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第七章 魔王の暴政と小さき恋の華
第八十七話 雲月と奉先《七章 最終話》
しおりを挟む厳氏の家は名馬の生産を生業とし、軍や豪族に馬を売って生計を立てていた。
その為、屋敷にある厩舎は立派な佇まいで、そこには数十頭もの馬が飼育されている。主は、その一画にある広い馬房を、飛焔を休ませる為に貸し与えてくれた。
「これが世に名高い名馬、“赤兎馬”ですか。実に見事な馬だ!実物を見たのは初めての事です…!」
馬房の中の飛焔を見上げ、主は少し興奮気味に感嘆の声を上げる。
奉先は馬房に入り、主に笑顔を向けると、
「主殿、世話になりました。」
そう言って、飛焔の頭を撫でながら彼の背に鞍を乗せ手綱を引いた。
「奉先殿、もう戻られるのですか?!」
主は驚いた顔で彼を見ると、少し戸惑いながら問い掛ける。
「…娘が、何か気に障る事をしたのでしょうか?」
「いえ、そういう訳では…」
奉先は首を横に振って苦笑し、
「雲月殿は、気高く立派な女性だ。彼女の夫となるのは、彼女に相応しい男でなければ…」
飛焔の首筋を撫でながら、少し遠い目をすると小さく呟いた。
彼らが馬房を出ようとした時、隣の馬房にいた馬が嘶き、飛焔の脚が止まる。
振り返った奉先は小首を傾げて飛焔を見上げた。
「飛焔?どうした?」
隣の馬房を見ると、そこには艷やかな漆黒の鬣を揺らす美しい青鹿毛が佇んでいる。
飛焔はそちらへ首を伸ばし、鼻面を寄せるとその青鹿毛の鬣を優しく喰んだ。
「飛焔殿はお目が高いですよ。その子は、雲月の一番のお気に入りで、“黒珠”と言う名の牝馬です。」
主は感心した様にそう言うと、目を細めて笑った。
「飛焔、この子の事が気に入ったのか…?」
奉先は少し苦笑を浮かべ、離れたがらない飛焔と黒珠の頭を優しく撫でた後、飛焔の轡を取った。
「だが、もう行かねば成らぬ。可哀想だが、お前たちの恋は実らぬ様だ…済まないな…」
飛焔にそう言い聞かせながら厩舎を出ると、背後から黒珠の悲しげな嘶きが聴こえて来る。
飛焔は幾度となく振り返ったが、奉先がその背に跨ると、彼はそれを振り切る様に颯爽と走り出した。
邑里の門までやって来ると、数名の少女たちが門前に佇んでいる姿が目に入る。
彼女たちは、彼が旅立つ事を聞き付け集まって来たのであろう。皆あの盗賊の砦に囚われていた少女たちであった。
「お兄さん、もう帰ってしまうの?」
「ああ、元気でな。」
飛焔の側まで走り寄った林杏を見下ろし、奉先が馬上から笑顔を投げ掛けると、林杏は残念そうに落胆の溜め息を漏らしたが、やがて腕に抱えていた布の包をそっと開き、それを奉先に差し出した。
「みんなで集めて来たの。持って行って。」
包の中には、沢山の木の実や乾飯が入っている。
それを見た奉先は苦笑し、小さく首を振った。
「大切な食糧であろう…?こんなに沢山、貰う訳には行かぬ。」
「助けて貰ったお礼だから、気にしないで。」
頬を紅潮させた林杏は、満面の笑みを浮かべて包を差し出す。
「そうか、有り難う。では、遠慮なく頂いておこう。」
奉先がそう言って微笑し、彼女の手から布の包を受け取ると、林杏は嬉しそうに体を弾ませ彼に微笑み返した。
そして、門を潜って出て行く馬上の奉先に向かって、林杏は大きく手を振り呼び掛ける。
「お兄さん、きっと雲月姐さんは、お兄さんの事を好きになってくれると思うわ…!」
門の下に立って、何時までも手を振る林杏を目を細めて眺めながら、奉先は片手を上げて彼女に手を振り返した。
雲月に案内されて通って来た道を暫し引き返し、林道の入口まで来た頃には、日がだいぶ傾き掛けていた。
