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第四章 皇帝の崩御と激動の刻

第四十二話 師弟の対決

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廟の中は薄暗く、表から入ったばかりの虎淵には中の様子が良く見えない。
目をらして室内を見渡すと、次第に目が慣れて来て、物の形がはっきりと見える様になって来た。
虎淵は足を忍ばせて壁沿いに進んだ。

「!?」

祭壇の側に、従者の一人が倒れているのが目に映った。
見ると、もう一人も近くで血を流して倒れている。

はっとして虎淵が顔を上げた時、表から悲鳴が上がった。
虎淵は素早く振り返り、廟から走り出た。

すると、子要を囲んだ従者の一人が矢を受けて倒れているのが見えた。
矢継ぎ早に次の矢が飛来し、更に従者の一人を貫いた。

「くそっ…!」
文謙が剣を抜き放ち、もう一人の護衛と共に子要をかばう。

「全員そこから離れろ!」
虎淵は叫びながら剣を抜き、彼らの方へ走った。
再び襲って来た矢を、虎淵は素早く剣で払い退ける。

「文謙、子要殿を連れて逃げろ!」

そう言うと、虎淵は矢が放たれた方向へ向かって走って行った。


虎淵は、朝靄あさもやの立ち込める林の中へ走り込んだ。
辺りは白くかすみ、遠くまで見通す事が出来ない。
草を分け入り木の影に身を潜めると、息を殺し木に背中を押し当て、刺客の姿を探した。

矢の勢いと角度から考えると、刺客が潜んでいたのは、恐らくあの辺りであったろう。
虎淵はそっと身を乗り出し、目の前にそびええる大きな落葉樹を見上げた。

その時、上を見ている虎淵の背後に、もやの中から黒い影が浮かび上がり、静かに彼の背後へ近付いて来ている。
咄嗟に、虎淵はその気配を感じ取ったが、慌てて後ろを振り向かず、息を殺して目だけを横に動かした。
背筋を冷たい物が走る。

次の瞬間、鋭い突きが虎淵の背中を狙って放たれた。

剣先は激しい音を立てて幹に突き刺さり、虎淵の姿は草の上を転がった。
立ち上がろうとすると、再び剣が虎淵を狙って振り下ろされる。

虎淵は更に横に転がりながら、突き出される剣刃を避けた。
地面に素早く片手を突き、直ぐ様体を回転させながら立ち上がると、間髪を入れず振り下ろされる刺客のやいばを剣で弾き返す。

刺客は一度身を引き、剣を構えて虎淵に対峙たいじした。

漆黒の着物を身にまとった、長身の男である。
朝日がまぶしく逆光し、その顔を確認する事は出来ない。

男は再び、素早く剣を打ち出して来た。
虎淵は男の攻撃を数合に渡って弾き返したが、男の俊敏しゅんびんな動きに付いて行くのがやっとで、全く反撃をする隙が無い。

その素早さも、見事な剣捌けんさばきにも覚えがある。
虎淵は確信していた。

やがて虎淵の着物は、男の剣によって切り裂かれ、赤く血で染まって行く。
虎淵は切り裂かれた肩の傷口を押さえ、よろめいた。

「先生…!僕です、虎淵です…!」

虎淵は思わずそう叫んだが、男の耳には届いていないらしい。
男は容赦無く、彼の心臓を狙って剣を打ち出して来る。
虎淵は必死に男の攻撃をかわし、地面を転がる様に逃げ回った。

やがて山の斜面のきわまで追い詰められ、逃げ場を失った。
男は、激しく打ち出した剣で虎淵の手から剣を跳ね上げる。
虎淵は咄嗟に、落ちていた太い木の棒を手に取り、今度は振り下ろされた剣をそれで受け止めた。
両手で棒を支え、虎淵は肩の痛みをこらえながら、懸命に押し戻そうとする。

