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第四章 皇帝の崩御と激動の刻

第四十三話 謎の男

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「本当だ!見たんだよ、女を…それも絶世ぜっせいの美女だぜ…!」
「馬鹿な事を言うんじゃねえ!この御時世ごじせいに、女が旅なんてしてる訳がえだろう!」
「しかも絶世の美女だと?笑わせるな!女に飢えて、まぼろしでも見たんじゃないのか?」

男たちは卓を囲み、「わっはっは!」と大きな笑い声を上げて男をののしった。
笑われた男は、不満げに腕を組んで椅子に座り込む。

「あの女をさらえば、かしらが喜ぶに違い無えってのに…!」
男が溜め息混じりに呟くと、隣に座っていた髭面ひげづらの大男が彼の肩を叩いた。

「良し、そんなに言うなら物は試しだ!その旅集団を追ってみようではないか…!」
その男の一言で、他の者たちも興味をかれたらしく、次々に参加に名乗りを上げる。
宿の一階にある広い食堂で、その無頼漢ぶらいかんたちは、仲間を募り旅集団を襲う計画をささやき合っていた。
 
食堂の片隅で、男たちの声を黙って聞いている者がある。
「………」 
奉先は椀のあつもの(スープ)を飲み干すと、空の椀を卓の上に強く叩き付ける様にして置いた。

一日半歩いて、この小さな城邑じょうゆうへ辿り着いた奉先は、むらの者に教えられて、この宿へやって来た。

奴らが話していたのは、玲華れいか殿の事では無いだろうか…

宿の一室へ通され、その部屋で荷を解いた奉先は、先程の男たちの会話を思い起こした。
玲華たちは、昨日の朝には野営地を払って、叔父の居る戦場へ向かっている筈である。
彼らが追い掛けた所で、今更追い付くのは難しいであろう。
だが、何も言わずに出て来てしまった。

もし、俺が戻るのを待っていたとしたら…
そう考えると彼女らの事が心配になった。が、今から引き返すのは、余りにも時間が掛かり過ぎる。

一刻も早く、義兄上あにうえの元へ戻らねば…

奉先は着物を脱ぎ、桶に注いだ水で、塞がり掛けている脇腹の傷を洗った。



山間やまあいの街道から少し離れた場所にある野営地には、十から二十人の少数団が野営をしている。
彼らはあれから、もう二日もその場から動いていない。

「お嬢様、そろそろ移動した方が宜しいのでは…?」
従者の一人が、黙々と馬の毛並みを刷毛はけ(ブラシ)で整えている、少女の背後からそう声を掛けた。

「あの男は、逃げたのですよ…!きっとやましい事があったに違いありません。待っていても無駄です!」
かなりの年長で、顎髭あごひげに白い物が混じった従者はやや語気を荒げ、彼女に言い聞かせる様に言った。

顔を上げた玲華は振り返って、少し目に険しさを現しながらも悲しげに答えた。

「あと一日、あと一日だけ待って…!そうしたら、もう行くから…」

玲華の黒い瞳は、潤んで揺れている様に見える。
従者は深い溜め息をくと、首を左右に振りながらきびすを返し、その場を離れて行った。

出発の日の朝、玲華が急いで奉先の幕舎へ向かい、入り口の幔幕を開いて中へ入ると、既に彼の姿は消えていた。
仲間たちと手分けをして、辺りを探したが何処にも見当たらなかった。

従者たちは皆、彼は逃げたのだと断言して出発の準備を整えたが、玲華は彼らを説得し、暫くそこへ留まる事を承諾しょうだくさせた。

その日の午後、偵察に出ていた仲間が馬でせ帰り、焦燥しょうそうした様子で玲華の元へ向かった。
「盗賊です!もう、近くまで来ています。直ぐに此処を離れましょう…!」

従者たちは驚き、あたふたと出発の準備を始める。
玲華も止むを得ないと決断し、仲間たちと共に出発の準備を急いだ。

彼らは、荷を引く車馬しゃばと護衛の騎馬たちと共に、街道をひた走った。
長い外套がいとうを羽織った玲華は、頭に被った布で髪を覆い隠すと、武装して馬にまたがり、他の護衛たちと共に後方で敵の襲来に備える。

