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第二章 飛躍の刻と絶望の間
第二十八話 地下牢
しおりを挟む夜空に浮かぶ赤い月は、霞んだ薄い雲の間から、不気味な光を地上へと降らせている。
管狼、李月の二人に拘束され、奉先は薄暗い屋敷の地下へと、引き立てられて行った。
この屋敷の地下に牢があるなど、今まで知らなかった。
恐らく、刃向かう者や、捕らえて来た者をそこへ閉じ込め、拷問に掛けたりするのであろう。
悪趣味な将軍のやりそうな事だと、奉先は朧気に思った。
そこへ連れて来られた者は、自分がどんな目に合わされるかと、恐怖に震えながら、そのじめじめとした薄暗い通路を歩いた事だろう。
今正に、自分がその立場にいる筈であるが、不思議と恐怖心は沸き上がらない。
思考が、既に麻痺しているのであろうか…
奉先には、まるで他人事の様に思えていた。
やがて、頑丈な鉄で組み合わされた、鉄格子のある扉が見えて来る。
扉の外側には、大きな閂が取り付けられ、内側からは開ける事が出来ないらしい。
その重い扉を開くと、その奥に、どれ程の広さがあるかも分からない暗闇が広がっていた。
管狼と李月は、奉先をその中へ引っ張って行くと、壁から伸びる鎖に取り付けられた、幾つかの枷を、彼の手足、更には首にも固定する。
奉先はさして抵抗する事も無く、意外な程大人しく鎖に繋がれ、冷たい石の床に座り、項垂れたままであった。
管狼は奉先の前に膝を突き、彼の顔を覗き込んだ。
「奉先…将軍は…龍昇様は、お前を嫌って、こんな事をしているのでは無い…お前に、強くなって貰いたいのだ…!」
管狼の声が耳に入っているのか、いないのか、奉先は反応を示さず、黙したままである。
「…あの童子を斬らせたのも、お前の為になると、心を鬼にしてやった事であろう。悪い事は言わぬ…龍昇様に許しを請い、こんな所から一刻も早く出るのだ…! 」
奉先を説得している管狼を、李月は腰に両手を当て、側で呆れた様に見下ろしている。
「管狼、余計な事は良い…!もう行くぞ!」
そう言って、憮然としながら背を向け、さっさと牢から出て行こうとする。
管狼は暫くの間、俯いた奉先を見詰めていたが、やがて腰を上げ、李月に続いて牢を出て行った。
牢の扉に閂で施錠し、二人は地下から地上へと続く階段を上がった。
「余り、あいつに関わるな。情が移ったのではないか?」
李月が、歩きながら不満気に話し掛ける。
「…わしは昔、幼い一人息子を病で失った…生きておれば、あいつと同じ年頃になっていたであろう…お前も妻子を持てば、分かる筈だ。」
地上へ出て、赤い月明かりに照らされながら、管狼は呟いた。
「わしは妻子など要らぬ。餓鬼は煩いだけだし、女は抱くだけで充分だ…!」
「そうだな…確かに、お前には向いておらぬか…」
管狼が言うと、李月は声を上げて笑い、大股で廊下を歩いて行く。
遠ざかる李月の背を眺め、管狼は歩みを止めると、地下牢へ続く通路を振り返り、その先を暫し見詰めた。
その暗闇の中では、時間の感覚が失われる。
どれ程の時が経ったのか…数刻が経過した様な気もするが、ほんの束の間であった気もする。
最早、自分が眠っているのか、起きているのかも、よく分からなくなっていた。
何処かに鼠の巣があるらしく、牢の片隅を小さな影が動き回っている。
奉先は、何処からともなく、暗闇に細く小さく差し込む明かりの方を、ぼんやりと見詰めていたが、やがて視線を、足元の冷たい床に落とした。
こんな場所に、体の自由を奪われ、閉じ込められるとは…自業自得である…
あの時…俺は何故、門を開かなかったのか…?
どんな自分であっても、きっと孟徳殿は、受け入れてくれた筈である。
この屋敷で、初めて孟徳と再会した時の事を思い出していた。
門の向こうから呼び掛ける、孟徳の声を聞いた時は、正直驚いたが嬉しさもあった。
一人の配下の為、危険を顧みずここまで追って来てくれたのだ。
俺は一体、何にこだわり、何を恐れていたのであろう…?
今となっては、後悔しか無い。
奉先が目を閉じると、瞼の裏に、大きく目を見開いて、自分を見上げる血塗れの童子の姿が浮かんだ。
強くなるとは、どういう意味だ…?
心を捨て、獣の様に人を殺し、心に痛みを感じなくなれば、強くなったと言えるのであろうか…?
