が乗ると、物理的に馬が足り無い。
「公瑾、大橋殿と小橋殿を護って先に行け!」
そう言って伯符は振り返り、
「水蘭…と言ったな、もう暫く走るが、頑張れるな?!」
後ろに佇む少女に向かって声を掛けると、水蘭は不安げな表情で彼の顔を見上げたが、直ぐに凛とした表情を作り黙ったままだが大きく頷く。
それを見届け、伯符は彼女に向かって微笑した。
「では、此の先で落ち合おう!…伯符、死ぬなよ…っ!」
水蘭の手を引いて走り出す伯符の背に、馬上から公瑾が呼び掛ける。
伯符は振り返り、力強く頷いてから再び少女を連れて走り去って行った。
袁公路の配下たちの集団を襲い、金品を粗方奪った山賊たちは満足したのか引き揚げ始めている。
何とかして馬を手に入れたい…
伯符と水蘭は茂みの陰から、息を殺して山賊たちの様子を伺い見た。
少し離れた場所に、大橋たちを運んで来たと思われる車が停まっているのか見える。その車には一頭の大きな白馬が繋いであった。
「良し、あれを頂こう…!」
伯符は水蘭の手を引いて慎重に茂みから出ると、静かにその馬に近付き車に繋いだ縄を解く。
「おい、貴様!そこで何をしていやがる?!」
その時、運悪く山賊の一人に発見され、男が怒号を上げながら此方へ向かって来るのが見えた。
まずい…!
伯符は剣を構え、男を威嚇した。
それを見た男は小さく鼻で笑い、伯符の背後に立つ水蘭を指差しながら、
「小僧、その小娘を此方へ寄越せ!そうすれば、貴様の命だけは取らずにおいてやる…!」
そう言って二人に迫り来る。
伯符は怒りの表情で斬り掛かったが、その男の体格は彼の二回りは大きく、撃ち込んだ攻撃は悉く弾き返され伯符を圧倒する。
しかも、伯符は背後で水蘭を庇いながら戦わねばならず、自由に動き回る事が出来ない。
こいつ、強い…!
そう思った瞬間、男の剣が伯符の右腕を斬り付けた。
思わず怯んだ所へ鋭い突きが飛んで来て、既にそれを躱したが、着物の胸元を斬り裂かれてしまった。
「…伯符様、私が居ては足手纏いでしょう…貴方一人で逃げて下さい…!」
水蘭が震える声で彼の肩越しに小さく囁くと、振り返った伯符は彼女を見詰めた。
大きな瞳を潤ませた水蘭は、良く見れば眉目の整った美少女である。
僅かに辺りを照らし出す月明かりの下で、その顔は青白くも美しく輝いて見えた。
「馬鹿を言うな…!お前を置いて行ける筈があるまい!」
語気を荒らげ、少し険しい顔で言うと、伯符は再び向き直り男を睨み据える。
男の様子は、恰も猫が鼠をいたぶるかの如くであり、余裕の表情を浮かべながら二人を嘲笑っている。
「餓鬼を殺るのは、俺の趣味では無いがな…仕様がない…!」
そう言うと、男は口を歪めて不敵に笑い、素早く剣を振り翳して伯符に迫った。
次の瞬間、閃く剣刃は伯符の体を貫いたかに見えた。
が、彼は腕に創傷を負いつつも、素早く体を翻しながら剣刃を躱し、あっと言う間に男の懐へと飛び込む。
「な、何…っ?!」
青褪めた男が視線を落とすと、既に伯符の剣は目前にまで迫っていた。
男の巨体が大きく仰け反り、仰向けに地面に倒れると、激しく肩で息をしながらそれを見届けた伯符は、我に返り急いで白馬を車から外してその背に跨がる。
そして、馬上から立ち尽くす水蘭に手を伸ばした。
「さあ、早く掴まれ!」
頬を紅潮させた水蘭は少し躊躇いがちに伯符を見上げたが、白く細い腕を伸ばして彼の手を取った。
伯符は、その手を力強く掴んで馬の背に引き上げ、
「しっかりと掴まっていろよ。飛ばすぞ!」
肩越しに振り返って言うと、途端に馬に鞭を入れ一散に走り出す。
その勢いで馬から振り落とされそうになった水蘭は、思わず伯符の背に強くしがみ付いた。