やがて、遥か後方の山に黄色い砂塵さじんが立ち昇るのが見えた。
近付く馬蹄ばていの音が、次第に大きくなって行く。

「急いで…!」
玲華は仲間たちを励まし、速度を上げさせた。

だが、盗賊たちは見る間に彼らの集団に接近して来る。
逃げ切れそうに無いと判断した玲華は、護衛たちの馬を停止させ、襲い来る盗賊団を迎え撃つ構えを取った。

それを見た盗賊たちの先頭を行く男は不敵に笑い、仲間を振り返って大声たいせいを上げた。
「掛かれーーー!!」

玲華は剣を抜き放ち、果敢に盗賊たちに斬り掛かる。
戦闘が始まった。盗賊たちと護衛たちが入り乱れて、乱戦になる。

盗賊の一人が、玲華にげきを突き出し、それをかわそうとした玲華の頭に被った布を切り裂いた。
途端に玲華の長い黒髪がほどけ、肩から滑り落ちる。

それを見た男たちは瞠目どうもくし、直ぐに玲華に殺到した。
「見ろ!俺の言った通りだろう!」
男の一人が嬉しげに彼女を指差しながら叫ぶと、周りの盗賊たちは皆、「おおーーー!」と歓喜の声を上げる。

「お嬢様!お逃げ下さい!」
護衛が叫んで玲華を振り返った時、彼の肩を槍が突いた。

護衛は馬からどさりと転げ落ち、他の護衛たちも盗賊の多さに苦戦しながら、また一人と馬から落とされて行く。
玲華は背後から長い外套を掴まれ、馬から引きり降ろされた。

「きゃあ!」
地面に転がり落ちた玲華は、外套を脱ぎ捨て直ぐに立ち上がると、走って近くの林へ逃げ込んだ。

「おい!女に傷を付けるんじゃねえぞ…!追え!」
数人の盗賊たちは馬を降り、玲華の後を追い掛けて、次々と林へ飛び込んで行った。

「はぁ!はぁ…!」

玲華は林の中を、息を切らせながら走った。
やぶの中へ駆け入り、剣を胸元に構え、身を潜めて息を殺す。

彼女の目の前を盗賊たちが走り抜けたが、彼らは玲華の姿を見失い、辺りを捜索し始めた。

「お嬢ちゃん、出ておいでー!大丈夫だ、怪我をさせたりはしないよぅ…!」
いかつい盗賊の男が、猫撫ねこなで声で辺りに呼び掛ける。
「止せよ!逆に気味悪がって、出て来ねぇじゃねえか!」
仲間がその男の背中をど突く。

玲華は彼らの様子を息を殺して見ていたが、その時、何者かの腕が背後から伸び、一気に彼女の体を抱きかかえた。
「捕まえた!!」

「きゃああーーっ!」

玲華の悲鳴が辺りに響き、仲間たちが走り寄る。
男に抱えられ、茂みから連れ出された玲華は、足をばたつかせて足掻《あが》いている。

「でかしたぞ!ほう、確かにこいつは美人だ!かしらさぞかし喜ぶに違い無え…!」
そう言うと髭面の男は、手で玲華のあごを掴んで持ち上げる。

「触らないで…!!」

玲華は男を睨み、足で蹴り上げようとしたが、男は素早く玲華の足を掴み取り、両足の動きを封じる。
盗賊たちは玲華を取り囲み、皆めるような視線で「げへへっ」と薄気味悪い声で笑い、彼女を見下ろしている。

と、その時、突然くさむらの中から黒い影が飛び出し、男たちの背後へ素早く近付くと、振り向く間も無く背中から斬り付け、盗賊たちは次々にその場へ崩れ落ちて行った。

「ひいいっ…!!」
残った盗賊たちは慌てて武器を取り、その影を目で追った。
そこには、左手に血塗られた剣を握り、彼らを鋭く睨み付けている長身の男の姿がある。

「き…貴様、何者だ…!?」
剣や戟を構えた男たちは、狼狽うろたえながら男に問い掛けた。

「そのを放せ…!」

男は彼らに切っ先を向け、低くうなる様な声で怒鳴り付ける。
彼の姿に目を見張り、玲華は思わず大きく息をんだ。

武器を持った盗賊たちが一斉に男に斬り掛かったが、彼は素早く身を転じて攻撃をかわし、目にも止まらぬ速さで彼らの武器を弾きながら、次々と盗賊たちを打ち倒して行く。

その様子に度肝を抜かれ、玲華の体を抱えていた男は呆気あっけに取られていた。
玲華はその隙を逃さず、思い切り頭突きを繰り出し、男の顔面を殴打すると掴んだ腕を振り解く。

