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第七章 魔王の暴政と小さき恋の華
第八十二話 重い病
しおりを挟む陳公台からの連絡も途絶え、曹孟徳の安否が不明になってから既に十日以上が経過している。
日毎に不安な思いが募り、流石に奉先は苛立ちを隠せず、冷たい夜空を見上げては一人嘆息した。
汜水関で劉玄徳ら三兄弟と対峙した時、奉先は彼らを嘲笑ったが、内心では心底彼らを羨ましく思っていた。
『兄者!俺たち義兄弟は、何が有ろうと一心同体。それを忘れたか!?兄者が死ねば、我々も死ぬ!兄者の命は、一人の物では無いのだぞ…!』
関雲長が発した言葉は、彼の胸に鋭く突き刺さった。
それ程の強い絆を互いに認め合い、共有する事が出来るとは…
もし、孟徳殿を失えば、俺はいつでも死ぬ覚悟が出来ている。
だが、俺を失って…果たして、孟徳殿は死ぬと言ってくれるであろうか…?
孟徳に一緒に死んで欲しいと願っている訳では無いが、今は無性に彼の思いが知りたい。
最後に草原で見た孟徳の姿を思い浮かべようとしたが、その姿はぼんやりとした影でしか無く、何故かはっきりとは思い出せなかった。
ただ、去り行く彼の後ろ姿は何処か寂しげであった事だけは覚えている。
孟徳殿…あなたは、今何処におられるのか…
奉先は暗い空を見上げ、曇天に霞んで見える月の影を憂いの眼差しで見詰めた。
雒陽からの長い行軍の後、無事に兵と民たちを引き連れて長安へと辿り着いた奉先は、早速その日の内にある人物の元を訪ねた。
その人物とは、司徒の王允、子師である。
子師は既に長安に立派な屋敷を構えており、彼の訪問を少し意外に感じつつも快く出迎えてくれた。
「わしに頼み事…ですか?」
奉先を居室へ案内した後、彼の話を聞いた子師は首を傾げた。
今まで奉先は、彼と直に顔を合わせて話した事は一度も無かったが、子師が清廉な士であり、信の置ける人物である事は聞き及んでいた。
「はい、実はその貂蝉と言う少女と、俊と言う名の少年を、司徒殿にお預かり頂けぬかと、ご相談に伺いました。」
子師は数年前に妻を亡くしてからは後妻を持つ事もせず、家人たちと共に質素な暮らしを送っていた。
妻との間に子供が無かった為、家人たちを除けば、彼の家族は他には誰も居ない。
天涯孤独を貫こうという気があった訳では無いが、日々政務に追われ、気付けば孤独な毎日を送っていたのである。
子師は少し黙考したが、やがて微笑を浮かべて答えた。
「では、近い内にその子たちと面会をさせて頂きましょう。こちらは構わぬが、その子たちの気持ちも確かめねば成りますまい。」
「畏まりました。それでは、後日またお伺い致します。」
奉先は微笑を返し、彼に向かって拱手すると、その日はそのまま屋敷を後にした。
「司徒の王子師様が、お前たちに面会したいと申されている。長旅でお前たちも疲れているであろうし、今は良く休んで、近い内に一緒に屋敷へ行こう。」
董仲穎から宛てがわれた仮の宿舎で、奉先は食卓を囲み、食事をする彼らにそう話した。
「……どうしても、行かなければ駄目…?」
不意に、箸を止めた貂蝉が小さく呟く。
「心配するな。子師様は人格者だし、立派なお方だ。お会いすれば、きっと直ぐに気に入るさ。」
奉先は俯く貂蝉に微笑を向けて答えたが、それから彼女は黙ったまま食事に手を付けず、その後は何も聞かなかった。
翌朝、いつまで経っても貂蝉が姿を見せぬので、心配した奉先は彼女の寝所へと向かった。
寝所の中を覗くと、貂蝉は牀の上に横になったまま、筵に包まり蹲っている。
「どうした?具合が悪いのか…?」
牀に近付き腰を下ろすと、奉先はそっと彼女の肩を揺すって優しく声を掛けた。
「う…うん…胸が、痛いの…息をするのも苦しい…」
「大丈夫か?旅の疲れが出たのであろう…」
弱々しく喘ぎながら答える貂蝉の額に手を当ててみると、熱を持っている様に感じられる。
「どれ、熱がある様だ。直ぐに医者を読んで来よう。」
奉先がそう言って、牀から立ち上がろうとした時、
「お願い、行かないで…!もう少し此処に居て…そうしたら、きっと良くなるから…」
突然、着物の袖を強く掴まれ、その腕に縋りつかれた。
奉先は少し驚きの表情で彼女を見下ろしたが、着物を掴む手が小さく震えているのを見ると憐憫の情が湧き、再び牀に腰を下ろす。