追って来る山賊たちを振り払い、深い森の中を直走りに走ると、やがて視界が開けて丘の下に小さな邑里が見えて来た。
その邑の門まで近付くと、建物の軒下に公瑾たちが乗っていた馬が繋いであるのが見える。
伯符が水蘭を伴って邑の門を潜ると、向こうから公瑾が小走りに走って来た。
「伯符!無事だったか…!」
そう叫びながら走り寄る彼の背には、少女が背負われている。
「ああ、何とかな…!」
伯符は馬を降り、苦笑しながら傷付いた右腕を押さえた。
「怪我をしているのか?!」
それを見た公瑾が驚きの声を上げる。
「何、大した事は無いさ。それよりお前、何時までその子を背負っている積もりだ?」
伯符が不思議そうに彼の背を覗き込むと、背負われた風蘭は小さな寝息を立てて眠っていた。
「この邑に着いた時には、既に眠っていてな…余り気持ち良さそうに眠っているから、起こしては可哀想だと思って…」
公瑾はそう答えつつ苦笑を浮かべる。
風蘭はまだ幼いとはいえ、十歳前後である。例え体重が五十斤(約30kg)程度だとしても、それを長時間背負い続けるのは結構な労力であろう。
それでも風蘭を背負い続けている公瑾に、少し可笑しみを感じつつも、彼の優しさに微笑ましさを覚えた。
「それより、早く傷を手当てせねば!」
公瑾は顔を上げると、そう言って伯符らを急かし、大橋たちを隠している宿へと向かった。
宿で待っていた大橋と小橋は、彼女たちの侍女を連れた二人が戻って来ると、瞳を潤ませて喜んだ。
「水蘭と風蘭を、良く護って下さいました…!」
大橋は、無事に再会した水蘭を強く抱き締めながら、伯符と公瑾に感謝の言葉を述べる。
それから、伯符が怪我を負っている事を知り、直ぐに手当ての準備を始めた。
「大橋様、伯符様の手当ては私がやります。」
伯符の腕を取ろうとする大橋の手を制しながら、水蘭が前へ進み出た。
少し驚いた表情を浮かべて大橋は水蘭を見詰めたが、やがて微笑を浮かべ、
「わかりました。では、後は宜しくお願いします。」
そう言って、水蘭に委ねた。
水蘭は黙ったまま、彼の腕の傷を丁寧に水で洗い流し、傷口に綺麗な布を巻き付ける。
暗がりの中で見た彼女もとても美しかったが、燈籠の灯りの下で改めて見ると、その美しさは際立っていた。
透ける程に白い肌には一点の曇りも見受けられず、通った鼻筋の先に咲いた小さな花弁の様な唇は、艶やかで程良い膨らみを持っている。
伯符は暫し黙して、真剣な彼女のその横顔にじっと見惚れていたが、やがてふと我に返り、彼女から視線を反らして小さく咳払いをした。
「…それにしても、水蘭。お前は少し痩せすぎではないか?もっと良く食べて、大きく成らねば…」
「?」
彼の突然の指摘に、水蘭は少し戸惑い不思議そうに首を傾げる。
「一緒に馬に乗っていた時、俺の背に抱き着いていたろう?ちっとも女の子が抱き着いているという感覚がしなかったのでな…!」
伯符がそう言って白い歯を見せて笑うと、途端に水蘭は赤面し、自分の胸元を腕で押さえて伯符を睨んだ。
「何て無礼な男なの?!信じられない!」
水蘭は目元を赤くして彼を罵倒すると、忽ち不機嫌になり、腕に巻き付けた布をきつく縛り終えると、さっさと立ち上がって彼の側から離れて行く。
「あ、ちょっ…じ、冗談だ、冗談!」
慌てて彼女の後ろ姿に向かって弁解したが、水蘭は振り向かず、簾を開いて風蘭が眠っている部屋へと姿を消してしまった。
「伯符、余計な一言だったな。女の子を怒らせるとは…」
呆然として水蘭の消えた先を見詰めている伯符に近寄ると、公瑾は苦笑しながら小さく首を振り、慰める様に彼の肩を軽く叩いた。
翌朝になっても水蘭の機嫌は悪いままで、伯符とは目も合わせてくれなかった。
それには流石に滅入ってしまい、伯符は項垂れて公瑾の方を振り返って見れば、彼は風蘭と楽しそうに唄いながら、手遊びに耽っている。
