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第三章 黄巾の反乱と漢王朝の衰退

第三十五話 皇帝の勅使

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冀州きしゅう鉅鹿郡きょろくぐんの黄巾討伐へと向かった盧植ろしょくは、黄巾党の首領、張角を相手に善戦し勝利を重ね、大いに打ち破ると、張角らを広宗こうそうへと敗走させた。

張角らが広宗の県城に籠城すると、城を包囲し、雲梯うんていを使って攻めたが、黄巾軍の抵抗は激しく、攻城戦は長期に渡っていた。

その盧植の陣営を、一人の若者が訪ねた。
取り次いだ護衛兵の話しによると、その若者は盧植とは師弟の間柄であると言う。

盧植、字を子幹しかんと言うこの老練な将軍は、身長が約八尺(約185cm)余りもあり、文武に精通し、博識で節義を重んじる為、民衆からの人望が厚かった。

一時期、官職を去っていた盧子幹は、郷里の幽州涿郡ゆうしゅうたくぐんに戻り、学問に打ち込む傍ら、学舎がくしゃを開き、近隣の児童らに自ら学問を教えたのである。

そういった弟子のうちの一人であろうか?子幹は首をひねりながらも、若者を自分の幕舎へ通した。

「おお、君は…!」
幕舎へ姿を現した長身の青年を見て、子幹は驚いた。

「先生、お久しぶりです。私を、覚えておいでですか?」
切れ長の目に、爽やかな微笑をたたえたその若者は、そう言って子幹に拱手する。

「君は、確か…劉、劉玄徳りゅうげんとくではないか…!」

子幹は元々声の大きな人であるが、その驚きの声は幕舎の外にまで響き渡った。

子幹が驚いたのも無理は無い。
彼の記憶の中にある劉玄徳とは、控え目で派手さの無い、片田舎かたいなかの素朴な少年だった。

だが今彼の前に立つのは、すっかり垢抜け、色気すら感じる美青年である。
子幹は懐かしさを目元に現しつつも、変貌した玄徳をやや困惑した表情で見詰めた。

「玄徳、君は随分と変わった様だな…」
そう言われ、玄徳は子幹に微笑を向けると、瞳に力を込めて答えた。

「先生、人とは、変わるものです…!」



玄徳は、関雲長かんうんちょう張翼徳ちょうよくとくの二人の義兄弟おとうとたちと共に、故郷の楼桑村ろうそうそんを去った後、盗賊に襲われていた、張世平ちょうせいへい蘇双そそうという中山ちゅうざんの豪商二人を助け、謝礼として多額の資金を手に入れた。
彼らは、玄徳らの非凡さを見抜いて、自ら資金援助を申し出たのである。

その後、遼東りょうとう属国長史ぞっこくちょうしとなっていた公孫瓚こうそんさん、字を伯圭はくけいと言う、盧植の元で共に学んだ玄徳の昔の学友を訪ね、彼の元に暫く身を寄せた。

伯圭は昔から武勇に優れ、眉目秀麗な美男であったが、それに引き換え玄徳には、人より目立つ所が無く、寡黙で地味な少年であった為、伯圭は多少のさげすみを抱いていた。
玄徳と再会した伯圭は、盧植と同じく、驚きを以って彼を迎えた。

伯圭は常に白馬を愛用し、騎射きしゃの出来る選りすぐりの兵たち全員を白馬に乗せ、彼らを『白馬義従はくばぎじゅう』と名付けた為、異民族らから「白馬長史」と呼ばれ恐れられているという。

自らの容姿にもこだわりを持っている為か、彼には元々人を見下す所がある。
玄徳は余り気に掛けていない様子であったが、弟弟子である玄徳に対し、彼は何かと目上からの態度で接してくるので、雲長と翼徳らは常に居心地の悪さを感じていた。

