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第三章 黄巾の反乱と漢王朝の衰退

第三十三話 曹孟徳の暗殺

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翌日昼までに、官軍は宛県城の包囲を解き、凡そ三里(約1.2km)程退いた場所に布陣した。

官軍側としては、とにかく黄巾軍の新たな指導者である、趙弘ちょうこうを捕らえたい。
黄巾軍が討って出れば、その主力部隊に攻撃目標を絞り、精鋭部隊をそこへ集中させる。

官軍の精鋭を率いるのは、将軍の朱儁である。
その他の部隊は、敵を遊撃ゆうげきし、撹乱かくらんして黄巾軍の主力と切り離す戦いをせねばならない。

孟徳の部隊は前方で、まず敵と当たってもまともには戦わず、敵部隊を陽動ようどうするのが役目となる。
相手は大軍であるから、こちらが逃げれば相手は弱いと見て、主力を押し出してもみ潰しに来るに違いない。
敵の主力が現れれば、後方で待機する朱儁の部隊で迎撃げいげきする作戦である。

日は中天に差し掛かっている。
鉄の板を連ねて貼り合わせたよろいの上から、あか戦袍せんぽうを身にまとった孟徳は、白馬に跨がると、騎兵部隊を率いて颯爽さっそうと戦場に向かった。

敵は北門から出撃すると、部隊を大きく展開させ、鶴翼かくよくの形を取りながら前進して来る。
数で勝っている黄巾軍は、官軍を取り囲んで壊滅させる作戦である。

この時、朱儁が最も信頼し、目を掛けている指揮官の一人に、孫堅そんけん、字を文台ぶんだいという武将が居た。
彼も孟徳と同様、先鋒で敵の陽動作戦に参加している。

孫堅の部隊は、敵の左翼側に、孟徳の部隊は右翼側をそれぞれ攻撃目標と定めた。


いよいよ戦闘が開始されようとした時、ふと孟徳は、太陽の周りを旋回している一羽の鷹を発見し、高い空を見上げた。

手をかざして太陽の光りを遮り、目を細めて鷹を見ようとしたが、視界が霞んではっきりと見えない。
孟徳は目をこすった。

「どうかしましたか?顔色がすぐれぬご様子ですが…?」
異変を感じた指揮官の一人が隣に馬を並べ、問い掛けた。

「いや、大丈夫だ…!全軍、戦闘配置に付け…!」

孟徳は青白い顔のまま、額の汗を拭い、兵を指揮する羽旄うぼうを手に取った。が、羽旄のを握る手に力が入らない。
孟徳の脳裏に、一抹の不安がぎった。

朝、朝食を済ませた後、幕舎へ戻ると翠仙の姿が消えていた。

何処へ行ったのであろう…?

不審に思い辺りを探したが、結局見付ける事は出来ず、孟徳は翠仙の身を案じつつ戦場へと向かったのである。

まさか…翠仙が…

孟徳は全身から血の気が引くのを感じながらも、今更後戻りは出来ぬと思い、羽旄を高く掲げると、全軍に突撃命令を下した。

それとほぼ同時に、孫堅軍も黄巾軍の左翼へ攻め掛かかる。

敵へ向かって、一斉に兵士たちが突撃を開始し、孟徳の周りを騎馬たちが駆け抜けて行く。
激しい動悸に思わず胸を押さえたが、孟徳は気力を振り絞り、兵士たちを追って馬を走らせた。
だが、次第に視界がせばまり、辺りの景色は歪んで来る。

まずい…!
孟徳はそう感じたが、必死にこらえながら馬を止めず走った。
その時、後方から走り寄って来た一頭の騎兵が、意識を失い掛けている孟徳の側へ素早く近寄り、彼の体を支えた。


黄巾軍の右翼と左翼で始まった戦闘を、精鋭部隊を引き連れた朱儁将軍は、後方の小高い丘から見守っていた。
流石に数で勝る黄巾軍は、孫堅軍、曹操軍を物ともせず押し寄せている。
だが、右翼と左翼を掻き乱され、次第にその陣形は崩れつつあった。

