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第七章 魔王の暴政と小さき恋の華
第八十六話 盗賊の王“烈凰”
しおりを挟む山頂付近に聳える巨大な砦の影を閃く雷光が照らし出せば、雷鳴の轟きが唸りを上げ地響きを立てる。
激しさを増す雨の中、砦の頭である烈凰は流れる雨の滴と共に、額から滝のような汗をかいていた。
「わ、わしの…斧に、亀裂が…っ!!」
烈凰は信じられないといった表情で声を震わせる。
彼の自慢の鉄斧は、方天戟の激しい攻撃を受けて僅かに刃毀れし、そこから小さな亀裂が生じてしまった。
握り締めた斧を暫し凝視していたが、烈凰はやがて顔を真っ赤にして、目の前に立つ奉先を睨み付けた。
雨の滴を受けながら美しい音色を奏でている方天戟には、傷一つ付いてはおらず見事な輝きを放っている。
奉先はそれを両手に構え、烈凰を睨み返した。
「おのれ小僧…っ、よくもわしの武器に傷を…!」
烈凰は息巻きながら、再び五十斤もの鉄斧を振り上げ、猛牛の如く突進する。
奉先は素早く戟を旋回させ、唸りを上げて襲い来る鉄斧を躱しながら、戟の柄で強烈に叩き落とす。
戟に弾かれた斧は勢い良く土砂の中へ突き刺さり、深く地面にめり込んだ。
「くそ…っ!」
烈凰は額に青筋を立て、渾身の力で斧を抜き取る。
一度後方へ退がった奉先は、さり気なく左腕の裾口から流れた血を拭い取ったが、烈凰は彼のその動作を見逃さなかった。
「烈凰、もう諦めてはどうだ?勝負は着いているだろう!あんたは、その男には勝てない!」
それまで二人の戦いを黙って見守っていた雲月が、抜き取った斧を再び構える烈凰に向かって言うと、彼は口の端を歪めてにやりと笑い、
「ふん…っ、そいつはどうだろうなぁ!」
太々しくそう言い放ちながら斧を振り回し、今度は奉先の左肩を狙って攻撃を仕掛けた。
奉先は、素早く身を翻しては襲い来る鉄斧の刃を躱し、方天戟でその攻撃を跳ね返していたが、彼の動きは明らかに左肩を庇っている。
斧と戟が組み合ったと同時に、空を切り裂く稲妻が二人の頭上を走った。次の瞬間、烈凰は強烈な体当たりを彼の左肩に食らわせる。
「くっ……っ!!」
奉先は思わず顔を歪め、目前に迫った斧の刃を既に躱したが、刃は彼の頬を掠め、切れた傷口から血が飛び散った。
体勢を崩し蹌踉めいた所へ、更に烈凰の蹴りが飛んで来る。
咄嗟に両腕で防いだが、奉先の体は土砂の中へ激しく叩き付けられ、そのまま勢い良く後方へと転がった。
「雲月姐さん…っ」
「………!」
雲月の隣で、その様子を見ていた林杏が不安な面持ちで彼女の顔を見上げた。
唇を噛み締めた雲月は黙したまま、じっと彼らの姿を見詰めているだけである。
「どうした小僧、くたばるのはまだ早いぞ…っ!」
降り頻る雨に打たれ、奉先が呻きながら体を起こすと、走り寄った烈凰が鉄斧を回転させ、彼の頭上へと振り下ろす。
斧は土砂の上で身を躱した奉先の外套を斬り裂きながら、深く地面を抉った。
奉先は地面の上を転がりながら斧の攻撃を避け、上体を起こして素早く方天戟で斧の斬撃を撥ね返そうとしたが、巨漢の烈凰の腕から放たれた渾身の一撃に方天戟は弾かれ、再び強烈な蹴りを食らって土砂の中へ倒れ込んだ。
それを見た仲間の盗賊たちが、一斉に歓喜の声を上げる。
烈凰は鉄斧を肩に担ぎ、振り返って手を上げ仲間の声援に応えると、今度は首を回して雲月に視線を送り、口の両端を上げてニヤリと笑った。
「………」
雲月は表情を変える事無く、烈凰を睨み付けている。
「はぁ、はぁ…っ」
奉先は喘ぎつつ体を起こし、傷口が開いて流血する左肩を押さえながら血の気の失せた顔で烈凰を見上げたが、閃く雷光の中に立つ烈凰の姿はぼやけ、雨の向こうに霞んで見えた。
「確か、“呂奉先”と言ったな…『董卓軍随一の猛将』と噂の“呂布”ってのが、貴様か?ふんっ!董卓軍も大した事無ぇな!貴様を斃して、わしが天下を取ってやる!」
烈凰は不敵に笑い、片腕で奉先の胸倉を掴み取ると、強引に引っ張って立ち上がらせ、今度は彼の胸に強烈な膝蹴りを食らわした。
激しく胸板を突き上げられた奉先の体は、仰向けに後方へ回転しながら木偶の如く宙を舞い、再び地面に叩き付けられ土砂の上を転がって行く。
