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第六章 反逆の迅雷と戦火の都

第六十五話 裏切りの汚名

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「俺は、父上の無念を晴らすと決めた…!父上に与えた絶望と恐怖を、必ずあの男…董仲穎にも与えると、その時、天に誓ったのだ…!」

奉先は赤い目を上げ、目の前に座している文遠に強い眼差しを向ける。
薄暗い部屋の外では、あの日と同じ様に激しい雨が降り注ぎ、打ち付ける雨音が静まり返る室内に鳴り響いていた。

「父上は自らの死を悟り、その死が俺にとって最悪なものになると予見しておられた。だが、俺は父上の"意志"に反する事を決断した。例え、父上を救えぬと分かっていても…俺には他に、選択する道は無かった…!」

そう言って声を震わせ、奉先は瞳に涙を浮かべる。
やがて瞼を閉じ、俯く奉先の目から涙がはらはらとこぼれ落ち、膝の上で握り締めた拳を濡らした。

「玲華殿の言う事は、何時いつも正しかった。それでも俺は…誤った道を選択した事を後悔はしていない…!その道を選んだ時から、運命を受け入れると覚悟を決めたのだ…」

苦しげに吐き出す言葉を聞きながら、文遠は痛ましいものを見る目付きで彼の姿を見詰めていたが、やがて大きく息を吐き、唸るように声を漏らす。

「人は、死して名を残すと言われるが…裏切りの汚名を背負って生きれば、死してなお消す事は出来ぬ…!それでも良いのか…!?」

「俺の事は構わぬ…!それより、愛する叔父を失った玲華殿の悲しみは計り知れぬ筈…彼女を支えてやってくれないか…」

「当たり前だ、言われずとも…俺は、誰より玲華殿を大切に思っている。何が有ろうと、彼女を全力でおまもりする積もりだ…!」
力強くこたえる文遠のその言葉に、奉先は涙に濡れた瞳のまま顔を上げ小さく微笑した。

「そうか…文遠、それが本当の"愛"と言うものであろう…!」

屋敷の外に降り続く冷たい雨は、庭先に置かれた水瓶みずがめを満たし、やがて溢れて流れ出す。
東の空が白々と明けはじめた頃、何時いつしか雨は小さく細い霧雨きりさめへと姿を変えて行った。



かすみ漂う宮殿の長い廊下を、陳公台ちんこうだいは参謀の李文優りぶんゆうに従って歩いていた。
「此処は書庫で、あちらが宝物殿ほうもつでんです。警備が厳しいので、自由に出入りは出来ません。」
文優は肩越しに振り返り、切れ長な細い目で後ろを歩く公台に視線を送った。

「あなたは、呂奉先殿のお知り合いだそうですね。あなたに、士官先を探して欲しいと頼まれました。彼との付き合いは長いのですか?」
「いえ、知り合ってまだ間が有りませんが、奉先様は僕にとても良くして下さいます。」

「そうですか…今、雒陽ここの役職には空きが有りませんが、 地方官なら何処か有るかも知れません。」
文優には余り興味が無いらしく、表情を変える事無く直ぐに別の話題に移った。

その頃、奉先は董仲穎に呼ばれ、高士恭こうしきょうと共に彼の屋敷を訪れていた。
屋敷の家人に案内されて廊下を歩きながら、あの夜、居室を去り際に振り返った文遠が言った言葉を思い起こす。

「あの卑劣ひれつ豺狼さいろうの様な男を、騙しあざむくのは難しい…危険な事だぞ。」
愁眉を寄せ、文遠は奉先をいさめた。

「分かっている。だからこそ、俺がやらねば成らぬのだ…!」

うれいを帯びた眼差しで見詰める文遠に、奉先は力強い眼差しを送りそう答えた。
文遠はやがて小さく頷き、彼の肩を強く叩いてその場から立ち去って行った。

俺にはまだ、支えてくれる仲間がいる…!
そう思うと、虚しさの中に心強さが芽生える。

広間で彼らを待っていた仲穎は、機嫌良く彼らを迎え、
「良く来たな。先日の夫人の件は、わしにも非が有った事を認めよう。」
先ずはそう言って謝罪の言葉を口にした。

「ご理解頂き、感謝致します。」
奉先はうやうやしく仲穎に向かって拝礼する。
それを見詰めた後、仲穎は側近を招き寄せて小さく耳打ちをし、

「実はな…びとして、お前に与えたい物がある。」
そう言って含みの有る目を細め、奉先に微笑した。

「?」
奉先が不思議そうに首を傾げていると、広間を出た側近が再び現れ、大きな箱を数名の配下に抱えさせて入って来る。

それを仲穎の前まで運び、側近がそっと箱のふたを外した。
仲穎は片腕を箱に差し入れると、何かを強くその手に掴み取り、ゆっくりと持ち上げる。

中から姿を現したのは、げきである。
だが、それはただの戟では無い。見たことも無いほど巨大なもので、の様に横に突き出た刃は、片側に美しい三日月型に形作かたちづくられている。