「良し、両軍とも作戦通りに上手く戦っている様だ。両翼が本体から離れたら、間髪を入れず突撃を開始する…!」
朱儁は味方の兵士たちを振り返り、全軍に響き渡る大声たいせいで告げる。
そして再び戦場を見守っていた朱儁は、やがて眉間に深い皺を寄せ、右翼側を指差した。

「曹操軍の動きが鈍い…うまく統率が取れておらぬ様子である…!何かあったのか…!?」

確かに、左翼の孫堅軍は乱れ無く、上手く敵を撹乱出来ているが、右翼の曹操軍はまとまりを欠き、次第に敵に飲み込まれて行く様に見える。

「このままでは、壊滅する…!」
朱儁がそう叫んだ時、虎淵が前へ進み出て、素早く朱儁に拱手した。

「将軍!私が、援護に向かいます…!」

「曹孟徳殿は、お前の主君であったな…!」
虎淵を馬上から見下ろしながら、朱儁が大きく頷くと、虎淵は素早く馬に跨がり、数十騎の騎馬を率いて丘を駆け降りて行った。


孟徳の部隊は完全に統率を失い、黄巾軍に追われる兵士たちは、右往左往しながら戦場を駆け回っている。
戦場へ突入した虎淵は、指揮官の一人を見付け出し、側へ駆け寄った。

「孟徳様は?!どうした?!」

「それが…先程から姿が見当たらず、我々も探している所です…!」
指揮官は不安な表情で、周りを見渡しながら答えた。

「何だって…?!」
それを聞いた虎淵は瞠目し、振り返って戦場の中に孟徳の姿を探したが、その姿は何処にも見当たら無い。
虎淵の全身から一気に血の気が引き、たちまち恐怖と不安が襲った。

まさか、孟徳様が…敵に討ち取られた…!?

その思いに捕われると、虎淵にはそこが戦場である事すら分からなくなってしまった。
虎淵の不安が馬にも伝わっているらしく、彼の馬は落ち着き無く首を激しく振り、その場で足踏みを繰り返している。

その時、焦る虎淵の目に、紅い戦袍せんぽうまとい、白馬に跨がった人物が戦場を横切る姿が飛び込んで来た。

その姿は、紛れも無く孟徳である。

「孟徳様ーーー!!」

虎淵は思わず叫び、直ぐ様馬首を返すと、彼の方へ馬を走らせた。

孟徳は離れた位置からではあるが、虎淵の姿に気付いたらしく、馬の足を緩めると、虎淵に向かって手で合図を送って来る。
兵たちを後方へ、退却させるよう言っている様である。
虎淵は大きく頷き、振り返って全兵士たちへ、後方へ引くよう命令を送った。

再び、虎淵が孟徳の方を振り返ると、孟徳は虎淵に向かって、遠くの林の方を指差した後、単騎で敵陣の方へ駆け始めた。

「孟徳様…!?」

虎淵には、孟徳の意図が読み取れ無い。

孟徳様の様子がおかしい…?!

困惑したまま、走り去る孟徳の後を追おうとした時、岩場から放たれた矢が戦場を貫く様に飛び、勢いを保ったまま、馬上の孟徳の肩に当たった。

岩場の陰には、三人の男たちが身を潜めていたのである。

「あの、紅い戦袍を纏っているのが、標的だ…!狙いを外すな…!」
男たちは再び矢をつがえ、狙いを定めて一斉に矢を放った。

放たれた矢は、馬上で体勢を崩した孟徳の体に、吸い込まれる様に次々と突き立った。

「孟徳様ぁーーーっ!!」

絶叫する虎淵の前で、全身に矢を受けた孟徳の体は馬上で傾き、やがて地面へと落下して行った。



「曹孟徳が、討たれただと…?!」

駆け付けて来た伝令兵を、信じられぬという表情で見下ろした朱儁は、顔色を失った。
だが、狼狽うろたえている暇は無い。
指揮官を失った曹操軍は、黄巾軍に飲み込まれ、完全に壊滅してしまった。

