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第六章 反逆の迅雷と戦火の都

第七十一話 鍛冶職人の夫婦

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どのくらい意識を失っていたのであろうか、ほのかに漂う甘い香りに、ふと目を覚ました。
朦朧もうろうとする意識の中、霞んだ視界の先に見えるのは、風に揺らめく小さな紫色のすみれの花である。

…先、奉先………

誰かの呼ぶ声が、かすかに頭の中に響いて来る。
視線をわずかに上げると、白い光に包まれた人影が此方を覗き込んでいる。
それは、美しい着物をまとった美少女の姿であった。

玲華れいか…殿……」
光の中に浮かび上がるのは、玲華の優しい微笑みである。

ああ、俺は夢を見ているのか…

目の前に広がる光景は夢とも現実とも付かないものであるが、奉先は強くそう思った。
夢でも構わない、最後にもう一度だけ玲華に会いたかった。

夢の中の玲華は、そっと彼の側へ舞い降りると微笑を浮かべ、腕を伸ばして彼の髪を優しく撫でてくれる。
その柔らかい手の感触は、彼の意識の中で鮮明に肌へと伝わり、心地良さに包み込まれた。

やがて、倒れた地面の底から、無数の馬蹄ばていとどろきを響かせながら、此方へと向かって来る集団の蹄音あしおとが聞こえた。
その音は、まだ遥かに遠い。

十騎…いや、二十騎はいるか…
奉先は再び目を閉じて、その音に耳を澄ました。
恐らく、天華てんかが放った新たな追っ手であろう。だが最早、奉先には彼らに立ち向かう力は残っていない。

ここまでか…
そう覚悟を決め、夢現ゆめうつつの中、彼らの蹄音あしおとが近付いて来るのをただじっと待った。

その時、突然背中から誰かに着物を掴まれ、強く引っ張り上げられる感覚におちいって、重いまぶたを開いた。

「うっ…ひ、飛焔ひえん…!?」

目の前には、少年を乗せて走り去った筈の飛焔の姿がある。

「お、お前…どうして…っ」
飛焔はいななき、倒れた奉先の肩を鼻面はなづらで押して立ち上がらせようとする。
それでも立ち上がらない彼の着物の襟首をくわえると、今度は彼の身体を引きった。

「飛焔…もう良い…このまま、眠らせてくれよ…」

奉先はかすれた声であえぎつつ、わずらわしげに呟いた。
しかし飛焔は諦めず、顔を地面との間に突っ込んで、俯せになった彼の身体をひっくり返そうとしている。

「おじさんを置いて行きたくないって、飛焔が言ってるんだよ…」
馬上から、少年が顔を覗かせて言った。
「…弘農王……」
奉先は苦しげに首を上げ、少年を見上げる。
やがて深く溜め息をき、ふっと小さく笑った奉先は、

嗚呼ああ…全く、俺は楽に死ぬ事も許されぬと言う事か…」

そう呟くと両腕をゆっくりと動かし、渾身こんしんの力を振り絞って自分の身体を持ち上げた。
必死に立ち上がろうとすると飛焔が手を貸し、彼の着物をくわえて引っ張り上げる。
「はぁ、はぁ…っ!」
奉先はふらつきながらも立ち上がり、飛焔の背に取りすがると肩で激しく息をした。
飛焔は首を深く下げて前脚を折り、奉先に乗れと言わんばかりに「ブルルッ」と鼻を鳴らす。

「飛焔…俺に、決して諦めるなと言いたいのだな…っ」

疲労困憊ひろうこんぱいした虚ろな眼差しのままだが、奉先は口元に笑みを浮かべて飛焔を見詰め、少年に助けられながら何とか飛焔の背にまたがった。
少年の手から受け取った手綱をしごくと、