「どうじゃ、見事な戟であろう…!お前の為に、わし自ら作らせた特別なものだぞ!」
戟のたけは仲穎の背丈より遥かに高い。
その戟を床に立て、片腕で支えながら仲穎は満足げに見上げた。

奉先の隣に並んだ士恭は、その立派な戟に思わず感嘆し目を見張ったが、ふと隣に立つ奉先に視線を送ると、彼はただ無言でその様子を見詰めているだけである。
やがて仲穎に向かって拱手すると、

「相国、お気持ちは有り難く頂きます。ただ、俺はまだその様な物を頂く程の働きをしてはおりません。」
冷静な声色でそう答え、頭を下げた後さっさときびすを返して広間を出て行こうとした。

「待て!わしからの品が、受け取れぬと申すのか…!?」
それを見た仲穎は慌てて怒声を上げ、奉先を引き止める。
立ち止まった奉先は振り返り、鋭く仲穎を睨み付けると、

「相国、俺を利や欲だけで動く人間だと考えておられるなら、あなたはまだ何も分かっていない…!」

大声たいせいでそう言い放った。
それには士恭も驚いたが、仲穎は驚きの余り唖然あぜんとして言葉を失った。

「俺の真価しんかを知りたければ、それに見合った仕事を与えてくれれば良い。俺は必ずや、相国を満足させる働きをして見せよう…!」
そう言い捨て、再び背を向けて歩き去る。
士恭は、慌てて彼の後を追って走り出した。

「奉先殿…!何故、素直に相国からの贈り物を受け取らぬのです?何故、怒らせる様な事を…!?」
奉先に肩を並べて歩きながら、彼に耳打ちするように問い掛ける。
奉先は振り向かず、足早に屋敷から出るとようやく門の外で立ち止まった。

「与えられた物に、おいそれと飛び付けば自らをいやしめる事となる…まだだ、まだ足りない…!」

鋭い眼差しに暗い影を漂わせながら、奉先は呟く様に答えた後、再び歩き始めた。

広間に取り残された仲穎は、次第に沸き上がる怒りを手に掴んだ戟に込め、その柄を強く床に叩き付けた。
戟は石の床を突き破り、その場に深く突き立つ。
周りの側近たちは皆顔色を失って、その様子を遠くから見ているだけであった。

「生意気な餓鬼め…!」
仲穎は唸る様に言いながら、床にどっかと腰を下ろす。
それから暫し黙して、床に突き立った戟の刃の美しい輝きをじっと見詰めた。

「わしを試すか、面白い…!」
ふっ…と鼻で笑ったが、刃の光を瞳に映す仲穎は、その鋭い眼光を不気味に輝かせた。



穏やかに晴れ渡る午後、庭の木に美しい春の花が咲き、辺りにほのかな甘い香りを漂わせている。

その日、司徒しと王子師おうししは、自らの屋敷で自分の誕生日を祝ううたげを開いていた。
宴に集まったのは、彼と親しい知人や友人の数名だけである。
実は、祝いの宴と言うのは表向きで、彼らは集まって董仲穎を排除する為の策略を練っていた。

そんな中、側近の者が子師に近付き小さく耳打ちをすると、彼はわずかに驚きの表情を見せたが、直ぐに冷静さを取り戻し、

「来訪者が有るようだ。少し席を外させて頂く…」
来客たちへ向かいそう告げると、足早に宴の広間を後にした。

子師は急ぎ、居室で待たせているその人物の元へ向かった。
居室の中へ入ると、辺りを警戒する様に見回した後、素早く開いた扉を閉じる。
振り返った子師は、居室の中にたたずんでいる人物に、足音を忍ばせて近付いた。

曹孟徳そうもうとく殿…!用があるなら、先ずは使いの者を寄越せば良い。わしは、董仲穎に睨まれている…誰かに尾行びこうされたりはしておらぬか?」
子師は心配そうな顔で問い掛ける。

「大丈夫ですよ、王先生。此処へ来るまで、誰にも見られてはおりません。」
孟徳は目元に微笑を浮かべ、慌てる子師を少し可笑おかしげに見詰めながら答えた。

「それで…突然此処へ現れるとは、何かあったのですか?」
子師がいぶかしげに問うと、

「実は…あの剣を、使う時が来たのです。」

そう言って目元から笑いを収め、孟徳は子師を真っ直ぐな瞳で見詰める。

「お預かりしていた、あの…七星剣しちせいけんの事ですか…?!」
子師は思わず瞠目どうもくした。

以前、城内の鍛治かじ職人の元で、二人はばったり遭遇した。
孟徳は、虎淵こえんが持ち帰ったき身の剣に、新しいさやこしらえようと考え、そこへ赴いていた。
孟徳の持ち込んだ剣を、一目でそれが" 七星剣  "と言う宝剣である事を見抜き、その剣の見事な輝きに一目惚れした子師は、譲って欲しいと彼に頼んだのである。

