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第五章 虎狼の牙と反逆の跫音
第五十六話 震天動地
しおりを挟む一筋の稲妻が暗闇を切り裂き、雒陽の王宮の屋根に直撃した。
屋根の一部は破壊され、打ち付ける暴風雨が城内の木々を激しく揺らしている。
再び辺りを眩い閃光が照らし出した時、大きな屋敷の門前に一人の男の影が浮かび上がった。
広い屋敷の廊下を、家臣たちが慌てた様子で走っている。
広間へ辿り着くと、宴会の客たちと共に、奥で機嫌良く酒を飲みながら、左右に美女を侍らせた主の前へ進み出て拱手する。
「たった今、相国に御目通り願いたいと申す者が…!」
それを聞くと、杯を口に運んでいた董仲穎は口の端を上げて、にやりと笑った。
「ふっ…!漸く、現れたか…」
杯の酒を一気に飲み下すと、門前の男を室内へ呼び寄せるよう、家臣たちに命令を下した。
やがて、広間へと姿を見せた男の衣服は雨と血に濡れ、泥だらけのままである。
その異様な姿に、集まっていた宴席の客たちは皆怪訝な眼差しで男を見上げたが、彼の手に握られた、まだ血の滴る布の包みを見て、場の空気は一瞬にして凍り付き、全員が青褪めた。
「丁建陽の首、献上に参りました…!」
室内に稲妻の閃光が走り、雷鳴が轟き渡る中、男はそう言って床に膝を突き、床の上に血塗れの布の包みを無造作に投げ出すと、血走った赤い目を上げて仲穎に拱手した。
「よくぞ参った…!約束通り、褒美は幾らでもくれてやるぞ。呂奉先!」
満面の笑みを浮かべながらその場に立ち上がった仲穎は、宴席の皆に酒を振る舞うと、上機嫌で杯を高く掲げ、狼狽える客たちに祝杯を挙げさせた。
屋敷の外は、相変わらず嵐が吹き荒れている。
隙間風が室内に入り込み、燭台の灯を激しく揺さ振る。
曹孟徳は居室で、護衛の楽文謙を前に、神妙な面持ちで書簡に目を通していた。
「こ、これは…!」
孟徳は不意に、眉間に深く皺を寄せて呟いた。
「孟徳殿、悪い知らせですか!?」
文謙は思わず身を乗り出して問い掛ける。
書簡から目を上げた孟徳は、暫し文謙の顔を険しい表情で見詰めていたが、やがてふっと愁眉を開き、
「虎淵が、姉上の香蘭と結婚する事になったそうだ…!」
と、文謙ににっこりと微笑んで答えた。
「!?」
文謙は呆気に取られ、口を大きく開いたまま固まっている。
その顔を見て、思わず孟徳は吹き出した。
「あはははっ!何て顔をするんだ…!虎淵に先を越されてしまったな、文謙!」
孟徳はそう言いながら、腹を抱えて床の上で笑い転げる。
我に返った文謙は、思わずむっとして、
「お、俺は別に…!孟徳殿の方こそ、まだ嫁を娶っておらぬでは無いか…!」
と、息巻く様に言い返した。
「お前に心配されなくても、俺は大丈夫だ…!」
起き上がった孟徳は、少し不機嫌な態度で答える。
少し言い過ぎたかと反省しながらも、内心半信半疑の文謙は小さく首を傾げた。
「…本当かなぁ…」
それを横目に見ながら小さく咳払いをすると、孟徳は再び書簡に目を向けた。
「そんな事は、どうだって良いだろう…!それよりめでたい話だ、虎淵を祝ってやろうではないか!」
そう言って目元に微笑を浮かべ、書簡を眺めながら小さく感嘆の溜め息を漏らす。
奉先がこの事を知ったら、きっと喜ぶであろうな…
孟徳は目を細め、室内で微かに揺れ動く燭台の灯を見詰めた。
この冬、雒陽では近年稀にみる大雪となり、冬の間、殆ど戦闘も行われず、平穏な日々が続いていた。
やがて雪解けとなり、春の足音が近づいていた頃である。
ここ数日、春の嵐で天候は不安定で、昨晩から降り続いていた雨はやがて豪雨となり、激しい雷雨へと変わった。
雨足は途絶える事無く、その日も一日中降り続いていた。
そんな雨の中、文謙の御す車に乗り込み、孟徳は董仲穎からの召集に応じて朝廷へと向かった。
朝廷内に集まった文武百官たちの間には、何やら物々しい空気が漂っていた。
何かあったらしい…
不穏な様子に辺りを見回していると、彼の姿を見掛けた、侍中の蔡伯喈が小走りに近付き、彼に耳打ちした。
「曹孟徳殿…!大変な事になりましたぞ、実は…!」