だが男の力は想像以上に強く、更に虎淵の腹に蹴りを繰り出す。
虎淵は思わず体勢を崩して、後方へ押し倒されてしまった。
剣刃が目前にまで迫って来る。

「先生!僕が、僕が分からないのですか?!」

虎淵は瞳に涙を浮かべながら、必死に抵抗した。
男は虎淵に馬乗りになり、棒に刺さった剣を抜き取ると、頭上に振りかざし、虎淵の眉間を狙って一気に振り下ろした。

万事休すか…!
虎淵は思わず両目を強く閉じた。

だが、剣刃は虎淵の眉間を貫く事は無く、虎淵はまぶたをゆっくりと開いた。
鋭い剣先は、彼の額の寸前で止まっている。


「虎淵…お前か…!?」


両手に剣を握り締めたまま、奉先は驚きの表情で瞠目どうもくし、虎淵の顔を見下ろしていた。

「先生……!」
虎淵は涙を流し、潤んだ瞳で奉先を見上げる。
その時視界に、後方からこちらへ向かって走りながら、弓に矢をつがえる文謙の姿が飛び込んで来た。

せ…!!」

虎淵が腕を伸ばして叫んだと同時に、矢は放たれ、その声で咄嗟に跳び退すさろうとした奉先の右脇腹辺りに突き立った。

「ぐあ…っ!」
奉先の体は、弾かれる様に地面の上をもんどり打って転がった。

「先生!!」

虎淵は叫んで跳び起きると、倒れた奉先に走り寄る。
矢は深くは刺さっていないが、やじりには毒が塗ってある。思い切って体から引き抜くと、傷口から血が噴き出した。
虎淵は急いで奉先の着物を引き裂き、傷口から血を吸い取って地面に吐き出す。

虎淵は溢れる涙をこらえながら自分の着物を破り、傷口に押し当てると、その上から余った布を巻き付けて、奉先の体をきつく締め付けた。

「うっ…ぐっ…ああ…!」
奉先は苦しげにのた打ち、体をけ反らせてうめき声を上げる。

「虎淵、何をやっている?!退け!俺がとどめを刺してやる!」

文謙がそう叫びながら腰の剣を抜き放ち、二人に走り寄った。
虎淵は頬を濡らしたまま文謙を振り返り、赤い目を向けて彼を強く睨む。

「この人は、僕の先生なんだ…!」

その瞬間、突然、奉先は目を開き、かたわらに落ちていた剣を掴み取ると同時に、それを斜めに一閃いっせんさせた。

「危ない!」
文謙は叫んで、素早く虎淵の着物の襟首辺りを掴み、彼の体を奉先から引き離す。
奉先の剣は、虎淵の右頬をかすめ、斬れた所から血が飛び散った。

奉先は蒼白になった顔で、ふらつきながらも立ち上がり、二人に切っ先を向けて威嚇いかくする。

「先生…!」
虎淵は素早く立ち上がり、奉先の方へ走り出そうとしたが、文謙が彼の体を強く掴んで放さない。

額に汗を浮かべ、傷口を右手で押さえながら立つ奉先の顔は、見る間に血の気が失せ、青白くなって行く。
「はぁ、はぁ…!」
肩で激しく息をしながら、奉先はふらふらと後退あとずさった。
後方の足元は斜面になっている。
遂に意識を失った奉先はその場へ崩れ落ち、そのまま斜面を滑って転がり落ちながら、立ち込めたもやの中へ姿を消した。

「放せ、文謙…!先生ーっ!!」

虎淵は悲痛な叫び声を上げて文謙の腕を振り払い、奉先が倒れた斜面へ向かって走った。
ひざまづいて斜面の下を覗き込んだが、彼の姿は既に見えなくなっていた。
そこに残っていたのは、奉先が握っていた、七色の輝きを放つ美しい宝剣だけである。

虎淵はその剣を拾い上げ、胸に抱いて嗚咽した。

「虎淵、もう行こう。あの傷では、どの道助からぬ…!」

文謙は、宝剣を抱いたままひざまづき、肩を震わせて泣いている虎淵を強引に立ち上がらせると、彼の腕を掴んでその場から離れた。


矢を受けた従者の一人は一命を取りめたが、廟の中で斬られた二人の従者と、裏口を見張っていた護衛の一人は、悲鳴を上げる間もなく一撃でたおされていた。

子要は生き残った者たちと共に死体を山に埋葬し、静かに彼らに冥福を祈った後、立ち上がって虎淵たちを振り返った。

「尊い犠牲を出してしまったが…君たちのお陰で助かった。刺客は斃され、もう危険は去ったであろう…私は暫く身を隠す事にする。君たちは雒陽へ戻りたまえ。」
憔悴しょうすいした様子で子要は彼らを見ると、それぞれの手に謝礼金の入った袋を握らせた。