「奉先…!!」

玲華はそう叫んで、足元の剣を拾い上げると彼に走り寄ろうとした。

「玲華殿、来るな!こいつらは、俺が食い止める!今の内に逃げろ!」

敵の返り血を浴び、振り返った奉先は、悪鬼の如く鋭い眼差しで玲華を睨みそう怒鳴った。
その勢いに、玲華は思わずたじろぎ、急いで彼に頷くときびすを返して、叢の中を走り出した。

玲華の後を追い掛けようと、盗賊たちも叢の方へ走り出す。
が、その前に奉先が飛び出し行く手を阻む。
そして、血濡れた剣を素早くひらめかせて、男たちに斬り掛かった。


盗賊の残党らは、逃げる旅集団の後を追って街道を走っていた。
やがて前方を川にさえぎられた車馬と従者たちは、逃げ場を失い立ち往生してしまった。

後方からは盗賊らが迫り、彼らは完全に追い詰められた。
盗賊たちは馬から降りると、皆手に武器を構え、勝ち誇った様に笑いながら、ゆっくりと彼らに近付いて来る。

その時、山の斜面の上から放たれた矢が、盗賊の一人を貫いた。
「!?」
驚いて振り向き斜面の上を見ると、いつの間にか弓矢を構えた兵士たちが、ずらりとそこへ連なっている。

「な、なんだって…!?」
それを見た盗賊たちは皆震え上がり、我先にと自分の馬にまたがると、一目散に逃げ去って行った。

やがて林を抜けて街道へ出た玲華が、仲間たちの姿を発見して走り寄った。
「お嬢様!よくぞご無事で…!」
年長の従者は目に涙を浮かべて、玲華に走り寄る。

「あたしの我がままで、みんなを危険にさらしてしまったわ…!ごめんなさい!」
玲華はそう言って、溢れる涙を拭った。

「彼らのお陰で、助かりました!」
従者がそう言って後ろを振り返ると、後方から武装した集団が姿を現した。

「あ…あなたたちは…!!」

玲華は彼らを、驚きの表情で見上げた。



逃げる盗賊の残党を追い掛け、奉先は一気に斬り伏せた。
叢の中には、十数名の盗賊たちがむくろと成り果て、倒れている。

奉先は額の汗を拭うと、乱れた呼吸を整えたが、その後、苦痛に顔を歪めた。
脇腹の傷口が開き、再び流血している。

傷口を押さえながら、奉先は玲華の姿を探して走った。

暫く走ると前方に人影が見え、奉先は咄嗟に近くの木に身を潜めると、そこから様子を伺う。
その人影は一人で、恐らく誰かを探している様子だ。

まだ残党が居たか…

奉先は剣把けんぱを強く握り締め、敵が射程距離に近付くのをじっと待った。
やがて、敵の足音は直ぐ背後にまで接近した。

次の瞬間、素早く木の陰から飛び出し、そこに立つ人影を一閃いっせんで斬り裂く。
だが、奉先の剣は舞い落ちたの葉を真っ二つに切断したのみで、人影は素早く身をひるがえし、後方へ退いていた。

奉先は素早く間合いを詰めて、再び敵に剣を突き出す。
敵は、打ち出される剣刃を弾き返し、巧みに攻撃を躱した。
一瞬の隙をき、長い剣で奉先の首筋を狙ってやいばを突き出した。

奉先はそれをすんでに避け、体を回転させながら後方へ跳び退り、敵との距離を置く。
相手も数歩下がって、奉先に対峙たいじした。

こいつ、強い…!他の者とは段違いではないか…!