違う…そんなのは、絶対に間違っている…!
奉先は深く項垂れたまま、闇の中で自問自答を繰り返した。
突然、重い扉が開く音がして、奉先は目を開いた。
いつの間にか眠っていたのであろう、意識が朦朧としていた。
牢へ入って来るのは、管狼であった。
管狼は、奉先の前に膝を突き覗き込む。
「…腹が減っているだろう?飯を持って来てやった…」
そう言いながら、管狼は器に入れた、一握り程度の焼き飯を差し出した。
奉先は虚にそれを眺めたが、食べる気にはなれない。
「奉先、お前はわしの命を救ってくれた…あの時、お前が居なければ、わしは確実に敵に斬り殺されていただろう…わしも、李月もあの時死んでおれば、お前は一人で逃げる事も出来た筈だ。何故そうしなかった…?」
「…さあ、そんな事を、考える余裕など無かった…」
奉先は顔を上げる事無く、小さく掠れた声で答えた。
「わしらを、仲間と認識しておったからでは無いか…?お前は、仲間の為なら、どんな窮地であっても、果敢に戦える…!その勇猛さこそ、龍昇様がお前に期待し、愛して下さっている事であろう…!」
管狼は、強く奉先の肩を掴んだ。
「詰まらぬ意地を張っては駄目だ…!わしらと共に、龍昇様の手足となって働こうでは無いか…!」
漸く、奉先はゆっくりと顔を上げ、管狼の顔を見上げる。
その目には、怒りと悲しみが宿っている…管狼はそう感じた。
「…俺は、もうあの人には従えぬ…!」
怒っているのか、泣いているのか…奉先の目は赤く潤んでいる様に見える。
やがて管狼は静かに立ち上がり、その薄暗い牢を後にした。
それから毎日、管狼は奉先の元を訪れ、粘り強く彼を説得したが、奉先は中々首を縦に振らない。
次第に、目に見えて窶れて行く奉先の姿に、管狼は自分の無力を感じるばかりであった。
数日が経過し、管狼は将軍の部屋を訪れた。
「"非情の狼"と呼ばれたお前が、毎日、あいつを説得に行っているそうではないか…どういう風の吹き回しか…?」
管狼の顔を見ると、将軍は目元に微笑を浮かべて問い掛けた。
「わしも、人の子という事です…龍昇様、そろそろ許してやっては如何です?」
それを聞いた将軍は、途端に気色を悪くする。
「わしに許しを請わねば、許さぬと申したであろう…!わしは、一度決した事を覆す様な人間では無い事を、お前は良く知っている筈だ…!」
「勿論です…しかし、あいつも頑固で、中々首を縦に振りません…このままでは、衰弱して死んでしまうでしょう。」
「…あいつが、それを望むのであれば、そうすれば良い…!」
将軍は冷たくそう言い、気に食わぬといった表情で管狼から顔を背けた。
止むを得ぬか…
管狼は小さく溜息を吐き、席を立つと部屋を出て行った。
外へ出ると、廊下で李月が待っている。
「無駄だと、申したであろう…!」
両腕を組んで踏ん反り返る李月は、当然という面持ちでそう言った。
「………」
「…おい…変な気を、起こすのでは無いぞ…!」
何も答えず、無言のまま歩き出す管狼の背中に、李月が呼び掛けたが、管狼は振り返らなかった。
あの管狼が、心を動かされているとは…
管狼が部屋を去った後、将軍は暫く一人で黙考した。
「珍しい事もあるものよ…」
そう呟くと、小さく笑った。
屋敷の門の前を、うろうろと歩き回っている人影がある。
門衛たちが彼を不審な目で見ていると、門が開き、中から配下数名を従えた呂興将軍が現れた。
「あ…!将軍!」
彼は叫ぶと、将軍の側へ走り寄った。
「…陵牙か…何だ?」
将軍は歩みを止め、怪訝そうに振り返る。
「あの…実は、もう十日近くも奉先が兵舎へ戻っておりません。何か、ご存知かと…」
陵牙は心底心配している様子で、不安げな眼差しで将軍を見上げている。
将軍は、暫く黙って陵牙の顔を見詰めたが、やがて目元に微笑を漂わせた。
「奉先は、わしの義弟である。いつまでも、兵舎へ寝泊まりさせては、不憫と思ってな…今は、わしの近くで寝泊まりさせてやっておるのだ…」
それを聞いた陵牙は、少し驚いた顔で瞠目したが、やがて得心が行ったのか、小さく頷き、
「…そうでしたか…お手間をお掛け致しました…」
そう言って、将軍に拱手し、歩き去る将軍と配下たちを見送った。
「…白を兵舎に残したまま、何も言わずに出て行くなんて…」
遠ざかる彼らを見詰めながら、陵牙は小さく溜息を漏らした。
「何て、薄情な奴なんだ…!」
陵牙は憤然とし、踵を返すと、その場から立ち去ろうとした。
「待て…!」
突然背後から呼び止められ、陵牙は振り返った。
「お前、奉先とは仲が良かったな…?」
そこに立っているのは、将軍の側近の管狼である。
「…はい、彼は親友ですが…何か?」
「お前に、頼みたい事がある…今夜、会えないか?」
管狼は陵牙に素早く近付くと、彼の手に小さな切れ端を握らせた。
「…!?」
陵牙は戸惑ったが、管狼が声を上げるなと目で合図を送って来る。
管狼は、陵牙が頷くのも待たず、さっと彼の前を通り過ぎると、将軍と配下たちを追って行った。
暫く立ち尽くしていた陵牙は、握らされた小さな布の切れ端を開いた。
そこには、何やら文字の様なものが書かれているが、余り文字が読めない陵牙には、何の事か良く分からなかった。
誰かに、読んでもらうか…
しかしあの様子では、人に知られたく無い様である…
きっと、奉先に関係があるのだろう…!