伯喈が話し始めようとした時、朝廷内が一瞬にして静まり返る。
見ると、董仲穎が皇帝を引き連れて朝廷内へ入って来る所であった。
仲穎は皇帝を恭しく玉座へと誘い、自らは皇帝の脇に置かれた床几(椅子)に座した。
その日の仲穎の様子は、いつにも増して上機嫌である。
側近の者を呼び寄せ何やら耳打ちをすると、やがて布を掛けた盆を捧げ持った側近を引き連れ、長身の男が姿を現す。
男は確か、李文優と言う、仲穎の参謀となった人物である事を孟徳は思い出した。
「皆の者、今日は実に良い知らせが出来るぞ…!」
仲穎は床几から腰を上げ、集まった文武百官を見渡しながら大声で告げた。
「昨晩、ある人物がわしの元を訪れた。その者は、王朝の逆臣を見事に討ち果たし、その首を献上に参ったのだ…!」
そう言いながら、ゆっくりとした足取りで前へ進み出ると、盆に掛けられた布を素早く取り払う。
次の瞬間には、朝廷内の全員が一斉に息を呑んだ。
盆に乗せられていたのは、丁建陽の首である。
「逆臣、丁建陽は討伐された!わしに刃向かう者は、尽くこの通りとなる…!」
仲穎は曝された建陽の首を指し示し、不敵に笑みを浮かべながら朝廷内の全員を一喝した。
あの武勇に名高い丁建陽が斃されるとは、誰一人予想だにしていなかった。
文武百官らは皆頭を垂れ、仲穎を恐れて声を上げる者も居ない。
孟徳もまた、信じられないといった表情で青褪め、ただ愕然として床に跪き、建陽の首を見上げている。
まさか、奉先が…!
そんな彼の姿を認めた仲穎は、にやりとほくそ笑み、意味深な視線を彼に送った。
朝廷から退廷した後、どうやって屋敷まで帰り着いたのかよく憶えていない。
宮殿を出た後、雨の中を一人彷徨い歩いている孟徳を見付け、文謙が彼を車に乗せて連れ帰ったのである。
「丁将軍を殺したのは、間違いなく奉先だそうです。董仲穎は彼を騎都尉に任命し、見返りとして名馬や多額の報奨金を与えたと聞き及んでおります…」
孟徳は居室で濡れた着物を着替えながら、文謙の語る言葉を半分上の空で聞いていた。その時である。
廊下を走って来た使用人が、慌てた様子で扉の外から呼び掛けて来た。
「孟徳様…!相国がお見えです!」
「!?」
驚いたのも束の間、直ぐに廊下の奥から、仲穎がこちらへ向かって来る大きな足音が近付く。
素早く扉の外へ出た文謙は、仲穎の前に立ちはだかり、彼の行く手を塞いだ。
「孟徳殿は、ただ今着替えの最中ゆえ、直ぐにはお会いになれません。ご用件は某が伺いましょう。」
「ふん…孟徳め、あれ程の大口を叩いておきながら、やはり恐ろしくなったとみえる…!」
立ち止まった仲穎は、不機嫌そうに文謙を見下ろし、そう呟いた。
「…一体、何の話でしょうか?」
話の内容が理解出来ず、文謙は訝しげに首を傾げた。
「お前は何も聞いておらぬ様だな…なに、こちらの話よ…」
仲穎が不敵に笑って答えた時、居室の扉が開かれ、
「相国、お待たせしました。どうぞお入り下さい。」
衣服をすっかり着替え、二人の前に姿を現した孟徳が、そう言って仲穎を室内へ誘った。
唖然としている文謙を尻目に、仲穎はずかずかと室内へ入って行く。
「文謙、お前は此処で待っていてくれ…」
孟徳が文謙を廊下で引き留めようとすると、
「構わぬ、その者も中へ入れてやるが良い。わしとの約束を反故にされては困るからな…!」
仲穎がそう言って、彼に中へ入るよう手招いた。
「…約束?孟徳殿、"約束"とは何ですか?!」
文謙は怪訝な眼差しで孟徳を振り返る。
「……」
孟徳は暫し黙したまま、じっとその瞳を見詰めていたが、やがて静かに答えた。
「もし、奉先が丁将軍を裏切り、相国に寝返ったら…"俺の首を差し出す"という約束だ…」
「え…!?ど、どういう事ですか?何故、そんな約束を…!?」
それを聞いて仰け反らんばかりに驚いた文謙は、狼狽えて孟徳の肩に掴み掛かる。
「わしと孟徳は"賭け"をした。孟徳が勝てば、わしは相国の座を譲り、わしが勝てば、孟徳は首を差し出すと約束を交わしたのだ…!」
不敵な笑みを浮かべて答える仲穎を、文謙は険しい表情で睨んだ。
「そんな口約束など、無効だ!相国の座に対し、孟徳殿が命を賭けるなど、馬鹿げているではないか…!」