少し肌寒い風が辺りの草木を揺らし、林道の奥は陽の光が遮られて薄暗く、その奥は闇に包まれている。
奉先はそちらを見ると、少し小さな溜め息を吐きながら飛焔の脚を進めようとした。
「また、虎に襲われないか心配か?」
「?!」
突然、何処からともなく呼び掛ける声に辺りを見回せば、林の脇道から馬上の黒い人影が現れる。
それは、すっかり男装に身を包み、愛馬“黒珠”に跨る雲月であった。
「雲月殿…!いつの間に…?!」
「ふふ、あんた一人では、また虎に襲われて無事に長安まで辿り着かぬかも知れぬから、やっぱり付いて行ってやろうと思ってね…」
驚きの表情で見詰める奉先に、雲月は小さく笑って馬を寄せ、飛焔に首を並べた黒珠は、彼の逞しい首筋に凭れ掛かる様にして擦り寄り、愛情を表現する。
「それに…この子たちの仲を割いては、可哀想であろう?」
雲月は黒珠と飛焔の頭を交互に撫でながら奉先に目配せをし、そう言って再び彼に柔らかく微笑んだ。
「そうだな。有り難う、雲月殿。」
それに少し照れ笑いで応えた奉先は、飛焔の首筋を軽く叩き、雲月を乗せた黒珠と共に、薄暗い林の中を風に乗って颯爽と駆け抜けて行った。
奉先が長安を去ってから十日が過ぎようとしていた。
その間、長安では特に目立った動きは無く、平穏な毎日が続いていたが、その頃“反董卓連合”に参加した関東方面の諸侯らは、次第に「袁紹派」と「袁術派」に分かれ、互いに争い合う様になっていた。
袁公路が、配下の孫文台を豫州刺史に任命すると、袁本初が新たに別の者を任命し派遣した為、文台との争いが勃発。
援軍として公路より派遣された公孫瓚、伯圭の従弟である公孫越が戦死すると言う事態が起こり、本初は密かに公路と同盟を結んでいた伯圭の怨みを買った。
それを火種に、伯圭は本初に対して更に強い敵意を剥き出しにする様になる。
本初と公路の不和が決定的なものとなり、そこに目を付けた董仲穎は、本初の背後に位置する幽州の劉伯安や、公孫伯圭らに官位や爵位を与え、本初を牽制し、圧力をかけようと目論んだ。
また、先の「長安遷都」に反対していた朱儁、公偉が、中牟で挙兵し、皇帝の奪還を狙っているとの情報が伝わると、仲穎は早速、娘婿の牛輔に部下として、李傕、郭汜、張済らを付け、その撃退へと向かわせたのである。
今まさに、群雄たちが割拠し、血で血を洗う戦乱の時代が到来しようとしていた。
長安へ無事に帰還した奉先は、その足で王子師の屋敷へと向かった。
「貂蝉、俊。奉先殿が戻って来られたぞ。」
子師は貂蝉と俊の居室を訪れ、二人に笑顔を向けてそう告げると、二人は急いで広間へと駆け付け、そこで待っていた奉先と対面した。
貂蝉は、子師との約束通り彼に満面の笑みを見せると、
「奉先、お帰りなさい!あなたが居なくて、ずっと寂しかったの!」
そう言って彼に駆け寄り、その腕に飛び込んだ。
内心、顔も見せてくれぬのではないかと心配していた奉先は、彼女の細い小さな肩を抱き締め安堵の溜め息を吐いた。
「へえ、あんたが貂蝉かい?」
見知らぬ声に、はっとして貂蝉が顔を上げると、奉先の後ろから美しい青年が現れる。
「ふふ、話しは聞いていたが、思っていたよりずっと美人だね。」
その青年は、彼女の細い顎に指を伸ばし、仔猫の喉を鳴らす様にそっと撫でた。
「あなた、誰?!」
赤面した貂蝉は、思わず顎を引っ込める。
奉先は笑って、二人にその人物を紹介した。
「俊、貂蝉、この方が、俺の妻となる雲月殿だ。」
「奉先、男の人と結婚するの?!」
貂蝉が驚きの声を上げると、奉先は苦笑し、俊と貂蝉の肩を引き寄せて二人の耳に囁く。
