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第四章 皇帝の崩御と激動の刻
第五十話 皇帝の廃立 《四章 最終話》
しおりを挟む李元静という名の若者と別れた後、養父、丁建陽の指示で、奉先は数名の配下たちと共に騎馬部隊を率い、雒陽城外の野営地へと向かった。
河北で募兵を行っていた張文遠が、千人余りの兵を率いて帰還して来ている。
建陽は、その兵士たちを雒陽へ入れる事に不安を感じており、一先ず、彼らを城外に駐屯させる事にしたのである。
前方に雄大に連なる邙山の眺めが広がっている。
然程急ぐ道程では無い。奉先はその景色を眺めながら、ゆっくりと馬を走らせた。
北邙山へと続く街道の上、前方から一台の車が近付いて来るのが見えた。
派手な装飾品で飾られてはいないが、貴人の車であろうか、黒い車蓋(車の上の覆い)の一頭立ての小さな車である。
奉先らは、数十騎の騎馬軍団を率いている。
車を御していた若い男は、街道上で馬を停止させ、車蓋の下に瞑座する貴人を振り返った。
「孟徳様、何処かの軍勢がこちらへ近付いております。このまま、やり過ごした方が宜しいでしょうか?」
「何処の軍勢か、分かるか?」
「どうやら…丁将軍の部隊の様です。」
青年は目を細め、彼らが靡かせている軍旗に書かれた『丁』の文字を読み取った。
「面倒には巻き込まれたく無いな…よし、文謙、街道を逸れて彼らに道を開けよう。」
「畏まりました。」
御者の楽文謙は再び馬に鞭を打つと、街道から離れた林の近くへ車を移動させ、そこから彼らが通過するのを待つ事にした。
貴人の車が道を開けるのを見て、奉先は一旦部隊を停止させると馬上で振り返り、兵士たちに速やかに通過するよう合図を送る。
騎馬たちは歩行の速度を上げて、街道を迅速に移動し始めた。
林の近くに車を停めた孟徳と文謙は、彼らが通り過ぎて行くのを遠くから見守っている。
やがて全ての兵士が通り過ぎた後、ゆっくりと車を動かし、再び街道へと戻った。
奉先は部隊の最後尾へ周り、馬上から街道へ戻る車の貴人に向かって拱手した。
車上の貴人は、車蓋の下で座したままであったが、彼に向かって揖をし挨拶を返す。
その姿を見送り、奉先は再び部隊の前方へ馬を走らせた。
孟徳は突然、はっとして顔を上げ、車から身を乗り出した。
「孟徳様、どうなされた?!」
馬を御していた文謙が驚いて馬の足を止め、振り返って問い掛ける。
「今の将は…いや、そんな筈は無いか…」
孟徳は、遠ざかって行く騎馬部隊の後ろ姿をじっと見詰め、暫しそれを眺めていたが、やがて静かに向き直ると、両腕の袖口を合わせて胸の前に組み、
「行こう。」
と小さく答え、再び瞑座した。
冷たい北風が街道を吹き抜け、車上で揺られる孟徳の長い髪を靡かせる。
その日の朝、孟徳は虎淵と家宰らに転居の準備を任せ、城内の知人らに挨拶をして廻った後、北邙山へと向かう事にした。
一人で出掛けようと考えていた孟徳に、虎淵は従者として楽文謙を連れて行くよう強く提案し、直ぐに文謙を屋敷へ呼び寄せた。
文謙は、賈人の衛子要の護衛を虎淵と共に務め、雒陽へ帰還してからは、度々曹家の屋敷を出入りし、孟徳の護衛や仕事の手伝いをする様になっていた。
文謙は喜んで孟徳の護衛を引き受けると、用意された車に乗り込み馬を御す。
「孟徳様、お気をつけて!」
「ああ、行って来る。夕刻までには戻るから、それまで家の事は任せたぞ。」
虎淵に見送られながら、孟徳を乗せた車は北風の中を進んで行った。
翠仙を埋葬した丘へ登り、彼女の為に祈りを捧げた後、孟徳は丘の上に立って足元に広がる雒陽城の方を見下ろした。
そこにあるのは、以前橋公祖と共に見たのと同じ、雄大な光景である。
「今、天子を手に入れた董仲穎は、権力を欲しいままにし、漢王朝はあの男によって支配される事になるだろう…」
孟徳は冷たい風に向かって、一人呟いた。
「師匠…天は何故、あの男を選んだのであろうか…?」
少し離れた場所に車を停め、馬を休ませながら、文謙は車上で孟徳を待っている。
そこから首を伸ばして丘の上を眺めると、冷たい風に長い髪と着物を靡かせたまま、いつまでもじっと立ち尽くしている孟徳の姿が見えた。
「俺は雒陽を離れ、故郷へ帰ろうと思います…師匠、どうか翠仙の事を宜しく頼みます。」
