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第六章 反逆の迅雷と戦火の都
第七十ニ話 互いの使命
しおりを挟む曹孟徳は、急ぎ冀州から騎兵部隊を率い、弘農王の封地へと向かったが、そこは既に董卓の軍勢に占拠されていた。
「弘農王は、『天聖師道』と言う道教集団に城から連れ出され、彼らは砦に篭もっているそうです。」
斥候からの報告を聞き、孟徳は早速『天聖師道』の砦へと向かうと、約一日半の戦闘の末、敵を壊滅に追い込み、直ぐ様部隊を砦に突入させた。
しかし、既に主導者である天華には逃げられた後であり、捕らえた信者たちに弘農王の行方を問い詰めると、董卓に遣わされた刺客に依って連れ去られていた事が分かった。
刺客は弘農王を連れ、西へ進路を取ったらしい。休む間もなく、今度は西へと向かった。
弘農王は、既に殺されているかも知れない…
孟徳は、自らの行動が常に後手に回っている事に、苛立ちと焦りを感じていたが、それでも諦めず追跡を続けた。
やがて谷を抜け丘を越えると、一面に広々とした草原が広がっていた。
その間を縫って続くなだらかな山道を進んで行くと、道の真ん中で立ち塞がっている一騎の騎馬の姿が、部隊の先頭を進んでいた楽文謙の目に入った。
「?!」
文謙は訝しげに眉を顰め、目を凝らしてその騎馬を凝視した。
「孟徳殿、前方に怪しい者が…!」
部隊を停止させ、馬首を巡らせて孟徳の元へ馳せ戻った文謙からの報告を聞き、
部隊の前方へと向かった孟徳は、風に靡く草原の上に佇むその騎馬を遠望する。
「あれは…!」
孟徳は一瞬息を呑んでそう呟くと、文謙を振り返り部隊をそこで待機させるよう指示を出し、単騎で山道を駆け出して行った。
文謙は驚いたが、孟徳の指示である。不安な面持ちのまま彼の姿を見守った。
やがて孟徳の騎馬が歩みを緩めると、山道上の騎馬から男がひらりと舞い降りる。
孟徳も馬を止め、馬の背を降りてゆっくりと男に歩み寄ると、眉宇の辺りに稍険しさを漂わせながら男に対峙する。
「…董卓の刺客とは、お前だったのか…!」
低く唸るように呟く彼の視線の先にあるのは、黙したまま彼を見詰め、佇む奉先の姿であった。
「孟徳殿、弘農王を追って来たのか…?」
やがて奉先が徐ろに口を開く。
「ああ、そうだ。弘農王は何処にいる…?」
「彼はもういない…俺が始末した。」
そう言って、奉先は腰に提げていた袋の中から弘農王の印綬を取り出し、それを掲げて見せた。
「お前が…殺したと言うのか?俺の目を欺こうとしても無駄だぞ…!弘農王を何処へ隠した?!」
孟徳は語気を荒らげ、腰から素早く剣を抜き放つと奉先に切っ先を向ける。
「俺の邪魔をするなら、例えお前であっても斬り捨てる!!」
孟徳のその姿に、奉先は目元を陰らせた。
「…どうしても弘農王が必要か?孟徳殿…“皇帝”とは一体何だ…?支配者の傀儡となる為の只の道具に過ぎぬではないか…」
「奉先…お前………」
孟徳は呟き、彼の悲しげな瞳を見詰め返す。
奉先は自らの出生の秘密を何も知らぬ筈であるが、“皇帝”の子として生まれた弘農王に対して、強い同情心を抱いているようである。
彼の言葉には、悲しさが込められている。
それは孟徳の胸に重く響いた。
だが、此処で引き下がる訳には行かない…
孟徳は一度強く瞼を閉じ、深く息を吸い込んだ後、かっと瞼を開いて鋭い眼光を奉先に向けた。
「お前が何と言おうと、俺は弘農王を連れ戻す…!そこを退け!退かぬなら、お前を此処で斃すのみ!!」
そう言い放つが早いか、孟徳は剣刃を閃かせて奉先に斬り掛かった。
奉先は素早く体を翻し、弘農王の印綬を咄嗟に懐へ入れてその剣刃を避ける。
間髪入れず襲い掛かる次の一撃を、今度は後方へ飛び退りながら躱した。
孟徳の剣先は更に、奉先の首を狙う。
奉先は腰の剣を鞘ごと抜き取って、孟徳の剣を弾き返した。
「剣を抜け…!!」
激しい剣幕で孟徳が怒鳴った。
「孟徳殿、俺は貴方とは戦わぬ…!」
「………っ!!」
孟徳は強く歯噛みをしながら奉先を睨み付ける。
「俺は本気だぞ…!」
そう叫ぶと、地を蹴り疾風の如く奉先に迫った。
今度は鋭い突きを彼の胸元へ放つ。
閃く剣刃を右へ左へと躱し、握った剣の鞘で孟徳の剣を受け止めると、その衝撃が激しく腕に伝わった。
彼の腕には、剣を握る力がまだ完全には戻っていない。