虎淵は虚ろな眼差しでそれを見詰め、強く握り締めた。


夕刻が迫り、次第に沈み行く夕陽に、辺りの山々が赤く染まり始めている。
虎淵と文謙の二人は、奉先が落ちたと思われる山の斜面を下へり、手分けをして彼の姿を探した。

斜面の下には小川が流れており、流れは緩やかである。

やがて、河原沿いに点々と血の跡が残っているのを発見した虎淵は、文謙を呼び寄せた。
血の跡は川の方まで続いているが、奉先の姿はそこには無い。

「あの怪我で、自力で逃げたとは考え難いな。川に流されたのかも知れぬ…」
そう言って、文謙は川下かわしもの方を見詰めた。

「あの男を、殺したのは俺だ。お前の主にも、俺が本当の事を話してやるよ。お前が気にむ必要は無い…!」
河原に膝を抱えてうずくまる虎淵の肩を叩き、文謙は強く彼の肩を揺すった。

「いや…お前は間違って無い。刺客を斃すのが、僕たちの役目だったのだ…僕が、もっと早く先生の存在に気付いていれば…!」

虎淵は俯いたまま声を震わせ、そう呟きながら涙をこぼす。
既に日は落ち、辺りが暗闇に包まれると、穏やかに流れる小川のせせらぎだけが、いつまでも鳴り響いていた。

 



暗闇の中、遠くらか誰かの呼ぶ声が聞こえている。
その声は、柔らかく優しい響きである。

虎淵…お前なのか…?
いや、違う…これは…

うっすらと目を開くと、誰かがこちらの顔を覗き込んでいる。
その姿はぼんやりと霞んでいたが、やがて、はっきりと見える様になって来た。

孟徳殿………!?

彼の目に映ったのは、長い黒髪を肩に垂らした、美しい少女の姿であった。


「嗚呼…!目を覚ましたのね、良かった…!」

少女はそう言って瞳を潤ませながら、彼の額に掛かる髪を優しく指先で撫で上げる。

「あなた、記憶はある?もう三日も眠っていたのよ。」
そう言われ、彼は意識を失う直前の出来事を思い出した。

彼は衛子要の護衛の一人と、山中でたたかいになった。
その護衛はまだ若く少年の様であったが、彼の攻撃を巧みにかわし、剣で跳ね退ける。

だが遂に追い詰め、その手から剣を弾き飛ばすと、護衛は彼の攻撃を棒で防いだ。
押し倒して馬乗りになり、剣を振り上げて止めを刺そうとした時、彼はその顔を見て動揺した。

その護衛は、彼の弟子の虎淵である事に気付いたのだ。

「虎淵…お前か…!?」

その時、虎淵の叫び声で我に返ったが、次の瞬間、彼の脇腹に激痛が走った。

倒れた彼に駆け寄った虎淵が、刺さった矢を引き抜き、必死に傷を手当てしてくれたが、その背後から叫びながら走り寄る仲間の声が聞こえ、彼は危機感を覚えた。
咄嗟に掴んだ剣を振り上げて二人から離れたが、その後意識を失い、足を滑らせて山の斜面を転がり落ちた。

一度目を覚ますと、彼の体は斜面の途中で木に引っ掛かっていた。
体中が痛み、意識は朦朧もうろうとしていたが、彼は自力で何とか斜面をい下りた。

途中で再び斜面から滑り落ち、下まで転がり落ちると、その先にある小川の流れが目に入った。
彼は必死に川まで這って行き、小川へ辿り着いたが、そこで完全に記憶が途切れた。

そこは狭い幕舎の中であった。
少女はせんじた薬草の茶を用意し、わんに注いだかゆと一緒に盆に乗せ、彼の傍らへ運んで来た。

「自分の名前は覚えてる?あたしは、玲華れいか。」
少女はそう言うと、彼の脇に腰を下ろし目元に微笑を浮かべる。
彼は顔を上げ、その美しい少女の黒い瞳をまぶしげに見詰めた。

「俺は…奉先、呂奉先だ。」

実に孟徳の面影おもかげに似ている…と思いながら、彼はかすれた声を振り絞って答えた。


玲華はその日、馬に水を飲ませようと、道を外れて山の斜面を下り、小川へ向かった。
美しい小川の流れを眺めながら、馬を引いて歩いていると、川岸に倒れている奉先の姿を発見したのである。

「発見した時は、死んでるんだと思ったわ…!でも、この子のお陰ね。あのままだと、きっとあなたは死んでいたもの…」
玲華は幕舎の外に繋がれた、一頭の馬の鼻面はなづらを撫でながらそう言うと、振り返って奉先に笑顔を向ける。

