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第六章 反逆の迅雷と戦火の都

第六十七話‪ 逃亡する主従

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山林の中はすっかり闇に包まれている。
獣の遠吠えが鳴り響く中、ほのかな明りをともし、小さなしゃを停めたその脇で野営をしている数名の主従の姿があった。

美しい着物を身にまとった娘が一人、落ち着き無く小さな焚火たきびの側を歩き回っている。
やがて、暗がりから現れた人物の姿を認めると、娘はそちらへ駆け出した。

「文謙!遅かったではないか、約束の時間をとうに過ぎている…心配していたんだぞ!」
娘は、その美しい容姿にはおよそ似つかわしく無い口調で青年に迫った。
頭を掻きながら苦笑を浮かべる文謙は、

「申し訳無い…ちょっと野暮用があった事を、思い出したのです…」
そう答えると、娘に向かって頭を下げて謝る。

「しかし、孟徳殿の変装は見事なものです。本当に美女と見紛みまがう程だ…!」
「はは、そうか!だが、俺に惚れるなよ…!」
孟徳は笑って、文謙の肩を叩く。
それから、彼の後ろに立っている若者に訝しげな視線を送った。

「孟徳殿、彼は俺や虎淵の同僚で親友だった者です。俺なんかよりずっと学問も出来て、きっと孟徳殿のたすけになりますよ。」
文謙がそう言って彼をかえりみると、

李曼成りまんせいと申します。どうぞ、よろしくお願いします。」
青年はそう言って孟徳に向かい、拱手した。

すらりとした体躯たいくの持ち主で、無骨ぶこつさとは掛け離れた、色白で眉目の爽やかな好青年である。

「仲間は多いに越した事は無い。こちらこそ、よろしく頼む!」
その曼成と言う青年を一目で気に入った孟徳は、彼の肩を強く叩き、白い歯を見せて笑った。


この小集団の主従は、花婿と花嫁、そしてその従者にすっかり姿を変え、婚礼の旅集団にふんして孟徳の故郷である沛国を目指した。
彼らは怪しまれる事無く、中牟ちゅうぼう県の辺りまで辿り着いたが、遂にそこで検問に掛かってしまった。
そこには既に、孟徳捕縛の通達が届いていたのである。

「ふむ…婚礼の儀の為、急がねば成らぬ…と?」

県令けんれいは訝しげに、彼らが出した(通行手形)を見た後、役所の前に並ぶ旅集団を眺めた。
「私にお任せを…」
警察長官である亭長ていちょうが彼らの前へ進み出ると、薄い絹の布を被る花嫁に近付き、その布を取り払おうと腕を伸ばす。
花婿に扮した文謙が咄嗟に亭長の腕を掴み、

「婚礼前の花嫁だ、顔を見るとは無礼だぞ…!」
そう言って怒鳴り声を上げた。
亭長は彼を睨み付けると部下たちを振り返り、

「怪しい…!此奴こやつらを捕らえろ!」
そう命令を下して、武器を構えた部下たちに直ぐ様彼らを取り囲ませた。

「ちっ…!」
思わず文謙は小さく舌打ちをし、花嫁に扮した孟徳に視線を送ったが、そこで騒ぎを起こせば面倒な事になると判断した孟徳に目配せをされ、彼らは抵抗する事無く全員大人しくその場で取り押さえられた。

「ふん、後で存分に調べ上げてやるからな…!覚悟しておけ!」
亭長はそう毒づいて、布越しに花嫁を睨み付けた。

亭長らの取り調べにより、正体を暴かれてしまった彼らは、役所の奥にある薄暗い牢へ閉じ込められる事となった。

「さっさと入れ!」
亭長の部下たちに縄を掛けられ、背中を強く押されながら次々と牢へ放り込まれる。
文謙は牢の入り口に立つ亭長を強く一睨みしてから、牢へ足を踏み入れた。

「わしを騙そうなど、愚かな奴らだ!明後日みょうごにちには京師けいしから捕吏が到着する。貴様らの命もあと僅かよ!」
そう言って、亭長は声を上げて笑う。

「くそぅ…!折角せっかく此処まで辿り着いたと言うのに…」
文謙は悔しそうに歯噛みをして、歩き去る亭長の後ろ姿を睨み付けた。

「こうなっては仕方が無い…運を天に任せるしか有るまい…」
牢の壁に取り付けられた鉄格子てつごうしから覗く小さな空を見上げ、孟徳が呟く。

「万事休すか…!」
佇む孟徳の姿を見詰め、文謙は低く唸った。


それから二日後の朝、役所へ京師から派遣された捕吏たちが現れた。
亭長は彼らを牢へ案内し、捕らえた孟徳ら主従を引き渡す手続きを行うと、囚人たちを用意された檻車かんしゃへと乗り込ませる。