「くっ……っ!」
奉先は思わず顔を顰め、小さく唸った。
手負いの身体では、孟徳の素早い攻撃を躱し切れないと判断し、已む無く鞘から剣を抜き放ち応戦した。
孟徳は攻める手を緩めず、次々と攻撃を繰り出す。
奉先は全身の痺れを堪え、孟徳の速さに追い付こうと懸命に剣で攻撃を躱す。
だが次の瞬間、孟徳の斬撃は奉先の腕から剣を叩き落とし、彼の腕を斬り付けた。
傷口から飛び散った血が、草原に揺れる草花を赤く染め、地面に小さな波紋を広げる。
奉先は一瞬怯み、身体を回転させながら迫り来る剣刃を躱したが、孟徳の薙ぎ払った白い閃光が彼の胸元を真一文に切り裂き、着物の切れ目から僅かに血が滲み出す。
胸元を強く押さえ、奉先は肩で苦しそうに喘いだ。
血濡れた剣を振り翳し、孟徳が一気に距離を詰める。
その瞬間、主が劣勢である事を察した飛焔が、大きく嘶きながら二人の間に割って入った。
「!!」
激しく威嚇する飛焔に、孟徳は思わず躊躇い身を引いた。
「飛焔…っ」
咄嗟に飛焔に走り寄り、奉先は彼の逆立つ鬣を撫でながら首筋に額を押し当て、興奮する飛焔を宥める。
「奉先…お前、やはり怪我を負っていたのか…」
彼の動きが鈍い事には、最初から気付いていた。
傷を手当てした跡が、切れた着物の下から覗いているのを見て、孟徳は低く呟いた。
顔を上げた奉先は、はっとして孟徳の瞳を見詰め返す。
孟徳には、始めから彼を斃す気など無かったのだと気付いた。
彼は何時でも、奉先に止めを刺す事が出来た筈である。
急所を外しながら手加減を加え、それでも敢えて攻撃を仕掛けて来たのは、彼なりの複雑な思いが有ったからに違い無い。
奉先は愁いを帯びた眼差しを孟徳に向け、
「孟徳殿…弘農王の事からは、手を引いて貰えないか…?」
そう言って彼の前に歩み寄った。
「それでは、お前は…董卓が立てた皇帝を、俺に認めろと言うのか…!?」
稍語気を荒らげ、孟徳は問い詰める。
「…出来ないか…?」
「……!」
孟徳は強く歯噛みをし、剣を構えたまま彼を睨み付けている。
二人は沈黙を続け、暫し互いに睨み合った。
青い草原を吹き抜ける風が、時折強さを増して二人の間を通り抜ける。
やがて小さく嘆息しながら、孟徳は剣を鞘へと収めた。
それから、足元に落ちた奉先の宝剣を拾い上げ、
「この剣…もう既に、お前の手に戻ったのだな…」
そう呟いて“七星剣”の輝きを目を細めて見詰めると、孟徳は伏し目がちに俯いたまま、ゆっくりと奉先に歩み寄った。
「…お前には、助けられた借りがある。今回だけは、見逃してやる…」
長い睫毛の下から覗く瞳を見下ろし、奉先は差し出された宝剣をその手からそっと受け取った。
やがて黒い大きな瞳を上げた孟徳は、
「だが…次に戦場で会う時は、手加減はせぬぞ…!!」
そう言って眼光を鋭く光らせた。
「ああ、解った。有り難う、孟徳殿…!」
目元に稍微笑を漂わせ、奉先がそう答えると、孟徳は少し憂いのある表情で何か言いたげに彼を見詰めていたが、やがて小さく吐息を漏らしつつ、彼に背を向けて歩き出した。
草原を撫でる様に吹き抜けて行く柔らかい風に、歩き去る孟徳の長い髪が揺れて靡いている。
遠ざかるその後ろ姿を見詰めながら、奉先は底知れぬ寂しさと切なさを感じていた。
だが、奉先はその思いを断ち切る様に、強く拳を握り締めながら踵を返すと、同じ様に彼に背を向け、やがてその場から離れて行った。
「行こう、飛焔…!」
歩み寄った飛焔の背に跨り、その首筋を強く叩くと飛焔はそれに応え、一瞬前脚を上げて嘶いた後、脚を下ろすと同時に勢い良く走り出す。
草原を風の様に駆け抜けて行く彼らの姿を、孟徳は馬上で振り返り遠くから眺めた。
やがて待機していた仲間の部隊の元へ戻った孟徳は、
「弘農王は、既に殺されていた…遥々此処まで来たが、仕方がない…引き上げよう…」
肩を落としてそう告げ、部隊の間を縫って来た道を引き返し始めた。
その姿に文謙も深い溜め息を吐き、馬首を返して彼の後に続く。
馬上で孟徳は首を上げ、高い青空を仰ぎ見た。
何処までも続く蒼天に、呆れ顔で見下ろす袁本初の顔が浮かんで来る。
嗚呼、またあいつに嫌な顔をされるであろうな…
そう思うと、脳裏に浮かぶその顔に孟徳は小さく苦笑した。
草原を駆け抜ける飛焔の背に揺られながら、奉先はふと、切れた着物の胸元に手を当て、懐へ差し入れた。
