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第六章 反逆の迅雷と戦火の都

第七十五話 汜水関の戦い《六章 最終話》

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汜水関しすいかんまで兵を進めた呂奉先りょほうせんは、防備を固めて連合軍を迎え撃つ体勢を取った。

「先鋒の大将は、“劉玄徳りゅうげんとく”と言う人物だそうです…!」
高士恭こうしきょうが馬を寄せてそう告げる。

「劉…玄徳…」
奉先は、深く眉間に皺を寄せながら小さく呟いた。
その名に覚えは無かったが、
劉姓…と言う事は、漢王室に縁のある者であろうか…
と、ふとそう思った。

その日、こよみの上では春とはいえ、数日前から寒波かんぱが押し寄せ、吐く息は白く、厚い雲に覆われた空は雪でも降り出しそうであった。
奉先が関門の城壁へ上がり、遥か彼方に霞んで見える稜線りょうせんを遠望すると、そのふもとから、押し寄せる軍勢が巻き上げる砂塵が立ち昇っているのが見える。

汜水関を目指して進軍する、その軍勢がなびかせている軍旗には、『劉』の文字が書かれていた。

劉玄徳は、安熹あんき県の県尉けんいを辞め、各地を流浪したのち、再び彼の兄弟子である公孫瓚こうそんさん、字は伯圭はくけいの元へと向かった。
その頃伯圭は、反董卓の連合軍に加わる積りで河内かだいへ向かっていたが、盟主が袁本初えんほんしょである事が面白く無く、兵を返して安平あんぺいに駐屯していた韓馥かんふくを攻撃目標に定め進軍していた。

そこへ現れた玄徳に、自分の代わりに河内へ行かせる事を思い付いた伯圭は、彼に兵を預けて本初の元へと向かわせたのである。

袁本初の元へ辿り着くと、玄徳は中々出撃する様子を見せない連合軍に対し、

「今、胡軫こしんと呂布の軍勢は陽人ようじんの孫堅軍と戦っており、汜水関は手薄で容易に攻める事が出来るでしょう!」
と出撃をうながした。
しかし本初は、まだ徐栄じょえいの軍が残っていると言って及び腰であった為、玄徳は自ら先鋒を引き受け、汜水関へ向かって真っ直ぐに進撃して来たのである。

だが、本初の決断は一足遅く、既に呂奉先は汜水関へ舞い戻っていた。

「来たか…!」
奉先は城壁を降りると守備兵たちに関門を固く守らせ、自らは精鋭部隊を率いて出撃した。

彼らは広い平野の中心部辺りで対峙たいじし、それぞれ軍を停止させると、奉先は飛焔を走らせ単騎で前へ進み出た。
すると同じ様に、連合軍の方からも騎馬が一騎走り出て来る。

「奉先、久し振りだな…!」

微笑を浮かべて呼び掛けたのは、敵の大将と思われる男である。
男の姿を認めると、

「劉玄徳とは、貴様であったか、師亜しあ…!」

奉先は少し目元に驚きを表したが、直ぐに目の色を変え、馬上の玄徳を睨み付けた。

呂龍昇りょりゅうしょうの元を去り、養父となった丁建陽ていけんようを裏切った上、今度は董仲穎とうちゅうえいに付いたそうだな…!全く、お前は節操せっそうの無い奴だ…!」
玄徳はあきれ返った様子で彼をののしり、

「…だが、それがお前には一番お似合いの生き方よ!」

そう言って口元に笑みを浮かべ、眼光を鋭く光らせる。
奉先は眉を動かさず玄徳を睨み返していたが、

「貴様の方こそ…未だに、者であろう?似たようなものではないか…!」
と言い返す。

その言葉に玄徳は苦笑を浮かべ、
「ああ、確かに…その通りだ。」
と、小さく笑いながら答えると、腰にいた双剣を素早く抜き放ち、その切っ先を奉先に向けた。

「お前との決着は、まだ付いていなかったな…!今、此処で決しようではないか!」

玄徳はそう言って大声たいせいを放つ。
すると飛焔の上で巨大なげきを回し、奉先もそれに応じる構えを見せた。

互いの総大将が、いきなり一騎討ちを始めようとしている姿に、互いの兵たちは驚きを隠せない表情でざわめきを上げる。

「兄者…!」
後方でその様子を見ていた義弟おとうと関雲長かんうんちょうが馬をせ、心配げな表情で玄徳に駆け寄った。更に張翼徳ちょうよくとくも急いで二人に馬を寄せる。
その様子に、奉先はふんっと鼻で笑うと、