「奴らは直ぐそこまで来ている…!疾風の如く駆けよ、飛焔…っ!」

そう言って励まし、彼の首筋を力強く叩く。
飛焔はそれに応えて一度大きくいななくと、体勢を整えた後、ひづめで深く地面を削りながら一散いっさんに走り出した。

一陣の風と化した飛焔は、広い草原を瞬く間に駆け抜けて行く。
既に日は傾き掛け、茜色あかねいろに染まりつつある空と遙か後方に見えている山々の間に、追っ手の騎馬が巻き上げる砂塵さじんが立ち昇っているのが見えるが、それも次第に遠ざかって行った。

追っ手の騎馬と、全速力で走る飛焔の脚色あしいろでは比べ物にならない。
やがて追っ手の先頭を走っていた騎馬が走るのを止め、後から来る仲間たちを全て停止させた。
飛焔が巻き上げる砂塵が追っている彼らの目にも見えていたが、それは見る間にどんどん離れて行くのが解る。
これ以上追っても無駄であると判断し、彼らはそこで追う事を諦めた。


次に奉先が目を覚ましたのは、見知らぬ家の一室であった。
日が落ちるまで飛焔は走り続け、やがて小さな邑里ゆうりへ辿り着いた所までは覚えている。だが、その後の事は何も思い出せなかった。

外は既に明るくなっているらしい。
屋根の上の小鳥のさえずりと共に、何処からか鉄を叩く様な甲高い音も聞こえていた。

奉先は床に敷かれたむしろの上で、ゆっくり身を起こしたが、体中にしびれが残っているらしく、床に突いた腕にまだ感覚が戻っていない。
身体に付いた無数の傷には手当てを施された跡があり、彼の側には、擦り潰された薬草が入った器が幾つか置かれ、辺りに漂うその香りが少し鼻を刺す。

その時、すだれの向こうから女性と少年の笑い声が聞こえ、簾が開くと、すっかり粗衣そいに着替えた少年と、荷物を抱えた若い女性が入って来た。

「あら、お兄さん、目が覚めたのね!良かったわ…!」
女性は大きく目を見開いて驚きの表情をしながら、腕に抱えた荷物を部屋の隅に下ろし、手にわんを持っていた少年は、それを持ったまま嬉しそうに側へ走り寄る。

「おじさん、お腹空いてるでしょう?」
そう言うと、まだ湯気が立ち昇るかゆの入った椀を、彼の前へ差し出した。

「それはぼうや、貴方あなたのでしょう。大丈夫よ、彼の分は直ぐに用意するから。」
女性は笑って少年の頭を撫でる。

「僕は、後で貰うからいいよ。ありがとう、玉蓮ぎょくれんさん。」
少年は少し恥ずかしそうに肩をすくめ、女性に向かって上目遣いに笑顔を返した。
それから奉先に向き直ると、粥をさじすくい上げ、

「まだ疲れてるでしょう、おじさん。僕が食べさせてあげるよ。」
そう言って、匙にふうふうと息を吹き掛ける。
その光景に、奉先は思わず苦笑した。

「いや、今は良い。それはお前が食べろ。」
そう答えると、少年は肩を落とし少し残念そうな顔になる。

「それより、飛焔はどうした?」
「心配無いよ。馬小屋で大人しくしてる。」
「そうか…」
飛焔が大人しくしているという言葉には、少し意外な気もしたが、飛焔は他のどの馬よりも賢い事は知っている。
きっと、飛焔も同じ様に自分の身を案じているに違いない。

彼らがこのむらへやって来た時、邑人むらびとたちは皆気味悪がって、誰一人助けようとはしてくれなかった。
邑の門前での騒ぎを聞き付け、唯一彼らに救いの手を差し伸べてくれたのが、この玉蓮ぎょくれんと言う女性と、鍛冶かじ職人である来儀らいぎという人物であった。

来儀と玉蓮は夫婦であり、まだ若い玉蓮に対し来儀は十は年上の様である。
気立てが良く朗らかで美しい妻、玉蓮と、如何いかにも職人肌といった風情で、無口で仏頂面の来儀は実に不釣り合いに見えるが、それでいて相性が良いらしい。