「はははっ、雲月殿は歴とした女性だよ。」
それを聞いた俊と貂蝉は目を白黒させながら、彼らの前に微笑を浮かべて立つ、男装の雲月を見上げた。
それから奉先は、旅の汚れを綺麗に落とし、すっかり美しい女性の姿に戻った雲月を連れ、仲穎の屋敷を訪問した。
広間に姿を見せた仲穎は、笑顔で彼らを出迎えると、
「ほう、そなたが厳氏の娘か。噂に依ると、“男勝りな醜女”だと聞いていたが、これ程美しいとは…羨ましいな、奉先!」
そう言って目を細め、雲月を眺めながら自分の膝を叩いて笑う。
「わしが、そなたらの仲人となろう。直ぐに式を挙げ、夫婦となるが良い。」
仲穎は早速、祝儀や貢物を寄せ集めると、多くの客を呼び寄せ、二人の為に会場を設けて盛大に『婚礼の儀』を執り行う事にした。
良く晴れ渡った吉日、二人の婚礼の儀は蒼天の元で華やかに開催された。
普段は全く化粧などしない雲月が、この日だけは豪華に着飾り、目を瞠るほどに美しかった。
壇上で雲月を迎えた奉先は彼女の手を取り、顔を覆い隠す薄い絹(ベール)越しに見える彼女の美しい顔に見惚れた。
俯いていた雲月が少し視線を上げて、見詰める彼の顔を見ると、今までに見せた事が無い様な表情で恥じらい、頬を紅く染める。
「今日から、そなたたち二人を正式に夫婦と認める。互いに手を取り合って、仲睦まじく暮らすが良い。」
仲穎が上機嫌で二人にそう告げると、奉先と雲月は祭壇の前に跪き拝礼した。
式が終わり屋敷へ戻ると、雲月は直ぐに窮屈な衣装を脱ぎ捨て、いつもの粗衣に着替えて身体を反らすと、大きく背伸びをした。
「ああ、全く…女って言うのは、何かと窮屈だな。」
そう言って大きな溜め息を吐きながら、自分の肩をとんとんと叩く。
「随分疲れたみたいね、おばさん。」
その様子を横目に見ながら、一緒に式に参列した貂蝉が不躾に声を掛けた。
「“おばさん”とは、随分失礼じゃないか“小娘”!」
貂蝉を振り返り、雲月も負けじと言い返す。
白地に不機嫌な表情を浮かべた貂蝉だが、やがて、ふんっと小さく鼻で笑い、
「奉先には、他に好きな女がいるの。でも、その女は他の人と結婚してしまったから、仕方無くおばさんと結婚する事にしたのよ!」
そう言って、雲月に哀れむ様な眼差しを向ける。
「………」
「だから奉先は、絶対におばさんの事なんて好きにならないから、期待しない方がいいわ。」
黙って見詰め返す雲月に、貂蝉は勝ち誇る様に言い捨て、部屋を出て行こうした。
「別に…あたしだって、あいつの事が好きで一緒になった訳じゃ無いから構わないよ。他に相手が居なかっただけ…あんた、本当にあいつの事が好きなんだね。あいつの、何処がそんなに良いんだか…?」
雲月が平然とした態度でそう答えると、立ち止まった貂蝉は振り返って雲月を睨み付けた。
「でも、あいつの妻はあたしだ。あんたは、ただの“侍女”に過ぎないだろう?」
今度は、雲月が勝ち誇った態度を見せる。
「あたしは、侍女なんかじゃ無いわ!」
貂蝉は苛立った様子で雲月に詰め寄る。
「じゃあ何だい?あいつの飼い猫か?!」
「違うわ!おばさんなんて、奉先の慰み者になるだけじゃない!」
「ああそう?!じゃあ、あいつの“妾”にでもなってみな!あんたみたいな小娘じゃ、相手にもならないけどね!」
「………っ!」
貂蝉は顔を真っ赤にしながら頬を膨らませ、瞳を潤ませて雲月を睨み付ける。
二人は暫し互いに睨み合った。
「二人共、何を騒いでいるのだ?!」
そこへ奉先が現れ、驚いて二人に問い掛けた。
彼女たちの言い争いを聞いた俊が、慌てて奉先を呼びに行き、彼を連れて部屋へ戻って来たのである。
「あんたには関係無いよ!引っ込んでな!」
