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第六章 反逆の迅雷と戦火の都

第六十三話 揺らぐ絆

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翌朝、空には暗雲が立ち込め、太陽の日差しも地上に届かぬ程の薄暗さだった。
軍法会議が開かれている広い幕舎の外には篝火が煌々と輝いており、辺りは既に夕闇に包まれたかの様である。


「わしの命令が、聞けぬと申すのか!?」


突然、破鐘われがねの様な怒鳴り声が幕舎の外にまで響き渡った。

声の主は丁建陽である。
彼は目をいからせ、憤怒ふんどの表情で目の前にひざまづく人物を睨み付けている。

「どうあっても去らぬと申すなら…例えお前であっても斬り捨てるぞ…奉先!!」

建陽の前に跪き、拱手きょうしゅしたまま俯いている奉先は、額に汗を浮かべて青褪あおざめていた。

騒ぎを聞き付けた兵士たちが幕舎の周りに集まり、入り口は黒山の人だかりとなっている。

「叔父様…!」
その兵士たちを掻き分けながら、玲華が幕舎へと入って行く。
「一体…何があったの?!」
走り寄ろうとする玲華を、建陽は手で制した。

「玲華、お前には関係の無い事だ!退がっておれ…!」
「で、でも…!」
言い掛けた玲華を、建陽は鋭く睨み付ける。
そこへ、側近の雅敬がけいが進み出ると、

「この裏切り者め…!丁将軍に厚遇されながら、恩をあだで返すとはな!これでも、まだしらを切る積もりか…!」
そう毒突どくづいて、手にした書簡を奉先の足元へ投げ付けた。

書簡を縛る紐が解け、床の上に広がる。

「それは今朝、お前の舎で発見したものだ!丁将軍の首を董卓に献上する代わり、約束通り馬や宝の数々をお前に与えると、はっきりと書いてある…!」

奉先は震える手でそれを拾い上げ、書かれた文字を赤い目で追った。
雅敬が目をいからせながら荒げる声が、何処か遠くから響いて来る様に感じる。

「ま、まさか…奉先が…!」
玲華は信じられないという表情で、奉先を見詰めた。
青褪めた顔のまま、赤い目で建陽を見上げた奉先は、

「あ、有り得ません…父上、俺は…!」

声を震わせ、自分の胸に強く手を押し当てて必死に訴える。
建陽はそれを制し、

「黙れ、詰まらぬ言い訳など聞かぬ!即刻、此処から立ち去らねば、お前を斬り捨てる…!」

そう言って、手にした剣を鞘からゆっくりと抜き取ると奉先の首筋へ切っ先を向けた。

「わしの首が欲しければ、力ずくで取るが良い…!」

「……!父上、俺は父上を裏切ったりしない…!」

それでも奉先は、潤んだ瞳で強く建陽を睨み返す。
建陽は怒りをその目に宿し、奉先を睨み返すと掴んだ剣を高く振り上げた。

「わしを甘く見るな…!!」

振り下ろされた剣は、奉先の頭上へと迫る。

「叔父様、やめて!!」
思わず玲華は顔を両手で覆い、悲鳴にも似た叫び声を上げた。

床に、赤い血がしたたり落ちる。

ひざまづいた奉先の足元には、真っ赤な鮮血が広がっていく。
赤い目を見開き、奉先は微動だにせず建陽を見上げていた。

建陽が振り下ろした剣は、奉先の額の真上で止まっている。
僅かに触れた剣刃が彼の額を切り付け、眉間から頬を伝って血が流れていた。

「どうした…?何故剣を抜かぬ…!?わしの首が欲しくないのか!?」
建陽は冷静さを取り戻した様に、低く問い掛ける。

「信じて頂けぬなら、どうぞお斬り下さい…!」

「死をもって、己の潔白を証明したいと申すのか…!自惚うぬぼれるな、お前の命にどれ程の価値があるのか?!お前など斬っては、このわしの名が汚れるだけだ…!」
そう言うと建陽は剣を引き、素早く鞘へ仕舞うと、奉先に背を向けた。

「養子とはいえ、息子に裏切られるとは…わしの至らなさである。お前は追放する!二度とわしの前に姿を現すな…!」

怒りを抑えながら語る建陽の背中を、奉先は目を潤ませながら見上げていたが、やがて肩を震わせながら深く項垂うなだれた。

「何をしている!早くそいつを外へ追い出せ!」
唖然としてその様子を見ていた護衛の兵士たちに向かい、雅敬が怒鳴り付ける。
護衛たちは慌てて、手にした戟を奉先に向けながら、彼の周りを取り囲んだ、