「…やむを得ぬ…!」

朱儁は渋い表情で戦場を顧みると、自部隊に突撃命令を下した。
曹操軍を敗走させた事で、敵は勢いに乗っている。
敵に隙を見出だすには、そこしか無い。
朱儁は冷静に戦況を読み取り、敵の主力部隊を巧みに誘い出して、真っ向勝負を仕掛けた。

凡そ数刻の戦闘ののち、日が傾き始めた頃、朱儁将軍の率いる精鋭部隊は、遂に黄巾軍の指導者である趙弘を捕らえ、それを斬る事に成功した。

しかし、再び宛県城へ退却した黄巾軍は、新たに韓忠かんちゅうという者を指導者に立て、籠城を続けたのである。

夕刻、赤い夕日に照らされた戦場には、戦死した兵士や馬たちの死体が積み重なり、折れた軍旗や防具、武器などが無残に散乱している。
孟徳の軍は、この戦いで退却を余儀なくされ、生き残った兵士たちは戦線から離脱する事となった。

虎淵は朱儁の幕舎へ向かい、中へ通されると、朱儁の前に膝を突き拱手した。

「曹孟徳様が、戦死なさいましたので…私は、孟徳様のご遺体を、雒陽らくようまでお運びしたいと思います… 」
「そうか…分かった。気を付けて参れ…」

深く項垂うなだれた様子の虎淵を見下ろし、朱儁は哀れみを目に表しながら、彼の肩を力強く叩いた。
翌朝、虎淵は孟徳の遺体を収めたひつぎしゃに乗せ、それを馬に繋ぐと、帰還する兵たちと共に戦場を後にした。

宛からの退却途中、虎淵たちは雒陽へ向かう王允の部隊と遭遇した。
孟徳の戦死を聞いた王子師おうししは驚きを隠せなかったが、孟徳の柩を前に暫し瞑目めいもくし、やがて低く呟いた。

「孟徳殿は、漢王朝の希望であった…彼を失うのは、わしにとっても辛い事である…」


曹孟徳戦死の報は、既に雒陽の張譲ちょうじょうの元へも届いていた。

「遂に、あの目障りな小僧を、片付ける事が出来ましたな。実にお見事です。」

屋敷を訪れていた宦官の蹇碩けんせきは、積年の溜飲りゅういんを下げたと言わんばかりに、晴れやかな表情で、張譲に深く礼をした。

「何、あの様な豎子じゅしを始末するのに、難しい事などござらぬ…黄巾党の中には、我々を頼りに昵懇じっこんを求め、賄賂を送って来る者が少なく無い。今、天下を動かしているのは、我々なのである…!」

張譲は誇らしげにそう言うと、口元に不敵な笑みを浮かべ、鋭い眼光で窓の外に広がる青空を見上げた。


何処までも広がる青い大空のもと、粛々と列を成して進んでいる集団があった。
雒陽の城門を通過すると、そのまま宮殿へと真っ直ぐに向かって行く。

宮門を潜り、柩を宮殿の中に運び込んだ虎淵は、王子師と共に朝廷へと参内した。
運び込まれた白い柩に、集まった文武百官は皆眉をひそめ、訝し気に見ている。

前へ進み出た王子師は皇帝に拝謁し、辞を低くして申し述べた。

「宛城での戦にきまして、騎都尉きといの曹孟徳殿が敵の矢を受け、戦死致しました。」

「その報は、既にわれにも届いておる。手厚く葬ってやるが良い…!」
皇帝はその白い柩を、憐憫れんびんを催す様な眼差しで見詰め、そう告げた。
それを聞いた王子師は、更に前へ進み出ると、先程より少し声を高くした。