彼は身動きもせず、そのまま何刻でもそこに立っているのではないかとさえ思われる。
暫し孟徳の後ろ姿を見守っていたが、次第に不安になった文謙は、
「孟徳様、風が冷たくなって来ました。そろそろ戻りましょう…!」
と、大声で彼の背に呼び掛けた。
吹き付ける冷たい風の声に暫し耳を澄ましていた孟徳だったが、やがて後ろを振り返ると、不安な面持ちで見詰める文謙を見てやや微笑を浮かべ、彼に向かって小さく頷いた。
屋敷の門前で、孟徳の帰りを今か今かと待ち侘びていた虎淵は、通りの先に孟徳の乗った車を認めると、飛び跳ねる様にしてそちらへ走り寄った。
「何だって…奉先が…!?」
息を切らせながら、屋敷を留守にしていた間に起こった出来事を語る虎淵に、孟徳は瞠目し、困惑した顔を向ける。
「それから、先生は丁建陽様の養子となり、今はその配下として働いているそうです。」
「丁将軍の…」
孟徳は此処へ戻る途中で擦れ違った、あの騎馬部隊の将の姿を思い浮かべた。
やはりあれは、奉先だったのでは無かったか…
眉間に深く皺を寄せ、難しい表情で足元を睨んでいる孟徳の姿に、虎淵は首を傾げた。
「孟徳様は、もっとお喜びになると思っていましたが…」
「喜ぶ?俺が…?!」
顔を上げた孟徳は、思わず狼狽えた。
「生きていたのなら、先ず真っ先に俺に会いに来るべきでは無いか…!勝手に丁将軍の養子になるとは、いい気なものだ…!」
そう言って憤然としながら車を降り、孟徳は大股で屋敷の門を潜って中へと入って行く。
虎淵は文謙と顔を見合わせ、二人は呆気に取られた表情で、その後ろ姿を見送った。
自分の居室へ入り、開いた扉を背中でそっと閉じた後、孟徳は壁に掛けておいた奉先の剣に視線を注ぎ、急いでその剣把を手に取った。
「お前を主の元へ、返してやれるぞ…!」
七色に輝く剣刃の光に目を細め、そう小さく呟く。
奉先が生きていたと言う事実には、正直驚いた。
生きていて嬉しくない筈は無いが、虎淵や文謙の手前、喜びはしゃぐ姿を見せるのは、何だか憚られた。
それに、再会の機が有りながらそれを逃した事に切歯扼腕する思いも有り、複雑な感情の整理が付かず、どういう顔をすれば良いか分からなくなってしまった。
孟徳はその宝剣を素早く布で包むと、胸に抱いて部屋を後にした。
寒風の吹き抜ける雒陽の大通りを渡り、孟徳が向かったのは、市場に住む鍛冶職人の元である。
「この剣に、見合う新しい鞘を造ってくれないか?」
早速、職人にそう依頼し、布を開いて中から宝剣を取り出していると、
「孟徳殿、それは見事な宝剣ではないか…!」
と、聞き覚えのある声の主に話し掛けられ、孟徳はそこに立つ人物を振り返って見上げた。
「王先生…!何故こんな所に…?」
そこには微笑を浮かべて立つ、司徒の王子師の姿がある。
「わしはこう見えても、宝具や宝剣を収集するのが趣味でな、こうしてたまに市場へ足を運んでは、掘り出し物を探しておるのだ。」
子師は長く整えられた顎髭を手で撫でながら、笑声を上げる。
そして孟徳の手から宝剣を受け取ると、明かりに翳しながら、まじまじとその輝きを見詰めた。
「これは" 七星剣 "と呼ばれる宝剣の一つだな。太古の昔、邪気を払い鎮める祭祀に用いる為に造られた物だが、これは実戦に使えるよう、良く鍛えられておる…見事な物だ。」
宝剣の輝きを眩しそうに見詰めながら、子師は感心仕切りといった様子で唸る。
「剣身に" 北斗七星" が彫られているのが分かるか?それが、その名の由来だ。」
孟徳は、子師が指し示す先を覗き込む。
よく見ると確かに、剣身には七つの星型が刻まれているのが分かった。
「孟徳殿、この剣をわしに譲っては貰えまいか?」
「え?!」
突然の申し出に驚き、孟徳は顔を上げて子師を見上げる。
「これ程の宝剣は、中々手に入らぬであろう!金なら幾らでも払う。どうか?」
そう言って迫る子師に、困惑を顔に現しながら苦笑する孟徳は、
「この剣は、実は私の物では無いのです…申し訳ありませんが、お譲りする事は出来ません。」
と、申し出を断った。
「そうか、それは残念だ…!」
子師はがっくりと肩を落とし、酷く残念がる。
それを見た孟徳は、
「しかし、それ程言われるなら…」
と、切り出した。