「それでは、持ち主が…?!」
続けて子師が問い掛ける。

その剣は、持ち主が現れるまで王子師が預かるという約束になっていた。
やがて孟徳は小さく頷き、静かに微笑した。


宮殿の書庫を訪れていた李文優は、開かれた扉の前に立つ人物に声を掛けられ、細い目を上げてそちらを見上げた。

軍師ぐんし、お願いしておいた件、早速ご対応頂いた様で…感謝します。」
入り口に立った長身の男は、そう言って彼に深く礼をする。
逆光で人物の姿をはっきりとはとらえられないが、その声と風貌で、文優には誰か直ぐに分かった。

「構いませんよ。こちらこそ、あなたのお陰で相国から大きな信頼を得ました。礼を言うのはわたくしの方です。」
感情を余り現す事無く、小さく礼を返しながらそう答える。

「あなたが我々に寝返ってくれなければ、私の首は危ない所でした…」

「そうでしたか。では、俺はあなたの命を救ったという訳ですね…」
目元に微笑を漂わせ、文優の目の前へ歩み寄って来たのは、呂奉先である。

「公台殿にも話しましたが、残念ながら今、雒陽ここには空きの役職が有りません。何処でも良ければ紹介しましょう…」
再び机の上に広げた書簡に目を落とし、青白い手を伸ばしてそれらを閉じながら、文優は話し続けた。
「是非とも、そうして下さい。李元静りげんせい殿に俺を会わせてくれたのも、あなただそうですね、軍師…」

奉先の言葉に、文優は珍しく眉を少しゆがめる。
「それは、誰から…?」
「元静殿本人から聞きました。軍師は何でも良くご存知でおられるのだと…」

文優は何処どこと無く、面白く無い顔をした。
と言っても、常に彼は不機嫌そうに見えるので、実際にはいつもと変わらない表情である。

「丁建陽の元へ、刺客せっかくを送ったのも、あなたでしょう…?」

「私は、刺客を送り込むよう依頼をしただけで、実際、刺客が何処の誰なのか…どうなったのかすら知りません。」
「もし、俺が寝返らなかった場合を考え、手を回しておいたと言う訳ですか…全く、抜かりが無い…!」
微笑を浮かべたまま、奉先はじっと文優の細い目を見詰めていたが、やがて笑顔を収めると、小さく溜め息を漏らした。

「此処には、俺をこころよく思わぬ者も多い…信頼出来る人は、あなたの他におりません…」
「………」
文優は眉を動かさず、黙って彼の目を見詰め返す。

まるで、捨てられた仔犬の様な目をする…
ふとそう思い、文優は心の中で小さく笑った。

「私はあなたの味方です。ご心配なさらず。」
彼にしては珍しく優しい声色で答えると、奉先は再び嬉しそうに顔をほころばせ、文優に向かって礼をすると、きびすを返して扉へと向かった。

書庫を出て行く奉先の顔からは、既に笑顔は消えている。
両手の拳を固く握り締め、宮殿の長い廊下を足早に歩き去って行った。


その足で董仲穎の屋敷へ向かった奉先は、屋敷の廊下で仲穎の側近に呼び止められた。
「相国は只今、面会中です。暫しお待ちになった方が宜しいのでは…?」

「面会だと…?聞いておらぬ。誰が来ているのか?」
奉先は訝しげに側近を振り返り、問い掛けた。

あれから、奉先は仲穎の身辺警備を任される様になっていた。言わば用心棒である。
屋敷を自由に出入りし、彼の居室にも入る事を許されていた。
仲穎は、奉先に対し信を置く事を示したのである。

「いらっしゃっているのは、議郎の曹孟徳様です。」

側近のその言葉に、奉先は瞠目どうもくした。

「孟徳殿が…!?」

思わず言葉を詰まらせ、はっと息を呑む。
孟徳が仲穎を訪ねた目的は、一つしか無いと思い至った。

まさか…孟徳殿が、相国を…!
奉先は激しい焦燥しょうそう感を覚え、側近が呼び止めるのも聞かず、仲穎の居室へと続く廊下を足早に通り抜けた。
廊下の先に見える角を曲がれば、居室まであと少しである。

孟徳が剣術の達人である事は認めている。
しかし、仲穎もまた武術の達人であり、その技も力も孟徳を遥かに上回っている事が奉先には分かっていた。

孟徳殿の暗殺計画は、失敗に終わる…!

それは確信であり、そうなれば仲穎は必ず孟徳を殺すであろう。
廊下の角を曲がろうとした時、居室の方から仲穎の高笑いが聞こえて来た。

奉先は青褪あおざめ、走って居室の入り口へと向かい、勢い良く扉を開いた。


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