「劉玄徳、貴様ではこの俺に敵わぬぞ…!それは、貴様自身がよく知っている筈だ…!」
太々ふてぶてしくそう言い放った。

「そうだな、そうかも知れぬ…だが、俺は此処で引く訳には行かぬ!」

そう言うと、玄徳は目をいからせて馬を走らせ、義兄弟おとうとらが止める間も無く、両手に握った双剣で奉先に撃ち掛かる。
奉先がその攻撃を素早く戟で弾き返すと、二人の間に激しい火花が飛び散った。

打ち掛かる双剣を数合に渡って弾き返した後、奉先は鋭い槍撃そうげきを玄徳の胸元へ放った。

奉先の持つ戟は、通常の物より遥かに大きく攻撃範囲が広い。その分、重さもあるが、彼はそれを難なく巧みに操っている。
玄徳は馬上で身体をけ反らせながら方天戟ほうてんげきかわし、再び反撃したが、その時、何と玄徳の馬に飛焔が体当たりを食らわせ、攻撃の体勢を崩させる。

「くっ…!」
思わず身を引いたが、方天戟が唸りを上げて玄徳の首筋をかすめ、月牙げつがが玄徳の長い髪を切断した。
奉先は攻撃の手を緩めず、更に玄徳の頭上から戟を振り下ろす。

迫り来る戟の刃を、双剣を交差させて受け止めたが、その重さと破壊力に圧倒される。
それを見て、咄嗟に雲長が走り寄り、方天戟を彼の偃月刀えんげつとう退けた。

「雲長…!手出しは無用だっ…!」
思わず玄徳は彼を怒鳴ったが、雲長は動じず玄徳を睨み付けると、

「兄者!俺たち義兄弟きょうだいは、何が有ろうと一心同体。それを忘れたか!?兄者が死ねば、我々も死ぬ!兄者の命は、一人の物では無いのだぞ…!」

そう言って彼を叱り付け、その言葉に瞠目どうもくした玄徳は、一瞬にして我に返った。
その時、今度は翼徳が蛇矛だぼうを手に、奉先の前へ立ち塞がる。

「兄者たちは下がってくれ!こいつは、俺がたおす…!」

一度飛焔を引かせ、距離を置いた奉先は、彼らの様子を見て不敵に笑い、

「一人ずつ相手をするのは面倒だ、三人同時に掛かって来るが良い…!!」

そう言って戟を構えた。
あなどられた事にいきどおり、翼徳は蛇矛を旋回せんかいさせながら奉先に立ち向かう。

奉先と翼徳は数合に渡り、戟と矛で激しく打ち合った。
互いの武器がぶつかり合う音は、遠くから遠望する兵たちの元にまで届いて来る。
皆、固唾かたずを呑んでその戦いを見守っていた。

翼徳の剛腕ごうわんから放たれる蛇矛の威力は、想像を絶するものである。
だが、奉先の手に握られた方天戟は、その凄まじい攻撃を物ともせず弾き返す。
二人の戦いは互いに一歩も引かず、いつ果てるとも無く続いていたが、次第に翼徳の乗った馬に疲労が見え始めた。

それに引き換え、奉先を乗せた飛焔には全く疲れた様子が見られない。
このままでは、先に翼徳の馬が倒れてしまうと、玄徳と雲長が助太刀すけだちに向かった。

三人は奉先を取り囲み、同時に攻撃を仕掛ける。
それでも奉先は動じず、三人の攻撃を巧みにかわし、迫り来る彼らの剣刃を確実に弾き返した。

しかし彼らは皆、剣術の手練てだれであり、特に雲長の刀捌かたなさばきは豪快だが、狙いは的確である。
その攻撃に流石の奉先も次第に押され始め、旗色が悪いと感じ取ったのか、飛焔は後退を始めた。