「亭長殿、大変見事な働きをしましたね。相国もお喜びでございます。」
まだ若いが、捕吏の筆頭である青年はそう言って彼にねぎらいの声を掛け、
「は、有り難うございます…!」
亭長は嬉しそうに答えると、彼に向かい拱手した。

やがて檻車は県城を出て、雒陽らくようへと向かう街道を西へ向かって進んで行った。
暫く進むと、街道の向こうから、こちらへ走って来る一騎の騎馬の姿がある。
捕吏の集団に近付くと、その騎馬は筆頭らしき青年に何やら声を掛けている様子だった。

青年は仲間たちを振り返ると小さく頷き、やがて街道をれて間道へと檻車を乗り入れた。


「何…?捕吏が来た、だと…?」
その日の夕刻、亭長は報告に来た部下の言葉に眉をひそめた。

「どういう事だ、戻って来たのか…?」
「…さあ、それが…」
部下の歯切れの悪さに亭長は苛立ち、急いで居室を出て役所の門へ向かった。

そこには、朝とは全く違う捕吏たちの姿がある。
「此処へ来る途中、河で橋が流されており迂回うかいせねばならなくなった。遅れると伝令を送った筈だぞ。」
捕吏の筆頭は亭長にそう説明すると、朝廷からの書簡を差し出した。

「ま、まさか…!」
震える手で書簡に目を通しながら、亭長は青褪あおざめ言葉を失った。


孟徳ら主従を乗せた檻車は間道を直走ひたはしり、悪路の為、狭い車内は激しく揺れていた。
檻車の木組みのおりから外の様子を伺っていた文謙は、親友の曼成を振り返り訝しげな目を向ける。

「先程から、随分と険しい道を走っている様だな…」
「夕日が後方へ沈んで行くのが分かるか? 街道を逸れてから、この車は反対方向へ向かっているらしい。 」
曼成の言葉に、文謙は車の後方を振り返った。
確かに、沈み行く夕日が山岳の間から見え隠れしている。

「孟徳殿…!」
車の隅で瞑座めいざしている孟徳に文謙が声を掛けた時、突然車が停止した。

檻車の扉が開かれ、捕吏の筆頭と名乗った若者が姿を見せる。
「此処まで来れば、もう大丈夫でしょう。」
彼はそう言うと、仲間の捕吏たちに命じて、縛られた孟徳らの縄を切り、彼らを全員檻車から降ろした。

「皆さんの荷や、馬を預かっています。此処からは、それでお逃げ下さい。」
「お前たちは一体、何者だ…?」
その青年を眉を顰めながら見詰め、孟徳が問い掛ける。

「我々は、あるかたからのめいで、あなたを助けに参った者です。敵では有りません。」
彼はそう言って微笑すると、

「申し遅れましたが、僕の名は、陳公台ちんこうだいと申します。」

更に爽やかに笑って答えた。

「ある方…?」
孟徳は先程にも増して怪訝けげんな表情を浮かべたが、ふと思い当たった様に顔を上げると、従者たちの方を振り返った。
孟徳に見詰められ、文謙は思わず視線を泳がせる。

「…全く…!」
孟徳は軽く文謙を睨んだが、直ぐに、ふっと笑顔を見せて笑った。

捕吏に扮していた公台らと共に、彼らは再び沛国を目指し、遂に董仲穎からの追跡を逃れて故郷くにへと帰り着いた。
孟徳らが、既に手の届かない所まで行ってしまった事を知った仲穎は強く歯噛みをしたが、それ以上の追跡を諦めざるを得なかった。

同じ頃、身の危険を感じていた袁本初えんほんしょ異母弟おとうとである袁公路えんこうろが雒陽を脱し、南陽方面へと逃亡を図っていた。
敵対する姿勢を見せる本初は、着実に地盤固めを始めており、仲穎には他にもやらねば成らぬ事が山ほど有るのである。