わたしは以前、“人買い”にさらわれ、豪族の屋敷で奉公させられていたの。そこのあるじが剣を収集する趣味を持っていて、来儀は良く屋敷を出入りしていたのよ。」

奉先の傷口を手当てしながら、来儀との馴れ初めを楽しそうに話す玉蓮の声に紛れ、簾の外から来儀が剣を鍛えているらしい音が鳴り響いて来る。

貴方あなたが眠っている間に、勝手に剣を見せて貰ったわ、ごめんなさい…でも、これは素晴らしい剣だわ…!きっと良い職人が造った物なのね。」
玉蓮はそう言って微笑みながら、真新しい鞘に収められた奉先の剣を、両手で持って差し出す。
奉先は黙ってそれを受け取ったが、今まで誰がその剣を造ったのかなどと考えた事は無かった。

思えば、この剣もきっと誰かの手によって造り出され、人伝ひとづてめぐり巡って、彼の元へ辿り着いたのである。
この剣が今彼の手の中に有るのも、それは天命であったと言えるであろう。

ふと、そんな事を考えながら七色に輝く宝剣を見詰めていると、今度は窓の外から、飛焔のいななきと少年の笑い声が聞こえて来た。

少年は飛焔にえさを与えようと、腕に抱えた大きなおけから、飛焔の足元へ置いた桶に飼葉かいばを移そうとしていたが、飛焔は少年が抱えた桶の方へ頭を突っ込もうとする。
「飛焔、駄目だってば!これは他の馬にやる分だから…!」
そう言って逃げる少年を、飛焔が追い掛けている。

窓の外に広がる景色を、奉先は目を細めて眺めた。
この様な微笑ほほえましい光景を目にするのは、久し振りの事である。
心に安らぎと平穏を感じたのは、一体何時いつ以来の事であろうか。
戦を忘れ、こんな日々がずっと続いてくれれば…と、ふとそう願った。

「…私には、幼い妹がいるの…」
不意に、隣で同じ様に外を眺めていた玉蓮が呟いた。

「今、何処でどうしているのか…きっと、あの子と同じ年頃になっている筈だわ…元気でいてくれたら良いのだけど…」
玉蓮の瞳の端に、涙のしずくが光っているのが見える。

「………」
奉先は黙って玉蓮の横顔を見詰めた。

「…彼は、董卓とうたく天聖師道てんせいしどうの者たちから命を狙われている。かくまえば、貴女あなたたちまで危険な目に合うだろう…」

彼のその言葉に、玉蓮はさして驚きは見せず、小さく溜め息を吐く様に笑う。

「私も来儀も…貴方たちを救うと決めた時から、危険は覚悟していたわ。でも、心配しなくても大丈夫よ。私たちは、もうすぐこのむらを出て、西方さいほうへ行く積もりだったから。」
「…西方へ…?」
「ええ、西方の国へ渡って、異国の鍛工たんこう技術を学ぶの。」
「そうか…」
小さく呟き、奉先は少し考える素振そぶりをした後、おもむろに玉蓮を見上げて言った。

「…世話になったついでと言っては何だが、頼みたい事が有る…聞いて貰えるか?」
「?」
奉先の問い掛けに、玉蓮は不思議そうな顔で首を傾げたが、直ぐに微笑み返すと小さくうなづいた。


奉先と少年の前に胡座あぐらをかいた来儀は、暫し黙考していた。彼の隣には、妻の玉蓮が静かに正座し、渋い表情の夫を見詰めている。
やがて難しい顔を上げ、来儀が口を開いた。

