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第七章 魔王の暴政と小さき恋の華
第八十三話 太師就任の儀
しおりを挟む麗らかな春の日差しが降り注ぎ、柔らかな花の香が邑内を漂う穏やかな日、長安の宮殿にある大広場に文武百官が集められ、董仲穎の『太師』就任の儀式が盛大に執り行われた。
『太師』とは「天子」の師と言う意味で、古代の三公の中で最も高い位である。
後漢には『太師』は置かれなかったが、仲穎は自らを「皇帝の父親同然である」と公言しており、この度『太師』を復活させ、自らその地位に就く事を表明した。
この盛大な儀式に於いて、ある出来事が起こった。
それは、壇上に上がる仲穎に向かって皆が頭を下げて礼をする中で、一人だけ下げぬ者がある。
仲穎はその人物の前で立ち止まると、振り返ってその者を睨んだ。
それは、御史中丞の皇甫嵩、義真であった。
実は、まだ仲穎が雒陽にいた頃、義真を“城門校尉”に任命したいと呼び寄せ殺害を企てた事がある。
義真は黄巾討伐の最大の功労者であり、唯一仲穎に対抗し得る力と、名望を持つ人物であった。
従って、この目の上の瘤とも言える義真を仲穎は排除しようと考えており、雒陽へ帰朝して来た義真を早速投獄し処刑しようとした。
しかし、仲穎と親しい間柄であったと言う、彼の息子、皇甫堅寿の必死の嘆願により処刑を断念。義真の軍権剥奪に留めた。
仲穎は義真を鋭い眼差しで睨み付け、
「義真…まだか?」
と問い掛け、義真が頭を下げぬまで壇上へは上がらぬと言う意志を表す。
義真は暫し黙して仲穎を睨み返していたが、やがて
「……これは、失礼した。」
と静かに頭を下げた。
この時、義真は遂に仲穎に忍従する意志を示し、彼との和睦を事実上認めたのである。
それを見た仲穎は目を細め、白い歯を覗かせてにやりと笑うと、満足げに再び壇上へと向かった。
この時、まさに董仲穎の権力は最高潮にまで達し、再びこの長安で彼による暴政の幕が上がったのであった。
仲穎は一族の者たちを高位高官に任命し、回りを身内の者で固めると、次は長安から西へ凡そ二百五十里(約104km)に位置する郿に巨大な城塞を築き、そこに三十年分の食糧や財宝の数々を備蓄した。
更に、度重なる戦で嵩んだ軍資金を補填しようと、銅貨の五銖銭を粗悪な貨幣に改鋳した為、貨幣価値は一気に暴落。経済を大混乱に陥らせた。
この事は、その後数百年に渡って混乱を招いたと言われ、董仲穎は漢の行く末を案じるどころか、彼にとって王朝の延命は二の次で、目先の利に拘った事に他ならない。
またこの時期、皇帝の証とも言える『伝国璽』が雒陽城から何者かに持ち出され、行方不明になっており、仲穎は皇帝を廃するまではしなかったが、皇帝専用の道「馳道」を勝手に敷いて、その上を天子と同じ車で乗り回すなど、すっかり皇帝気取りであった。
『伝国璽』の行方については、袁術配下の孫文台が密かに手に入れ、持ち去ったらしいという噂が流れていた。
太師就任の儀の後、屋敷で華やかな宴を開いた仲穎に呼び寄せられ、奉先は彼の屋敷を訪れていた。
客の祝賀に笑顔で応え、仲穎は終始上機嫌である。
奉先も訪問客と同様に彼の前に進み出て、祝賀の言葉を述べた。
「奉先、久しぶりだな。元気そうで何よりだ!」
「太師も、益々ご健勝の事とお慶び申し上げます。」
恭しく礼をする姿に目を細めると、仲穎は彼の肩を叩いて引き寄せた。
「新しい屋敷の居心地はどうだ?最近、女と一緒に暮らしているそうではないか?」
「女と言っても…まだ十二歳の少女です。」
そう言って苦笑を返す。
「だが噂によると、相当の美少女だと聞いたぞ。その娘を嫁にする積りか?」
「いえ、そう言う訳では…あの子は、妹の様なものです。」
奉先がそう答えると、仲穎は小さく鼻で笑い、
「ふん…まあいい、お前の好きにするが良い。お前もそろそろ、嫁を娶っても良い頃であろう?実は、わしの知人の厳氏から、娘をお前にどうかと言われておる。会ってみる気はないか?」
彼の顔を覗き込み、目に微笑を漂わせて問い掛けた。
それを聞いた奉先は暫し黙考したが、
「太師がそう仰るなら、俺は構いません。」
やがてそう答え、仲穎に微笑を返す。