「お、おい…!さっさとしろ!早く立て!」
護衛たちは切っ先を向けて促したが、奉先は俯いたまま動こうとしない。
彼はまぶたを強く閉じ、握り締めた拳を震わせている。

兵士たちが詰め寄った、その時、

「寄るな!!」

突然奉先は、地を割る程の怒声で、取り囲んだ兵士たちを怒鳴り付けた。

恐れおののきながら見上げる兵士たちの前で、異様な瘴気しょうきの様なものを沸き上がらせながら、ゆっくりと体を起こし、奉先は立ち上がる。
やがて閉じた瞼をかっと見開き、怒りをたぎらせた赤い瞳を目の前の建陽の背に向けた。

「父上…!」

唸る様に呟くと、震える左手を腰にいた剣へと伸ばす。
次の瞬間、奉先は剣を素早く抜き放ち、頭上へ高く振り上げると一気に振り下ろした。

「!!」

それは余りに一瞬の出来事で、固唾かたずを呑んで見ていた兵士たちの誰一人、彼を止める事は出来なかった。
玲華は瞠目どうもくしたまま息を呑み、声も上げられずにいる。

剣は、彼の足元に広がった血溜ちだまりの中に突き立っていた。
血濡れた顔を上げた奉先は、建陽の背中に向かい拱手する。

「父上、あなたから受けた御恩ごおんを、俺は一生忘れません…!」

震える声でそう言い放った奉先は、素早くきびすを返し、外套がいとうひるがえして周りの兵士たちを押し退けながら、幕舎から出て行こうとした。

「奉先…!」
我に返った玲華は、彼の名を呼んで呼び止めようとしたが、奉先は振り返る事無く出て行った。

「………」
背を向けたままその場に佇んだ建陽は、憂いを帯びた眼差しで虚空を見詰め、やがて目を伏せた。



幕舎から走り出た玲華は奉先を探したが、彼の姿は既に見当たらなかった。

「玲華殿…!」
その時、背後から呼び掛けながら、張文遠が走り寄って来る。
彼は朝の調練の為、部下たちを引き連れ陣営を離れていたが、騒ぎを知って急ぎ幕舎まで駆け付けて来た所だった。

「何があった?!今、馬で出て行く奉先と擦れ違い、呼び止めたが彼は何も言わず行ってしまった…!」
文遠は困惑した顔で玲華に問い掛ける。
立ち止まった玲華は彼の顔を見上げ、おもむろに口を開いた。

「……昨夜ゆうべ、あなたと奉先が董卓の配下らしき人物と会っていたのを、見た者がいるわ…」

「…!?」
文遠の瞳には明らかに動揺の色が浮かんだ。

「そ、それは…」
「やっぱり、本当だったのね…」
小さく溜め息を吐き、玲華は暗い瞳で俯くと、肩を落としながら文遠に背を向けゆっくりと幕舎の方へと歩き出す。

「玲華殿、待ってくれ!確かに、俺と奉先は董卓の配下に会った。董卓のもとへ、寝返るよう誘われたのも事実だ…!」

遠ざかる玲華の背中を真っ直ぐに見詰め、文遠は声を掛けた。

「だが…あなたは、彼を誤解している…!」

その言葉に玲華は振り返り、彼の瞳を訝しげな眼差しで見詰めた。


燭台の小さな炎が、隙間すきま風に時折大きくあおられ揺らめいている。

「今、何とおっしゃいました…!?」
薄暗い幕舎の中で、李元静りげんせいは驚きの余り声を上擦うわずらせた。

「聞こえなかったか?俺は、相国のもとへは行かぬと申したのだ。」

「ま、まさかご冗談を…相国はご自分の至高しこうの宝を差し出すと言われておられるのです!これ程の厚遇を断るなど、考えられません…!今一度ご再考を…!」
元静は額に汗を浮かべながら必死に訴えた。
だが、奉先は揺らめく炎を瞳に映しながら、鋭くその顔を睨み、

「"逆賊"は父上ではなく、董仲穎とうちゅうえいの事であろう!朝廷を支配し、皇帝までも意のままに操ろうと企んでいる。これが逆賊でなくして何であろうか…!」

そう言って彼を一喝いっかつする。
青褪あおざめ言葉を失った元静は、戸惑って視線を泳がせる。

「父上に出会う前…」
「……?!」
今度はまぶたを閉じて静かな声色で語り出した。

「俺は、呂龍昇りょりゅうしょう様の下で刺客せっかくとして働いていた。心を持つ事は許されず、血も涙も無く人を斬れと命じられた…そんな俺に、父上は人道を説き、人として生きる道を開いてくれた…」