黄巾党の反乱が起こると、豪商たちから与えられた資金を元に兵を募り、義勇軍を結成すると、直ぐに校尉の鄒靖すうせいの元へ馳せ参じ、共に黄巾軍と戦った。

その後、鄒靖とは別れ、鉅鹿郡で盧子幹が張角を相手に苦戦を強いられていると聞き付け、此処までやって来たのである。


子幹は笑顔で玄徳の肩を叩き、引き寄せて自分の肩に並べると、彼を座席へといざなう。
「先生、実は紹介したい仲間がいます。」
そう言うと玄徳は、二人の義兄弟おとうとたちを招き寄せ、子幹に紹介した。

「義兄弟の関雲長と、張翼徳です。」
「ほう、君たち三人は義兄弟ぎきょうだいか…」
子幹は玄徳の横に立ち並ぶ、堂々たる二人の偉丈夫いじょうふを見上げ、感心する様に呟いた。

「はい、我らは生死を共にし、漢王朝をたすけ、困窮する民を救うと誓い合いました。」
「そうか!それは頼もしい…!」
子幹はそう言うと、笑って玄徳の肩を叩いた。

「しかし玄徳、君はわしの弟子の中で一番…出来が悪かった…!」

「え…!?兄者が…!」

それを聞いた雲長と翼徳は、少し意外な顔で玄徳を見た。
玄徳は目に微笑を浮かべたまま、子幹を見詰め返している。

子幹は白い歯を見せ、軽快に笑った。
「ははは、君は学問は良く出来たし、皆からも慕われ、母親孝行な息子であった。だが、わしの前ではいつも出来の悪い弟子を演じていたな…自分の鋭敏さを隠し、目立たぬ様息を潜めておった。」

「そうでしょうか?私は元々、出来の悪い人間ですよ、先生。」
玄徳はそう言って苦笑した。

「わしをあなどってもらっては困るな。兄弟子あにでしには常にへりくだった態度で接し、彼らは皆、君を軽視していた。彼らには、君の天賦てんぷの才を、見抜く事は出来なかったであろう。」
子幹は指を立てて玄徳を指し示し、謎解きを愉しむかの様である。

「先生、それは少し、買い被り過ぎではありませんか?私はただ…」
そう言って、玄徳は少し笑顔を収めた。

「…まだ見ぬ将来に、希望を持たぬ様にしていたに過ぎません…」

伏し目がちにそう答える玄徳を、子幹は少し目を細めて見詰めた。

「盧将軍…!」
その時、幕舎の外から呼び掛ける声が聞こえ、配下の一人が素早く舎内へ入って来た。
子幹に近付くと、口元に手をあて何かを耳打ちしている。 
眉を寄せ、その配下の顔を訝しげな表情で見た後、子幹は軽く頷いて玄徳の方へ向き直った。

「君とはまだ語り足りぬが、来客がある様だ…すまぬが、今日の所は此処までにしよう。明日また来てくれるか?」
かしこまりました。近くに陣営を置いておりますゆえ、いつでもお呼び下さい。」
玄徳はそう言って拱手すると、二人の義兄弟たちと共に子幹の幕舎を出た。

辺りは既に夜の闇に包まれている。
篝火かがりびかれ、哨戒しょうかいの兵たちが巡回している。
幕舎から出て、陣営に設けられた軍門を潜る時、朝廷からの使者らしき一行とすれ違った。
小太りで色白の男は宦官であろうか。手に持った羽扇うせんで口元を隠し、くすくすと笑い声を立てつつ、仲間と談笑しながら歩いている。

玄徳は愁眉しゅうびを寄せて、すれ違う男を見詰めた。


翌日、玄徳は再び義兄弟たちを伴って、盧子幹の元を訪れ幕舎へ向かった。
すると突然、幕舎の中から、割れ鐘の様な怒鳴り声が響いて来た。
その声は子幹である。

「何かあったのか!?」
驚いた翼徳が思わず声を上げ、三人はお互いの顔を見合わせた。
急いで幕舎の方へ走り寄り、何やら慌てている護衛兵たちに声を掛けていると、中から昨夜見掛けた小太りの男が、憤然としながら姿を現した。