あれから、更に三日余りが経過し、奉先は体を起こして歩けるまでに回復していた。
毒矢を受けながらこれ程早く回復したのは、直ぐに毒を吸い出し、素早く手当てをしてくれた虎淵のお陰である。

奉先は玲華に肩を並べて歩きながら、遠い青空の彼方に虎淵の顔を思い浮かべた。

虎淵は俺に会う為、衛子要の護衛を引き受けたのではないだろうか…
そう考えると、あの時涙を浮かべて奉先を見上げる虎淵の顔を思い出すたび、胸が苦しくなる。

きっとそうに違いない。あいつは、俺が死んだと思っているだろう…
奉先は歩きながら、俯いて足元に視線を落とした。

「ねえ、大丈夫?疲れたなら戻りましょう。」
「いや、大丈夫だ。」

心配そうに奉先の背中を撫でながら、彼の顔を覗き込む玲華の黒い大きな瞳を見詰め返し、奉先は微笑を浮かべた。

玲華は、黄巾の残党を討伐に出ている叔父に会う為、僅かばかりの護衛と従者たちを引き連れて、此処までやって来たのだと言う。
彼女の叔父は、幼い頃から彼女を非常に可愛がっており、玲華もまたそんな叔父を、誰より心から愛していた。

「あなたも、一緒に連れて行ってあげる。きっとあなたも、叔父様を好きになると思うわ!」
玲華が叔父の事を話す時はいつも、その大きな瞳を輝かせながら、嬉しそうに語るのであった。

奉先は、そんな玲華の姿を目を細めて見詰めた。
父も母も知らない彼は、そういった身内を持った事が無い。
唯一の家族を思い浮かべるとしたら、脳裏に思い描くのは孟徳の姿だったが、

「あの人は、もう俺のあるじでは無い…」

遥か遠くに連なる山々を眺めながら、奉先はそう呟いた。


夜、野営地には篝火かがりびかれ、護衛と従者たちが束の間の休息を取っている。
「次は俺の番だ…!」
そう言うと、男が棒状の四角柱しかくちゅうに削られた石を地面に転がす。
それは数字の刻まれた賽子さいころの様な物であり、彼らは賭け事を楽しんでいた。

玲華の従者や護衛たちと共に夕食を取った後、奉先は用意された宿舎へ戻り就寝の支度をしていた。

「明日の早朝には、此処を離れるから、今夜は良く休んで。」
そこへ玲華が姿を現し、そう声を掛けて来る。

「ああ、分かった。」
奉先は振り返って答えると、玲華に向かって微笑んだ。

暫し入り口に立った玲華は、奉先の様子をただじっと眺めている。
視線を感じて再び玲華を振り返ると、奉先は首をかしげて彼女を見上げた。

「まだ、何か…?」

「ええ、いいえ!何もないわ…ただ、あなたが元気になって良かったと思って…」

玲華は慌てた様子で取りとりつくろい、入り口の柱にもたれ掛かって奉先に笑って見せる。

「それじゃ、また明日…」
そう言って小さく手を振ると、玲華はそそくさと幕舎から出て行く。
奉先は微笑を浮かべて玲華の後ろ姿を見送ったが、その背中が見えなくなると笑いを収め、物憂ものうげに虚空を見詰めた。

「あたしったら…馬鹿ね…!」
玲華は、赤く紅潮した自分の頬に両手を当て、強く叩いた。
「い、いたたっ…」
思わず目をつむり頬をさすりながら、玲華は自分の幕舎へと戻って行った。


夜半過ぎ、暗い幕舎の幔幕まんまくを開け、黒い影がそっと抜け出した。
「おいお前、何処へ行く?」
篝火の近くで見張りをしていた大男はそれに気付き、その影に問い掛けた。

やがて明かりに照らされて姿を現したのは、奉先である。

「ちょっと、用を足しに行って来る。」
それを聞くと、男は小さく彼に頷き、道を開けてくれた。

奉先は足早に野営地を離れ、街道へ出て行った。
やがて坂道を上り、後ろを振り返ると、先程まで滞在していた野営地の明かりが遠くに見える。

「玲華殿、すまぬ。あなたからの恩は、一生忘れない…!」

目を細めて、暫しそれを眺めた後、奉先は振り返って再び歩き始めた。


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