「わしらは、一向に構わぬ。後は、少年…お前次第だ。」
来儀に視線を向けられ、少年は少し狼狽うろたえた。

「僕は…」
小さく呟き、ずと隣に座す奉先を見上げる。
「…おじさんは、一緒に行かないの?」

少年に問われ、奉先は彼に視線を送ったが、余り感情を表さず答えた。
「俺には任務が有るからな…急ぎ、京師けいしへ戻らねば成らぬ。」

それを聞いた少年は小さく「そう…」とだけ呟き、再び俯いた。

「坊や、心配いらないわ。私たちが付いてるから。」
玉蓮が優しく微笑み、少年を見詰める。
やがて顔を上げた少年は、決意を固めた様に強い眼差しを目の前の二人に向けた。

「うん…分かった。僕、来儀さんと玉蓮さんに付いて行くよ…!」

そう答えると、今度は奉先を振り返り彼に笑顔を送った。


傷はまだ完全にえておらず、腕にしびれが残ったままではあるが、奉先は直ぐに身支度を整え、馬小屋に繋がれた飛焔を引き出しに行った。

「そんな身体で、もう出発するの?」
少年と一緒に、その様子を見ていた玉蓮が心配な面持ちで問い掛ける。

「ああ、愚図々々ぐずぐずしていては、新たな刺客せっかくに此処を嗅ぎ付けられてしまうとも限らぬ。」
奉先は答え、腰の剣帯けんたい(ベルト)を締め直しながら二人を振り返った。

「それでは、世話になった。玉蓮殿、来儀殿にも宜しく伝えてくれ。」
それから、悲しげな眼差しで彼を見上げている少年に、ゆっくりと視線を落とす。

「弘農王…あなたはもう、弘農王では無い。これからは、玉蓮殿の弟として新たな人生を歩むのだ。」
そう言って、彼のうるんだ瞳を見詰めた。

「玉蓮殿の名を貰い、“蓮”と名乗ってはどうだ?」
「蓮…」
少年は呟く様に自分の名を口にする。
それから顔を明るく輝かせ、

「うん!ありがとう、おじさん。これ…何かの役に立つかも知れないから、持って行って。」
そう言うと、自分の腰に下げていた袋から弘農王の印綬いんじゅを取り出し、彼に手渡した。

「ああ、貰っておく。きっと役に立つだろう。」
奉先は彼に笑顔を向けて答えると、素早く飛焔の背にまたがった。

彼らの頭上に広がっている空は、何処までも青く澄み渡っている。
広がる蒼穹そうきゅうを見上げ、奉先が出発の合図を送ると、飛焔は大きくいなないて走り出した。

邑里ゆうりの門を潜り、細い小道を真っ直ぐに駆けて行く彼らの姿を、玉蓮と少年の二人は何処までも見守り続けた。
やがて、その姿が視界から消え果ててしまいそうになった頃、涙をこらえて見詰めていた少年は突然走り出し、邑里の門まで行くと声を限りに叫んだ。

「おじさぁーん!飛焔ー!僕、二人の事…絶対忘れないよー!」

少年の瞳からあふれる涙が、せきを切ったように頬を流れ落ちる。
その声は、果たして彼らの耳に届いたのか、蒼穹の彼方に二人の姿は既に見えなくなっていた。


むらを発ってから二日、目指す雒陽らくようまであと三日低度の距離まで来ていた。
そろそろ、董卓も痺れを切らしている頃であろう。
そんな事を考えつつ、飛焔と山を越える山道を進んでいると、ふと谷の向こう側を行く、何処かの軍勢の姿が目に入った。

敵か…?
奉先は目を凝らし、その軍が掲げている軍旗の文字を読み取ろうとしたが、距離が離れ過ぎていて読み取る事が出来ない。

そのままやり過ごしても良かったが、何故か無性に胸騒ぎを覚え、奉先は飛焔の脚を止めると元来た道を引き返し始めた。

やがて丘の上から、その軍勢がはっきりと見て取れる距離にまで近付いた。
掲げている軍旗の文字を読み取った時、奉先は思わず瞠目どうもくした。

あ、あれは…!?

その旗に書かれているのは『曹』の文字であった。


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