陵牙は、その切れ端を縦や横にしながら、書かれた文字を何とか解読しようと試みた。
夕刻、陵牙は相変わらず小さな切れ端を相手に、首を捻っていた。
陵牙の座した床に置かれた、その切れ端の上を、白が不思議そうに歩く。
「こら、あっちへ行け…!」
陵牙は、しっしっと片手を振って、白を追い払った。
その様子を見ていた、同じ部屋の先輩が背後から覗き込む。
「一体、何をやっておるのだ?」
そう言うと、陵牙の前に置かれた布の切れ端を、素早く取り上げた。
「あ…!おい、止めろ…!」
陵牙は慌てて取り戻そうとしたが、先輩は笑って陵牙を制する。
「怪しいな…!恋文か!?どれどれ…"亥の刻、東門…車に以って待て"…?何だ、これは…?」
「あんた、読めるのか!?亥の刻とは…あとどれくらいある!?」
陵牙はその先輩に、掴み掛からんばかりの勢いで問い掛けた。
「さ、さあ…今からなら、四刻半といった所か…?」
「四刻…!車を用意しろという事か…急がねば…!」
陵牙はそう言って、急いで兵舎から飛び出した。
暗い夜空は、次第に雲行きが怪しくなり、月は完全に雲に覆われてしまう。
夜半前には、冷たい雨が降り始めた。
雨の落ちる音が、暗い地下牢にも響き渡って来る。
扉が開かれ、中へ何者かが入って来る気配を感じ、奉先は目を上げた。
入って来た人影は、奉先の側へ素早く近寄り、手足を拘束している枷を外そうとしているらしい。
「管狼、あんたか…何をしている…?」
奉先は声を出している積もりだが、その声は弱く掠れ、はっきりとは聞き取れない程である。
「此処から出るのだ…!今夜、龍昇様は出掛けておられ、この屋敷には居ない。門衛たちには、眠り薬を混ぜた酒を飲ませ、眠らせておるから心配は無い…」
そう言いながら、管狼は手早く枷を取り外した。
「余計な事を、しない方が良い…!俺を逃がせば、あんたが危険な目に遭うだけだ…!」
奉先は、振り絞る様に言った。
管狼は構わず、奉先の肩を抱え、立ち上がらせようとする。
「わしの心配など良い!このままでは、お前は確実に死ぬ…!こんな所で、死んではならぬ…!」
「何故だ…何故そこまでして、俺を助けようとする…!?」
奉先は訝し気な目を向け、管狼を見据えながら問い掛けた。
「…お前は、わしを助けてくれた。今度はわしが、お前を助ける番である…それに…わしは昔、幼い我が子を助けられなかった。また、同じ思いをするのは嫌だ…!」
管狼は、奉先の肩を支えながら顔を上げ、虚空を見上げた。
「……それなら、あんたも一緒に逃げよう…!あんたが行かぬなら、俺も行かぬ…!」
奉先は、管狼を睨み付ける様にして言った。
管狼は驚いて奉先を振り返り、暫し黙って彼の目を見詰め返したが、やがてその目を細めた。
「分かった…わしも、共に行こう…!」
奉先は管狼に体を支えられ、何とか立ち上がったが、自分でも驚く程、足に力が入らない。
それでも、何とか歩を進め、二人は地下牢を後にした。
応援ありがとうございます!
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