「分かった。では、もう少し此処に居よう…」
そう言って微笑を浮かべ、奉先は自分の膝に貂蝉の頭を乗せると、その柔らかな髪を優しく撫でた。
暖かい手の温もりが伝わり、彼の膝に頭を乗せた貂蝉は頬を紅潮させたまま、その心地良さにそっと瞼を閉じる。
「…あたしの母はね、“貂蝉冠”を管理する職に就いていたの…」
貂蝉は徐ろに彼に語り掛けた。
「母は、とても美しい人だった。周りの人が、“母は美しい貂蝉の様な人”だと言って、母の事を“貂蝉”と呼んだわ。母はその呼び名を気に入っていて、あたしは“貂蝉”の娘だから、皆から“小貂蝉(小さな貂蝉)”と呼ばれていたの。だから、あたしの本当の名前を呼ぶのは、父と兄だけだった…」
俯く貂蝉が長い睫毛を瞬かせるのを、奉先は黙したままじっと見詰めていた。
やがて貂蝉は大きな瞳を上げ、見下ろす奉先の瞳を見詰め返す。
「奉先…あなたにだけは、あたしの本当の名前を教えてあげる…」
すると貂蝉は体を起こし、奉先の肩に両手を乗せて身を乗り出すと彼の耳に艷やかな桃色の花弁の様な唇を寄せ、そっと囁いた。
「あたしの、本当の名前は………」
その囁きに奉先は小さく頷き、
「…そうか、とても美しい名だ…」
そう呟くと、貂蝉の細い肩を両手で優しく支えながら、彼女に向かって柔らかく微笑み掛けた。
「だが…父や兄は、お前にとって特別な存在だったのであろう?大好きな父や兄に申し訳ない。俺は、お前の事を“貂蝉”と呼ぶ事にするよ。」
奉先はそう言って再び微笑し、彼女の肩を優しく撫で下ろす。
貂蝉は紅潮させた頬で、ぼんやりとした眼差しを彼に向けていたが、やがて首を縦に小さく動かして、
「…うん」
と呟き瞼を伏せると、少し苦しそうに胸を押さえながら再び彼の膝の上に頭を置いて小さく嘆息した。
彼女を診察した医師は、長旅の疲れで心労が嵩んだ事が原因であろうと、彼女に薬を処方してくれたが、その後も貂蝉の具合は回復する様子を見せなかった。
数日後、少し春めいた風が長安の邑内を吹き抜ける暖かい午後の事、奉先は二人を連れて再び王子師の屋敷を訪れていた。
「君たちが、“貂蝉”と“俊”だね。」
三人を屋敷の広間へ案内し、背の高い子師は腰を曲げて二人の顔を交互に覗き見ると、柔らかい笑みを浮かべながら問い掛ける。
「この方が、司徒の王子師様だ。二人とも御挨拶を。」
奉先が促すと、俊は黙ったまま少し躊躇いがちに小さく頭を下げたが、貂蝉は無言で下を向いたままであった。
「実は、貂蝉は長安へ来てからずっと体調が優れず、医者から処方された薬がございます。」
奉先はそう言って、子師に小さな布の包みを手渡す。
子師はそれを受け取り、包みを開いて中を見た後、黙ったまま目を上げて、俯く貂蝉をじっと見詰めた。
それから奉先に目を向けると、
「奉先殿、ちょっと宜しいか…?」
と言って目配せをし、彼を部屋の隅へ誘った。
「あの娘は、確かに重い病を患っているらしい。しかも、この薬では治らぬであろう…」
そう言って首を捻り、子師は深刻な面持ちで自分の顎髭を撫でる。
深く眉間に皺を寄せ、広間に佇む二人を振り返って見詰めた後、奉先は声を潜めた。
「司徒殿、お分かりですか?」
「ああ、分かるとも。とても厄介な病だ…」
「貂蝉は…そんなに悪いのでしょうか…?」
不安な面持ちで問い掛ける奉先を見詰め返し、険しい表情で答える子師は、突然ふっと目元に微笑を漂わせる。
「あの娘の病は、“恋煩い”だよ。」
「恋煩い……?!」
微笑む子師に、奉先は思わず瞠目した。
「そうだ。あの娘はきっと…奉先殿、貴方の事が好きなのだ。」
「まさか、そんな筈は無い…!彼女は家族を相国に殺され、酷く憎んでいます。その配下である自分を好きになるなど、有り得ない…!それに、歳が離れ過ぎている…」
「歳の差など関係無い。彼女はまだ見た目は幼いが、中身は立派な女性だ。それに、女の子というのは歳上の男を好きになるもの…その複雑な感情こそが、彼女を苦しめている原因に他ならない。」
「………!」
奉先は目に戸惑いを浮かべ、ゆっくりと振り返って肩越しに貂蝉を見ると、彼女は顔を上げ、とてつもなく悲しげな瞳で此方を見詰めていた。
子師は、渡された薬の包みを彼の手に握らせ静かに押し返す。
「だが…残念な事に、奉先殿の心には別の女が居る様だ。可哀想だが、あの娘の想いが届く事は無いのであろう…?」