「陛下、しかしその死には、疑惑がございます…!」

その発言に、朝廷内がざわめいた。
皇帝の傍にはべる宦官たちにも、そのざわめきが広がり、蹇碩が険しい表情で張譲に視線を送る。
張譲は何食わぬ表情で黙したまま、王子師の顔をじっと睨んでいた。

「疑惑があると…?申してみよ…!」
皇帝は思わず玉座から立つと、訝し気に王子師を見下ろす。

「はい、それには先ず、そちらの柩をおあらため頂きたく存じます…!」

王子師がそう言って白い柩を指し示すと、虎淵が素早く柩に近寄り、その蓋を開いた。

「…これは…!」
柩の中を覗き込んだ皇帝は、思わず息を呑み、信じられぬという顔で声を震わせた。




馬上で意識を失い掛けていた孟徳は、後方から走り寄った騎馬兵に体を支えられ、味方にも気付かれぬ内に、そのまま戦場を離脱した。

少し走った場所にある林の中へ駆け込むと、その兵士は素早く孟徳を馬から降ろし、木の根元へ彼の体を横たえた。
孟徳は重い瞼を開き、苦しげに喘ぎながら、その者を見上げた。

「…翠仙…?お前か…?!」

その兵がかぶとを外すと、長い髪が肩を滑り落ちる。
翠仙は兵士の格好で武装し、孟徳の部隊に紛れ込んでいたのである。

「お前…俺に、毒を盛ったのか…?」

「ごめんなさい、孟徳様…」

翠仙は、激しく肩で息をする孟徳を、悲しげな眼差しで見詰めた。

「でも、渡された量の半分も入れていないから、命を落とす事はありません…」
そう言うと、翠仙は素早く孟徳の兜を外し、着ていた紅い戦袍を脱がせ始める。

「翠仙…?何をしている…?」
「少しの間、体の麻痺が続くでしょうが、我慢して下さいね…直ぐに、お仲間を呼んで来ますから…」
そして顔を上げると、孟徳の冷たい手を強く握り、自分の胸に押し当てた。

「私は、張譲様にお仕えしている刺客です…!あなたを戦死に見せ掛け、命を奪うのが目的で、私はあなたに近付いた…」

翠仙は瞳を潤ませながら、青白い孟徳の顔を覗き込む。

「私は、ただの道具に過ぎず…自分でもそう言い聞かせて、今まで生きて来ました。でも、あなたは…あなただけは、私を人として、一人の女として扱ってくれた…!あなたと共に過ごした時間ときは、本当に私にとって大切な、幸せな時間ときでした…!」

翠仙の頬を、溢れた涙が伝い、孟徳の冷たい手の上にこぼれ落ちた。

「孟徳様…!私は、あなたとずっと一緒に居たかった…あなたを、心から愛しています…!」

そう言うと翠仙は、孟徳に額を寄せ、血の気の引いた孟徳の唇に、そっと自分の艶やかな唇を重ねた。

やがて閉じた瞼を開き、潤んだ瞳のままで孟徳を見詰めた後、翠仙は立ち上がり、孟徳の紅い戦袍を身に纏った。

「翠仙…!どうする気だ…?」
孟徳は必死に体を起こし、翠仙の足元へ這い寄ろうとしたが、体が言う事を聞かない。
翠仙は兜を被り、孟徳の白馬に跨がると、振り返って叫んだ。

「孟徳様は、命を狙われています。そこから、動かないで…!」

そして白馬の腹を蹴ると、再び戦場へ向けて走り出す。

「待て…!翠仙、行くな…!」

孟徳は力の限りに叫んだ。
遠退く意識の中で、翠仙の姿は次第に霞んで行く。

翠仙…!俺も、お前を愛している…!

そう叫びたかったが、最早、翠仙は手に届かない所まで行ってしまった。
孟徳は地面に這いつくばり、やがて意識を失って、その場に倒れ込んだ。
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