全員で食事を済ませた後、彼らは大橋たちの為に車を用意し、それに彼女たちを乗せて行く事にした。
「公瑾様、私は公瑾様と一緒がいい!」
所が、風蘭が公瑾の腰にしがみ付き、そう言って駄々を捏ね始める。
「風蘭ったら、すっかり公瑾様に懐いてしまって!駄目よ、大橋様たちと一緒に居なきゃ…」
水蘭は少し呆れた様子で風蘭を公瑾から引き離そうとするが、彼女は余計に意地を張って強くしがみ付く。
「水蘭殿、俺は構いませんよ。風蘭殿は、一緒に馬に乗りたいのでしょう。」
公瑾は風蘭の頭を優しく撫でながら微笑むと、彼女の手を引いて自分の馬の背に乗せた。
水蘭はその様子を、少し心配そうな眼差しで見詰めている。
「心配する事は無い。あいつは、ああ見えても頼り甲斐の有る男だよ。」
伯符は水蘭の横顔に向かって、笑いながら声を掛けた。
「風蘭は…あの子は以前、山賊に攫われた事があって…無事に助け出されたけど、きっと怖い思いをしたのでしょう、男の人をとても怖がる様になったの…」
「それで…あの時、あれ程怯えていたのか…」
伯符は、昨夜二人を幕舎で発見した時の事を思い出した。
「でも、公瑾様の事は平気みたい。」
微笑を浮かべ、水蘭が安堵の溜め息を吐くと、
「ああ、あいつはああ見えて、幼女趣味だからな!」
そう言って、伯符が声を上げて笑う。
振り返った水蘭は、冷めた目付きで彼を睨み付け、
「あなたって、本当に最低な男だわ…!」
そう言って不機嫌な表情に戻ると、ふんっと顔を背けて車に乗り込んで行った。
美しい紅色の花弁が、ひらひらと蝶の様に風に舞い、公瑾の馬の背で揺られている風蘭の柔らかい髪に留まる。
公瑾は微笑し、指先でそっとそれを取って風蘭の小さな手に握らせた。
大橋たちを乗せた車を護衛しながら進む彼らは、何時しか美しい花の咲き誇る街道に入っていた。
辺りからは、柔らかく甘い花の香が漂って来る。
艷やかな長い黒髪を風に靡かせながら、車の簾を開いて顔を覗かせた水蘭は、舞い落ちる花弁の一片を掴み取ろうと手を伸ばした。
煽られた着物の袖口から、彼女の白く細い腕が覗く。
水蘭が花弁の一片を掴み取った時、その様子を少し眩しげに目を細めて眺めている伯符と目が合い、水蘭は思わず頬を紅潮させたが、直ぐに、ぷいと顔を背けて車に引っ込んだ。
「水蘭のやつ…まだ怒ってるのか…」
伯符は馬上で小さく溜め息を漏らす。
隣を見ると、公瑾と風蘭が同じ様に馬上で揺られながら、花吹雪の中を愉しげに燥いでいる姿が目に入る。
それを横目に見ながら、伯符は何だか面白くない気分に浸っていた。
「随分と楽しそうだな、お前たち。公瑾、お前一層の事、その娘を嫁に貰えば良いのではないか?」
「ふふ…伯符、水蘭殿に嫌われて随分と凹んでいる様だな。」
公瑾は伯符の嫌味をさらりと躱し、彼に微笑を向ける。
「別に…あいつに嫌われたからと言って、どうと言う事は無い!ただ、彼女は大橋の侍女だから、少しは気に入られた方が良いかと思っただけで…」
「そうか。だが二人共、とても可愛い娘たちではないか。」
風蘭の頭を優しく撫で下ろす公瑾を、伯符は半目になって見ている。
「ああ、お前は幼女趣味だから、良いだろうよ!」
「伯符、人を“変態”呼ばわりしないでくれないか…!」
思わず公瑾が赤面して声を荒げると、
「公瑾様、“へんたい”って何ぁに?」
風蘭が不思議そうに首を傾げ、彼を見上げて問い掛けた。
返答に窮し、困った顔で頭を搔く公瑾の姿を見て、伯符は思わず吹き出す。
そんな彼らの様子を簾の間から覗き見て、水蘭は小さな溜め息を吐いていた。
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