「奉先は黙ってて!これは、あたしとおばさんの問題なの!」
同時に振り返った雲月と貂蝉に怒鳴られ、奉先は思わずたじろいだ。
俊は心配げな表情で奉先を見上げる。
「わ、分かったから…二人共、喧嘩は良くない…!」
苦笑を浮かべた奉先は、戸惑いつつ二人を宥めた。
「……!ふんっ!」
やがて二人は、不満の表情のまま互いにそっぽを向き合った。
二人の女が同じ屋根の下で暮らすとなれば、こうなる事は明らかであった。
しかし、それは何も彼らに限った事では無く、この時代、男は何人もの妻や妾を持つことが許されており、それは日常茶飯事で、極普通の事と認識されていた。
「貂蝉は家族を無くし、頼る者は他には居らぬ。余り、彼女を刺激しないでやってくれないか?」
夜、雲月の居室を訪れた奉先は、寝処で長い髪を梳かしている彼女を見詰めながら、やんわりと諭したが、振り返った雲月は険しい表情を見せる。
「全く…あんたのその煮え切らない態度が、あの娘を苦しめているんだよ。はっきりと言ってやれば良いんだ、『お前は、俺の妻にはなれない』とね…」
やがて雲月は大きく溜め息を吐き、困った様に苦笑する奉先を見上げた。
「まあ…あんたは、そんな事が言えない性分だって、あの娘もよく分かっているんだろうけど…」
そう言って呟くと、立ち上がって彼の腕を取る。
「分かった…あの娘の事は、妹だと思って接する様に心掛けるよ。」
「有り難う、雲月殿。」
安堵した奉先が、そう言って微笑み掛けると、雲月は少し不満げな表情で彼を見詰める。
「あたしは、あんたの妻になったんだ。そんな呼び方は止めてくれないか?」
「ああ、そうだな…悪かった、雲月。」
「それで…?いつまで待たせる積り?」
「…え?」
奉先が不思議そうに首を傾げると、雲月は艶のある眼差しで上目遣いに彼を見上げる。
「今夜は、初夜だろう?もう準備は出来たの?」
「え、ああ…そうか、そうであったな…!」
思わず視線を泳がせ、焦る彼を見て、雲月は口元に手を当てると、くすくすと笑った。
そして、雲月は彼の手を引いて牀へと誘う。
少し躊躇う奉先を牀へ座らせると、微笑を浮かべた雲月は、彼の着物を脱がせながらその首に両腕を回し、彼の膝の上にそっと乗った。
雲月の甘い吐息が奉先の耳に掛かると、奉先は思わず彼女の細い腰に当てた手に力を込めて、彼女の体を抱き寄せる。
艶のある唇を奉先の唇に寄せ、雲月は静かに瞼を閉じると、彼にそっと接吻をした。
夜空には美しく青白い月が、手を伸ばせば届きそうな程、鮮明に輝いている。
その光を瞳に映し、貂蝉はまだ少し冷たい風に髪を靡かせながら、欄干に肘を突いて夜空を見上げていた。
「貂蝉様、寒いでしょう。中へ、入っては…?」
俊が心配そうな声で、彼女の後ろ姿に呼び掛ける。
「平気よ、もう少し見ていたいの…」
貂蝉は振り向かず、月を見詰めたまま呟く様に答えた。
「あたしね…奉先と初めて出会った時から、運命を感じていたの。始めは、恋なんかじゃ無いと思っていたわ…でも、今ははっきりと分かるの。彼はあたしの運命の人だって…」
独り言の様に語る貂蝉の言葉を、俊は彼女の背後に立ったまま、黙って聞いている。
やがて、悲しげな瞳で見詰める俊を振り返った貂蝉は、彼に向かって輝く笑顔を見せた。
「奉先が誰を好きでも構わない。あたしは…どんな事があっても、彼を愛し続けると誓うわ…!」
「貂蝉様…」
小さく呟く俊は、少し痛ましい目付きで彼女を見ていたが、やがて彼女に大きく頷き、微笑みを取り戻した。
ー《第七章 完》ー
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