中から取り出したのは、真っ二つに切断された弘農王の印綬である。
『何かの役に立つかも知れない…』
そう言って渡した、弘農王の思いが届いたのであろうか…印綬を懐に入れていたお陰で、胸の傷は浅かった。
奉先はそれを見詰めて微笑すると、腰に提げた袋へ収めた。
雒陽へ戻り、董仲穎の元へ復命した奉先は、彼の前に割れた弘農王の印綬を差し出した。
「冀州から、袁本初が弘農王の元へ向かわせた軍勢が引き上げたと聞く…」
そう言って印綬を手に取ると、仲穎は目を細めてそれを眺めた。
それから視線を目の前に跪く奉先に向け、口角の両端を上げてにやりと笑う。
「良くぞ使命を果たした。今度こそ、わしからの褒美を受け取るであろうな?」
仲穎は首を回して、背後に大きな箱を抱えて立つ側近らを振り返った。
奉先は頭を低くし、仲穎に向かって素早く拱手すると、
「有り難く頂戴致します…!」
と、良く通る声で爽やかに答えた。
「奉先殿、おかえりなさい。単騎で敵に向かわれたと聞き、心配しておりました…!ご無事で何よりです!」
仲穎からの褒美を手に屋敷へ戻ると、先に帰還していた高士恭が待っていた。
士恭は笑顔で出迎え彼を労った後、抱えた大きな箱に視線を向けた。
「それは…?」
「相国からの褒美だ。」
奉先は微笑し、士恭の前に箱を置くと中から黒光りする漆黒の柄を掴み上げ、巨大な刃を持つ戟を取り出した。
「おお、それはあの時の…!」
士恭は思わず感嘆の声を上げ、その見事な戟に目を見張る。
「“方天戟”の一種でしょうが、これ程大きな物は見た事が無い…!」
「ああそうだな、俺もこんな武器を手にしたのは初めてだ!」
奉先はそう言って立ち上がり、それを両手に握って力強く振ってみた。
戟の尖端は鋭い槍となっており、戈の様に横に突き出ている刃は、片側に三日月を象ったものである。
戟は室内の空気を切り裂く度、大きく唸りを上げる。
「名馬“赤兎馬”に跨がりその戟を持てば、奉先殿に敵う相手は何処にもいないでしょう!」
士恭はまるで自分の事の様に喜び、嬉しそうに膝を打って燥いでいたが、奉先が振り返ってその姿に笑うと、はたと我に返り小さく咳払いをした。
「それはそうと、奉先殿。留守の間に、張文遠殿が訪ねて来られましたぞ。」
「文遠が…?!」
奉先は、驚きと困惑の表情で士恭を見下ろした。
張文遠は雒陽を離れた後、一旦并州へ戻り、離れて行った丁建陽の元部下たちを探し出すと彼らを説得し、仲間を掻き集めて各地で募兵を行った後、再び雒陽へ兵を率いてやって来たのである。
奉先は急ぎ、文遠の駐屯地へと向かった。
彼の帰還を待っていた文遠は、笑顔で幕舎へと迎え入れてくれた。
「お前は人望が薄いから、仲間を集めるのに苦労しているだろうと思ってな。俺が集めて来てやった…!」
「ああ、その通りだ…!」
笑って肩を叩く文遠に、奉先は苦笑を返しながら答えた。
「…それから、お前に伝えておきたい事があってな…」
「?」
不思議そうに首を傾げる奉先を見詰め、文遠は少し言いづらそうな顔で自分の顎を撫でてから、「実は…」と切り出す。
「俺は、玲華殿を妻として迎える事にした。」
「え?!」
奉先は自分でも驚くぐらい素っ頓狂な声を上げていた。
慌てて取り繕い、
「そ、そうか…それは、良かったではないか!!」
そう言って、出来るだけ陽気な声で文遠の肩を強く叩き返したが、内心自分の顔が引き攣っているのではと懸念した。
「お前には、どうしても一番最初に伝えるべきだと思っていたのだ…俺たちを、祝福してくれるか?」
文遠は少し照れ臭そうに、自分の首筋を掻きながら問い掛ける。
「ああ、勿論だ!」
奉先は顔を綻ばせ、目元に微笑を浮かべながら彼を見詰めた。
玲華は文遠の一途な気持ちに応え、彼に付いて行く道を選んだのである。
こうなる事は覚悟していたし、それが彼女の為にも一番良い選択であると分かっていた。
だがそれでも、或いはあと少しだけ、自分を待っていてくれるかも知れないという、一縷の望みを抱いていたのも事実であった。
玲華殿の選択はいつも正しい…
俺なんかより、文遠と一緒になる方がずっと幸せだ…
そう自分に言い聞かせながら文遠の幕舎を後にしたが、夕闇が迫る東の空に浮かんだ小さな星の輝きを見上げ、奉先は深い溜め息を吐いた。
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