主が窮地に追い込まれている事を悟った飛焔が激しく嘶き、強く蹄で地面を踏み鳴らした。
「……!」
「ああ…っ!」
林杏は思わず震える手で顔を覆ったが、隣に佇む雲月は険しい表情のままそれを見詰めている。
「はぁっ…はぁ…っ、ぐっ…かはっ!」
肩で激しく息をしながら胸を強く手で押さえ、体を起こした奉先は苦しげに口から血反吐を吐き出した。
「どうだっ!これでもう勝負は着いたな、わしの勝ちだ!約束は守って貰うぞ雲月、お前は今日からわしの物だ!」
烈凰は雲月に向かってそう言うと、鉄斧を振り回して漆黒の空へ高笑いを放つ。
取り巻く仲間の盗賊たちも皆、手にした武器を打ち鳴らして歓喜の雄叫びを上げた。
その喧騒の中、流血する左肩を押さえ俯く奉先は、土砂の上に跪いたまま大きく肩を上下させている。
彼の手を離れた方天戟は、足元で雨に打たれながら土砂の中へ横たわり、怪しい輝きを放っているが、彼の左腕には最早それを振る力は残っていない。
雲月は目を細め、彼の姿を痛ましげ見詰めたていたが、やがて噛み締めた唇を動かし、小さく呟いた。
「奉先…立って、立つのよ…っ!」
流れ落ちる雨の滴が、奉先の青白い頬を伝い落ちる。
重い瞼をゆっくりと上げ、閃く雷光が虚ろな瞳の奥に宿る僅かな光を照らし出すと、生気を取り戻した奉先は、雨の向こうに霞んで見える烈凰の姿を鋭く睨み付けた。
此処で、負ける訳には行かぬ…!
背後からの強い殺気を感じ取り徐ろに振り返った烈凰の目に、流血する肩を押さえながら立ち上がる奉先の姿が映った。
「小僧、まだ足り無い様だな!そんな体では、武器もまともに握れぬぞ…!」
烈凰は煩わしげに言い捨てながら斧を大きく旋回させると、再びそれを両手に構える。
「………!」
雨の中に佇んだまま黙って彼を睨み付ける奉先の姿には、何処か不気味な瘴気の様なものが漂っている。
「…ちっ!良いだろう!ぶった斬ってやる、覚悟しろ!」
それを見据え、大きく舌打ちをした烈凰は、斧を頭上で回転させながら奉先に向かって行った。
僅かに視線を足元に落とすと、土砂の中に横たわる方天戟が、怪しい光を湛えて黒光りしているのが見える。
「死ね!!」
再び視線を上げた時、鉄斧を振り上げた烈凰が目前にまで迫っていた。
次の瞬間、奉先は土砂の中から勢い良く方天戟を足で蹴り上げ、その場で素早く体を回転させた。
それは一瞬の出来事で、何が起こったのか瞬時には誰も理解出来なかった。
彼らを取り巻く者たちは皆息を殺し、辺りは一瞬で静寂に包まれた。
「な…っ、何…!?」
烈凰は目を血走らせ、斧を振り上げたままその場に固まっている。
方天戟は、まるで一筋の閃光となり、雨粒を切り裂きながら真っ直ぐに宙を飛んだのである。
「き、貴様…っ、よくも…!!」
喉の奥から絞り出す様な声で唸ると、烈凰は口から大量の血を吐き出し、その場へ崩れ落ちた。
奉先は方天戟を蹴り上げた瞬間、素早く体を回転させると、頑丈な牛の皮で作られた靴で方天戟を勢い良く蹴り飛ばしたのである。
漆黒の矢となって飛んだ方天戟は、烈凰の分厚い胸板を貫き、鋭い剣先は真っ赤な鮮血を纏って彼の背中から突き出していた。
烈凰の巨体が大きな水飛沫を上げて仰向けに倒れると、 誰もが声を失った。
「か、頭が…っ、頭が殺られた…!おのれ…!」
やがて手下の一人が声を上擦らせ、怒りを露わに武器を振り翳して前へ進み出ようとした。
すると、突然何者かが背後からその手下に襲い掛かかり、一瞬にして彼を斬り伏せてしまった。
それを皮切りに、盗賊たちが途端に同士討ちを始める。
砦へ連れて来られたのは娘たちだけでは無く、兵士の半数近くは盗賊らに襲われた邑々から徴収され、食うに困って盗賊に成り下がった者たちばかりであった。
彼らの中には烈凰に恨みを持つ者も多く、今が好機と彼らは盗賊の手下たちを悉く斃し、門を開いて我先にと外へ逃げ始める。
砦は既に阿鼻叫喚の坩堝と化していた。
烈凰の胸に深く突き刺さった方天戟を右手で掴んで抜き取り、奉先が背後を振り返ると、そこに雲月が佇んでいる。
雲月は静かに彼に歩み寄ると、彼の顔に付いた血を破いた布で拭き取り、肩の傷口を布で強く縛った。
「この砦はもう終わりだ。早く此処を去ろう!」
僅かに微笑を浮かべた雲月の言葉に奉先は強く頷き、二人は囚われた娘たちと共に盗賊の砦を後にした。