「孟徳様…!」

曹家の屋敷へ辿り着くと、門前で迎えに現れた虎淵が飛び付かんばかりの勢いで走り寄って来た。
暫く会わない内に、虎淵は更に背が伸びたようである。

「虎淵、元気そうだな!それに、また少し背が伸びたではないか…!」
孟徳はそう言って彼の肩を叩きながら、顔を紅潮させ、照れ臭そうに頭をく懐かしい姿を見詰めた。

虎淵と、姉香蘭こうらんの婚礼の儀は、二日後に執り行われる事になっていた、
それに間に合うよう戻って来てくれた事が、虎淵には何よりも嬉しかった。

帰還の挨拶をする為、父の居室へ向かった孟徳を、父は目を細め優しい瞳で迎えてくれた。

「良く無事に戻ったな。」
「はい、父上。私が無事に戻れたのは…奉先の助けがあったからです。」

「そうか、奉先が…」
父は少し眉間にしわを寄せ、考え込むような素振りをしていたが、やがて顔を上げると孟徳を見詰めた。

「実はな…先日、あるご婦人が訪ねて来られた。趙夫人ちょうふじんと言う方だが、お前は知っているか?」
「…さあ、私は存じ上げませんが…その方が、何か?」
孟徳は首を傾げて問い返す。

「奉先と面識があったようで、彼に世話になったと申しておられたのでな…」
父は自分の顎髭あごひげを撫でながら、静かに瞼を閉じた。


その日、父の元を訪ねて来たのは、一人の美しい女性であった。
趙夫人と名乗ったその女性は、雒陽で奉先と知り合い、曹家との繋がりについて彼から聞いていた事などを語った。
夫人は董仲穎の手から逃れる為、奉先の助けにより雒陽を脱する事が出来たのである。

「奉先様が居なければ、わたくしの命は既に無かったでしょう…」
夫人はそう語り、長い睫毛まつげの下から覗く美しい瞳を潤ませた。

「彼から、曹巨高きょこう様に幼少の頃拾われ、育てられたと聞きました…彼を、何処で?」

巨高は眉をひそめて夫人を見詰め、
「…何故、そのような事を、お知りになりたいのですか?」
そう問い掛けると、夫人はやや躊躇ためらいがちに顔を伏せたが、

「それは…私には、遠い昔に…手放した男児が有りました…もし、その子が生きていれば、彼と同じ年頃になっていたでしょう。」

やがて夫人は顔を上げ、真っ直ぐに巨高を見詰め返して答えた。
巨高は一度大きく息を吸い込むと、瞼を閉じて遠い昔の記憶を辿りながら、ゆっくりとそれを吐き出した。

「あれは、酷い嵐の夜でした…今でも、まだはっきりと覚えています…」


激しい暴雨の中、屋敷の門を叩く者の姿がある。
使用人からの報告を受け、巨高は門へと向かったが、そこに立つ男は雨をしのぐ為、頭に笠の様な物を乗せ、顔を布で覆っており、その人相を知る事は出来ない。

「曹…巨高殿ですか?」
暴雨にさらされ、低く唸るように問い掛ける男の様子を、巨高は不審な眼差しで見詰めた。

「そうですが…ともかく、中へお入り下さい。」
「いや、長居は出来ぬのです…!」
彼はそう言うと、顔を覆う布を手で外し顔を見せる。

「私は、陳叔紡ちんしゅくぼうと申します。曹巨高殿のご高名を頼って、此処まで来ました…!」

巨高は彼との面識は殆ど無く、朝廷でその姿を一度か二度見掛けた程度であった。
だが、彼の名は知っていた。清廉な士として名高い、陳蕃ちんはん仲挙ちゅうきょの甥である。

「実は、お願いしたい事がございます…!」
彼はそう言うと、懐からまだ生まれて間も無い乳飲み子を取り出すと、巨高の腕に抱かせた。

「どうか、この子を…預かって頂きたい…!必ず、迎えに参ります…!」
叔紡は、苦しげにあえぎながら頼み込む。
見ると、彼の腕からは血が流れている。傷は腕だけでは無く、彼の全身に及んでいる事が分かった。

ただならぬ事態である事を理解した巨高は、それ以上彼を追究ついきゅうする事はせず、黙って彼に頷いた。

叔紡は親しい知人を訪ねる事無く、わざわざ面識の少ない自分を頼って来た。
それは、追っ手に追われているからに他ならず、行方を探りにくくする為である。
噂を信じ、信頼出来る人物であると判断した巨高を頼ったのである。

これに応えねば、好漢おとこと呼べるであろうか…!
当時まだ若かった巨高は、彼にしては珍しく侠気きょうきを見せた。

嵐の中を去って行く叔紡の姿を見送りながら、巨高は彼は二度と戻らぬであろうと心の片隅で思った。

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