奉先は額に汗を浮かべて瞠目し、目の前に立ちはだかる大男を見上げた。

男の年齢は、中年に差し掛かった辺りであろうか。
びんから顎髭あごひげにかけて、伸びた無精髭ぶしょうひげを生やし、乱れた野性的な髪には白色が混ざっている。
堂々たる体躯たいくの持ち主で、筋骨隆々きんこつりゅうりゅうとした男である。

「貴様、盗賊の癖に…随分と良い剣術の腕前ではないか…!」

そう叫んだのは、男の方である。

こいつ…何を言っている…?
奉先は訝しげに眉をひそめて、男を睨んだ。

「その技、暗殺剣か…貴様、刺客だな…!しかも、手負いの様だ…」
男はそう言うと、鋭く奉先を睨み付ける。
奉先の足元には血痕けっこんが付いている。彼は脇腹を押さえて顔を歪めた。

「次の一撃で、楽にしてやる…!」

言うが早いか、男は地を蹴って奉先に斬り掛かる。
奉先も素早く剣をひるがえし、男の攻撃を剣で弾き返した。

打ち出される男の攻撃は素早いだけではなく、正確で迫力がすさまじい。
更に襲い来るその攻撃を剣で受ける度、衝撃が腕に伝わって来た。
剣を握っているのもやっとな程である。
奉先は反撃の隙を伺ったが、次の瞬間、それより先に何と奉先の剣が真っ二つに折れてしまった。

将軍から貰った宝剣は、虎淵との戦いの時に失っていた。
その剣は近くのむらで手に入れた、安価なものである。

奉先は刃先はさきの折れた剣を、地面に投げ捨てた。

斬られる…!

心臓の鼓動が大きく高鳴った。
今まで幾度と無く敵を斬り伏せて来た。
遂に、自分にその番が回って来ただけの事である。

因果応報いんがおうほうという言葉を聞いた事があった…
奉先は瞬時にそう思い、覚悟を決めた。

男の剣は、奉先の心臓を狙って放たれた。


「やめてっ!!」


突然、悲鳴にも似た叫び声が響き渡り、その場の空気が固まった。
男の剣先は、奉先の胸の前で止まっている。

「二人とも、何をしているのよ…!?」

両目に溢れる涙を浮かべた玲華が、そこに立ち尽くしていた。

「玲華…!」
「玲華殿…!」

二人は同時に叫び、次に同時に互いの顔を見合わせる。

「叔父様!!」
玲華は叫んで男の腕に飛び込み、肩を震わせて泣いた。

この人が、玲華殿の…!
奉先は呆気に取られて、二人の姿を見詰める。
やがて顔を上げた玲華は、振り返って奉先を見上げると、そっと彼に歩み寄った。

「奉先…」
そう小さく呟くと、次の瞬間、彼の胸に抱き付いた。

「もう、会えないかと思った…!」

玲華は腕に力を込めて、彼の体を強く抱き締める。
「れ、玲華殿…すまぬ…」
奉先は思わず狼狽うろたえながら、自分の胸に顔をうずめ、泣きじゃくる玲華を見下ろした。

「おい、もう良かろう…!」

呆れた表情で二人を見ていた男は、玲華の肩を掴んで自分の方へ引き寄せる。

「奉先、血が…!」
玲華は彼の脇腹から、再び血が流れている事に気付いた。
「大丈夫だ…」
そう言って、奉先は傷口を手で押さえる。

「貸してみろ!」
男が歩み寄り、奉先を木の側へ座らせると、自分の着物の袖を引き千切ちぎって彼の体に巻き付け、傷口を強く縛った。
玲華が彼に肩を貸して立ち上がらせようとしたが、男が素早くそれを制し、奉先の腕を取って自分の肩に掴まらせた。

「仲間を呼んで来るから、待ってて…!」
そう言って、玲華は先に走って行った。

男は奉先の体を支えて歩きながら、彼に横目で視線を送った。

「まだ、名乗っていなかったな…わしは、并州へいしゅう刺史ししてい建陽けんようと言う者だ。お前は? 」

男の態度は憮然ぶぜんとしたものだが、声の響きには誠実さと力強さが宿っている。

「俺は、奉先…呂奉先と申します。」

奉先は男のたくましい横顔を見詰めながら、淀み無い口調で返事を返した。


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