仲穎は再び笑って彼の肩を叩くと、
「そうか。では早速、厳氏に伝えておこう。」
そう言った後、
「所で…」
と再び切り出した。
「曹孟徳が、汴水で戦死を遂げたそうだ。」
「!!」
低く唸る様な声で話す仲穎の言葉に、奉先は思わず瞠目し、はっとして息を呑んだ。
「惜しい男を失った…わしはこう見えても、曹孟徳を高く買っていたのだ。奴はまだ豎子に過ぎなかったが、強い胆力と強運の持ち主であった。あれ程の人物そうはおらぬであろう…」
しみじみと語る仲穎の声は、その後殆ど耳には入って来なかった。
奉先はただ黙って虚空を睨み付けていたが、やがて視線を足元に落として俯いた。
「曹孟徳は、お前の元主だったな。残念であった…」
俯く彼の耳元で囁く様に言うと、その肩を強く叩く。
すると奉先は徐ろに顔を上げ、冷めた目付きで仲穎を見詰めた。
「太師、俺の主は貴方だ…曹孟徳は、やがて排除せねば成らぬ存在だった。自らの手で殺す手間が省けたというもの。元部下に殺されなかっただけ、彼は幸運だったと言えるでしょう…!」
それを聞いた仲穎は、少し驚きの表情で彼を見詰め返したが、やがて目元に微笑を漂わせる。
「そうか、確かに…そうであったな。」
それから再び笑顔を浮かべ、声を上げて笑った。
奉先も彼に笑顔で応えた後、
「では、俺はこれで。」
と、仲穎に向かい拱手し、華やかな宴の会場から立ち去って行った。
浮かない表情で屋敷へと戻ると、留守を任せていた高士恭が、心配げに彼を出迎えた。寒々とした屋敷の廊下を歩きながら、奉先は憂いの眼差しを向けて彼に問い掛ける。
「陳公台からの連絡は、まだ届かぬであろうか?」
「はい…残念ですが、まだ届いておりません。」
「そうか…」
奉先は項垂れて居室へ入ると、正装を解いて床に腰を下ろし机の上で頭を抱えた。
その様子を、士恭は彼の隣に座って黙って見詰めている。
ふと、奉先は士恭を顧みて、
「どうした、何かあるのか…?」
と彼に尋ねた。すると士恭は、
「実は…」
と少し言い難そうに切り出す。
「長安へ、妻を呼び寄せたいと思っているのですが…」
士恭は少し照れ臭げに、頭を掻きながらそう答えた。
「妻がいるのか?!」
思わず奉先は驚きの声を上げた。
「言っておりませんでしたか?」
「初耳だ…!」
「俺は、奉先殿よりずっと歳上ですよ。妻の一人くらい居てもおかしくは無いでしょう?」
士恭は少し心外そうに答えたが、直ぐに笑顔を見せた。
「すまぬ、そうは見えなかった。」
そう言って、奉先も微笑を返す。
「まあ、妻と言っても親同士が決めた結婚で、実際夫婦として共に暮らした時期はそう長くはありません。長安からなら、故郷も近いので丁度良いかと思った程度の事ですよ。」
「そうか。それなら、呼び寄せてあげると良い。新しい屋敷が必要だな。太師に相談しておくよ。」
「有り難うございます。」
士恭は嬉しそうに奉先に向かって拱手すると、
「出過ぎた事ですが…奉先殿も、早く妻を娶った方が宜しいですよ。こんな時、側にいて癒やしてくれるのが妻の存在でしょう。」
肩を寄せ、口元に手を翳しながら彼の耳に囁く。
振り返って彼を見た奉先は、稍目を細め、
「そうだな…」
と、苦笑いを浮かべながら彼に頷いて見せた。
澄んだ青空の下、白や薄紅色の花を咲かせた木々が立ち並ぶ庭が広がっている。
そんな小さな花弁が舞う中を、一人の男が肩を怒らせながら歩いていた。
「お待ち下され…!娘が、何かお気に触る事でも…?!」
慌てて男の後を追い掛けるのは、その屋敷の主で、少し小太りな中年男である。
庭を横切った男は足を止め、振り返って主人に怒鳴った。
「冗談じゃ無い!わしはあの娘に殺され掛けたんだぞ!見ろ!わしの自慢の髭が…!」
見ると、その男の立派に生えていたであろう顎髭は剃り落とされ、口髭も半分しか残っていない。
その顔は余りにも滑稽で、主は思わず吹き出しそうになったが、必死にそれを堪えた。
男は更に憤慨し、大股で屋敷の門を潜って出て行く。
その後ろ姿を見送った後、今度は屋敷の方を振り返り、主は嘆息しながら呟いた。
「全く…!雲月の奴!」
柔らかな風が宙を舞う花弁を運び、室内へと流れ込む。
その部屋の壁には槍や鉾、更には大太刀までの汎ゆる武器がずらりと並べて置かれていた。