その時、雲長の偃月刀が奉先の背後を襲う。
だが次の瞬間、何者かの戟がそれをはばみ、偃月刀を強く弾いた。

「!?」

「奉先、もう引け!相国は既に雒陽らくようから去り、長安へ向かった。お前も直ぐに後を追えと申されておる…!」

奉先が振り返ると、そこには雒陽からの伝達をたずさえた張文遠ちょうぶんえんの姿があった。
更に士恭も馬で走り寄り、玄徳ら三人の前を塞いで奉先を鋭くかえりみると、

「奉先殿!早くお退がりを…!」
大声たいせいで呼び掛ける。

「………っ!!」
奉先は小さく歯噛みをしたが、やむを得ず彼らに強くうなずき、飛焔の馬首を返して汜水関へと引き揚げて行った。

玄徳らは兵を率い、逃げる奉先の軍勢を追ったが、汜水関では守備兵たちが矢をつがえて待ち構えており、彼らの行く手を阻んだ。
汜水関の守りは固く、とても落とせそうに無い。
仕方なく、玄徳は一旦兵を引いて、袁本初の本隊が到着するのを待つ事にした。


雒陽へ戻った奉先の目に映ったのは、阿鼻叫喚あびきょうかんする住民たちの姿であった。
董仲穎は、雒陽の住民たちをことごとく長安へ移住させるべく、強制的に彼らを住居から追い出している。
更には、残った部下たちに命じて歴代皇帝の墓を暴き、金銀財宝を手に入れるという悪行も行っていた。

「これは酷い有り様だ…」
その光景に、共に従って来た士恭と文遠は眉をひそめた。

「さっさと出ろ!我々の命令に従わねば、斬り殺すぞっ!」

その時、近くの民家から兵士たちの怒鳴り声が聞こえて来た。
住民の男は兵士たちの前に立ちはだかって、身をていして家族を護ろうとしている。

「わしたちは、先祖代々この地で生活して来たのです…!先祖の廟を捨て、他へ移る事など出来ません!」
男は必死に兵士に訴えた。

「ちっ…!手古摺てこずらせやがって…!」
兵士はそう言って舌打ちをすると、男を足蹴あしげにして剣を抜き放つ。
それを男の頭上から振り下ろそうとした時、兵士の腕は何者かに強く掴み取られた。

「止めろ…!何をしている?!」
奉先はその兵士の腕をひねり上げた。

「うっ、てててっ…!何しやがる!従わぬ者は斬れと、相国からの命令だぞ…!」
「何だと…っ!」
奉先は訝しげに兵士を睨み、暫し黙考した後でその腕を放すと、

「そうか、分かった…ではその家の者を、残らず外へ引きり出せ!」

そう言って振り返り、周りの兵たちに命令する。
やがて、辺りの民家から住民たち全員が引き摺り出され、広場へと寄せ集められた。
おびえる住民たちの前に仁王立ちとなると、奉先は剣を抜き放つ。
その様子を黙って見ていた士恭が、遂に我慢し切れず走り寄り、彼を見上げて問い掛けた。

「ほ、奉先殿…!?一体、何をなさるのです!?」


その頃、長安へ向かってしゃを走らせていた董仲穎の元へ、伝令兵が走り寄り、彼に短く耳打ちをした。
仲穎は眉をひそめてその伝令の顔を見た後、車の上から身を乗り出し後方の雒陽の方角を凝視する。

「…?!」
すると、夕闇の迫る雒陽の空に、黒煙が立ち昇っているのが見えた。

「何と言う事だ…奉先の奴め、雒陽に火を放つとは…!」

それを見た仲穎は、口の両端を上げて、にたりと笑った。


燃え盛る炎を前に、集められた住民たちは皆、固唾を呑んで身を寄せ合い、声も上げられず涙を流し只々ただただその光景を見詰めている。
奉先は兵たちに命令して、彼らの住居に全て火を掛けさせたのである。

「これで、彼らを斬る必要はあるまい…!住む家が無くなれば、嫌でも長安へ向かうしか無いのだからな…!」
そう言って兵たちを睨み付けると、奉先は飛焔にまたがり、今度は文遠を振り返って指示を出す。