「この剣の価値を、良くお分かりの方の傍に置いてやった方が良いでしょうし…真の主の元へ帰る日まで、王先生にお預かり頂く、と言うのはどうでしょうか?」
手に取った剣の輝きを、愛おしい者を見る様な眼差しを注ぎながら、孟徳は静かにそう答えた。
「分かった、それで良い!この剣の持ち主が現れたら、その時はお返ししよう。」
子師は朗らかな声で答え、満面に浮かべた笑みを孟徳に向ける。
結局、王子師がその剣と完成した鞘を受け取るという事で話しは決まった。
「!?」
屋敷へ向かっていた孟徳は、思わず足を止めた。
門前には朝廷からの使者の物であろうか、見覚えの無い車が停まり、数名の護衛がその傍に立っている。
嫌な予感がする…
孟徳は怪訝な顔でそれらを横目に見ながら、屋敷の門を潜った。
「司空の董仲穎様が、議会の為、朝廷にてお待ちです。議郎の曹孟徳様も参内して頂きますので、直ぐにご準備下さい。」
広間で待っていた使者は、有無を言わさずといった様子で淡々と語り、孟徳に出発を促す。
董仲穎はこの頃、前任者を天変地異を理由に解任させ、自ら司空の座に着いていた。
"司空"は、言わずと知れた三公の一つで、王朝の最高位の官職である。
着物を着替えた孟徳は、使者と護衛たちに取り囲まれながら迎えの車に乗り込み、不安な表情を浮かべる家臣らに見送られながら、護衛に虎淵、文謙を伴って宮城へと向かった。
臨時の議会の為に集められた文武百官を前に、董仲穎が告げた言葉は、その場の全員を絶句させた。
「陛下は現在、病を患い、正常な判断が出来ない状態である。従って、陛下を弘農王に封じ、弟君である陳留王を、新皇帝として擁立する…!」
仲穎は既に、李文優や配下たちに命じ、皇帝劉弁を何太后と共に永楽宮に閉じ込めており、外部の者との接触を遮断していた。
更に何太后を威し、皇帝の明かしである『伝国璽』(通称『玉璽』)を涙ながらに差し出して返上させ、事実上の皇帝廃立を認めさせたのである。
仲穎は新皇帝を朝廷内に招き入れると、早速、皇帝を玉座へと座らせた。
彼は、まるで馬の鞍を取り替えるかの様な気軽さで、さっさと皇帝を取り替えてしまったのである。
これ程の暴挙が許される筈が無い。
その場の誰もがそう思ったが、集まった臣下たちは皆、空いた口が塞がらないといった様子で、互いの顔を見合わせるばかりであった。
束の間の間、朝廷内は水を打った様に静まり返ったが、やがて憤然としながらその場で立ち上がった王子師が、
「董仲穎殿!その様な勝手な真似は赦されぬぞ…!」
と大声を放った。
「良く見よ、皇帝の証である玉璽は此処にある!それでも陛下を、真の皇帝と認めぬ積もりか?!」
仲穎は手にした金色の布の包みを解き、中から玉璽を取り出すと、それを朝廷内の臣下たちの前に高々と掲げて見せた。
「くっ…!」
それを見て、子師は拳を固く握り締めながら強く歯噛みをする。
そうなると、他の者たちも対抗する手段が無い。
皆が絶句する中、再び一人の臣下が立ち上がった。
孟徳は振り返り、そこに立つ一人の男を見上げた。
「董仲穎殿、あなたは皇帝陛下を意のままに操ろうと考えている様だが、天がそれを許すであろうか?わしには、そうは思えぬ…!故に、この決定には異を唱える!」
そう言って真っ向から対立する構えを見せたのは、執金吾の丁建陽である。
「この様な茶番の為に、天の怒りを買うのは御免蒙るな…!」
建陽はきっぱりとそう言い、数名の部下を連れて朝廷を出て行こうとする。
すると、屈強な仲穎の配下たちが彼らの前に立ちはだかり、入り口を塞いだ。
建陽はその男たちを睨み据えると、
「仲穎殿…!焦らずとも、わしは何時でもそなたの挑戦を受けて立つ!」
そう、背後の仲穎に聞こえる大声で言い放つ。
仲穎は苦々しい表情で、配下を押し退けて立ち去って行く建陽の後ろ姿を睨み付けた。
「わしの真の恐ろしさを、思い知らせてやる…!」
そして冷ややかに底光りする、豺狼の如き眼差しを向け、仲穎は低く唸る様に呟いた。
あれが…
奉先の養父となった、丁建陽と言う男が見せ付けた気概に、熱い情熱を感じた孟徳の胸は奮え、思わずその場に立ち上がると、遠ざかって行く彼の背を黙っていつまでも見詰め続けた。
-《第四章 完》-
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