「雲月、黄氏の御子息に何という事をするのだ?!」
差し込む日差しの中、剣術の稽古をしていた人物は、舞う花弁と共に室内へ入って来る主を振り返る。
「あの男は、女を侮辱している。だから、少し懲らしめてやっただけの事。」
そこに立つのは、男物の着物を身に纏ってはいるが、良く日に焼けた肌を持つ凛々しくも美しい女性である。
「そんな事だから、お前は何時まで経っても嫁の貰い手が見付からぬのだぞ…!少しは女らしく…」
「父上、あたしには嫁の貰い手が居ないのでは無い。あたしを嫁に出来る男が居らぬだけ。」
娘は主の言葉を遮って答える。
それを聞くと、主は大きく溜め息を吐いた。
「雲月…お前も今年で二十五になる。選り好みをしてはおられぬであろう。」
「父上、あたしは詰まらぬ男に嫁ぐ気はない。それなら、一生夫など持たぬ方がましです。」
雲月は鋭く力強い眼差しで主を見詰め、きっぱりとそう答えた。
それから数日の後、主の元へ訪れた長安からの使者の報告を聞き、彼は顔を綻ばせて娘の元へと向かった。
「呂奉先殿が、お前に会って下さるそうだ!お前より歳は下だが…今更拘ってはおられぬ。彼は、董卓軍随一の猛将との呼び声が高い人物。今度こそ、お前の理想に適う相手に違いない!」
主が上機嫌で娘に語り掛けると、
「董卓の配下など、たかが知れている…」
雲月は面白くない顔で呟いて暫し黙考したが、やがて顔を上げると、今度は微笑を浮かべて主を見上げた。
「…分かりました、父上。その方にお会いしましょう。」
「おお、乗り気になってくれたか!早速、董太師にご報告をせねばな!」
主は嬉しそうに答え、急いで彼女の居室から出て行った。
その姿を見送りながら、室内に佇む雲月は小さく鼻で笑った。
「ふん…っ、今度はどんな手でその男を追い払ってやろうか…」
「 悠悠蒼天 此何人哉 」
『 悠悠たる蒼天、此れ何人ぞや 』
爽やかな春風が吹き抜ける廊下を歩いていると、屋敷の奥から美しい歌声が聴こえ、ふと立ち止まった奉先は、そちらへと足を運んだ。
詩の一節であろうか、歌っているのは貂蝉であった。
彼女の歌を聴きながら、俊は机に向かって何かを書いている様子である。
「何をしているのだ?」
奉先が声を掛けると、貂蝉が嬉しそうに走り寄った。
「俊に、字を教えているのよ。」
「へえ、字が書けるのか?」
「ほんの少しだけ。母が、好きだった詩を教えてくれたの。」
頬を紅潮させて話す貂蝉を、奉先は目を細めて見詰めていたが、やがて彼女の手を取り、
「実は、お前たちに話したい事がある…」
そう言って、床に座して彼らを見上げている俊の隣りへ貂蝉を座らせた。
「董太師からのお申し出があり、俺はある方に会うため、少し長安から離れる事になった。」
「何処へ行くの?」
「西方の、厳氏と言う人の所だ。その方の娘に会いに行く。」
それを聞くと、貂蝉は忽ち表情を曇らせた。
「どうして、その人に会いに行くの?」
眉を顰め、透かさず問い掛ける貂蝉を、奉先は真っ直ぐに見詰めた。
「妻として、お迎えする為だ。」
すると二人は、ほぼ同時に目を瞠り、驚きの表情を見せた。
「暫く、此処を留守にせねば成らない。その間、王子師殿がお前たちを預かって下さる事になっている。」
そう伝えると、貂蝉は悲しげな瞳で彼を見上げる。
「奉先…知らない女の人と結婚するの?どうして、あたしじゃ駄目なの…?」
「お前は、十二歳になったばかりであろう?まだ結婚するには早過ぎる…」
すると貂蝉は、突然目の前の机を激しく叩いて立ち上がった。
「そんな事無い…!あたしは、もう子供じゃ無いわ!あたしだって、奉先のお嫁さんになれる!」
「貂蝉…お前には、もっと良い相手を探してやるから…」
「あたしは、奉先以外の男なんて、絶対に好きにならない…!」
彼の言葉を遮り、貂蝉は瞳から大粒の泪を零すと、
「子供扱いしないで…!」
と叫び、その場から走り去ってしまった。
後に残された俊は奉先を振り返って、何か言いたげに、おろおろと視線を彷徨わせる。
奉先は、憂いの眼差しで彼女の去って行った先を黙って見詰めていた。
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