「文遠、お前は北側の住民を同じ様にして長安へ向かわせてくれ!」
「心得た…!」
急ぎ文遠はそう答え、彼らは二手に別れて、それぞれ北と南の居住地へと向かった。

場所を移動すると、何処でも同じ様な光景に出食わした。
指示に従わぬ住民を襲う兵たちをいさめ、住民を家から追い出しては火を掛ける。
やがて、雒陽は完全に業火に取り巻かれ、住民らは最早、自ら住居を捨てて出て行く者が後を絶たない。

「殆どの住民が、雒陽ここを離れた様です…」
すっかり日が沈み、夜空を赤く照らす炎を前にして立ち尽くす奉先の背中へ、士恭が声を掛けた。

「俺は、この手でかんみやこに火を放った…これ程、罰当たりな行いをした者が居たであろうか…?」
やがてゆっくりと士恭を振り返ると、奉先はそう言って力無く笑った。

「………っ」
士恭は答えられず、哀しげな瞳の奉先を見詰める。

感傷かんしょうひたっている暇は無いな…済まぬ、もう行こう…!」
そう言って、奉先は士恭の肩を叩き、再び飛焔の背に跨がり歩き出した。

その時である。

歩く飛焔の目の前を、突然黒い影が横切った。
飛焔は前脚を上げて激しくいななく。

その影は、素早く向かいの建物の中へと消えて行った。

「!?」
奉先は馬上で飛焔をなだめ、その背から舞い降りると、影の消えて行った建物へ向かった。

「奉先殿?!どうかしましたか?」
後ろを進んでいた士恭には、その影は見えなかったらしい。
奉先は振り返り、士恭に「しっ…!」と指を口元に押し当てて合図を送り、その建物へと入って行った。

奉先には、それは人影に見えた。
そっと壁に背を押し当て様子を伺うが、中は薄暗くはっきりとは見透せない。

気の所為せいだったか…
そう思い、きびすを返してその場を後にしようとした時、

「!?」

突然、物陰から飛び出して来た人影が、彼を目掛けて飛び掛かって来た。

奉先は素早く剣を抜き放ち、それを一刀で斬り伏せようとしたが、その姿を認めた時、彼は目を見開いて剣を止めた。

髪を振り乱して飛び掛かるのは、まだ幼い童子である。

飛び掛かった童子の手には、匕首ひしゅが握られていた。
咄嗟に奉先はそれを右腕で防いだが、匕首の刃は彼の腕に突き刺さり、そのまま童子の身体を受け止める様にして後方へ倒れた。

激しく背中から落ち、童子諸共もろとも地面を転がって建物の外へと飛び出す。

「奉先殿…!!」
それを見た士恭は驚いて馬から飛び降り、倒れた二人に走り寄る。

「くっ…!」
奉先は腕に突き立った匕首を抜き取り、地面へ投げ捨てた。
すると、立ち上がった童子がそれを素早く拾い上げ、

「うおぉぉぉ…!!」
と、激しい唸り声を上げながら、再び奉先に向かって来た。
素早く立ち上がった奉先は、身をひるがえして童子の攻撃を避ける。
童子は気が狂った様に匕首を振り回し、執拗しつように彼を狙う。

士恭は駆け寄りながら腰の剣を抜き、暴れる童子を斬り捨てようとした。

「士恭!止めろっ…!!」

奉先の叫び声に、士恭は躊躇たじろぎ、剣を構えたまま狼狽うろたえた。
やがて、息が上がってきた童子の動きは鈍くなり、一瞬の隙きを付いて、奉先は彼の腕を掴み取り、地面に強く押さえ付けた。

「はぁ、はぁ、はぁ…!」
童子は肩で激しく息を繰り返す。

「…て、やる…!お前、なんか…殺し、てやる…!!」

やがて苦しげに喘ぎながら、童子は声を振り絞ってそう言った。
奉先は、はっとして童子を押さえていた手を放す。

「お前、何者だ…?!何故、俺を殺そうとする…?!」

ゆっくりと体を起こし、泥にまみれた顔を上げた童子は、鋭い眼光で奉先を睨み付けた。

「…家族は、みんな董卓に殺された…!お前、董卓の手下だろう…!お前なんか、死んでしまえ…!!」

そう言って声を震わせる童子は、良く見るとそれは少年では無く、まだあどけない少女であった。


ー《第六章 完》ー
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