子師にそう言われ、はっとして胸に愛おしい女の姿を想い描いた時、彼の胸は締め付けられる様な激しい痛みと苦しみを感じた。
暫く手の中の包みを黙って見詰めていたが、やがて奉先は顔を上げ、
「……司徒殿。あの子たちの事を、どうか宜しくお願いします。」
そう言って、子師に深く頭を下げて礼をした後、彼は振り返る事無く足早に広間を出て行った。
門の近くに馬を繋ぎ、飛焔と共に奉先の戻りを待っていた士恭は、屋敷から足早に出て来る彼の姿を認め声を掛けた。
「司徒殿は、あの子たちの事を引き受けて下さったのですか。」
「…ああ」
何処か素っ気無い態度で答える奉先に向かって、
「それは良かった。あの子たちの為にも、それが最善の策ですよ。」
士恭は目に微笑を浮かべ、言い聞かせる様にそう言った。
彼は元々貂蝉に対して不審感を抱いている。
貂蝉を出来るだけ彼の傍から遠ざけるべきだと考えている様である。
「そうだな。」
奉先は彼の目を見詰め強く頷くと、飛焔の首を優しく撫でてから、その背に素早く跨がった。
「待って…っ!!」
呼び止める声に思わず振り返った。
見ると、屋敷の門の下に息を切らせながら走って来た貂蝉が立っている。
彼女は頬を真っ赤に紅潮させ、瞼に大きな泪の雫を浮かべながら、震える唇を強く噛み締めていた。
「お願い…あたしを、置いて行かないで…!」
「貂蝉……っ」
切なくも美しいその姿に、奉先は強く心を惹きつけられ目を見張って彼女を見詰めた。
「あたし、奉先の事が好き…!あなたと一緒にいたいの…!」
貂蝉の澄んだ瞳から大粒の泪が零れ落ちるのを見ると、奉先は思わず飛焔の背から降り、途端に走り出した貂蝉が彼の腕の中へ飛び込んで来る。
貂蝉は大きく泣き声を上げながら、彼の腰の辺りに強くしがみ付いた。
やがて、彼女の後を追って来た俊と子師が門の下に姿を現し、子師は二人に歩み寄りながら優しく声を掛ける。
「貂蝉、彼を困らせてはいけない。お前たちの事が嫌いで、此処へ置いて行くのでは無い。彼には、任務があるのだ。お前たちを構ってやる時間は無いであろう。」
彼女の震える肩を背後から優しく撫で、子師は貂蝉をそっと彼から引き離そうとするが、それでも貂蝉は泣きながら腕に力を込め、強く彼に抱き着いて離れない。
「分かってる…!奉先の邪魔はしないって約束するから…お願い、置いて行かないで…!」
「………」
奉先は黙ったまま、泣きじゃくる貂蝉を憂いの眼差しで見下ろしていたが、やがて彼女の頭を優しく撫で下ろし、両手で震える細い肩をそっと掴んで引き離す。
貂蝉は濡れた瞳を上げ、不安な表情で彼の顔を見詰めた。
「分かった…貂蝉、一緒に帰ろうか。」
奉先はそう言って目に微笑を浮かべ、彼女の濡れた頬を指先で優しく拭う。
彼の言葉に、桃の花弁の様な唇を小さく震わせながら、貂蝉は再び瞳を潤ませて彼に強く抱き着いた。
「うん…!」
止め処なく泪が頬を伝い落ちたが、彼の腕に顔を埋めた貂蝉の胸は苦しみから開放され、心地良い温もりに包まれていた。
「奉先殿…良いのですか?」
「司徒殿、手数をお掛けしました。」
苦笑を浮かべて彼を見詰めている子師に、奉先は深く頭を下げて礼をする。
それから側で佇んでいる俊を見下ろし、
「俊、お前はどうする?此処に残っても良いのだぞ。」
「………」
奉先が微笑を浮かべて問い掛けると、俊は黙ったままじっと彼を見詰めていたが、やがて小さく、
「僕は…貂蝉様に仕えると、約束した…」
と呟く様に答える。
「そうか、では一緒に行こう。」
奉先は彼の肩を強く叩き引き寄せながら、明るい声でそう言って笑った。
そんな彼らの姿を、少し憂いのある眼差しで士恭は眺めていたが、小さく嘆息しつつも二人を乗せて来た車を引いて来て、再びそれに乗車させる。
車がゆっくりと動き出すと、貂蝉は車の簾を上げて身を乗り出し、屋敷の門から見送る子師を振り返って彼に向かって大きく手を振った。
「子師様、さようならー!ありがとう!」
子師はそれを見て微笑し、少し手を挙げて彼女に答える。
「あの娘は誠に、男の心を揺さぶる…“傾国の美女”よ…」
明るい春の日差しが暖かく差し込む街道の上を、彼らを乗せた車がゆっくりと遠ざかって行くのを見詰め、彼は小さくそう呟いた。
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