文謙はそう言って息巻く。
「文謙やめろ!約束を反故にすれば、それこそ信義に悖る。ここで命を落とすのなら、それも天命であろう…!」
孟徳は文謙の肩を強く掴み、目元を赤く染めて真っ直ぐに彼を見詰めながらそう言った後、室内の仲穎に歩み寄ると彼の前で膝を折り、その場に跪いた。
「ふふ、中々潔が良いな…!そうでなくては成らぬ。」
仲穎は含み笑いをし、腰に佩いた剣にゆっくりと手を伸ばす。
青褪めた顔でそれを見ていた文謙は、咄嗟に孟徳の隣に膝を突いた。
「孟徳殿が斬られるなら、俺も共に斬られます…!」
「文謙…!?お前がそこまでする義理は無いだろう…!」
驚いた孟徳が振り返ると、
「孟徳殿を失えば、俺は虎淵に会わせる顔が無い…!あなたを必ずお護りすると、彼と約束をしたのです…!」
そう言って、文謙は両膝で固く握り締めた拳の上に、はらはらと涙を零す。
その姿に胸を打たれた孟徳は瞳を潤ませ、涙で濡れた彼の拳を、その上から強く握り締めた。
「文謙…お前にまで、迷惑をかけてしまったな…」
そう呟いた後、文謙の肩を引き寄せて彼の耳に唇を寄せると、孟徳は小さく彼に何かを囁いた。
顔を上げた文謙は、目に驚きと戸惑いを宿して孟徳を見上げたが、彼は僅かに微笑し、小さく頷いただけであった。
「そろそろ良かろう…」
薄暗い燭台の灯に怪しく輝く剣を構え、不気味な笑みを浮かべながら、仲穎は二人の前に仁王立ちとなる。
そして、ゆっくりとその剣を高く頭上に振り翳すと、赤い目で彼を見上げる孟徳の首筋を狙って、一気に振り下ろした。
その瞬間、隣に跪いた文謙は思わず顔を背け、強く両目を瞑った。
暫し沈黙の刻が流れ、辺りには屋根に打ち付ける雨の音だけが激しさを増して鳴り響く。
仲穎の振り下ろした剣は、彼を見上げたまま動かない孟徳の喉元で止まっていた。
「……!」
孟徳は押し黙ったまま、仲穎の鋭い眼差しを見詰め返している。
やがて仲穎は目元に微笑を漂わせると、口を歪めてふっと笑った。
「貴様はやはり、肝が据わっているな…!」
そう言って剣を引くと、素早く鞘へ仕舞う。
そして二人の前に腰を落とし、血の気の失せた孟徳の頬に右手の掌を当て、笑いながら軽く叩いた。
「何も、死に急ぐ必要は無い。貴様の条件は、奴を心服させる事が出来たら…というものであったろう?わしに寝返ったからと言って、まだ心服させた事には成るまい…!」
仲穎は再び立ち上がり、勝ち誇る様な顔で微笑を浮かべ、目の前に跪く彼らを見下ろした。
「それに、わしは貴様を殺すのが惜しいと思い始めている…!まだ暫く、貴様の首は繋いでおく事にしよう…」
不敵にそう言い残し、跪く孟徳と文謙の間を通り抜けると、不気味に鳴り響く笑い声を上げながら、やがて風の様に去って行った。
その場に座したまま、二人は暫し呆然として、屋敷の外に降り続く雨音を聞いていた。
我に返った文謙は、孟徳の肩を強く揺すり、
「孟徳殿!一刻も早く此処を去りましょう…!」
青褪めた表情のままそう言った。
流石に今回ばかりは肝が冷えた。今すぐにでも逃げ出したい気持ちになっているのは孟徳も同じである。
握り締めた拳には、じっとりと汗が纏わり付き、小刻みに震えていた。
だが、孟徳は深く息を吸い込み呼吸を整えると、
「今逃げ出せば、自分の負けを認めた事になる。それに、仲穎は決して我々を赦さず、今度こそ間違いなく八つ裂きにするであろう…!」
そう答え、静かに立ち上がる。
やがて室内の小さな窓の前に立ち、孟徳は庭に降り注ぐ雨を見詰めた。
「俺は、何時でも死ぬ覚悟が出来ていると思っていた…だが今、切実に生きたいと願った…!まだ生きて、やらねば成らぬ事が、山程あるのだと…!」
冷たい汗に濡れた拳を固く握り締め、燭台の灯を映した孟徳の瞳は、ゆらゆらと燃えている様に見えた。
その背中を真っ直ぐに見詰めていた文謙は、彼の方へ膝を進め、姿勢を正すと、
「孟徳殿…俺は、全身全霊であなたの力になると約束します…!」
そう力強く彼の背に語り掛ける。
孟徳は振り返り、文謙に微笑を向けると、彼に強く頷いて見せた。
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