一刻ほど降り続いた雨は次第に弱まり、雷鳴はやがて遠ざかって行く。
空を覆い尽くしていた暗雲の切れ目から、陽の光が地上へと降り注ぎ始めると、辺りは少しずつ明るさを取り戻した。
砦を去ってから一日半、漸く雲月の住む邑へと辿り着き、攫われた娘たちを連れた彼らが邑門の前へ現れると、門番たちは皆、驚きの表情で彼らを迎えた。
「雲月殿が、攫われた娘たちを連れて帰って来たぞ…!」
それを知った邑人たちが、次々に邑門へと集まって来る。
「林杏…!」
「母様!!」
林杏は走り出し、出迎えにやって来た母の胸に飛び込んだ。
「嗚呼…!良く無事で帰って来てくれたね、林杏!」
母は彼女の体を強く抱き締めて噎び泣く。
林杏も泪を流して母の胸に抱き着いた。
「雲月姐さんが助けに来てくれたの!それに、あのお兄さんも一緒に。」
林杏は振り返って、二人を指差す。
「よくあの、“烈凰の砦”から生きて帰って来たな!」
「たった二人で、あの砦を落としたのか?!」
邑人たちは皆、信じられないと言う顔で、口々に感嘆の声を上げた。
雲月が屋敷へ戻ると、数日間も黙って姿を消していた娘を前に、父の厳氏は青褪めて彼女を叱り付けた。
「一人で盗賊の砦へ行くとは…!全くお前は、何を考えておるのだ!お前に何かあったら…っ」
「父上、娘たちも無事に戻って来たのです。過ぎた事は、もう良いでは有りませんか。」
雲月は父の言葉を遮り、涼し気に答える。
「それに、砦へ行ったのはあたし一人ではありません。彼が、一緒に付いて来てくれました。」
微笑を浮かべ雲月が振り返ると、部屋の入口に一人の青年が佇んでいた。
厳氏は眉を顰め、
「あの方は…?」
と訝しげに問い掛ける。
すると彼は前へ進み出て、主に向かって丁寧に拱手し、
「申し遅れました。俺は、呂奉先と申します。」
と、爽やかに名乗った。
雲月は奉先を自分の居室へ招き入れると、早速彼を牀の上へ座らせる。
「さあ、着物を脱いで。」
「え…っ」
戸惑って見上げる奉先に少し苛立ちを見せ、雲月は手を伸ばして、自ら彼の着物を脱がせ始めた。
「傷を手当てするのよ!早く脱ぎなさい!」
そう言って、彼の肩の傷口に巻かれた血濡れた布を、少し乱暴に剥がし取る。
「痛た…っ!」
思わず顔を顰めると、
「男がこの程度で、だらしが無い!」
雲月がそう言って彼を睨み付けた。
肩の傷口は少しは癒えていたものの、思わず目を背けたくなる痛々しさであったが、雲月は構わず黙々と手当てを施す。
男勝りで精悍な顔付きをした雲月だが、横顔には何処か柔らかさと温もりを感じる。
奉先は彼女のその横顔を、ただ黙って見詰めていた。
「雲月殿…俺が、もしあの砦へ行かぬと言ったら、あなたは一人で行く積りだったのか?」
やがて奉先がそう問い掛けると、雲月は視線を逸らさず小さく笑い、
「…虎に襲われた時点で、あんたは怖気付いて、引き返すと思っていたよ…」
と答え、目を上げて奉先を見詰めた。
彼女の黒い瞳は室内の小さな明かりを集め、宝石の様に美しく輝いている。
「ふっ…、そうか。」
奉先は沈黙を破る様に小さく笑い、頬を紅くして俯いた。
「…さあ、これで大丈夫。さっさと荷物を纏めて、帰る支度をすると良い。」
そう言って、雲月は手当ての済んだ彼の肩を強く叩いた。
思わず呻いて奉先は雲月を見上げたが、「どうかしたか?」といった表情で見下ろす彼女に、奉先は呆れて苦笑を返す。
そして部屋を出て行こうとする雲月を、奉先は呼び止めた。
「雲月殿…!俺の、妻となってくれるか?」
振り返った雲月は、少し驚きの表情で彼を見詰め返す。
「あんた…まだ本気で、あたしを妻にしたいと思っているのか?」
「ああ、その為に此処まで来た。」
「全く…馬鹿な男だね。あたしなんか嫁に貰って、どうする積り?」
雲月は呆れて問い質す。
「…それは…」
思わず言葉に詰まったが、
「俺の妻になるのは、貴女の他に居ないと思うから…」
奉先は目元に微笑を浮かべ、頬を高潮させたまま、真っ直ぐに彼女の瞳を見詰めてそう言った。
「………」
雲月は押し黙り、暫し彼の瞳を見詰め返していたが、やがて小さく笑うと、
「いいから、早く帰る支度を整えな…!」
そう言って、足早に部屋を出て行った。
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