にわかに眼差しを上げた奉先は、鋭い眼光を元静に向け言い放った。

「父上は俺に人生を与えてくれた。これにまさる宝があるだろうか?!」

その言葉に、元静は遂に言い返す事が出来ず、黙って奉先を見詰めていた文遠は、目元にわずかな微笑を浮かべた。


「あいつが、丁将軍を裏切るなど…考えられない!きっとこれは、何者かによる陰謀である…!」
文遠は目の前に立つ玲華を、真っ直ぐに見詰め訴える。

「あいつを、信じてやってくれないか…!?」

「!!」

玲華は目を見開き、瞳に動揺の色を浮かべた。

「あたし…奉先を追わなきゃ…!」
突然、思い出したかの様に顔を上げた玲華は、馬房ばぼうから馬を引き出し、文遠と共に奉先の去って行った方向へ馬を走らせた。

空を覆う黒い雲は次第に厚みを増し、強い風に吹かれて渦を巻いている。
今にも泣き出しそうな空を見上げると、遠くの空にいかずち雷光らいこうが走っているのが見えた。
やがて丘を超えた辺りで、二人は前方を行く奉先の後ろ姿をとらえた。

「奉先、待て!!」
文遠は声の限りに叫び、彼を呼び止めた。
その声が届いたのかいないのか、彼は馬の歩みを止める事無く歩き続けている。
二人は馬を飛ばして追い付くと、前方へ回り込んで馬を降り、彼の馬の前を塞いだ。

「奉先…!俺から玲華殿に説明した。丁将軍の元へ戻ろう。玲華殿が将軍を説得して下さる…!」
文遠は奉先の馬を止め、彼を見上げながらそう言ったが、馬上の奉先は項垂れたままで無反応だった。

「おい、聞いているのか!?」
文遠は彼の腕を取り、強く引っ張る。

「文遠…!やめて、彼は戻らない…」

玲華のその声に、文遠は驚いて振り返った。
「え?!どういう事だ、玲華殿…?!」

「奉先は、叔父様の所へは帰らないわ。あたしたちも、彼と一緒に行くのよ…!」

玲華は二人を見詰めながら、はっきりと強い口調でそう答えた。

狼狽うろたえた文遠には、玲華の言っている言葉の意味がよく飲み込めないでいる。
やがて、俯いていた奉先は顔を上げ、目の前に立ち尽くす玲華に赤い瞳を向けた。

「始めから、おかしいと思っていた…」
そうつぶやくと馬を降り、ゆっくりと玲華に歩み寄った。

雅敬がけいは、あの書簡を俺の舎で発見したと言っていたが…そんな書簡など意味が無い事を、父上は知っておられた筈…」
「それは、どういう意味なの…?」
玲華は怪訝な眼差しを向け、奉先に問い掛ける。

「俺は、字が読めぬ…!父上はその事をご存知であった…」

「!?」

玲華は瞠目どうもくして彼を見上げたが、近付いた奉先はいきなり彼女の肩を掴み、強く迫った。

「玲華殿、あなたは父上に…俺を追えと、言われていたのではないのか?」

「あ、あたしは…何も…!」

玲華が声を震わせて答えたその時、文遠が叫んだ。
「おい!あれを見ろ…!!」

見ると、丘の上から遠く霞んで見える建陽の陣営に、黒煙が天高く立ち上っているのが確認出来た。

「あ、あれは…!」
「俺たちの陣営で、何かあったらしい…!」
文遠が奉先に走り寄り、彼の肩を叩くと、二人は急いで馬へ戻ろうとした。

「待って!奉先、行っては駄目よ!」
玲華が叫んで奉先に駆け寄ると、両腕を広げて彼の行く手を遮った。

「玲華殿!あなたは、何を隠している…!?」
「………!!」
鋭い眼光で睨む奉先の前に立ち塞がった玲華は、臆する事無く彼に強い眼差しを向けた。



強風にあおられ、炎は次々に幕舎へと燃え移って行く。
はためく軍旗を焦がしながら、黒煙は濛々もうもうとして空へ立ち上っていた。

「火事だーーー!水を運べーー!!」
建陽の陣営では、激しい火の手を抑えようと、兵士たちが右往左往していた。

幕舎へ飛び込んだ兵士は額に汗を浮かべ、慌てながら建陽に報告する。
「て、丁将軍…!何者かが、兵舎に火を放った模様です…!」

「全部隊に、慌てず迅速に消火に当たれと伝えよ!引き続き警戒を怠るな…!」
建陽は落ち着き払って兵士にそう告げると、立ち上がって腰の剣把けんぱを強く掴んだ。

「…やはり、動き出したか!」

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