「盧子幹め…!よくも恥をかかせてくれたわね…!私を怒らせたらどうなるか、思い知らせてやるから…!」
男は着物の袖で額の汗を拭いながら、真っ赤になった顔を羽扇でせわしく扇いでいる。

左豊さほう様!どうか、お怒りをお鎮め下さい…!主は漢の為、全身全霊で戦に挑んでおいでなのです!それをどうか、ご理解頂きますよう…!」
慌てて幕舎から飛び出した子幹の配下が、男の前に膝を突き、そう必死に訴えている。

「お黙りなさい!漢の為と申すなら、まず朝廷の使者であるこの私に、敬意を払うべきでしょう!」

ふんっと男は顔を背け、取り付く島も無いといった様子で、ひざまづく子幹の配下を足蹴あしげにしながら歩き去る。
玄徳たちは、呆気に取られてその光景を見ていた。

「大丈夫か?何があったのだ?」
地面に倒れた配下に手を差し伸べながら、玄徳が問い掛ける。
「ああ、あなたは…将軍のお弟子の方…!」
配下は顔を上げて玄徳を見ると、彼らを子幹の幕舎へ案内した。

幕舎へ入ると、子幹は未だ興奮冷めやらぬといった様子で、舎内をいらいら々と歩き回っている。

「おお、玄徳か…実は、戦況を調査させる為、朝廷から視察官が派遣されて来た。小黄門しょうこうもんの左豊と言う宦官だが、視察が終わると、わしと話がしたいと言いだし連れて参った所、わしに賄賂わいろを要求して来おった!」

子幹は、兵糧が不足している為、お渡しする事が出来ないと、始めの内はやんわりと断っていたが、諦めの悪い左豊は、りに選って子幹をすりに来た。
遂に堪忍袋かんにんぶくろの緒が切れた子幹は、

「皇帝の権威を笠に着る宦官が…!恥を知れ!」

と、左豊を怒鳴り付けたのである。
それを聞いた玄徳は、苦笑しながら子幹を見上げた。 

「そうでしたか…それは先生らしい。しかし、あの男…かなり性根しょうねの悪い人物と見ました。このまま、ただでは済まされぬのでは有りませんか?」
「ふん…っ!あんな宦官の言いなりになるくらいなら、死んだ方がましである!」

子幹はあくまで、強気な態度を押し通す積もりらしい。
玄徳は何も言わず、子幹に拱手すると幕舎を後にした。

「あの左豊って奴はいまいま々ましいが、将軍も中々の頑固者ではないか!兄者、何故将軍に何も言ってやらぬのだ?」
「師をいさめるのは、礼に反する。それに、先生には悪い所が一つも無い。悪いのは、あの左豊という宦官だ…」
肩を並べて歩く翼徳の問い掛けに、冷静さを帯びた声で答える玄徳は、次第に歩みを速める。

「兄者、何か策があるのだな…!」
玄徳の歩調に合わせながら、雲長が問い掛けた。
雲長の方を振り返った玄徳は、目に微笑を浮かべる。

「左豊たちを追うぞ…!」

そう言うと走って軍門を潜り、玄徳は乗って来た馬に跨がると、同じく馬に跨がった雲長、翼徳らと共に左豊ら一行の後を追った。



左豊の一行は既に子幹の陣営を離れ、帰路きろいていた。
四頭立ての車馬しゃばに乗った左豊は、馬をぎょす従者を急かしている。

「ほら、もたもたするんじゃないわよ!一刻も早く、みかどの元へ帰り着かないと…!」
その時、殿しんがりから伝達の兵が駆け付けて来た。
「左豊様!何者かが、我々の後を追って来ている模様…!」

「何ですって…!?」
左豊は振り返って、後方に見える道の先を凝視した。
確かに、後方に砂塵が舞っているのが見て取れる。
その量からすると、然程さほどの集団では無さそうである。

「盧子幹め…!私をめるんじゃないわよ…!」

左豊はそう呟くと、羽扇で隠した口元を歪めて嘲笑あざわらった。


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